すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

魂が覚えている。

2014-12-31 15:14:34 | ひとりごと
おおみそかのツーショット。




仲良しの二人。5歳と9歳のいとこ同士。

食べるのも、お風呂に入るのも、寝るのも、遊ぶのも一緒。

兄弟のいない一人っ子男子の5歳と、二人のお兄ちゃんから最近仲間外れにされがちな9歳女子。

きょうだいよりも遠慮があって、友だちよりも近しい関係。


あと何回、何年、こうして寄り添って遊べるのかな。

たぶん、3年後には段々一緒に遊べなくなって、5年後には会っても照れが勝って、10年後には少し大人のあいさつをしてるのかも。

そんな未来を想像すると、ちょっと切なくて寂しい。

でも、一緒に遊ばなくなる未来が待っていても、今、この幼い時代のひと時、素直にお互いを求め合い、寄り添い合うことの、その美しさに嘘はない。

この時間と世界は、二人の中で、

消えるようで消えない。
忘れてしまうようで忘れない。

きっと、魂が覚えている。


二人の背中を見ていて、そんなことをふっと思った。


私にも、そんな人たちがいる。今は連絡の途絶えたいとこや友だち、同僚、その他大勢の人たち。

私の人生の、その時代その時代に、私に寄りそってくれた人たち。

会わなくなったから、連絡を取らなくなたから、自分にとって、重要ではない人ということでもない。

私がはっきり覚えていなくても、私の魂はその一人ひとりをきっと覚えている。その時間をきっと記憶している。

だから、私は忘れてしまっても構わないんだ。安心して忘れていいんだ。


2014年がもうすぐ終わる。いろいろあったけれど、その一つひとつを事細かに覚えておくのはとんと不得手になった。

でも、ま、それもいっか。私が忘れても、きっと私の魂は覚えていてくれるはず。

来年は、どんな人たちとどんな時間を過ごすのだろう。ありがたいことに、楽しみで楽しみで仕方がない。





今が幸せなら。

2014-12-30 15:24:10 | 日記・できごと
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かつて、二十代の頃に記者の仕事をしていた街を、夫と息子と三人で初めて歩いた。

