すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

バランスの取り方。

2016-11-30 08:25:41 | My メソッド
たとえば、

愛想笑いばかりしてきた人が、ある日、愛想笑いをやめました。

愛想笑い、というお守りを捨てる恐怖を受けいれるための、大きな勇気を振り絞った。怖いけれど、このままはいやだ。怖いけれど、やってみよう。

ドキドキしながら、後ろめたさに呑み込まれそうになりながら、覚悟を決めてやってみた。

こわいよー、
あれ?でも平気だ
こわいよー、
あたしすごい、強い人みたい

恐怖と解放感が交互にやってきた。やがて、恐怖が鳴りを潜めて騒がなくなった。脳が慣れたのかもしれない。

愛想笑いをやめても、恐れていたこと、は起きなかった。

嫌われたり、注意されたり、避けられたり、は全然起きなかった。

逆に、「今日、なんかあった?」って心配されたり、いつもは無愛想な人が挨拶してきたり、不思議なことが起きた。仏頂面の人をみても、怖い人だなとか、感じ悪いなとか、あんまり思わなくなった。むしろ同志みたいな気分になった。


それから、全く愛想笑いをしない人になった。そういうあり方を決めた。

愛想笑いをしないと生きていけないと信じていた自分を一段超えた。怖いことを避けるために使い果たしてきたエネルギーを取り戻し、もう怖いものはない、もう大丈夫と思った。

愛想笑いをする人に、「愛想笑いなんてやめなよ。心配しなくても怖いことなんて起きないんだから」と触れて回りたい心境だった。


やがて、
自分の中に、何とも言えない違和感を感じるようになった。胸のあたりがキューっとした。あえて言葉にするなら、力み、焦り、窮屈さ。その違和感は、愛想笑いをしていた頃に感じていたものになんだか似ていた。

それが強くなるのに比例して、周りの反応が変わったように感じた。避けられたり、注意されたり、誘われなくなった。愛想笑いをしていた頃に、恐れていたことが現実になった。


愛想笑いをやめたから?
やっぱりそうなの?

でも、愛想笑いをやめたときの解放感は、忘れられない。自分の気持ちに正直になって得られた自尊心は消えない。愛想笑いをやめた自分の勇気を否定したくない。


じゃあ、なぜ?
なぜ、こんなことに?

愛想笑いをしない人というあり方を決めた瞬間、
愛想笑いは、忌むべき、醜い行為になった。お守りだった愛想笑いが、倒すべき敵になった。

愛想笑いを敵とみなしたり、それを自分の中から締め出して再び侵入させないようにするためには、果てしないエネルギーが必要になる。切り捨てたはずの愛想笑いに、逆に足元をすくわれる。

愛想笑いをしたら、以前のように軽く扱われるかも、負けを認めるような気もする、自分で決めたことを破るなんて絶対にダメなことだから。

今度は、愛想笑いをする事が、自分にとって一番怖い事になってしまっていた。

恐れの対象が、すり替わっていた。

どうしよう。
こうなったら、やるしかない。
今度は、愛想笑いを。今の自分が恐れている愛想笑いを徹底的に。愛想笑いをやめた自分の勇気に報いるためにも。


さあ、なにが起きるのか。


🔸🔸🔸🔸🔸

生きずらさを産む自分の中の偏りは、恐れという形で現れる。その恐れを直視して、勇気をもって反対側をやろうとする。反対側に少しずつ馴染んではまりこんだ時、今度はそれが自分のアイデンティティになる。そして、元の偏りを無意識に敵視する、排除する。

でも、これはとっても大切なプロセス。こういうことを何度かやって、恐怖に注いだエネルギーを取り戻したり、すり替えたりしながら、バランスを取る。一つひとつ、実感しながら、体験しながら勝手にバランスが取れていく。

全体として、怖いものを避けるために使っていたエネルギーの量は、限りなくゼロに近づく。

どっちでも、いいわ。
最後は、勝手にそうなる。


反対側のあり方に挑戦してしばらくしてうまく行かなくなったら、元のあり方にあえて戻ってみるのもあり。大丈夫、反対側のあり方を実感した私は、前の私とは違うから。

今、自分は何を恐れているんだろう。
この言動は、このあり方は何を避けるためのものだろう。

自分に問いかけると、見えてくるかもしれません。

面白いなと感じた人、心当たりのある人は、ぜひ体験してみてください。





避けていることをあえてやる。

2016-11-20 13:43:57 | My メソッド
久しぶりの更新です。

錦織選手の今シーズンが終わった今日。ツアーファイナルの準決勝で、ついこの間まで世界ランキング一位のジョコビッチに、あっと言う間に勝ちを持ち去られました。惨敗ってやつです。チリッチに負けた時に感じた予感は、「やっぱり」という実感とともに現実となりました。

すっきりとした気持ちでシーズンオフを迎えたかったけれど、澱のように心を覆う悔しさと寂しさとモヤモヤ。一ファンの私はもちろん、ご本人も今頃似たような重い感情エネルギーを抱えていると思います。でも、どこかでこの感情に徹底的に浸るのも悪くないなぁと思っています。

