すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

河合隼雄「こころの子育て」

2013-02-15 17:29:49 | 本・映画・音楽
息子が生まれて、何冊かの育児本を読んだ。ふまじめな、私のような親には、ハードの高いものが多い。

「おもちゃがほしくて友だちを叩いたら、まずその気持ちに共感する」

といった、たとえば具体的なアドバイス。

理屈ではわかる。いや、わかってないのかもしれない。読んですぐは試みてみるけど、なかなか続かない。

だんだん、ぎこちなくなる。

自分が心の底から納得してないから、身につかないのだろう。

結局いつも戻ってくるのは、河合隼雄さんの「こころの子育て」

QA式で書かれているこの本は、「子どもをこんな風に育てよう」という視点では書かれていない。少なくとも私は、そう読めなかった。

要は、子をどうするかではなく、
「親であるあなたはどうするか。子どもとどう生きるのか」。

そこに、押しつけがましさは微塵もない。書きながら、一緒に考えている河合さんの姿が想像できる。

さて、どうして久しぶりにこの本を手に取ったか。

息子を、叱りすぎた。
いや、そんなかっこのいいものじゃない。息子の行動にイライラが募り、感情に任せて怒りまくったということだ。

自分の未熟さに腹が立ち、息子の寝顔を見ながら、いたたまれない気持ちになった。

クールダウンするために本を読んだ。
失敗を繰り返さないように、というのは無理でも、少しでも減らせるようにならなければ。

そして、あとがきにあった文章に傍線を引いた。

「自分のところにいきなりやってきたものを自分の運命としてガッチリ受け止めて、それをどう生きるか、なんです。
『どうしてこんな子なの?』じゃなくて
「こんな子とどう生きるか」と考えるのが自己実現です。
思うようにならない子どもを受け容れるのが自己実現だ、といってもいいです。」

いわゆる、ユングの言うところの自己実現。

自我を超えた自己の世界の話だ。

肝に銘じよう。私は、偉大な仕事に従事している矜持を持って。



自分を苦しめる、頑な何か。

2013-02-11 11:19:38 | ひとりごと

辛い、力が湧いてこない。

自分の中の、頑な何か。崩せない何か。
私は、その何かが憎い。恨めしい。
でも、どうやっても、その何かを追い出すことができない。

その何かとは、おそらく、思い込みとか価値観とか。
心理学では、思考が感情をつくる、というけれど、
私を、無駄にいらだたせている正体は、
それに尽きる。

思い込みや価値観は、
私がこの人生の中で、周囲の人々やいわゆる社会から、
学んできたもの。
結局、私の外側で示されてきたものを、
まるで自分のものであるかのように、私が持ち続けてきたもの。
押し付けられたわけでもないから、自分が選びとってきた、ともいえる。

困難な現実問題に挑もうとするとき、そうしたものが、自分を苦しくさせる。
それなら、現実の方を変えるんじゃなくて(というより変えられない)、
そっちの方を捨ててしまった方がいいに決まってる。
だって、自分を苦しめるものは、
本当は、自分にとって善くないもの、のはずだから。

思い込みや価値観は私の一体どこにあるんだろう。
脳?ということになるんんだろうか。
脳に蓄積されて、硬直してしまっているんだろうか。
それが、私自身でないのは確かだ。
私自身だったら、苦しくなんてないはずだから。
苦しいと感じている側のものこそ、私自身のはずだから。

それを変えるものは、どんな力だろう。
それを捨てられるのは、いったい誰だろう。
少なくとも、私の外側にあるものでない。

純粋精神とか、魂とか、そんなもののような気がする。
そこにある無限の力を信じて、精神が、魂が考えること、考え続けることからしか、
始まらないはずだ。

特効薬はない。それも、よく知っている。
昨日までの自分を苦しめていたものが、今日、突然なくなるはずはない。
時々、何か人々の名言や所作に触れて、影響されて、
瞬く間に、消えてしまった、という錯覚に陥ることはある。
でも、すぐに元の木阿弥だ。

覚悟、かな。
時間はかかる。それを自分の中に住まわせていた時間と同じくらいは。そう覚悟を決めること。
自分自身が考えることをやめなければ、
自分の中の要らないものは、ゆっくりと溶けていくはず。
そう信じて、やけを起こさず、あきらめず、ひとつひとつを、やっていくんだ。




産んで初めてわかること。

2013-02-02 22:22:19 | 育児・母稼業

息子を出産するまえ、親からも、姉からも、その他いろんな人から言われた。
本にも書いてあったっけ。

「子どもを産んではじめて、親の大変さや苦労がわかる。感謝の気持ちも、親になってみてはじめて出てくる。」

そういうものなのかな、と思って、で、実際、親になってみてどうなのか。

残念ながら、よくわからなかった。

親という立場を担う人間の大変さと苦労が、どんなものかはわかったけれど、それが、自分の親への感謝につながるか、と言われれば、そこは全然別問題、というのが実感だ。

親の大変さ、苦労は、私が与えたものなのだろうか。

私が、親に大変な思いをさせて、苦労させたのだから、私は、親に感謝すべき、といわれると、やっぱりふに落ちない。

私は、自分の意思で親のもとに生まれてきたのではない。どういうわけだかわからないけれど、この世界に生まれてきた。子どもを望んで産んだ親のもとに、たまたま生まれた。

つまり、意図があったのは親の方だ。

親は、親になりたかったのだから、親として、経験してしかるべき大変さ、苦労は、親のものであって、たまたま生まれた私に関与するものでもない。

今、自分も親になったのだから、親と言う立場の人間として「共感」はできる。

でも、それは、子育て中の友人や、見ず知らずの親に向けるものと、違う種類のものとは思えない。

感謝の質も、親になる前のものと、親になってからと違うかと言えば違わない。
年齢的に、親への感情が変わってきたのは認めるし、自分を産み育ててくれた人への特別な思いという点で、大きな感謝の念はあるけれど、それは、以前から変わらずあったもの。

出産を経験したから、子育てを経験したから、その視点がドラスティックに変わったというのは、ない。

むしろ、私は、この人たちを幸せにしたんだろうな、と思うようになった。傲慢に聞こえるだろうけど、親にしてあげて、親の人生に大きな意味を与えたこと、これも、もちろん私の意図ではないけれども、でも、そのことこそ誇りに思うようになった。

これは、自分が親になって初めて立ちあらわれた視点だ。


息子に対しても、感謝しろ、なんてととても言えやしない。

私がそうであったように、彼もまた、ただ生まれてきただけだ。何らかの不思議な縁で、私にところに来てくれただけだ。

子どもを求めたのは、親になるのを欲したのは、こちらの方なのだから、大きくなっていく彼に、産んであげたことの、育ててあげたことの感謝を求めるのは、
なにか、ものすごくいやらしい感じを覚える。

感謝するか、しないかは、彼の問題。私は、彼によって、人間としての一つの幸せをもらったことを、本当にありがたいと思う。

幸せは、もちろん、悲哀も含めてね。
ただ、それだけなんだ。