記者の先輩後輩であり、言うなればライバルだった夫と私は、この街を仲良く歩いた記憶などない。

少なくとも、私の方は、この街にいた頃、いつも緊張していた。青白い顔をして、やせっぽっちで、身体のどこかにいつも力が入っていた。

夫は、私よりもずっとタフで、記者向きだったけれど、でもそんな夫でも新卒後の初任地の生活は交感神経ばかりを酷使する日々だったはずだ。

それが今は、息子を挟んで、二人とも、どこにでもいる、少々くたびれたお父さんとお母さんの顔をして、かつて必死にあがいた街を、ダラダラと歩いている。

二人で一緒に入ったことはないけれど、それぞれで入ったことのあるお店で昼食をとったり、詰めていた記者クラブのあった警察署の前を通りかかってもみた。

なくなった店もあれば、当時のままの店もある。

懐かしい味や、街ゆく人の訛り言葉に夫のテンションがにわかに上がる。



私は…


うーん、なんでだろう。

感傷に浸ることがちっともできない。拍子抜けするくらいに、何にも感じない。

過去の、悲しい、辛い出来事の、感情の部分がまるで今の自分とは切り離されてしまったみたいだ。

あれほど、神経を削り、強い記憶の数々を心に刻んだ街なのに、今は、ただ過去に住んだことのある街という以上の意味を私に強いてこない。

記者をやめて二、三度一人で訪れたことはあった。その時は、懐かしさと、ヒリヒリするような痛みを感じたような気がするのだけど。

それからさらに10年位たったかな。

時間による、記憶と感情の風化のせい、とも言えるけれど、もう一つ確実なこと。

それは、今の私が、とても幸せなのだということ。

幸せというのは、こんなにも人間を鈍くするものなんだ。

裏返せば、今が幸せであればあるだけ、過去の痛みは、どうでもよくなってしまうものなのかもしれない。

かつての職場の先輩である夫と歩くことで、過去の何かを清算できるのでは、なんて密かに楽しみにしていたけれど、そんな必要も全くなかった。すでに清算は終わっていた。

人は、今しか生きられない生き物なんだ。そして、今が幸せなら過去も幸せになる。

過去に何かひっかかる感情が残っているなら、過去をいじくり回す必要もない。今の幸せを十分味わうことで、自ずと解決されてしまうものだったりするってことなんだ。





一緒にいるだけでいい、そんな友だち。

2014-12-28 11:27:05 | 日記・できごと
帰省中です。

大学時代の親友と、5年ぶりくらいに再会。彼女のおうちを、息子と2人で訪ねました。

私の昔からの友だちには、プチマイノリティーというか、世間的にはさまざまな負い目や障壁を持っている人、心理的葛藤を抱えている人が結構多いのですが、彼女は異例。

20代後半で大学時代の先輩と結婚して、早々と2人の子どもを設けた彼女。今は、好きな仕事をしながら、「ほったらかし」という愛情を子どもたちに注いでいます。

4歳のうちの息子を見て「かわいい。なつかしいな」と目を細めながらも、決して「こんなときが一番いいよ」なんてことも言わない。

大きくなった自分の子ども達との「今」の関係を素直に楽しんでいるのがわかります。

彼女の人生、結婚生活に、それなりに波風がたった時期はあるのですが、それらはすべて彼女をぶっ壊すレベルのものでもなかった。すべてがちゃんと、もとあった彼女の人生の定位置に、より良いものになって戻っていきました。


今年は、なぜかそんな彼女に会いたくなって、彼女との再会の約束を取り付けたのでした。

大学時代は親友だったのに、しばらくは彼女との付き合いに積極的ではなかった自分に気付きました。

彼女の安定感と、力の抜けた感じが、私にはしっくりとこなかったということかもしれません。

それが、やっと、しっくり来るレベルまでに、私が安定し、脱力したのだということかな。いわば、私が彼女に少しだけ追いついたということなのでしょう。


5年ぶりに会ったというのに、お互いの近況報告はものすごく簡潔で、子どもたちが盛り上がるゲームの話をしたり、愛犬の話をしたり、出してもらったおやつの話で盛り上がったり。

もちろん、お互い何かを隠していたり、遠慮している、という感じでもない。

ただ、目の前にあるものを話題にして、ただ一緒に時間を過ごすというだけでした。こんな時間を友だちと過ごす自分に、それが平気になっている自分に、ただただ驚くばかりでした。

友だちの愚痴を聞く。友だちの悩みを聞く。友だちにいい時間だったと満足してもらう。そして、相手に見合うように、自分の愚痴も言う。

いつもいつもではないけれど、友だちと会うのに、私にはそんな理由が必要なのだと思い込んでいたのかもしれません。無意識に。

疲れるはずですよね。身構えるはずですよね。こんな理由が必要だと思っていたら。


彼女のおうちを後にして、一緒にいるだけで心地よい関係というものがあるのだなあ、ということにしみじみ思いを馳せました。彼女は私にとって、そういう友だちだったのです。

彼女の前ではただ、自分が楽しめば、それだけでよかった。友だちを満足させようとする必要なんて、偽悪的に振舞う必要なんて、なかったのです。


共通の話題とか趣味とか、似通った境遇とか、そんなものを必ずしも必要としない、心の同調作用によってつながる関係、その安らぎ。

今の私が、強く彼女に会いたくなったのは、そんなことを確かめたかったからなのだな、と思ったりしています。

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年末と掃除とダンナ。

2014-12-25 11:46:49 | ひとりごと
年末年始の大掃除は、ここ数年、ダンナの仕事になっている。台所まわり、お風呂、窓拭き、その他もろもろ。お願いするまでもなく次々やってのける。