いやいや、オリンピックの銅メダルをはじめ今年の錦織選手の活躍は評価すべき点の方が多いでしょ、なんて頭で感情を説得するよりも、この不快さを感じ切る。たとえ感じ切れず、残ったままでも、その不快さを受け入れる気持ちがあれば、その感情は、やがて違うもの、もっと素晴らしいものに姿を変えますからね。

まあ、どっちにしても、来年もファンはただただ応援するのみ。色んな感情を味わうのみ。逆に言えは、色んな感情を味わいたくて、錦織選手を応援してるんですからね。


すいません、独りよがりなテニスネタで(苦笑)。
さて、錦織ネタはここまで。

🔸🔸🔸

今日は、「行動」をキーワードに書いてみようと思います。

自分の中に湧き上がる感情や思考に意識を向けることは、瞑想に長けた人や、自分の内面と向き合うことが上手な人は、得意かもしれませんね。

ある出来事によって不快な感情が起きた時に、その感情を作り出した思考、さらにはビリーフ(自分が深いところで信じていること)を突き止める、というのは、自分の心のパターンをつかむ方法の定番中の定番かもしれません。

でも、パターンはつかんだけれど、なかなかそのパターンから抜け出せないってことも、あるんじゃないかしら。いや、そっちの方が多いかもね。何をかくそう、私もそれ(笑)。

見たら終わっていく
気づきを入れたら消える

なんてメッセージは理想ですが、長年のパターンが染み付いた心は、そんなに簡単でもない。

まあこれはこれとして、もっとシンプルな方法もあるんですよね。もちろんシンプルですけど、簡単ではありません。楽チンでもありません。(笑)

それは、自分の行動を見ていく
さらに、その行動を止めるということです。

たとえばね、

メールはすぐに返信する
愛想笑いがクセ
贈り物にはすぐにお返しする
自分だけ違うメニューを頼めない
体調が悪くても休めない
頼みごとをしない
仕事を手伝ってほしいと言えない
文句が言えない
先に帰ることができない
必ず自分からあいさつする
誘われたら断れない
手紙もメールも前置きが長い

などなど。

こうした行動から、自分が深いところで何を信じているのか、何を怖がっているかが見えます。

相手のために、とか、常識だから、とか、善悪のジャッジも外して、ただ自分がそう行動せざるを得ない理由、自分が何を信じているかを見ていきます。

たとえば、愛想笑い、という行動には、「無愛想な顔は、生意気と思われる」「どんな時でも笑顔でいることが大切」「笑顔でいれば敵を作らない」「素直な感情を顔に出してはいけない」といったビリーフがあるかもしれません。

でね、このビリーフが自分にあることを認めて、これは必ずしも事実ではないよな、思い込みの部分が大きいよな、さらには、このビリーフは自分を大切にしないよな、傷つけているよな、捨てた方がいいよな、と頭で理解できたとします。それは大きな前進ではあるけれども、自分のパターンは大概ビクともしません。

ためしに、その行動を止めようとする時に、どんな感情が湧いてくるのか想像してみます。多分、「怖さ」か「罪悪感」が強く湧き上がるはずです。少し湧き上がるけだけで、行動は止められる、というレベルのものなら、悩みの種にもなりませんし、生きずらさや何らかの心の症状も生まないでしょうね。

その行動をせざるをえない理由は、深いところで自分のビリーフが事実だと認識しているからで、そのビリーフから生まれてくる圧倒的な不快な感情を避けるためです。別の言い方をすれば、自分が作り出した架空の危険状態に自分が晒されないよう、健気なまでに「怖いこと」と「罪悪感を感じてしまうこと」を避け続けています。

でも、これは心の盲点なんですが、避ければ避けるほど、「それ」は怖くなり、実体を持ち、ビリーフを強化します。自分と自分の心を守るためにしてきたはずの「避ける」ための行動が、結局はもっと自分を危険に晒し、自由を奪い、生きずらさを植え付けます。


じゃあ、どうするのか。
はい、その行動を止めるしかありません。

止めたら何が起きるのか。
恐怖や罪悪感がやってきます。わんさわんさと出てきます。はっきり言って苦痛です。ジャッジしないように、とか、感覚として感じる、というアドバイスもよく聞きますが、どっちにしても気持ちのいいものではありません。だから、シンプルだけど、簡単ではないし、ラクでもないんです。でも、だからこそ逃げないで、あえて自分から迎えに行くつもりで、その恐怖と罪悪感を受け入れにいきます。

私は、PMSなど体調が不安定になると「忘れ物をする恐怖」と「過度に確認してしまう」という強迫観念と強迫行為がやや出てくる傾向があって(この話はまた機会があれば書きます)、少し認知行動療法の暴露療法も勉強しましたが、暴露療法では、こんな風にあえて不安にさらすことは「不安に慣れるため」で、さらされ続けることで不安が軽減されると説明されています。

私的には、不安に慣れる、というよりは「感情を味わう」「感じきって手放す」という表現の方が好きですね。感じたら感じた分だけ自分のなかにある不安の総量が減って自由になる、というイメージがご褒美感を与えてくれます(笑)。

心屋さんの言ってる「逆をやる」「やりたい事をやるためには1番やりたくない事をやる」や、セドナメソッドほかさまざま感情解放ワークも、EFTなどのエネルギー療法も、避けていること、抑圧している感情を受け入れるためのメソッドなんですね。おおざっぱに言えば。

