すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

私が夫を追い詰める理由。

2016-01-30 18:59:37 | 日記・できごと
夏に転勤してきてから、夫の慢性的な激務ぶりが続いています。部署的にまあ想像の範疇でしたが、それにしても段々エスカレートしてる。

特に、年末年始以降、ひどい。

年末年始の休み1日
連日午前様
増えてきた休日出勤


結果的に、夫は、

睡眠不足(私も。待ってたことはないけれど、やっぱり熟睡できない)
体調不良
増える仕事や職場での愚痴


まあ、ここまでなら多少目をつぶりますが、黙っていられないレベルに到達しました。
それは、

家族サービスの減少
家事を分担できない
子どもと遊ぶ時間がない


つまり、私への多大な影響です。
私が、我慢したり、余分に労力を使ったりが増えてきた。

つまり、私自身から発する、

もう、これ以上我慢したくないっ!

の声が盛大に出始めたのです。

こんな状況でも、夫が担っている家事や子育て貢献度は一般より高めでしょうし、私の我慢度もちっともマックスではないのですが、でも、昨日、

「明日も、仕事が少しあるんだけど…」

と言いにくそうに言う夫に、

速攻で、キレました。キレつつも冷静な自分。このタイミングを逃したらダメ、と勝負にでる自分。

はあ?もう、いい加減にしてよっ!
最近、来週はちゃんと休む、とか言いながら毎週毎週休日出勤してるじゃんかっ。
家のことちゃんとやってよ!息子と遊んでよっ!
なんで、あたしがあんたのやらない分までやらなきゃなんないのーっ!


顔が引きつる夫、一瞬、間があって、

「じゃあ、今日徹夜しても明日は休みとる」

とポツリ。

あったりまえだー。

こういう時に、こんな私でも、自動思考が動きます。ちなみに、自動思考は本音ではありません。これまでの私に刷り込まれた、いわゆる常識の声ってやつです。

こういう時は仕事に協力してあげるべきかな
家事の負担を減らしてあげるべきかな
子どもとの時間を睡眠に充てさせるべきかな
私たちの為に働いてくれてるんだしな

とね。ただ、この自動思考に従うことのデメリットを、私は経験上も感覚的にもわかっています。だから、ザワザワ、モヤモヤを感じながらも、そこに屈しないように、本音を引っ込めないように、自分を立て直します。

私は、私の感覚を信じてよい。
我慢は、我慢の連鎖につながる。


私が黙って我慢を押し殺したら、夫を献身的に支えようと変な遠慮したら、先は見えてるんですよね。

夫も我慢を我慢と認識しないまま仕事に明け暮れ心身の悪化、私は我慢や怒りを溜め込みやがて大噴火。息子にも飛び火。

🔸🔸🔸

ある時、この我が家の状況を職場の男性リーダーに雑談ついでに話したら、

「ご主人、職場で上からも下からもプレッシャーかけられて、奥さんにまで厳しいこと言われたら逃げ場ないよー」

なんて、冗談混じりに言われました。それで、逆に気づいたんです。

こういう、あまりにバランスを欠いてる時は、逃げ場を与えちゃダメなんだって。とことん追い詰めて、限界まで行かないと、本人はなあんにも変えようとしない。今、何が起きているのかを考えようとしない。気付けない。

例えば、
無駄を省くこと、他の人に仕事を任せること、ダメなやつとか勝手なやつとか思われても仕方がない開き直ること、今のおかしな頑張り方が昇進とは必ずしもつながらないこと、会社のためにもならないこと、とかね。

それに、現状を変えることに勇気を出せない言い訳に、

「妻子のため、生活のために働いてるから」

なんて、夫に思いこませちゃいかんのです。私や息子も思い込まされちゃいかんのです。自分が勇気を出せないかわりに、1番大切な家族に我慢を強いちゃう奴に夫をさせちゃだめなんです。

そんなことが、私の中で腹に落ちた時、このツイートを思い出しました。



あなたの感覚に素直になっていいんよ。正解!
そんな風に言われてるみたいで嬉しかったな。斎藤先生、毎度毎度ありがとう。

今、夫は、夕飯の支度中。すがすがしい顔で、キッチンに立ってます。

職場の事情は、ようわからん。プレッシャーも、プライドも、「うちの会社は違うから」も、知らん。ただ、私は信じるよ。私と息子に我慢を強いない方法を、夫よ、君が必死で見つけることをさ🎶



錦織選手はどうしたら良かったのか?

2016-01-28 15:35:50 | 世の中のこと
全豪オープン、錦織選手の敗戦から、まだ立ち直っていません。

あー、悔しかった!
もう、ジョコビッチ強すぎー!

