すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

負けられない時がある。

2016-03-31 13:17:51 | ひとりごと
『仏教思想のゼロポイント』の著者、魚川祐司氏が、テーラワーダ僧侶ウ・ジョーティカ師の書簡集を翻訳し、広く公開しているこのサイト

まるで宝箱のようです。見つけて、すぐに二つをダウンロード。

ティクナットハン師の、読む人を優しく包み込むような文章とは、また違う趣き。仏教書というよりも、高尚な心理学の教科書のようにも感じます。

師の人生における葛藤が包み隠さず書かれている、直截で、それでいて温かな文章に、すぐさま魅了されました。

興味のある方は、ぜひ読んでみてくださいね。マインドフルネスを実践している方も。読むだけで、瞑想効果がありますよ。




🔸🔸🔸

ただね、

実は、私、

許す

という言葉を見ると、

許さなければならないの?

と、心の中で反応が起きます。

師のおっしゃることは深い所で納得しますが、その深い所の別の場所で、反応というか、抵抗している部分があります。

物事のレベルにもよりますが、私は、きっと、とりあえずなんでも許すタイプでした。自分の感情を取り上げることよりも、許す大人であることを選んでいた、のかな。

笑顔で許しながら、実際には許せていない自分にすら気付かなかった。

でも、本当は、許せていなかったんですよ。そういう仕方での「許す」の後、師が言うように心が自由になったどころか、不自由になりましたから。

得体の知れない、濁った感情が、心の奥底に沈んでいきました。

本当は、責めたい
本当は、怒りたい
でも、許さなくてはならない
私は、許さなくてはならない


言うなれば、自分の本心を狭く暗い部屋に押し込めている状態です。

そして、そんな感情に出会いたくないから、特に、自分をぞんざいに扱う人、失礼な人、高圧的な人、感情的な人、つまり私を傷つける可能性が高いと察知する人の前で、萎縮し、そういう人たちが怖くなりました。

自分のこうした心の癖がわかると、「許さなくてはならない」という心の動きは、結局は、許しているわけでも何でもなくて、ただ相手のエネルギーに負けているということなんだ、ということが腑に落ちます。


🔸🔸🔸


それで、ある出来事を思い出します。

テニススクールに通い始めた頃、私は50代くらいのある女性とウォーミングアップで軽いラリーをすることなりました。

彼女は、すでに相当な技術があり、スクール歴も長そうで、コーチとも他のスクール生とも打ち解け、体全体から余裕と自信を漲らせています。

初心者の私の拙いボールさばきにイラついたのか、それでも済まなそうにしないのが生意気と映ったのか、途中から露骨に嫌な顔をしたり、横を向いてしまったりするのです。

焦りつつも、そんなにひどい球でもないしなぁ、と思っていたところ、いきなり、

「今は、ボレーの練習をしてるんですよっ」


と明らかに強い怒気を含んだ言葉を投げかけられました。一瞬固まってしまい、全身から血の気が引きそうでした。

反射的に、

上手い人からしたら初心者のタルい動きに苛立つのかも

と、いつもの癖で彼女の言動を正当化する理由、つまり、私を傷つけた人を「許さなくてはならない」理由を自動思考しました。

でもね、やっぱり、許したくないって言う心の声も強くて。

ウォーミングアップが終わった後、できるだけ卑屈にならないように、ある種嫌みも込めて彼女に近づいて言ってみたんです。

「初心者で、うまくできなくてすいません」


彼女はバツが悪そうに、目を泳がせ、横を向いて軽く頷きました。今度は、バツを悪くさせた私に怒っているようにも見えました。

その後、一時間のレッスン中、私の全身には怒りと惨めさと悲しさとが激しく渦巻いていました。テニスには身が入らないし、その人にばかり目がいくし、しかもその人のテニスは素晴らしい。

完全に、私の負け。その実感が一番こたえました。


ただ、レッスンの最後に面白い場面がやってきました。このレッスン最後のゲームが私に回ってきたのです。2ポイント先取のダブルス形式のゲーム。そして、彼女は、ネットを挟んだ向こうにいる。つまり対戦相手です。

いつもなら、やっぱりダメだろうな、とか、結局負けるんだろうな、とか思いがちな私が、この時、腹の底から思ったんです。相手との実力差は、全く話にならないのに、

絶対負けたくない。
絶対に勝つ。


ああ、あの時の自分の中に湧いたエネルギーを思うと、今でも泣きそうになる。

1ポイントとったあと、彼女の完璧なフォアのストロークが私に向かってきた時、私も向かっていった。そこに迷いはなかった。しかし、私ね、やっぱりまだまだテニスが下手クソなんで、返球したボールに勢いはなく、詰まるわけです。で、相手のネット際にフワンと落ちる。

でも、それが功を奏して、彼女は前のめりになってバランスを崩し、必死にラケットを伸ばすもボールに届かず。

2ポイント先取で私たちの勝利!