仕上がりは多分完璧ではないのだろうけど、まあ、我が家的には十分なレベルだ。

私は、脇でおせちを作る、わけでもない。トイレ掃除だけやって、あとは、スマホ見たり、テレビ見たり、本読んだり。ソファでゴロゴロしながら、夫の掃除が終わるのを待っている。

息子は、時々、夫の手伝いをしたり、邪魔したり、私とじゃれあったりしている。


心屋さんのブログのこの記事を読んで、これ、まるきりあたしのことだ、と思った。

私、妻としても、嫁としても、かなり偏差値低い。

家事も掃除も、あんまり好きではない。甲斐甲斐しい奥さんとはほど遠い。40才を超えて体調の揺れも結構あって、面倒くさがり屋に拍車がかかっている。時々馬鹿みたいに張り切る事はあるけれど、それもブームの類にすぎない。

だいたいはダンナより早く寝て、ダンナより遅く起きて、毎日の朝食の準備も、いつからかダンナが担当するように。私は、幼稚園の手抜き弁当で、ひと仕事した気分でいる。

ダンナの家事力と甲斐甲斐しさ力はますます上がり、それに比例して私はどんどん面倒くさがり屋のダメ主婦になっていく。

まだ、結婚が具体化してなかった頃、

「奥さんは、別に家事とかしなくてもいいって思うけどね」

なんて、ダンナは言ってた。

一般論として言ってる風を装い、まさに私に言ってるのは理解して、「そんな話を真に受けるほどバカではないぞ」と、苦笑いして聞いていた。

新婚時代は、優秀な奥さんとは、家事がしっかりできて、働き者で、ダンナさんに甲斐甲斐しくする人のことを言うんだ、という常識を元に、優秀な奥さんをめざした。かな?!

家事も、仕事も、一生懸命やった。私なりにだけれども。

でも、振り返れば、私が一生懸命だった時代は、夫婦の間によく問題が起きた。問題を起こすのは常にダンナで、私は正義や常識を振りかざし、徹底的にダンナを責めた。

責められる担当のダンナに、数えきれないくらいの回数謝られたけど、その謝罪に満足したことはなかった。

問題を起こしたのはダンナだけれど、その問題を問題としてわざわざ問題視して、過剰反応したのは私だったな、と今になるとわかる。

最近、ようやく、息苦しい夫婦のあり方が、少し緩んだ。

夫自身も多分、緩みつつある。独身時代には人並みにあった物欲を「結婚」のために諦めたみたいだったけど、少し復活した。

実用的ではない、10万もするカメラが欲しいから、お小遣いを貯めて買うのだとか。家計から出してあげても、と一瞬思ったけれど、「貯めて買う」体験を楽しんでいる感じなので口を噤んだ。

そして、数年は横ばいだったり下降気味だったボーナスや給料が、ここに来て不思議と少し上向いた。

これも、私が、自分の義務を思い切って減らして、私が緩んだおかげ、なんて勝手に思っている。


大掃除に忙しいダンナに、

「あたし、やっぱりあんまり家事好きじゃないんだよね。どんどん面倒くさくなるよ」

と言うと、ダンナのやつ、

「ま、俺の方が長生きできたら、やってあげられるからいいけどなー。先に死んだら困るよな」

だって。

笑った。

できない妻を地でやると、なぜかダンナが元気になって張り切るのが笑える。

この人、本当に、奥さんは何にもしなくていいって思ってて、それ嘘じゃなかってこと?