錦織君も、きっと、悔しさと、不甲斐なさと、打ちのめされ感を全身で感じつつ、次に気持ちを向けていることでしょう。

でも、この悔しさと不甲斐なさと打ちのめされ感が残っている限り、彼の世界の頂点への挑戦は、現実感を帯び続けます。

悔しさ=可能性

で、あり続けるからです。

こうした激しい感情が静かに彼の無意識に織り込まれ、それがやりきった感に変容しない限り、彼の無意識に呼応するような舞台は何度でもやってくるのです。

そして、どういう形かはわかりませんが、彼の感情(悔しさ)が必ず日の目を見る時がきます。

🔹🔹🔹

さて、錦織敗戦の後、スポーツ新聞からテレビニュース、テニス解説者、テニス愛好者、錦織ファン、そしてもちろん、あの愛すべき松岡修造さんも、みんながみんな一斉に語り始めました。

錦織は、
どうしたら良かったのか?


後出しじゃんけん感満載ですが、まあ、でもどれもなるほどーと思わされます。その人それぞれの実感のこもった持論だからでしょう。

ジョコビッチに攻撃的なテニスをさせて、自分は守りに徹するべきだった。

大事な場面でもっと攻撃的になるべきだった。

五郎丸のように、サービスの時にルーティンをもつべきだ。


いろんなアドバイスが耳に入れば、錦織選手も、もしかしてなるほどー、と思うのかもしれませんが、彼がコテンパンにジョコビッチに負けた理由を彼自身が語っています。

「もっと何かができた」「守って勝てる相手じゃない」「自分の全部が出せなかった」

彼は、守ることではなくて、攻めるテニスを選びつつ、相手の守備が盤石すぎて、迷いが出てしまい、ミスを連発させて、自分の選択を全うできなくなった、ということです。

つまり、自分を、自分の選択を信じきることができなかった、ということでしょうね。

裏を返せば、守りを作戦にしようと、ルーティンを取り入れようと、はたまた彼が選択した攻めの攻撃を展開しようと、そこに、「自分が選んだ作戦だから、成功する」という絶対的な自己信頼がなければ、うまくいくはずがありません。

そもそも自分を信頼できなければ、もっと言えば信頼に値する自分がいなけれぱ、どんなこともうまくいくはずがないからです。

そういう意味では、錦織選手が自分の選んだ作戦、戦略に間違いはなかったと思うのです。

あとは、信頼に値する自分をどうつくっていくのか。トップ10に君臨する錦織選手の技術力は、すでに頂点にあると言われてますから、その技術に余すことなく力を発揮させる、信頼に値する自分です。

努力か、経験か、メンタルトレーニングか、勝ちの積み重ね、か、その方法はチーム錦織、中でも、彼の精神的メンターでもある、マイケルチャンコーチが当面は教えてくれるはずです。

錦織が今の自分に必要と判断して迎えたチャンコーチの、その選び方において、彼は自分の感覚を信じきり、それが結果を生み出しました。

しばらくは、チャンコーチとチャンコーチを信じる自分を信じ切ってほしいです。

ま、多分ですが、チャンコーチから必要なすべてを吸収したら、今度も無意識の要請によって、やがてチャンコーチとは違う視点をもつ人をコーチに迎えるのではないでしょうか。それが、いつかは、わかりませんけどね。

彼は、こうしてトップクラスのテニス人として、自己実現の道を歩みます。

🔹🔹🔹

今年は、錦織選手のグランドスラム優勝と、世界ランキング4位でフィニッシュ、が、一ファンの私の抱く淡い願望!

個人スポーツのテニスは、選手その人の自己信頼度、無意識の世界か如実にわかる競技。そうした世界を見せてくれる錦織選手に、本心では、ありがとうっ!しかないんですけどね。

長くなりましたが、今年も錦織選手、本気で応援します♡

1番になりたい!

2016-01-25 12:53:26 | My メソッド
子どもって、1番大好きですよね。うちの息子も、1番が大大大好きです。

かけっこ、ゲームから、幼稚園の登園順位、お迎えの順番(最後の1番)、お着替えまで、ホント何でも1番が好き。

これ、どうしてだろ、って考えてみたんです。別に子どもだから、ってわけじゃないんじゃないかって。

大人も本当は1番が好き。自分は1番になれないから、とか、1番になれなかったらダメージが大きい、とか、の自動思考が働いて、1番に意識が向かわなくなっている。向かわないように仕向けている。

でも、子どもに現れている欲求や願望って、人間の本質そのものです。人間の本質、本能、心理学的に言えば、心の無意識からの声です。

じゃあ、どうして人間は、1番になりたいのか。息子に聞いたら、

「1番になりたいから!理由はありませんっ」


ですって。笑

まあ、そんなんでしょうね。

でね、私はこんな風に感じました。

人の無意識は、極みを見たい、体験したいと切望しているんじゃないかなって。

金メダルの人から見える風景、東大の人が手にする快感、営業成績1位の人が醸し出すオーラ。極みを知った人にしかわからない、その「感じ」をね。見栄とか、他者評価とか、快楽とか、それよりも、ホントのホントはここじゃないかって。