避けていることをやるのは大変なことですが、でも、その避けているところにこそ宝物が眠っています。自分が注ぎつづけているかけがえのないエネルギーが眠っているんです。

色々試してみるのもよし、一本釣りもよし、ですが、どちらにしても、どのやり方にしても自分と向き合うことは外せません。そのための勇気と意志はもちろん、これは忘れがちになるんですが、続けられなかったり投げやりになりそうになる自分も認める、自分への寛容さが物凄く大事です。

この寛容さ、自己愛とも言えますが、この土台がないと、自分と向き合うというのはただの苦行になりますからね。子育てには父性と母性の両方が大切ですが、それと似ているかもしれません。

頭ではなくて、

行動して、体験して、
実感として受け入れたら終わる、
のでしょうね。

そして、そのためには、ドリカムではないけれど、「何度でも」「何度でも」「何度でも」です。

感じることを選ぶ。

2016-09-07 08:26:49 | My メソッド
人間、追い詰められる時には、必ず頭の中で、思考が、言葉が、暴走しているんですよね。

心にふときざした気がかりなことがきっかけとなって、リアル感たっぷりの妄想が次々と雪だるま式に展開していく。

例えば、
絶対にミスできない仕事のこととか、
私はあの人たちに嫌われてるんじゃないだろうか、とか、
風邪が長引いて咳が続いてるけどもしや重い病気?とか。

仕事で言えば、大きな失敗をして上司に怒られたり、言い訳をしようとしどろもどろになっているシーンとかが生々しく目に浮かんだりして。

そんな、
頭の中の暴走に合わせて生じてくるのが、
不安、怖れ、怒りの感情。

こわいこわいこわい。
苦しい苦しい苦しい。
辛い辛い辛い。

でも、そんな感情は感じたくないから、反射的に避けようとする。
それで、今度は、解決策という名の思考を投入して、暴走する思考を黙らせようとする。

ミスは誰でもするはずだ。
あの人たちも悪い人ではないのだし。
すぐに不安になるのが私の悪いところ。でも、大丈夫。
私を不快にさせる思考は間違っている。
そうそう、考えを変えよう。


これももちろん、効果がある時はあります。暴走した思考が中和されて、一時的に感情がおさまってくれたり。

でも、すんなりいかないことが多い。ほどなく思考がぶり返してきます。一つのテーマですり抜けても、また似たようなテーマに遭遇すると、同じような思考がはじまり、同じような感情が起こり、ほどなく頭も体も心も占領されるんです。

ああ、まただ。どうしていつもこうなんだ。どうして私はこうなんだ。

頭の中だけで決着をつけようとしても失敗に終わる事が多い上に、自分をさらに傷つけていきます。

普段から瞑想や思考観察が習慣になっていて、こうした時の対処法を持っている人でも、特定のテーマでは感情が強すぎて対処しきれないこともあります。




そんな時に残されている道は、ただ一つ。それはもう、

ただ、ただ、ただ、
感じること


感じることに徹することです。
頭を放置する。思考を放置する。 そのかわりに身体の異変に集中する。

締め付けられる胸、荒くなる呼吸、緊張する肩、腕、顔、 に静かに意識を合わせ、その感覚を感じます。その中にある不安、怖れ、怒りの感情を自ら感じにいく。

決して心地よい感覚ではないけれど、その感覚を感情を、消そう、解放しようなんてことはせず、コントロールという意図を捨てて、純粋にただただ感じにいくのです。

五分でも十分でも、感じたいだけ。

そうするとね、頭の中がスーッと静かになって、涙腺が緩んで涙が出て、うまくいくと感情の方がしゃべりだしますよ。


どんなにやったってミスする時はミスするんよー、ボケー

あの人の、無表情が怖いんだってば。こわいの、こわいの、こわいのー

好きで心配性やってるわけじゃないんだよー。心配なモンは心配だろうがー



言いたいだけ言わせてあげるんです。
なだめたり、取り引きしたりしないで、ただ感情にしゃべらせる。頭じゃなくて、感情にしゃべらせます。

多少きたない言葉も、私じゃなくて、感情が話してるんだから、と、どこかで自覚していると、余計なブレーキが入りません。

そしてある時、全身の力がふっと抜けるように、感情もエネルギーを失い、通り過ぎる。

じゃあ、目の前にある現実はどうなるの?仕事も人間関係も病気の可能性も消えてないじゃない?

感情が通り過ぎると、現実を見る視点が変わります。それだけで解決される問題もあるし、建設的な解決策が思いつくこともあります。解決しようという切迫した意識が薄れて、まあなんとかなるかな、とどっしり構えていられるようになるかもしれせん。

思考が感情を作る、とはよく言われることですが、その感情がまた新たな思考を作っていきます。

特にネガティヴと言われる感情は、その都度出口を作って流してあげないと、心の深いところに仕舞われていきます。その古い感情の集まりが、私たちの普段の思い癖や人生に影響を与えていきます。


感情は、ただ感じてもらうことを求めています。それ以上でもそれ以下でもありません。

ただ、ただ、ただ
感じること。

感じることを選びませんか。








波動って、その人の実感の集積だと思う。

2016-03-27 20:38:08 | My メソッド
波動という言葉に、いつからか関心があって、最近もちょっとしたマイブームです。武田双雲さんも、波動大好きですよね。