私、チームメートに向けてガッツポーズして、ハイタッチしました。こんな自分を、今まで知らなかった。

歓喜しつつも、でも、どこかで落ち着いていました。それで、確信したんです。

人には、絶対負けてはいけない時がある。
そして、私にとっては、
あのゲームの、あの瞬間がそうだった。



🔸🔸🔸

あそこで立ち向かわなかったら、気持ちで負けてたら、私、必ず引きずってましたからね。最初から「許すこと」を目指したら、「許さなくてはならない」という、不自然な思考に決着がつけられなかったかもしれません。

あの後、すぐに、心のわだかまりが消えたわけじゃないです。正直に言うと。

でも、許す許さない、ということとは少し違うのだけれど、大方どうでもよくなっていったわけです。彼女のことも、あの一件も。


師の言う「許すこと」が、自分の心を自由にさせてくれるというのは、とてもわかります。私も、いつかそういう人になりたいなあ、と心から思います。

ただ、人には必要なプロセスがあって、「許すこと」に意識を向けた途端、苦しい思考に捕まってしまうこともあります。(私のように。 )

それならば、「許すこと」以外の選択肢の中で、自分の心をいかに自由にするかを考えることもできるんですよね。私は、相手に負けないという体験によって、自分の心を解放しました。

もちろん、「許すこと」だって、そこに行き着くまでには、時間や葛藤が必要な事は、師がすでに語っているとおりで、「許すこと」までの道のりがまさに多彩なプロセスを孕んでいます。

そこに最初から抵抗がない人は、ダイレクトに目指せばいいのですよね。

さしずめ、私はまだ、例えば自分を傷つける人に対して、自分にとって何か理不尽さに出会った時にも、「許すこと」以外のプロセスを自分に許す段階なんだろうなあ、と感じているんですよね。

🔸🔸🔸

少し長くなったので、今回はこの辺で。おそらく、また続きを書くと思います。























波動って、その人の実感の集積だと思う。

2016-03-27 20:38:08 | My メソッド
波動という言葉に、いつからか関心があって、最近もちょっとしたマイブームです。武田双雲さんも、波動大好きですよね。

波動本のなかで、ダントツのお気に入りはコレ。



10年くらい前に、よしもとばななさんクレジットに惹かれて購入しました。いろんなメソッドが掲載されているんですが、試したことはないんですよね。

何がいいかって読み物として楽しい。笑えます。虫が良すぎるというか、都合の良すぎる話もないドライ感がいいです。

私的には、波動の仕組みが、スーッと抵抗なく入ってくるのがお気に入りのポイントです。


🔹🔹🔹


波動って、エネルギー、気、オーラとも言い換えれるのかな。どちらにしても、その語感にオカルトチックな響きは拭えず、そうしたこともあってかスピリチャル界では量子力学にも通じるというのが専らの宣伝文句になってますね。

私は難しいことはわかりませんが、波動という目に見えないエネルギーに、意識が作用しているというのは信じています。個人的な実感があります。

でも、流行りの引き寄せもそうですが、波動の仕組みって、決して夢物語ではないんですよね。

読んで確かに気分が上がるときはあります。

でも、波動の法則も引き寄せも、早く結果を出したがったり、すがりつくような心情、自分が抱える問題の解決策を「見えない何か」に強く求める依存的な心性だと、相容れない、というか、効果を期待するのは難しい。その心性そのものが、波動的に良いものを引き寄せる状態を作り出せない、という逆説的なことになってしまいます。

今の波動、引き寄せブームに群がる人の多くは、そんな心性を少なからず抱えているような気がします。

私も、そんな心性を抱えていた頃があるので、この辺のからくり、矛盾、が何となくわかります。


🔹🔹🔹


自分を含めて、そうした現象を俯瞰すると、逆に波動というものがつかめてきます。

波動の法則や引き寄せを意識しないで現実的な選択をしている人の中に、その波動の存在を確かに感じるんですよね。


私は、人から出る波動、現象に作用する波動をこんな風に考えています。

波動=その人の実感の集積

身体、五感を通した経験や、思考や感情から生まれた実感が、何度も何度も繰り返されて一つの揺るぎない場となった状態。それが、波動です。


たとえば、私の好きなテニスの錦織圭選手の波動の質というのもわかります。

彼は、現在世界ランキング6位、その6位という波動を持っています。

100位の選手とは質の異なるトップ選手の波動は、錦織選手が、この場所に来るまでに試合の中で何年もかけて、何度も何度も味わった実感の集積です。

生来の才能や技術力、フィジカル、日々の厳しい練習に加え、試合という本番で経験した生の実感---。ボロ負け、番狂わせの勝利、胃のキリキリするような神経戦、悔し涙、突き上げる歓喜、勇気、駆け引き、イライラ、後悔、自信、負けん気、大舞台の数々、めまぐるしい数の観客、プレッシャー、その膨大な実感の全てが彼から今の一流の波動を漂わせる素材になっている。