まあ、どっちでもいいや。私が楽なら。ただね、私、一人になったらそれはそれでちゃんとやれるんだよね。これは、内緒にしとくけど。


私が子どもの頃、亡くなった父がよく言っていた。

「お前のダンナになる人は大変だぞ。気分屋で面倒くさがり屋で。なーんも文句言わない人じゃないとダメだな」

お父さん、私、どうやらその予言通りの人と結婚したみたいです。


少し、ノロケも入った今日のひとりごとでした。

メリークリスマス(*^^*)



自分の気持ちしかわからない。

2014-12-24 09:11:36 | My メソッド
小さい頃から、家庭で、学校で、よく言われたものです。

「相手の立場になって考えなさい」とか、「相手の気持ちを想像してみなさい」とか。

私も、きっと、時々、夫や息子に言ってるんだろうな、と思います。わけ知り顔で。

まあ、それは多少のご愛嬌ということにして、心のどこかでは、はっきりとわかっています。

いやー、それ無理でしょう。絶対無理でしょう、って。

だって、自分が相手の立場になっても、相手の気持ちを想像してみても、それは、どこまでいっても、自分がその立場に立ったときの、「自分の気持ち」を想像することでしかないのです。

相手の本当の気持ちなんて、どうしたってわかりっこない。

ずいぶん前に、茂木健一郎さん著「脳と仮想」を引いてこんな記事を書いたことがありますが、茂木さんも、やっぱりそんなことを書いています。

例えば、贈り物ひとつとったって、もらうなら自分は後腐れない消え物がいいと思っても、贈られる側はブランドの洋食器を望んでいるかもしれない。

自分のよかれ、が、相手のよかれ、と一致しない事が多いように、自分の気持ちと相手の気持ちが一致するとは限らないのです。

その人との付き合いが深くなれば、わかる部分は増えてくるだろうけど、人が変わっていくことを前提としたら、「わかった」は、いつ、「わからなくなった」に変わるともしれません。

自分以外の他人の気持ちは究極的にはわかりっこないのだったら、結局は、自分を基準にして生きていくしかないということだと思うのです。

自分の気持ちを想像する。これが早道であり、人との関係の王道だと思います。

でも、これ、簡単に見えて、実は難しい。私もなかなかやれてません。

こんな時、あんな状況で、自分がどんな気持ちになるか。

自分の気持ちに敏感な人は比較的容易に想像できるものですが、感情をおざなりにしていたり、何かを我慢していたり、自分を後回しにばかりしていると、自分の本当の気持ちがどこかに埋もれてしまい、自分だったら…という想像がうまく働かなくなります。


こんなことがありました。

縄跳びがなかなかマスターできない息子に、私はある時軽口を叩きました。

「◯◯君(友だちの名前)は、もうできるんだって。毎日練習してるみたいよ。偉いよね。◯◯(息子の名前)も練習した方がいいんじゃない?」

軽い気持ちで、息子と友だちとを比較をしたのです。その時、息子はただ黙っていて、すぐに違う話しを始めました。

そんな息子を見ていて、私の中にモヤモヤっとしたものが起こりました。息子はどう感じたのかはわかりませんが、私自身の中に、後味の悪い不快なものが残ったのです。

しばらくして、雑誌か新聞かで、こんな話しが載っていました。

子どもが、あなたと他のママとを比較したら、どんな気持ちになるか想像してみてください。

「◯◯ちゃんのママは、お仕事もしているのに、ちゃんと手作りのおやつまで作ってくれるんだって。ママは、働いてないのに買ったおやつばかりだね。少しは頑張ったら?」

こう言われて、あなたはどんな気分になりますか?

イヤな気分になるなら、あなたが子どもを誰かと比較する事は、そのイヤな気持ちを子どもに感じさせてるということです。



これが、私にはかなりのカウンターパンチでした。私は、普段、私の気持ちを把握できていなかったのだということ。具体的に言われて、ハッとしたのですから。

でも、気づいてしまえば、子供の頃の気持ちを思い出すまでもない。今の私で十分です。

私、比較されるの、すごくイヤです。子どもの頃もイヤでしたし、大人になってからも、変わらずイヤです。

そんな、自分がイヤと感じることを息子に強いたのだということ。

私の中にあった、モヤモヤや不快は、私の中のこの矛盾だったのだと、気づきました。自分がイヤなことを、息子にしているという。

それをきっかけにして、私の息子への接し方は、劇的に変わりました。

自分のイヤなことは、息子には強いない。

そうやって、常に、自分ならどう感じるか、ということを基準にするようにしたのです。

そうすると、叱り方も何かを促す時の言い方も変わります。自分が言われて心地よいもの、イヤな気分にならないものを自然に選択できるようになってきました。

もちろん、息子の気持ちも、結局はわからない。比較されるのが私みたいにイヤかもしれないし、実はそれほどダメージを受けてないかもしれない。むしろ発奮するタイプなのかもしれない。