波動本のなかで、ダントツのお気に入りはコレ。



10年くらい前に、よしもとばななさんクレジットに惹かれて購入しました。いろんなメソッドが掲載されているんですが、試したことはないんですよね。

何がいいかって読み物として楽しい。笑えます。虫が良すぎるというか、都合の良すぎる話もないドライ感がいいです。

私的には、波動の仕組みが、スーッと抵抗なく入ってくるのがお気に入りのポイントです。


🔹🔹🔹


波動って、エネルギー、気、オーラとも言い換えれるのかな。どちらにしても、その語感にオカルトチックな響きは拭えず、そうしたこともあってかスピリチャル界では量子力学にも通じるというのが専らの宣伝文句になってますね。

私は難しいことはわかりませんが、波動という目に見えないエネルギーに、意識が作用しているというのは信じています。個人的な実感があります。

でも、流行りの引き寄せもそうですが、波動の仕組みって、決して夢物語ではないんですよね。

読んで確かに気分が上がるときはあります。

でも、波動の法則も引き寄せも、早く結果を出したがったり、すがりつくような心情、自分が抱える問題の解決策を「見えない何か」に強く求める依存的な心性だと、相容れない、というか、効果を期待するのは難しい。その心性そのものが、波動的に良いものを引き寄せる状態を作り出せない、という逆説的なことになってしまいます。

今の波動、引き寄せブームに群がる人の多くは、そんな心性を少なからず抱えているような気がします。

私も、そんな心性を抱えていた頃があるので、この辺のからくり、矛盾、が何となくわかります。


🔹🔹🔹


自分を含めて、そうした現象を俯瞰すると、逆に波動というものがつかめてきます。

波動の法則や引き寄せを意識しないで現実的な選択をしている人の中に、その波動の存在を確かに感じるんですよね。


私は、人から出る波動、現象に作用する波動をこんな風に考えています。

波動=その人の実感の集積

身体、五感を通した経験や、思考や感情から生まれた実感が、何度も何度も繰り返されて一つの揺るぎない場となった状態。それが、波動です。


たとえば、私の好きなテニスの錦織圭選手の波動の質というのもわかります。

彼は、現在世界ランキング6位、その6位という波動を持っています。

100位の選手とは質の異なるトップ選手の波動は、錦織選手が、この場所に来るまでに試合の中で何年もかけて、何度も何度も味わった実感の集積です。

生来の才能や技術力、フィジカル、日々の厳しい練習に加え、試合という本番で経験した生の実感---。ボロ負け、番狂わせの勝利、胃のキリキリするような神経戦、悔し涙、突き上げる歓喜、勇気、駆け引き、イライラ、後悔、自信、負けん気、大舞台の数々、めまぐるしい数の観客、プレッシャー、その膨大な実感の全てが彼から今の一流の波動を漂わせる素材になっている。

まあ、当たり前ですが、そんな実感を受け入れない人が、簡単にトップ選手にはなれないわけです。


私たちの日常においても、同じで。

波動を高める、とか、波動を動かす、とか、はそんなお手軽なものではないですよね。

波動を上げるために感謝をする、とか、セルフイメージを上げる、とか、言葉だけ見てたら何だかすぐにでも結果が出せそうですけど、実際はどうでしょう。

それを行動に移して、実感しつづける、ということがいかに忍耐がいるか、気づき力が試されるか。ベクトルは違っても、実は現実的な努力、自己研鑽と同じプロセスを辿るわけです。

例えば、「自分は素晴らしい」という波動を安定したものにするには、その実感を持ち続ける経験や努力が欠かせない。逆に、経験や努力はしたものの、意識が空疎なものや強い義務感に根ざしたものならば、「自分が素晴らしくない」という実感を強めている場合もあるかもしれません。

やみくもに時間を掛ければいいわけでもないし、努力、忍耐ありき、でもなかったり。

もともと自己肯定感の低い人がそれに取り組もうとするときは、清水の舞台を何度も飛び降りるような覚悟も求められます。

つまり、ローマは一日にして成らず、どころか、めっちゃ、バランス感覚が求められる難易度の高いメソッドです。

いや、「波動や引き寄せはお手軽なメソッドだ」という信念があればいいのだ、とか、「良い気分を選択するだけ」だからシンプルだよ、という意見もあるかもしれませんが、その信念だって、シンプルな習慣だって、安定したものにするには、同じような繰り返しの実感が必要なんですよね。

でも、波動にはロマンがあります。そのロマンって、100匹目の猿現象のように、「人事を尽くして天命を待つ」の天命が、思いもよらないサプライズをもたらしてくれるかもしれない、という点かな、と思うんですよね。