まあ、当たり前ですが、そんな実感を受け入れない人が、簡単にトップ選手にはなれないわけです。


私たちの日常においても、同じで。

波動を高める、とか、波動を動かす、とか、はそんなお手軽なものではないですよね。

波動を上げるために感謝をする、とか、セルフイメージを上げる、とか、言葉だけ見てたら何だかすぐにでも結果が出せそうですけど、実際はどうでしょう。

それを行動に移して、実感しつづける、ということがいかに忍耐がいるか、気づき力が試されるか。ベクトルは違っても、実は現実的な努力、自己研鑽と同じプロセスを辿るわけです。

例えば、「自分は素晴らしい」という波動を安定したものにするには、その実感を持ち続ける経験や努力が欠かせない。逆に、経験や努力はしたものの、意識が空疎なものや強い義務感に根ざしたものならば、「自分が素晴らしくない」という実感を強めている場合もあるかもしれません。

やみくもに時間を掛ければいいわけでもないし、努力、忍耐ありき、でもなかったり。

もともと自己肯定感の低い人がそれに取り組もうとするときは、清水の舞台を何度も飛び降りるような覚悟も求められます。

つまり、ローマは一日にして成らず、どころか、めっちゃ、バランス感覚が求められる難易度の高いメソッドです。

いや、「波動や引き寄せはお手軽なメソッドだ」という信念があればいいのだ、とか、「良い気分を選択するだけ」だからシンプルだよ、という意見もあるかもしれませんが、その信念だって、シンプルな習慣だって、安定したものにするには、同じような繰り返しの実感が必要なんですよね。

でも、波動にはロマンがあります。そのロマンって、100匹目の猿現象のように、「人事を尽くして天命を待つ」の天命が、思いもよらないサプライズをもたらしてくれるかもしれない、という点かな、と思うんですよね。

ちなみに、私は、この手の、目に見えないもののロマンを感じる話が大好きなんです。だから、波動にも興味がわくんだろうな。

とはいえ、日々を気づきながら生きる、自分の声を丁寧に聞く、という日常の積み重ねを生きていくあり方があってこその、ロマン。

こんなわけで、波動も、引き寄せ、も、実は派手さとは無縁な世界なんですよね。でも、だからこそ、本当なんだってことも言えるような気がするんです。














自分を開いていくということ。

2016-03-22 18:39:20 | ひとりごと
自我を捨てる、
自分を手放す、

という表現を時々見かけますが、これは、わかりやすく言うと、

自分を開いていくこと、

なんじゃないかな、と。


堀澤祖門さんインタビュー/「泥仏」としての自分を生きること(1~4)


↑そんなことを、このインタビュー記事を読んでふっと思いました。

この記事は本当に素晴らしくて、たくさんの気づきをいただきました。ぜひ、仏教に関するあらゆる先入観を捨てて読んでみてください。

こんなことを、こんな風に、わかりやすく教えてくれる偉いお坊さんがいるんだな、とそれがまずは驚きです。枠にとらわれず、スピリチャルな世界への共感も深い。

あの、京都の大原三千院。庭園が美しくて、私が京都で一番好きなお寺に、こんな素晴らしい方がいらっしゃるんだ、と感銘を受けました。

仏教に関する本を読んだり、法話というものも京都や鎌倉で何度か聞いた記憶がありますが、こういう話を聞けたことはなかったですね。

「これが、仏教なんだ!」と読みながら膝を打ちたくなりました。



堀澤さんのおっしゃる、「空」、全てを捨て切った状態で、空っぽの状態になれ、というのは、

つまり、

自我を捨てる、
自分を手放す、

ってことだと思います。

捨てるのは、手放すのは、自分そのものではなくて、自分を隠しているもの、自分を覆っているものの方。

それは、もっと噛み砕いて言えば、

自分を出したら嫌われるんじゃないか、
私なんて大したことないしうまくいかない、
人に甘えたり甘えられたるするのが怖い、
他人に与えたり与えたりして損をするのが嫌だ、

という、自分を否定する方の自分。


堀澤さんは、人はみんな「泥仏」だとも言います。泥をかぶっているから見えないだけで、もともと仏なんだと。

仏なんですって、私たち。
なんて、温かい言葉なんだろう。

だから、捨てるの捨てないの、泥を拭おう拭おう、と考えるより、まずは、とにかく、

自分自身にも、他者にも、世界にも、

自分を開く、
自分を開いていく、


っていうことなんでしょうね。
なにせ、素の私たちは、仏なのですから。

勇気や覚悟の使いどころも、きっとここなんでしょう。

そして、自分の生き方は、仏の方の自分を捨てようとしている生き方ではないか、ということに思いを馳せる事も大切なのかもしれません。


このインタビュー記事を書かれた小出遥子さんの文章も、しびれます。








受け取って、味わう。

2016-03-16 21:11:36 | ひとりごと
一人で運転している時は、私にとって絶好のマインドフルネスタイムです。

運転にはもちろん自分に集中しつつ、力を抜いてリラックス。

この意識状態でいると、追い越されるとイライラして追い越したくなる、駐車する時に後続車がいると焦ってしまう、という、運転中にありがちな心理にも対応しやすくなります。観察してマイナスエネルギーを抜きます。