でも、それって実はそんなに大きなことではないのです。

私が自分の気持ちを基準でやっていくと、少なくとも、私の中に、後悔とか不快な気持ちがのこらない。迷いが生まれない。こっちの方が、ずっと大事なのだと、感覚的にわかりました。

それがたとえ、息子のよかれ、ではないとしても、息子にも心地よいことなのだということが信じられます。息子が私から学ぶことは、「自分の気持ちを大切にすること。それを基準に生きること」で、十分なのだと思うのです。


子供を叱ったり、誰かに何かを言って、自分の中に不快なものが残る時、それは、自分の本当の気持ちを想像できない時なのかもしれません。

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自分を愛する心。~吉野弘詩集から2~

2014-12-22 15:33:36 | 本・映画・音楽
吉野弘さんの詩で、もう少し。

『吉野弘詩集』を手に取って思い出したのが、精神保健福祉士をしていた頃に参加した精神科クリニック主催のクリスマス会。

メンバーさん(当事者の方)のお母さんが、吉野弘さんの「奈々子に」をくぐもった声で朗読していた。

お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは
はっきり知ってしまったから。


果てしなく、いい詩だと思った。そして、現代的な詩だとも。

吉野弘さんが現役で父親をしていた昭和の時代に、子どもに「期待しない」と鮮明に宣言する父親がいたことに驚いた。

その時代は、子どもに「期待」をかけることがむしろ肯定的に見られるものなのだと思っていたけれど、そうでもなかったのかな。

「ほかからの期待」で苦い思いをした吉野さんが、子どもにかかる親の期待がいかに残酷なことかについて、とりわけ自覚的な人だったということは間違いない。


詩人・吉野弘と、朗読しているお母さんも重なった。

子どもの病気の前後に、このお母さんにも嵐のような日々があったはずである。

「奈々子に」の詩の中に、このお母さんもまた、親としての本当にあるべき自分の姿を見たのかもしれない。


そして、吉野さんは、奈々子にあげたいものとして、こう結ぶ。

かちとるにむずかしく
はぐくむにむずかしい
自分を愛する心だ。


つくづく、こんな親でありたい。

そのためにはまず、私が知っていなければならない。

自分を愛するとはどういうことなのかを。

これもまた、果てしなく難しい。




じいじとばあば。

2014-12-21 22:27:29 | ひとりごと
今日は、夫と息子と私の3人で夫の実家に遊びにでかけた。

寡黙で優しいじいじと、賑やかしくてお茶目なばあば。70代の2人、仲良く、お互いを支え合いながら、幸せな毎日を送っている。

結婚前に初めて会った時には、2人ともまだ仕事をしていて、バリバリ現役感を漂わせていた。

あれから8年。

今では、2人とも白髪としわが増えて、すっかりじいじとばあばになった感じだ。替わる替わる、受けた健診で要精密検査になったり、目や胆のうの手術したり、だんだん言うことを聞かなくなってくる故障がちの体をなだめながら暮らしている。

でも、孫である息子が遊びにいくと、途端に大はりきりモードに。手づくりの温かいゴハンとたくさんのおやつでもてなしてくれるばあば。次の日の腰痛も厭わず、たっぷり息子と遊んでくれるじいじ。

息子は、そんな2人が大好き。


夜になって実家を後にするとき、たくさんのお土産をもたせてくれるばあばが私に言う。しみじみと。

「あなたが◯◯(ダンナの名前)と結婚してくれて、こんなに可愛い孫のおばあちゃんにしてくれて、私、本当にありがたいわ」


あっ。えっと。
(何て言おう…)


はい。
(言っちゃった!)