ちなみに、私は、この手の、目に見えないもののロマンを感じる話が大好きなんです。だから、波動にも興味がわくんだろうな。

とはいえ、日々を気づきながら生きる、自分の声を丁寧に聞く、という日常の積み重ねを生きていくあり方があってこその、ロマン。

こんなわけで、波動も、引き寄せ、も、実は派手さとは無縁な世界なんですよね。でも、だからこそ、本当なんだってことも言えるような気がするんです。














マイナス感情は感じ切るか、観察するか。

2016-03-13 10:14:02 | My メソッド
おはようございます。

昨日は、息子の卒園式でした。半年だけお世話になった幼稚園でしたが、彼の中では、前の幼稚園の思い出が帳消しになってしまうほど、大切で当たり前の居場所でした。

寒空の下、温かいお別れの儀式に、静かな感動と涙が止まりませんでした。



ちなみに、涙する大人に囲まれて、泣いているお友だちは2、3人。

「もう友だちに会えない」「あんなことこんなことあったな」と、未来と過去を現在の感覚としてイメージできるほど、精神が成熟しているお子さんたちなんですね。

うちの息子は、ひたすら笑っていました。式典の時はさすがに神妙な表情でしたが、他はいつものように、同じく笑っている仲良し君たちとはしゃぎっぱなし。彼らは、幸か不幸か(笑)、今だけを生きている。あっぱれです。

何はともあれ、卒園おめでとう。


🔸🔸🔸



さて、話は変わりますが、今日はマイナス感情を解放する方法について書いてみます。

心理学やマインドフルネス界隈では、マイナス感情を手放す方法として、

感じ切る、

と、

観察する、

の二つがよく上がりますね。

感情を心の活動と捉えると、どうやって感じ切るの?観察するの?となりがちです。

でも、感情は、体感の異変として現れます。例えば、早い呼吸、喉のつまり、激しい心臓の鼓動、手の震え、筋肉の緊張など。

体の異変や違和感は丁寧に探せばキャッチできますから、そこに意識を集中させると、心の活動でもある感情にアクセスできるというわけです。

では、
感じ切る、と、観察する、との違いは?

こんな風に例えるとイメージしやすいかもしれません。


例えば、緊張などの感情によって肩に力が入ってる人がいるとします。

感じ切るイメージは

力の入っている肩に、さらに力を入れるようなつもりで意識を徹底的に集め、そのエネルギーを全身に行き渡らせるようにします。すると、ある時疲れるというか、もういいか、とふっと力が抜けるんです。エネルギーを増幅させることで結果的に全ての力みを抜きます。

一方、
観察するイメージは

力の入っている肩を優しくポンポンと叩いて、「力が入っていますよ」と声をかけるイメージです。自分が気づきもしないところで、無意識に起きた肩の力みは、「気づく」という行為が向けられただけで自動的に消えます。

体感が和らぐと、感情も和らぎます。

私の場合は、怒りやショックなどの激しい感情は、感じ切るイメージが有効ですし、ある特定の場面で繰り返し起きる感情は、観察するのが有効です。

感情の種類や時と場合によって、人によっても、どちらが有効かは変わってきます。もちろん、慣れないうちはどちらも効果を感じるのは難しいかもしれません。

これらをスムーズに行うためにも、日頃からマインドフルネスを習慣にしておくといいですよ。感情がどのような体感として現れているか、肩か喉か呼吸か、そこに気づくのも早くなります。


良かったら、お試しくださいね。

「ありがとう」と「すみません」を 曖昧にしない。

2016-03-03 12:30:24 | My メソッド

ありがとう、と、すみません、


どちらを多く使いますか?


私は、断然、すみません派でした。
でした、と書いてますが、今もその傾向が多少あります。


すみません


それは、わたしにとって、ビジネス上の、人間関係を円滑にするための、戦略のはずでした。


すみません

と、言いながらも、決して負けてない。むしろ、謝ってあげてる私は大人、的な。

でも、すみません、って言っても、勝てたこともなければ、仕事上のメリットを実感できたこともないんですよね。


すみません
すみません
すみません



これを、何回か言ってみてください。
どんな気持ちになりますか。

今の私には、なんと言うか、少し耐えられない気持ち悪さがあります。

謝るところじゃないところ、本当は、ありがとう、のところを、すみません、と言ってしまう。それが、私の中で不一致なんです。

すみません、が自動的になると、すみません、という言葉と一緒に、すみません、の意識が自分に植え付けられていくことなります。

それが日常になれば、悪いこともしてないのに、意識は常に、すみません、になります。

まさに、

生まれて すみません
生きてて すみません


の世界の出来上がり。
言霊の本領発揮です。


うちの夫も、私へのメールで、すみません、を連発します。ある種の戦略というか、私につべこべ言わせないための無意識の防衛というか懐柔策だと思いますが、ほとんど奏功していません。

すみません、の文字を読むと、大概私はイラっときます。理由は、二つ。

謝るところじゃないところでの、すみません、は、本当に謝るべきところの、すみません、を台無しにします。そんな風に言葉を軽く扱うことに腹が立ちます。

もう一つは、私が謝られる人に無理やりさせられている違和感です。そんなことこれっぽっちも望んでいないのに、なんか、イヤ。そんな感じです。

この違和感を無視して、すいません意識の人を服従させている人もいるのでしょう。世のDV夫やモラハラ上司なんかは、その典型だと思います。

🔹🔹🔹

言葉一つにも、その人の世界観があらわれるということです。

そんなわけで、この頃、私は、意識的に、すみません、と、ありがとう、を使いわけるようにしています。

例えば、ある会合の出欠について、期限前に催促されるようなメールを受けても、極力すみません、は使いません。

ご連絡ありがとうございます、とは書いても、返信が早くないことは詫びません。私は約束を破っていないからです。

そうした小さな選択は、自分の中の違和感、不一致がないか、で、決めてゆきます。その繰り返しが、自己肯定感という満足を生みます。

こういう姿勢でいると、不思議と、逆に謝られます。期限前に催促するようなことになって、すみません、と。

相手を責めたわけではないのに、私がニュートラルな意識でいると、相手も、事の本質が見えるのかもしれません。すみません、と返したら、また違う対応をされたかもしれません。