流れには乗りつつも、私は私、の感覚。

でね、不思議と、対向車が右折時に快く譲ってくれたり、前の車が進路変更時に無理なく入れてくれたりなんてことが増えます。

ただこういうのが、ちょっぴり困ったことも引き起こしたり。

譲ってくれた人のその温かさや優しさが、有難くて、勿体無くて、ついつい「私も、誰かに同じようにしなくては」って力んでしまうんですね。いただいた気持ちが大きくて、尊いから、すぐに恩返ししなくちゃ、と焦るんです。私。

ところが、こうした意識が強くなると、無理やりそういう場面を探します。流れを遮ってでも、対向車に譲ったりします。でも、やってることが不自然だから、どこかの車に大きなクラクションを鳴らされたり、譲った車からは感謝もされない、なんてちぐはぐなことになります。

なんか、私、変?!と気づきます。


🔸🔸🔸


贈り物をもらってすぐにお返しをしたくなる心理に似ているかもしれません。

それは、もらったものを純粋に受け取れていないんですよね。

贈る側になった時には、心を込めたものほど、お返しなんていらないって思います。まずはただ、ちゃんと受け取って喜んでもらいたいな、それが一番のお返しだよって思います。

逆に、すぐにお返しが届いたら、自分の気持ちは受け取ってもらえなかったのかもしれない、と寂しさを感じたりしてね。

もちろん、冠婚葬祭や儀礼的な贈り物は中々そんなわけにもいきませんけどね。

でも、元々は、贈るも貰うも、与えるも受け取るも、同じエネルギーなんですよね。与えることがすでに受け取ることだったりします。だから、逆もしかりでね。

親子の関係がまさにそうですね。与えている親が実は受け取ってもいる。受け取っている子が実は与えてもいる。

純粋な気持ちを込めたものほど、こういうことが起きます。

もちろん、その結果としての感謝のお返しは、素敵なお返しだと思います。義務感が漂わないほど、嬉しいですよね。


🔸🔸🔸

こんな気づきがあってから、運転中に譲ってもらう場面に遭遇したら、私、しみじみ言うことにしました。

ああ、この人、なんていい人なんだろー

とか、

世の中には、こんなにいい人がたくさんいるんだなー

って。それで、あとのことは考えない。受け取ることに集中する。受け取るだけの私を許す。そうやって味わう私がすでにお返しであることを信じて。相手の温かさと優しさの純粋さを信じて。

これは、運転中や贈り物の話だけじゃなくてね。

何かを与えてもらったら、まずは、それを受け取って味わってさえいたらいいのかもしれません。今返そう、すぐに返さなくては、と力んだり焦ったりしなくても、心から受け取ったら、受け取った人の在り方は必ず変わるんですよね。受け取った分だけ、それ以上に、間違いなく与えられる人になっているんだと思います。





マイナス感情は感じ切るか、観察するか。

2016-03-13 10:14:02 | My メソッド
おはようございます。

昨日は、息子の卒園式でした。半年だけお世話になった幼稚園でしたが、彼の中では、前の幼稚園の思い出が帳消しになってしまうほど、大切で当たり前の居場所でした。

寒空の下、温かいお別れの儀式に、静かな感動と涙が止まりませんでした。



ちなみに、涙する大人に囲まれて、泣いているお友だちは2、3人。

「もう友だちに会えない」「あんなことこんなことあったな」と、未来と過去を現在の感覚としてイメージできるほど、精神が成熟しているお子さんたちなんですね。

うちの息子は、ひたすら笑っていました。式典の時はさすがに神妙な表情でしたが、他はいつものように、同じく笑っている仲良し君たちとはしゃぎっぱなし。彼らは、幸か不幸か(笑)、今だけを生きている。あっぱれです。

何はともあれ、卒園おめでとう。


🔸🔸🔸



さて、話は変わりますが、今日はマイナス感情を解放する方法について書いてみます。

心理学やマインドフルネス界隈では、マイナス感情を手放す方法として、

感じ切る、

と、

観察する、

の二つがよく上がりますね。

感情を心の活動と捉えると、どうやって感じ切るの?観察するの?となりがちです。

でも、感情は、体感の異変として現れます。例えば、早い呼吸、喉のつまり、激しい心臓の鼓動、手の震え、筋肉の緊張など。

体の異変や違和感は丁寧に探せばキャッチできますから、そこに意識を集中させると、心の活動でもある感情にアクセスできるというわけです。

では、
感じ切る、と、観察する、との違いは?