そのまんま、ばあばの温かい気持ちを「はい」と受け取ったら、私の中にも温かい気持ちが、そのまんま広がった。


以前の私なら、

(いや、孫が一人でスミマセン)

とか

(そんなお世辞は居心地悪いです)

なんて、心の中で少しばかり毒付いて、苦笑いしてたかな。

だから、温かさもそのまんま受け取れなかった。もったいなかったな。

素直って大事なんだね。素直っておトクなんだね。


じいじとばあば。

どうか、長生きしてくださいね。

正しいことを言うときは。~吉野弘詩集から1~

2014-12-20 07:27:47 | 本・映画・音楽
吉野弘さんの詩が読みたくなって自分の本棚を物色していたら、となりの夫の本棚に、『吉野弘詩集』 を発見。

いつ、買ったものだろう。うちのダンナ、こんなの読むんだ、と少し新鮮な驚き。




私のような世代が初めて吉野さんの詩に出会うのは、中学校の国語の教科書かな。

あの「夕焼け」の詩の世界に触れた時に感じた、「わー、これってなんだ…」というのが忘れられない。こんな情景、場面を、こんなに直截に汲み取って言葉にする詩人がいるのか、という衝撃。

「最後に席を替わらなかったときの娘の気持ちを説明せよ」

なんて、先生からしつこく質問された授業の様子さえ、ぼんやりと覚えている。



と、懐かしい感傷に浸りながら、ページを手繰り、お目当ての詩を探す。

あったあった。

披露宴の定番、と言ったら誰もがピンとくるかな。私もこれまで出席した披露宴で少なくとも2回くらいは聞いたことのあるこの詩。

せっかくのいい詩もお酒で顔を赤くしたおじさま達のスピーチに使われると、なんだか一気に低俗な空気を帯びた感じがして、「ヤメテー」と言いなくなったものだけど。

その中に、改めて知りたい一節があった。

「祝婚歌」



正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい




そう、これだ、これ。


これ読んで確認したかったのだ。

自分が「正しい」と思っていることを、誰かに伝えるときに躊躇する気持ちについて。

例えば、意見や考えの違う人のたちに囲まれて、ちっとも同意できない話で盛り上がっていても、私はいちいち、「それは違うんじゃない?」とか、「私はこう思うんだけどね」とは言わない。

自分が同意していないことを表明する意味で、うなづかない、くらいはするだろうけど。話に加わらないとかも。

保身の気持ちももちろん否定しないけれど、私の「正しさ」に傷つく人がいることがわかるから。そして、その傷は、「正しさ」を受け取ることを拒み、時に猛烈に反撃へと舵を切ることも知っているから。

例えば、誰かをかばうような、何かをたしなめるような「正しい」発言は、特に、そうした人たちのエゴにぶつかり、コンプレックスや罪悪感を刺激する。

「うちは、こんな被害にあったけどね」「それは理想論だよ」

なんて、鼻をピクピクされちゃうかな。そういうのが、もうひたすら面倒だと感じるようになってきた。

反論、反撃は、正直言って受けたくない。敵も、あえて作りたくない。

そういう場面になると、実は観月ありささんが演じたママ友ドラマの「斉藤さん」を思い出す。斉藤さんなら「それは間違ってる!」とスカっとやるんだろうなーなんて。ホントは、ちゃんと言うべきなのかなーと。

でも、斉藤さん的生き方はやっぱり敵を作る。争いを生む。「間違ってる」と言われて傷つかない人は少ないだろうから。

「正しい」ことは、乱暴に、強くぶつけるやり方では、きっとうまくいかないってことだ。相手の心の入り口に張り巡らされたエゴを反応させるだけで、相手の心には、魂には上手く届かない。