ゼロの、マイナスの自分が、プラスの極みを知る、というのは、その間にある全てを知るということだから。その全てになれるということだから。

1番に真摯に向き合うと、銀メダルの価値もわかるし、学歴が全てじゃないと言えることもあるだろうし、2番も、3番も、それぞれの価値が腑に落ちる。

アイドルのNo. 1のSMAPが、「No. 1にならなくてもいい」と歌うから、説得力が生まれるんですよね。

でも、1番って、ずっと1番ではいられない。2番に必ず落ちる。誰かに1番を譲る時がくる。その落差、一つ落ちたというレベルではなくて、実感としてはゼロを通り越して、一気にマイナスまでいきます。

でも、人間の無意識は、そっちの極み、マイナスの極地も知りたいんですね、きっと。両方を知って始めてバランスが取れるし、より広い世界を知ることになるから。

ここを拒絶して1番に固執すると、ホントの転落が待っているのだと思います。転落してる人は、マイナスに必死で抗っている人です。

もちろんマイナスの極みから始まる人生もあると思います。どん底を知っている人は、高みを知っても道を踏み外すことが少ないのは、もうマイナスを知っているから経験する必要がないんですね。

🔸🔸🔸

息子がかけっこで1番を取れずに悔しそうにしていた時、甥っ子が第一志望の高校に合格できなった時、「2番でもすごいんだよ~」と慰めで言った私ですが、多分彼らの心に響いてなかったろうな。

彼らは、1番を知りたかったのだから。1番を味わう自分を体験したかったのだから。2番じゃ、ダメなんだから。

でも、その不全感を捨てなければ、また違うステージがやってくる。必ず1番を体験させてくれるステージがある。何度も何度も自分の1番を追い求めればいいと思うのです。

ある分野で、「1番になりたい!」と自分の心が叫ぶなら、それは、そのポテンシャルが自分の中にあるのでしょう。

私も、自分の中に眠っている「1番になりたい!」という声をちゃんと受け取りたいです。自分が、そうなると、息子にも甥っ子にもまっすぐ言えそうな気がします。

1番をめざせ!

1番行きたいところに行きなさい!



ってね。

人生の後半。

2016-01-07 23:17:55 | 日記・できごと
あけましておめでとうございます♡

実家で、寝正月を過ごし、副交感神経が優位になりすぎたのか、寝ても寝ても眠い脳。頭が腐りかけ寸前で、昨日から仕事が始まり、やっと日常が戻ってきました。

実家では小学生から高校生までの甥っ子、姪っ子に囲まれて、彼らの話を聞いたり、姿を見ていて、しみじみ感じました。

今、この人たちは、人生前半の上り坂をぐんぐん登ってる頃なんだなあと。

個人面談で褒められた
テストで学年3番をとった
早稲田に行きたい
時々友だちに仲間はずれにされる
オセロで負けて悔しい


自我に目覚め、自我を強化し、自我によって至福を感じる時もあれば、自我に奈落の底に突き落とされることも。

自我が色濃くなればなるほど、他者や社会も色濃くなり、比較の中で自分の立ち位置を固めようとあがき、他者や社会の中でひときわ目立つ何者かになることを夢見る時期。

こんな、人生前半のさらに前半の方たちに、

「他人と自分を比べなさんな」

と説いたって、暖簾に腕押し。

あったりまえですね。
自我っていうのは、比較がなくちゃ、優越感や劣等感がなくちゃ、育たないわけですから。

人生の後半にいる人間に染みる言葉は、染みないんですよね、彼らには。

でも、それでいいんです。人生後半に用意される宿題の先取りは良くない。

うんうん、しっかり競争しなさい。惨めさも、悔しさも、万能感も味わいなさい。私も、そうでしたよー。

なあんて、遠い目をした叔母さんは、あれこれ口出ししないで、ただ笑って見たり聞いたりしていました。


人生の前半が、こうして、自我を築く時期だとすれば、私の方は人生の後半に差し掛かり中。自我を手放していく時期なのでしょう。

といっても、自我に目覚めていない赤ちゃんのようになる、ということではなくて、

人生の前半で捨ててしまった自分、生きられなかった自分を取り入れ、統合し、自我を超えた自己の全体性を回復する時期ということです。

年をとってまあるくなる。

というのは、そういうことですね。半円だったり角張っていた自分が広がったり、削れたりして、本来の自分=自己に戻っていくとうこと。

仏教の「さとり」に至る道も、ユングのいう個性化の過程も、河合隼雄さんの「中年クライシス」も、恐らくはそういうことではないかと思います。

やらなかったことをやってみる
誤魔化してきたことと向き合う
思考、感情の棚卸しをする
自我を超える


人生の後半は、決して人生のおまけでもなければ、退屈な時期でもないはずです。よりよい自分を完結するために与えられたかけがえのない時間。

バランスを欠いた自我に固執すれば、病気や事故、争い事などの形を取って、自我を激しくゆさぶる出来事に遭遇することだってあるかもしれません。

それは、できるだけ避けたいもの。

これまでの自分とこれから起きてくることをドンと受け入れ、いらなくなったものは手放して、補うところは補い、限りなくまあるくなっていくこと。

人生の後半は、それを意識的にやっていこうと思います。