こんな風に例えるとイメージしやすいかもしれません。


例えば、緊張などの感情によって肩に力が入ってる人がいるとします。

感じ切るイメージは

力の入っている肩に、さらに力を入れるようなつもりで意識を徹底的に集め、そのエネルギーを全身に行き渡らせるようにします。すると、ある時疲れるというか、もういいか、とふっと力が抜けるんです。エネルギーを増幅させることで結果的に全ての力みを抜きます。

一方、
観察するイメージは

力の入っている肩を優しくポンポンと叩いて、「力が入っていますよ」と声をかけるイメージです。自分が気づきもしないところで、無意識に起きた肩の力みは、「気づく」という行為が向けられただけで自動的に消えます。

体感が和らぐと、感情も和らぎます。

私の場合は、怒りやショックなどの激しい感情は、感じ切るイメージが有効ですし、ある特定の場面で繰り返し起きる感情は、観察するのが有効です。

感情の種類や時と場合によって、人によっても、どちらが有効かは変わってきます。もちろん、慣れないうちはどちらも効果を感じるのは難しいかもしれません。

これらをスムーズに行うためにも、日頃からマインドフルネスを習慣にしておくといいですよ。感情がどのような体感として現れているか、肩か喉か呼吸か、そこに気づくのも早くなります。


良かったら、お試しくださいね。

どうして、学校に行ったほうがいいんだろ。

2016-03-10 18:18:33 | 育児・母稼業
いよいよ、卒業式、入学式シーズンの到来ですね。


先日、息子が4月から通う小学校の学校説明会なるものに出かけてきました。

入学にあたって準備するもの、小学生になる前に子どもに身につけて欲しい心構え、などについて話を聞く集まりです。

行く前からなんだか行きたくなくて、行ってみてやっぱり来たくなかった、て思ってしまいました。


底冷えのする体育館、四角い仕切りがズラっとならぶ下駄箱、だだっ広い校庭、子どもの名前が書かれたお揃いの鉢植え…。

そして、校長先生のお話、副校長先生のお話、教務主任の先生のお話。正しくて、なんだか窮屈な気持ちになるお話。

資料には、集団活動を大切にする、と書いてあるのに、違う所には個性を重んじるとか書いてあって、「でましたっ、このダブルスタンダード!」、とか、心の中で一人ツッコミしてました。

無機的な世界、個性を許してくれない世界、集団ありきの世界。この、学校というところが醸し出す独特の雰囲気。

あー、あの頃のままだ。私が学校に通っていたあの頃のまま。

そう、思ったら最後。

まずい。喉がキューと締まる感じ。重苦しさ、息苦しさ。

と、私の過去の痛みが、反応するわするわ。

いや、目の前の固有の学校が悪いわけじゃないんです。私の中にある、学校に対する記憶やイメージが、その雰囲気を学校から過剰に感じとっているのです。勝手に。


うちに帰ってぼんやり思いました。

息子が、入学して、学校行きたくないって言ったら、私はどうするのかな。学校というものに、こうした負の体感を抱えている私が、息子にどんな言葉をかけるんだろう。

無理やり学校に行かせることはしないと思うけれど、すぐさま行かなくていいっ!なんて言うつもりもない。行かなくていい、という選択肢が、そんなに簡単にはじき出されるものでもない、という事が、直感だったり、経験則からわかります。

ただ、学校に行かないと大人になってから困るよ、とか、友だちはみんな行ってるのに君だけ行かないなんておかしいよ、的に、恐怖や不安で息子を動かしたくもない。

まあ、そんな起こってもいないことはどうでもいいことなんですが、大切な息子を送り出す側の私の中のモヤモヤ。少しでも、解決しておきたい。


🔹🔹🔹



そんな面倒くさい母など意にも介さず、
息子は、じいじばあばが買ってくれたランドセルで小学生ごっこをご満悦。

「のび太みたい~!」

のび太みたいになりたいわけじゃないらしいけど、のび太の送っている小学生生活には憧れているみたいです。

学校にどうして行きたいの?

あえて、息子に聞いてみました。

給食食べれるから

漢字を教えてもらえるから


なるほどー、ま、大した理由じゃないっすね。

嫌な事もあるかもしれないよね、と言っても、反応薄い。

幼稚園や保育園でも、多分、多少の嫌なことは経験してるから、嫌なことのない世界を彼の無意識は盲信していないはずだけど、そこを差し引いても、やっぱり

息子は、

学校を楽しい所だと思っている。

学校は何かを得る場所だと思っている。

学校は何かいいことがありそうな所だと思っている。


ってことです。



そうか、そうなんだね。

学校は、いいところ、なんだね。

君には。


じゃあ、この際、私も探してみようかな。君か学校に行きたくないって口にした時に、君にちょっぴりでも語れるためにも。

私が学校で楽しかったこと、学校で得たこと、学校に行って良かったと思うことを。

どうして学校に行ったほうがいいんだろ、ってことの答えも。



漢字が書けるようになった

九九がマスターできた

勉強はやればできることを知った

成績がわりと良かったからそこにプライドを置くことができた

詩と感想文で賞を取った



まだある、まだある。


小学生三年生で親友ができた

家にいないことで母に息抜きを与えられた

中学の修学旅行は楽しかった

合唱コンクールで優勝して泣いた

高校の友だちが尾崎豊の存在を教えてくれた

私を好きになる異性がわりとたくさんいることを知った

恋をした



まだまだ、ある。
どんどん出てくるわ。


あらら、学校は意外に、いいところだったかもしれない。少なくとも、役に立つ場所だったかもしれません。


🔹🔹🔹


夫に、そんな話をしたら、彼が少しだけ粋な事を言いました。

つまらない事をつまらない事とわかった上で、理不尽な事を理不尽と知った上で、あえてやってみる、校則とか道徳とか、学校が言う頓珍漢な事をあえて面白がってみる、乗っかってみることも、大切っていうか、ムダなことではないんじゃない?