だから、きっと、

正しいことを言うときは
少し控えめにするほうがいい


になるんだ。

争いが苦手で、弱虫。そんな私のような人間にも、吉野弘さんの詩のこの一節は優しい。

斉藤さんにならなくていいんだよ、って聞こえる。


最近は、控えめに、傷つけないように伝えることにすら、実はもうあまりエネルギーを使いたくない。

あえて口にすることもない。ただ黙々と、自分が正しい、善いと思うことを実践したらいいんだと。そう、思うようにしている。








脱力系の「有名」指導者。

2014-12-18 08:10:49 | 育児・母稼業
脱力系指導者の続編です。

宮本哲也さんって、ご存知ですか?

宮本算数教室という小学生を対象にした塾を主宰している方で、いわゆる超名門校に多数の塾生を送りこんでいるカリスマ塾講師です。

でも、その塾、受験に特化した、いわゆるバリバリ進学塾という感じではなさそう。

入塾希望者は引きも切らず殺到するそうなんですが、入塾テストはなく、抽選だか早いもの順だかで入塾が決まるらしいです。どんな子もこの先生にかかったらグングン伸びていく証ですね。

フジテレビで以前「全力教室」という番組があって、それに出演されてるのを見て知りました。今では自分の番組を持つほどの、あの林修先生みたいな派手なパフォーマンスはないけれど、宮本先生のその哲学に惚れました。

脱力ってお顔ではないけれど(失礼(^_^;)、この方もまさに脱力系指導者です。

宮本先生の秘策は、ずばり「教えない」。これまた逆説ですねー。いや、この逆説は、「子どもは本能で学習したい、成長したい生き物」という絶対的信頼を礎にしたもの。

たとえば受験にまだ遠い三、四年生は、ただひたすらこんなパズルを解いてるだけなんですって。

『賢くなるパズル・たし算初級』

(↑わが家も購入しましたが、さすがに4歳には少々早いかも?!)

子どもの本能を信じて、ただ教壇に立っている、教えない指導者。その人を前に、子どもたちはフロー状態に置かれ、ひたすら考え、何度も失敗し、最後には自分なりのやり方で答えに到達するそうです。


読売新聞のこの記事を読んでみてください。

「やりたいことはとことんやる。やりたくないことは一切やらない」


そういう状態に持っていくことが、子どもの学習で1番大事な事!と豪語する宮本先生。

あれれ、このフレーズって、どっかで聞いたような。

そうですね。あの方とかあの方とかがおっしゃってることと同じです。

親の立場からすると、

「イヤイヤ、苦手教科もやらなきゃダメでしょ」とか、「そんなことしたら受験で不利でしょ」

とかなるわけですが、でも宮本先生はそう断言して、さらに結果も出しちゃってますからね。

信じるしかないです、もう。


「全力教室」で印象的だったのは、こんな話。

初対面で丁寧すぎる挨拶をする子に違和感を覚えるという先生。「よくできたお子さんですね」と言われたい親に仕込まれた不自然さを感じるのだとか。小さな子は、初めて会う大人に親しみを感じられないのが当たり前です。

とまあ、なんと本質を見ていることか。

「挨拶が上手にできる子」って、子どもが大人に評価される一般的なモノサシですよね。で、このモノサシを共有する親が子どもに挨拶を仕込む。でも、このモノサシの反対側を見ている大人もいるわけです。こういう大人もちゃんといるって事、子どもには救いでしょうね。

私も幼稚園のバスの先生に朝お会いする時など、結構必死に「おはようございますは?」なんて息子に言ってた時期がありますが、宮本先生のエピソードを聞いてこれもやめました。