すみません、って楽なんですよね。無難なんですよね。ついつい多用する。とりあえず使ってしまう。

でもだからこそ、安易に使いすぎて、自分を、知らない内に、すみません、な人にしてしまうのです。


言葉が世界を創る。
言葉が私を創る。

これは、真実だと思います。

すみません、が多い方。
まずは、ありがとう、と、すみません、を使い分けてみませんか。


恐るべし、PMS。

2016-02-18 14:48:20 | My メソッド
みなさんは、PMSに悩まされていますか?

PMSとは、月経前症候群。排卵日以降から、生理が始まる前までに出現する、心と体の不調の総称。

女性ホルモンの変動によって引き起こされると言われ、PMSと言ったら、女性なら誰でもピンとくるくらい、今ではかなり市民権を得ています。

私、実は、このPMSがよくわからなかったんです。吹き出物ができたり、下っ腹が重くなったり、生理前特有の体の症状はありましたが、心の変化は強く自覚できなかった。

排卵前や生理が始まっても不調な時は不調だし、特に異変もなく生理に突入なんてこともありましたしね。曖昧でした。

でも、これも、自分を観察するのが習慣になっている影響なのか、最近は、このPMS、つまり自分の身体の中での女性ホルモンの影響をハッキリと感じます。

気分の質が、ガラッと変わるのがわかります。無理やり、気分を悪くさせられたような感じとでもいいましょうか。思考の影響を受けていないのに、なんでだろう、気分悪いな、とカレンダーを見て、納得します。

恐るべし、PMSです。


イライラ イライラ イライラ

今、その真っ只中にいる私、いやぁ、この字を見ているだけでイライラしちゃいますが、この時期は気分のベースがイライラなんです。

呼吸の観察で、落ち着く場合もありますが、なかなか上手くいかない時もあります。


でも、人間、悲しいかな、気分がイライラするとその原因をわざわざ探しにいきます。PMSという自覚がないと、もう必死に探します。自覚あっても、やっぱり探しますけどね 笑。

息子が帰宅後、全然片付けをしない。
夫が、金欠、金欠、うるさい。

あいつの、ここが、こうだから、イライラするんだ!

(いや、違う違う。それ、彼らにとっては、いつものこと。)

こうなると、私は大概、確信犯的に夫に八つ当たりしますが、夫はほぼ無抵抗で、何を言っても「ごめんなさい」で応じます。

すると、ある時、その「ごめんなさい」に笑えてきます。私のしつこい攻撃に、夫はわざとなのか、本心なのか、「重ね重ねごめんなさい」とかメールを送ってきます。腹の底から笑いが込み上げてきて、それで、何かが抜けます。

これは、誰のせいでもない、

女性ホルモンのせいだーー!


って、腑に落ちます。

まあ、夫には毎月毎月酷かもしれませんが、仕方ない。一緒に嵐が過ぎるのを待ってもらうしかない。男のアンタ、女性ホルモンの恐ろしさを知らないアンタ、これくらいら付き合いなさいよねーって感じです。


ここでやってはダメなのは、自分に対する原因探し。

私が、ちゃんと躾けてないから息子がダメなんだ。
私が、お金にシビアだから、夫が卑屈なんだ。
私、PMSのせいにして、イライラを正当化して、なんて最低なんだ。

これやると、最悪。これをやることが最低。PMSを、どんどん、こじらせます。

PMSのせいにしていいんです。それは、私の本質とは全く関係ないんですから。

PMSも、思考や感情と一緒なんですよね。来たら、諦めて、流すしかないんです。

(あれー、なんかちょっと、言い訳っぽいかしら。まっ、いいや 笑)



プラスの感情も、溜め込まない。

2016-02-17 21:50:28 | My メソッド
感情についての話になると、ついついマイナス感情ばかりを思い浮かべますが、今日は、プラスの感情について。

プラスの感情って気持ちいいですよね。

喜び、楽しさ、達成感、陶酔感、ワクワク感。

ずっと浸っていたくなる。手放したくなくなる。もっともっと、味わいたくなる。

でも、

感情は、感じて、流す

が基本。

これは、プラスの感情も例外ではないと思います。

マイナス感情を溜め込むと、それがやっかいなことを引き起こすように、

プラスの感情も、溜め込むと、変容して、プラスではなくなります。


このへん、アスリートは、よく証明してくれます。


大好きなテニスの錦織選手が、一昨年のグランドスラムの一つ、全米オープンで王者ジョコビッチを準決勝で破った日の夜、自分の中で起きたことを話しています。


「昨日の夜は、気持ちが高ぶるのを抑えられなかった。嬉しさと緊張で胸が苦しくなったり、寝つけなかったりもした…」

(「錦織圭リターンゲーム」内田暁著より)



結局、彼はすぐそこにあった優勝を逃します。普段は勝ち越していたチリッチに、あっけなくストレート負けを喫する。

彼がジョコビッチに勝って経験した未知のプラス感情は、想像を絶する興奮を引き起こしたのだと思います。そして、流して、冷静に次の試合に備えるには、あまりに大きすぎたプラス感情だったのかもしれません。