学校を素晴らしい事を学ぶ場所にしないで、つまらない事を学ぶ場所ってことにしてもいいんじゃない?


そんな風に期待を下げて、力を抜いたら、確かに気分は楽です。

私は、息子の行く先々が、素晴らしい場所でなければならない、と思っていたのですね。

素晴らしさ、は、一見、素晴らしくないところにも宿っていたりするのかもしれない。そこを見抜く力を磨く場所であるのかもしれないな、学校は。そうあってほしいな、と思います。


職場でも、そんな話をしてみたら、先輩ママが言ってくれました。

「大丈夫、大丈夫。先生も昔と随分違うよ。手厚いというか、ものすごく丁寧に子どもに接してくれる」


そうなんだー。私の過去からの感情だけで、学校というものを定義しちゃダメてすね。

まあ、しのごの言わず体験してみるしかないんですな。私も息子も。少なくとも、息子の方は腰が引けてないわけですしね…。

🔹🔹🔹

というわけで、
この春から、小学生の母になります、私。










発達障害という用語は、もう限界かもしれない。

2016-03-06 11:48:38 | 世の中のこと
発達障害という用語は、もう限界かもしれないな、と、

武田双雲さんの、このブログ記事を見て思いました。

こんな記事にもなってました。


ここ何年かの間に、発達障害という医学用語?福祉用語?は、流行り物のように多くの人に認知されるようになりました。

空気を読まない人、片付けられない人、人の話を聞かない人、天然な人、オタクな人、友達がいない人は、「発達障害じゃない?」なんて、軽く揶揄されるような雰囲気も世間にあったり。

乳幼児期の息子の健診では、この種のパンフレットは必ずもらったし、健診する側の保健師やドクターからは、子どもを診ながらつねにその可能性がないかどうかを探っているな、というのが、ひしひしと伝わってきました。

息子の言葉の出始めがやや遅めだったこともあり、私もそれなりに勉強しましたね。でも、結局よくわからなかった。発達障害とは、そうといえばそう、そうといわなければそうでもない、という曖昧な理解しかできなかったんです。

しかし、武田双雲さんがね、こんな記事を堂々と載せると、改めて、発達障害の人が障害者で、発達障害じゃない人が健常者とか定型発達って、その定義がやっぱり心許ないなぁって思えてしまうんです。


苦手と得意の差が極端なのが障害、
苦手と得意の差が少ないのが定型、

集団行動が苦手なのが障害、
集団行動が苦手でないのが定型、

空気を読めない、読まないのが障害、
空気を読むのが定型、

こだわりが強いのが障害、
こだわりが弱いのが定型。



なんでこっちが障害なのー?
なんでこっちの定型なのー?健常なのー?
いや、どっちが障害でどっちが健常って、そのジャッジメントがすでに、今の時代には合わなくないかな。

例えば、苦手と得意の差が激しいことを障害とすることが、もうナンセンスなんじゃないか、限界なんじゃないのかな、という気がします。

やっぱりどこまでいっても、障害なんかじゃなくて、個性でしかないんじゃない?そんな風に感じるんです。


🔹🔹🔹

私の身近なところにも発達障害と診断されている人がいます。

職場にもいますし、息子の仲の良いお友達にも、息子のお友達のパパにも、私が援助した人のなかにもいます。

確かに、彼らや彼らの家族の多くは困っています。当事者や家族が困っているから、だから、診断名を療育を治療を、となるわけなんですよね。

でも、彼らが困るのは、この国のスタンダードが彼らの個性を「障害」としない限りは受け入れないよ、という懐が深くないところに困っているだけで、彼らは自分自身には、自分自身であることには困っていないんじゃないかな。

つまり受け手側の問題、逆にその個性を障害というカテゴリーに押し込めてしまう、こちら側の心性に障害かあるのかもしれませんよね。これは、発達障害に限ったことではないですが。