あえて言うなら、私自身が挨拶するだけです。そしたら、いつしか息子も自分からやるように。もちろんやらない時もありますけどね。

「親は余計なことするな」
「親は子どもの邪魔をしない」

宮本先生の哲学は、こうも言ってます。

なんか、親の立場というより、私自身の後学のために塾に潜入して授業を観察したい。そんな心境にさせられる、宮本先生です。


脱力系の指導者。

2014-12-16 12:16:01 | 育児・母稼業
4歳の息子は、今年の春からスイミングに通っています。かれこれ8か月たったところ。

どちらかというと全般的に運動は苦手で、スイミングもまあ、めきめき上達するような感じではありません。

ひたすら、のらりくらりですが、ただ、なぜか進級テストは今のところ一回も落ちないで来ています。

プールが嫌いでないこと(まあ、好き)、テストの時にプレッシャーをほぼ感じないことが、たぶんマイペースに上達している理由かな、って思っています。

そんな息子、今月からビードバンでけのびをするクラスに進級したのですが、なんだかここに来てやたらヤル気になっているんです。

「早くスイミングに行きたいよ~」と毎日のように言うので、理由を聞くと、購入したばかりのゴーグルを使ってみたら水に顔をつけるのがすごく楽になったから、なんだとか。

まあ、これは彼が説明できる理由なんですが、私はもう一つ別の理由があると踏んでるんです。

今のクラスのHコーチ。この人の存在が大きい。これまで指導してもらったコーチすべてを息子は「好き」と言いますが、Hコーチに代わったとたん、息子の話にこのコーチの登場する回数が非常に増えました。顔の特徴や、どんな風に声をかけてもらっているのか、Hコーチの話になるとやたら口が軽くなる。

ガラス越しの保護者席で見ていると、そのコーチの良さがすぐにわかります。

「ちょっと、このコーチ教え方上手くない?」と、私の後ろに座っていたパパ&ママが驚きの声を上げるんですが、本当にその通り。コーチが子供の耳元に何かを囁くと、どの子もどの子もやるたびに上達する様がはっきりとわかるのです。

教え方が上手いというのももちろんなのでしょうが、このコーチの良さはまさに「リラックス」「脱力」しているところ。見るところ、心に一本筋が通っていて、あとはなんでもこじゃれ、のゆるい感じ。30歳前後とおぼしき男性ですが、お顔もまさに心が安定している人特有の印象です。

褒めすぎないし、しつこく注意もしない。自然な笑顔で、短く大切なことを子供に一声かけるだけ。出来た時には軽くハイタッチ。出来なくても過剰なホローはしない。結果をさほど重視せず、子供に余分な期待をかけない感じがうかがえます。

なんといっても、プールサイドの子供たちがリラックスしているのがわかります。笑顔が多い。そして「失敗したらどうしよう」とか「コーチの期待に応えなくちゃ」という力みがない。だから、コーチのアドバイスが素直に耳に入って、なんとなくできてしまう。そんな感じです。

これに気付いたのは、私自身がリラックスしているから。熱血タイプのコーチにあたると、保護者席の私の両手にも力が入る。「失敗しないように」「コーチの期待に添うように」と、親の私までもがきっと力んでしまうんです(親バカ?バカ親?)。人の空気に影響を受けやすい私。そんな自分を察知すると、意図的に席を外したりしましたけどね。

少し前に、心屋さんのブログでこんな記事↓が紹介されていたのを思い出しました。
はじめて逆上がりが出来た女の子:成功後の一言が指導者を撃ち抜く


指導者のリラックスも脱力も、子供への信頼からしか生まれない。そんな、信頼なんて大げさなものでもないか。どっちでもいいんだよ、どうせ君たちは伸びたい、成長したい生き物だろっ、知ってるよーって感じかな。

子供たちがその力が発揮できるのは、誰かの重すぎる期待を感じることなく、失敗してもいい環境に置かれたときなんですよね。やっぱり。

期待って、本当に難しい。昔は「少しくらいはあってもいい」とも思ったけれど、最近は思います。「ないならないだけいい」と。


ちなみに、息子が次のクラスに進級したら違うコーチになってしまうので、しばらくは曜日変えてでもこのコーチのおっかけをしようと思っています。(これも親バカ?バカ親?)


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