🔹🔹🔹

錦織選手に、大きな緊張と重圧を強いたように、プラスの感情は、流せないままだと、過度のプレッシャーはもちろん、恐怖、不安、傲慢、逃避、依存にも姿を変えるんですよね。


それから、マイナス感情ばかりで生きてきた人が、初めて大きなプラス感情を味わったりすると、そこにすがりつきたくなったりもします。

失いたくない、失うのが怖い、もう2度と味わえないかもしれない、絶対に手放してはいけない、そんな強烈な渇望感や恐怖に変容しやすいのです。

そして、姿を変えた古いプラス感情をいつまでも手放さないから、次のプラス感情もやってこれない、というジレンマが起きます。


感じて、流して、感じて、流して。

プラス感情も、恐れないで、手放していくのが大切です。そうしたらまだ必ずやってきますから、その都度、何度でも味わえばいいんですよね。

罪悪感の減らし方。その2。

2016-02-15 22:32:48 | My メソッド
前回の続き。

前回は、お勉強チックになりましたが、今回は体験談風に。

私は、もともと「罪悪感が強いタイプ」と告白しましたが、なぜ、それがわかったのかというと、

相手や第三者が自分と同じことをやっても気にならないのに、自分がやるとどうもダメ、つまり、罪悪感を感じることが多いことに気づいたからです。


たとえば、

相手のメールの返信が遅くて不安にはなっても怒りとかはないのに、自分がそれをやると罪悪感。

集団の井戸端会議で、先に帰る人がいても気にならないのに、自分がやるときはうっすら罪悪感。

一緒にランチをしていた友だちが時間を気にし始めて時計を触ったりしたら、こちらが申し訳なく思うのに、自分がそんなことをしたら、かなりの罪悪感。

終業時間にサクッと帰る人には何とも思わないのに、自分が帰るときは気配を消して帰りたくなるほど、つまりこれも罪悪感。

数えあげたら、キリがありません。

第三者がやっても腹の立つ場合もあるでしょうが、全体的には、こんな傾向でした。

こういう人、通称、いい人、です。

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この、「いい人」で生きることが、私の中で限界だったのでしょうね。

ある時、罪悪感の少ない人たちに目が行きました。彼女のような人とか、ママ友にもいたし、職場の同僚のにもいたんです。 自分を責めないし、「いい人」でもない人種が。

メールの返信はそっけないし、他人の子どもをあんまり褒めないし、自分の都合でサクッと帰るし、病気になると遠慮なく休むし、頼み事も結構軽くするし、やりたい事はすぐに手を挙げるし。自由でマイペースで、無理がない。

こういう人たちを、「カッコイイー。あんな風になりたいなぁ♡」って思ったんですよね。

カッコイイと思うんだけど、こういうタイプが、親友にはいなくて。というのも、波長が違いすぎて、居心地悪いんですわ。

でも、彼女たちの考え方、価値観は、少し話しただけでも、知人レベルでも、何となくわかるようになってきました。

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それで、私の、罪悪感を減らす方法につながるんですが、

罪悪感を感じる出来事に遭遇したときに、まずはその感情を見つめることで、
少し自分と罪悪感との距離を置いて、

それで、ひたすら、

彼女だったら、この出来事をどんな風にとらえるだろう。どんな行動を取るだろう

と、彼女たちの思考→行動を想像するんです。

育児ならママ友◯さん、仕事なら同僚の△さん、みたいに実際に思い浮かべます。

そして、まるで◯さん△さんになったかのように、まずは行動をしてみるんです。ここが一番勇気の要るところ。

たとえば、簡単な場面ですと、終業時間が来たら、コソコソするのではなく、元気よく、当たり前のことをしているまででーす、という意識で「お先に失礼します!」と帰ります。

△さんなら、間違いなくそうしますから。

この後、何を感じるのかがポイントです。怖い、はあるとしても、ほかの感情・気分です。意外に平気なのか、満足感か、喜びか。そのプラスの実感の分だけ、罪悪感が減っていきます。

そのうち、実感が自分に馴染んできて、△さんのイメージを借りなくても済むようになってきて、罪悪感は、自分を困らせるレベルの分量ではなくなります。

不思議と、周りの反応も変わってきます。もちろん、プラスの意味に。

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私は、こうして行動・体験→実感の繰り返しをやってきて、自分の中の罪悪感を減らしてきました。

ただし、罪悪感はゼロにはなりません。◯さんや、△さんのようにもなれません。そんなこと、目指していませんが。トレーニング効果のある場面と、あんまり効果のない場面もあります。揺り戻しも必ずあります。