ただね、徐々に、時代も、日本人も気づき始めている気がします。

自閉症スペクトラムやADHDの発達障害に特有な個性が、この閉塞感のある時代に、この国を牽引するチカラのあることを。

もちろん、誰もが武田双雲さんになれるわけじゃない。エジソンや、スティーブジョブズやビルゲイツになれるわけじゃない。


でも、夫がこんな話をしてくれたんですよ。

彼の勤務先は、比較的保守的な会社です。

出世する人、実力のある人というのは、かつては、集団を束ねる力や調整力が抜群ないわゆる「やり手」だったり、家庭なんて全く顧みない滅私奉公的な人だった。

それが最近は明らかに変わってきた、と。

例えば、ひと昔前には、パソコンオタクとしてオフィスの片隅に押しやられていたような人が重用されるようになったと言います。

また、閉塞感が漂うとき、数字を上げることが求められるとき、場の空気を殆ど考えず自分の感覚だけで物を言うようないわば子どもっぽい人の意見が採用されたりするんだとか。しかも、その8割がいい結果に結びついているという感触があるといいます。

その、傍若無人なところや、ジコチュー的なところを敬遠したり、嫌う人は多いのに、でも、いざと言う時には、その人の声、感覚に頼ってしまう、という現象が起きているといいます。

決して有名ではない人たち、爆発的な才能を表現する「天才」ではない人たちの間でも、こうしたことが起きているってことです。

🔹🔹🔹


誰に、どう、思われるか。

発達障害ではない普通の人は、何かをしようとする時、ここに多くのエネルギーを割きます。ここに消費されたエネルギーの分だけ、集中力は削がれます。

たとえ、素晴らしいアイデアが生まれても、表現する段階でここにエネルギーが奪われたら、それは最初のインパクトをもって周知されません。

これを突破していくチカラが、発達障害の人には生まれつき備わっていると思います。

苦手なことばかり、標準よりも劣っているところばかりがフォーカスされがちな発達障害ですが、得意なところ、優れているところに目を向ければ、その能力はすさまじいはずです。


もちろん、そんないい話ばかりじゃないとか、診断された方が楽に決まってるとか、家族の気持ちはどうなるのとか、障害のレベルによる、とか色々な事情はあると思います。

私が、こんなことを書くのは、自分の周りにいる発達障害の人を通してしか私が発達障害というものを知らないからなんですが、何よりも私は彼らが好きなんです。正直に言うと、憧れにも似た感情も覚えるんです。

発達障害を一つの個性ととらえ、発達障害の人たちの能力を伸ばしていく方向、少なくとも、自然に伸びていくのを邪魔しない方向に受け入れ側の意識が、私たちの意識が変わったら、(すでにその兆候は始まっていると思います)、それは、とてもいい世界だな、と感じます。

そして、そんな世界は、発達障害の人たちにとってだけ最良なのではなくて、そうでない人たちにも居心地のいい世界なんじゃないかな、と思うのです。










「ありがとう」と「すみません」を 曖昧にしない。

2016-03-03 12:30:24 | My メソッド

ありがとう、と、すみません、


どちらを多く使いますか?


私は、断然、すみません派でした。
でした、と書いてますが、今もその傾向が多少あります。


すみません


それは、わたしにとって、ビジネス上の、人間関係を円滑にするための、戦略のはずでした。


すみません

と、言いながらも、決して負けてない。むしろ、謝ってあげてる私は大人、的な。

でも、すみません、って言っても、勝てたこともなければ、仕事上のメリットを実感できたこともないんですよね。


すみません
すみません
すみません



これを、何回か言ってみてください。
どんな気持ちになりますか。

今の私には、なんと言うか、少し耐えられない気持ち悪さがあります。

謝るところじゃないところ、本当は、ありがとう、のところを、すみません、と言ってしまう。それが、私の中で不一致なんです。

すみません、が自動的になると、すみません、という言葉と一緒に、すみません、の意識が自分に植え付けられていくことなります。

それが日常になれば、悪いこともしてないのに、意識は常に、すみません、になります。

まさに、

生まれて すみません
生きてて すみません


の世界の出来上がり。
言霊の本領発揮です。


うちの夫も、私へのメールで、すみません、を連発します。ある種の戦略というか、私につべこべ言わせないための無意識の防衛というか懐柔策だと思いますが、ほとんど奏功していません。

すみません、の文字を読むと、大概私はイラっときます。理由は、二つ。

謝るところじゃないところでの、すみません、は、本当に謝るべきところの、すみません、を台無しにします。そんな風に言葉を軽く扱うことに腹が立ちます。

もう一つは、私が謝られる人に無理やりさせられている違和感です。そんなことこれっぽっちも望んでいないのに、なんか、イヤ。そんな感じです。

この違和感を無視して、すいません意識の人を服従させている人もいるのでしょう。世のDV夫やモラハラ上司なんかは、その典型だと思います。

🔹🔹🔹

言葉一つにも、その人の世界観があらわれるということです。

そんなわけで、この頃、私は、意識的に、すみません、と、ありがとう、を使いわけるようにしています。

例えば、ある会合の出欠について、期限前に催促されるようなメールを受けても、極力すみません、は使いません。

ご連絡ありがとうございます、とは書いても、返信が早くないことは詫びません。私は約束を破っていないからです。

そうした小さな選択は、自分の中の違和感、不一致がないか、で、決めてゆきます。その繰り返しが、自己肯定感という満足を生みます。

こういう姿勢でいると、不思議と、逆に謝られます。期限前に催促するようなことになって、すみません、と。

相手を責めたわけではないのに、私がニュートラルな意識でいると、相手も、事の本質が見えるのかもしれません。すみません、と返したら、また違う対応をされたかもしれません。