そうなんです。実は、簡単に罪悪感は減らせないんですよ。ごめんなさい。

でもね、ここからが一番大事。

一つ言えるのは、罪悪感がそんなに嫌いじゃなくなりました。

あー、来た来た、また来たー、ってちょっと茶化しながら罪悪感をお出迎えしたりね。

こんな時にこんな風に罪悪感を持たなくてもいいのに、私ってば、いじらしいなとか自愛の気持ちが生まれたり。

これは、◯さんや△さんにはわからない感覚だろうな、とか思うと誇らしくなったりね。

罪悪感を目の前に置くとね、私とそいつは一つじゃないし、私が罪悪感じゃない、というのがわかるんですよ。

でね、そうやって罪悪感をごまかしたり、押しこめたり、避けたり嫌ったりしないとね、やつら段々悪さをしなくなるんです。

現れたら、しばらくいて消える。

そんな風になってくれるんです。

トレーニングしながらも、ここの視点を忘れずにいることが、最も大切で、効果的な「罪悪感の減らし方」かもしれないです。

🔹🔹🔹

尻切れ感満載ですが、
もし、参考になったらぜひやっみてくださいね。

罪悪感の減らし方。その1

2016-02-14 10:02:49 | My メソッド
罪悪感は、とてもやっかいな感情です。

嬉しい、悲しいのようにシンプルなものではなくて、なかなか自覚しずらい上に、違う感情に姿を変えやすいのが特徴。

感じるのが耐え難い不快な感情なので、そんな風に無意識の処理が行われるのでしょう。

罪悪感とは、言うなれば、

「私は悪い人間である」
「私は罪を犯している」


と自動思考して、発生している感情ですからね。

そんな客観的事実はないのに、あるいは何らかの失敗の事実はあっても、その責任をはるかにこえる分量で、自分が自分を、悪い、罪人だ、と思い込んでいるのです。

そんな感情、蓋をしたくなるのも無理はありません。でも蓋をしても消えるわけもなく、見ないふりをした感情は心の奥底に沈みこんでいきます。自分は罪深い人間だ、という信念の強化に力を貸すだけです。

罪悪感は、とっさに、その罪悪感を抱かせた他者への怒りにも姿を変えます。

たとえば、日常のこんな一場面。夫に「あれ、今日は冷蔵庫にビールないね」と言われて、突然怒り出す妻。「あたしは、あんたの召使いじゃないっ!」。

これは、ビールを買い忘れた、という妻の罪悪感から発生しています。罪悪感がなければ、「そう?じゃあ明日買っとくよ」とか「えー、もう飲んじゃったのー」で終わり。

でも、そんな風に流せないのは、最初に自分が自分を無意識に責めているから、夫が自分を責めているように感じて、感じたくもない罪悪感を感じさせた夫に怒りをぶつけてしまうのです。

罪悪感を貯めこむよりは怒りとして小出しできる方が健全とも言えますが、怒りの発生元が罪悪感であるという気づきがないと、不毛なコミニュケーションエラーは解消されないままになります。

🔸🔸🔸

罪悪感は、心の専門家と呼ばれる人たちの多くが「不要」「役に立たない」「問題解決を遅らせるだけ」と看破します。

罪悪感の強い人は、最初は、この解釈すら受け入れられないかもしれません。

でも、その感情が自分にも周りにももたらした結果についてつぶさに思いを馳せれば、見えてくるものがありやす。

罪悪感は、ひたすら自分からエネルギーを奪い、身動きを取れなくさせたり、罪悪感を埋め合わせる行動に駆り立てたりして、自分らしさを奪います。

周りに甘えや強い依存を生んだり、被害者や加害者を作ったりします。自分の責任を放棄する人を引き寄せたりします。

罪悪感は、罪悪感を感じさせて、他人をコントロールしたい人にだけ有用です。

例えば、ブラック企業。アルバイト社員ですら、簡単に辞めさせてもらえないという事例を聞いたことがあります。会社に迷惑をかけている、とか、自分は非常識だ、と思わされる言葉をなげかけられ、実際に自分を責めて身動きがとれなくまります。

これはまさに罪悪感の植え付けです。

元々罪悪感の強い人は、企業が悪い、という発想がなかなかできません。発想はあっても、「でも、私も悪いんだ」と自分の罪悪に比重を置きます。

このしくみを見ると、罪悪感が、真の反省を促したり、物事をよい方向に向かわせたり、人を幸せにする感情では決してないことがわかります。


つまり、罪悪感って幻想なんです。物語なんです。そこに、罪悪感に見合うだけの罪も悪も存在しないのに、

私、この人に悪いことをしてる。
私、みんなに迷惑をかけている。


と自動的に思い込んでしまう、

脳内だけの事実です。



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ここからは、
罪悪感を減らしたいと感じる方に。

罪悪感を減らすためには、まずは、このやっかいな感情から逃げ回らないことです。

そして、感じないための行動(例えば誰かの機嫌をとるなど)をする前に、怒りの感情に変える前に、しっかりと感じることがスタートです。

罪悪感を察知したときに、それを充分に感じて、その感情に「罪悪感」としっかりラベルを貼る必要があります。

自分の中から罪悪感を取り出して、自分と罪悪感との間に距離を置く感覚です。罪悪感、その存在を日に当てることです。

罪悪感を感じる事は、決して気持ちのよいものではありませんが、自分が意識的にその感情を迎えにいくことで、「私は、罪悪感を恐れていない」と、自分自身にアピールできます。

それだけでも、罪悪感をある程度手放すことができます。罪悪感を解放してやると、楽になった分だけ、そもそもこの罪悪感は必要ないのでは、という小さな気づき、疑問、認知の変化をもたらすこともあります。

罪悪感を直視しなければ、こうした変化は、起こりようがありません。

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さらなるトレーニングは、行動→実感、この蓄積に尽きます。

詳しくは、また、次回♡