すみません、って楽なんですよね。無難なんですよね。ついつい多用する。とりあえず使ってしまう。

でもだからこそ、安易に使いすぎて、自分を、知らない内に、すみません、な人にしてしまうのです。


言葉が世界を創る。
言葉が私を創る。

これは、真実だと思います。

すみません、が多い方。
まずは、ありがとう、と、すみません、を使い分けてみませんか。


いじめのストッパー。

2016-03-01 18:00:56 | 育児・母稼業
子どもがいじめに遭っているお母さんの話を聞く機会がありました。


その方のお話を聞いていて、誰かを加害者にさせないためにも、まずは、自分の子どもを被害者にさせてはいけないな、と感じました。

お話を聞いたケースは、 確信犯的な悪意によるいじめというよりも、悪ふざけから始まった印象でした。

でも、悪ふざけも、ストッパーが効かないとエスカレートすることがあるという事です。



それでは、ストッパーになるのは何か。

大人の目

やる側の自制と分別、つまり成熟さ


この二つがない場合、(多くのいじめは、この二つが機能しない場合にエスカレートしたもの)、

ストッパーになる唯一のものは、


やられる側の、本気の、

やめろー!
そんなことするなー!


しかありません。


悪ふざけと、やられたくないことの間にある自分なりの境界線をしっかり自覚し、宣言する強さです。

子どもの心にその強さを育てるには、 親がまず自分の嫌なこと、やられたくないこと、をわかっている必要があります。それを宣言できるかどうか、ということも含めて。



例えば、自分の子どもが、いじめられているかもしれない事実を目の当たりにした時、行動を起こせるかどうか。



先生にモンペアって言われたくない

ママ友との関係を壊したくない

言ったところで解決できないかもしれない

これくらいのことは子どもの時にはよくあることに違いない

事実がどうか定かでかないのに騒いで恥をかきたくない



なんらかの建設的な考えがあって、あえて行動しない、という選択をする場合は、それでいいのだと思います。

でも、そうではないのに行動できない場合、この思考にブレーキをかけられているかもしれません。

この種の思考は、誰にも少なからずありますが、この思考を聞きすぎていないか、という点が重要です。

その影で、体の中で小さくなった私が泣いていないか。嫌なことをされて嫌だと思っている私が。嫌なことをやめて、と本当は言いたい私が。


私の本当の声を、聞いてみる努力が大切なんです。


私の子に、やめてよ
私の子に、そんなことするな
私や私の子を粗末に扱うな


そんな風に言ってませんかね、私の声。
それに応えたくなりませんか。
それを、もっと外に出したくありませんか。


もちろん、そのまま言った時には、


モンペア扱いかも知れません

ママ友との関係にヒビが入るかもしれません

誰かが即解決に動いてくれるわけではないかもしれません


でも、

ほらね、言わない方が良かったわ、じゃないんですよ。


表現を変えたり、オブラートに包んだり、アサーティブな態度であったり、時と場合によってはこのままダイレクトでも、ちゃんと表現する必要があります。


だって、

これはね、この宣言は、

まずは、
自分に対して言うんですよ。
お母さんなら、自分と自分の子どもに対して言うんですよ。

この言葉を一番近くで聞いているのは、自分なんですもの。わが子なんですもの。

やめて欲しい事をやめて、という。

嫌な事を、嫌という。

いじめられるのは嫌、やめてっていう。


私が、私に宣言しているってことが、大事なんです。泣いていた私を私が救うことに意味があります。

この声を自分が拾わなかったら、誰がこの声を拾うんだろう、

ってことですね。


他者は、二の次です。

自分の中で響き渡った声は、パワーを生み、行動を促し、必ず聞きとってくれる人を呼び込みます。もちろん、響かない他者を相手にする必要はありません。


モンペアと言われるリスク、嫌われるリスクを避けるために、自分の声を蔑ろにしないこと。

最悪、モンペアと言われても、嫌われても、うるさい人と言われても、自分を無視するよりは、ずっといい。


親がそうしたスタンスでいる時、子どもも、きっと自分の本当の声を聞き、表現できるようになります。

相手にとってはただの悪ふざけも、自分にとって違うなら、そう口にすることができます。

嫌なことをする人と関わらないようになります。自分を大切にするとは、どんなことなのか、自分を大切にしてくれる友人とは、どんな人なのかを学びます。

そして、これが、いじめの最大のストッパーになるのだと思うのです。

🔸🔸🔸

ちなみに、これは、以前の私や冒頭のお母さんを含めて、声をあげるのが苦手な方、行動のブレーキが強い方、自分よりも他者の事情を慮る方に向けて書いています。

すでに声の大きい方、即行動主義の方、モンペア扱いされてる方は、そのままで大丈夫ですので。(笑)