すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

川上未映子「きみは赤ちゃん」を読む。

2015-02-05 18:07:23 | 本・映画・音楽
『きみは赤ちゃん』川上未映子

芥川賞作家・川上未映子さんの出産・育児エッセイ「きみは赤ちゃん」を読みました。このお方、私の好きな池田晶子さんの名が冠せられた賞を最初に受賞した女流作家で、ずっと気になる人でした。

純文学系の作家ですが、小説は読んでないので、私にとっては、このエッセイ本が初・川上未映子本です。

この手の話は、赤ちゃんと縁遠くなった私にはすでに今さら感があったのだけれど、「新しい命の幸せ&感動物語」に収斂されない、むしろネガティヴてんこ盛りの「ほんとう」が書いてありそうな雰囲気にがぜん興味を惹かれたのです。

読んで、さすが人気作家の筆力を見せつけられました。やはり優先したいテーマの本でもなく、しばらくは他の本たちの山に埋もれていたのですが、ある時エイヤと読み始めてみると、もう、ホント、あれよあれよと一気読みです。

いやぁ、面白かった。圧倒された。面白すぎて、圧倒されすぎて、まず感じたのは、これ、出産前の女性が読んだらやばいかも。私だったら、恐れおののいてたかも。

だってそれくらいに、妊娠、出産、新生児育児の赤裸々が書いてあります。それもネガティヴ面が包み隠されることなく。事実も心の動きもあまりに生々しいです。

妊婦検診、出生前診断、つわり、マタニティーブルー、パートナーへの激しい感情、無痛分娩への風当たり、陣痛、帝王切開の痛み、産後クライシス、授乳、不眠、3歳児神話、成長曲線、仕事か育児かの選択と罪悪感等々。

うわあ、お腹いっぱい。
痛い、怖い、辛い、がいっぱい。

赤ちゃんに注がれる奇跡的な愛情の発露についてもふんだんに書かれてはいるけれど、でも、痛い、怖い、辛いの方が実感として想像しやすいって気がします。

川上未映子さんという作家個人の主観の筆致ではあるし、川上さんのような表現者特有の繊細すぎる感受性をフィルターにした内容だから、あらゆることが確かに過剰ではあります。でもそれを10倍に薄めたような実感しか体験していない人でも、「そうだった、そうだった。うんうん、そうだった」と涙混じりに頷かせてしまう迫力があります。

川上さんが悲鳴をあげた出産・新生児育児に関するネガティブポイントが10あるとして、私も少なくとも6か7くらいは共有している感じですが、残りの3とか4もまるで自分も体験したかのような錯覚に陥りました。

経産婦からすると、この本のおかげで、私って壮絶な体験をしたんだなー、すごい頑張ったんだなー、という感慨を持つことができました。ついつい育児日記を引っ張り出してきて、追体験しながら、「ここ!ほら、ここ読んでみて!」とダンナに読ませたい衝動にかられたりね。

でも、あんなに過酷な痛みや体力的、心理的消耗を味わっても、それが直接的に自分をドラスティックに成長させるわけでも変えるわけでもないんだなーというのが実は驚きです。

陣痛を経験したからといって特段痛みに平気になったわけでもないし、3時間授乳の日々をクリアできたからといって、体力的な苦痛に強くなったわけでもありません。

体だけでなくて、心も同じでしょうね。あの体験をして忍耐強くなったとも言えないし、それだけで人格者になれたわけでもないんですよね。

じゃあ、あの体験って何だろう。どんな意味があるんだろう。

あの壮絶体験と引き換えに、可愛いわが子を手に入れた、というのが一番座りのいい話なのでしょうが、それもねー、なんか私としてはしっくりこない。例えば、痛みの強さと可愛さは全く相関関係ないんですよね。

あんなに過酷でなくても、もっと言えば、自分から生まれたんじゃなくても、私、ちゃんと息子を可愛がれたと思うなー。養子とか代理母にお願いする、とかっていう意味ではなくて。命懸けで産んだから母と子の絆ができるってわけではないんですよね。

自分を忍耐強い人格者に変えるわけでもないし、わが子への愛情の引き換えという実感もない。

となると、あの体験はなんでしょうね。

あえて言えば、貴重な「思い出」にはなってくれました。強い痛覚と強い感情が通り過ぎた分、鮮明で強烈な「思い出」です。

それは、すでにわが子も介在できない「思い出」で、誰かに誇るものでも、自慢するものでもない、ましてや「あんな思いをして産んであげたのに」と子どもに恩を着せる材料にできるものでもない、ただの、でも、とてつもなく大きな「思い出」なんでしょうね。

久々に、あの「思い出」に再会させてくれた一冊でした。


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明日できることは今日するな~小田嶋隆を読む。

2015-01-18 18:59:32 | 本・映画・音楽
コラムニストという物書きのカテゴリーがありますが、私はあまり、このコラムニストという人たちの文章を真面目に読んだことがありませんでした。

随分前に、年上の友人から誘われてナンシー関さんの消しゴム版画展に出掛けたことがありますが、ナンシー関という名前は知っていても、ナンシーさんがコラムニストとしてどんな仕事をしている人かも知らなかった。

そもそもコラムニストってなんだっけ。ジャーナリストでなく、エッセイストでもなく、コラムニストって?!定義としては、雑誌や新聞に時事などを材料にコラム記事を書く人らしいけれど、イメージとしては、取材もなく現場も知らず、斜に構えて毒を吐いてる人?!

そんな胡散臭さを勝手にイメージして、コラムニストにアンテナを張ってなかったのかな、あたし。無知って怖い。食わず嫌いってもったいない。

少し前にNHKのBSで放送していたナンシー関のドラマ「ナンシー関のいた17年」の再放送を見て、ナンシー関ってすごく面白い人なんだーと衝動を受けました。コラムニストという肩書きの人たちも玉石混淆、こんなに素晴らしい仕事をしている人もいるんだーと、遅まきながら理解した次第です。


と、前書きが長くなりましたか、今回は伝説のコラムニスト、ナンシー関さんについて書きたいわけではありませんのであしからず。ナンシー関さん以上のインパクトでコラムニストのイメージを私の中で一変させた引きこもり系コラムニスト、小田嶋隆さんの話です。ひきこもり系という枕詞がまたなんとも怪しいのですが。

最初に出会ったのはツイッターです(最近の私のネタ元は非常にツイッターが多いです)。私がフォローしている内田樹さんが多分小田嶋さんのツイートをリツイートしたものがタイムラインにのっかってきたのがきっかけ。

どんな内容だったのかは覚えてないのですが、たぶん「おおっ、このツイートすごっ…」と思わせられるなにかがあったのでしょう。さっそくホローしました。

それから流れてくるツイート一つ一つの、その本質をとらえている眼差しの確かさといったらなくて、いちいち共感の唸り声をあげましたよ。ジョークやユーモアを織り混ぜながら軽妙なノリで核心をつく、みたいな感じも好きでねぇ。

「健康で文化的な最低限度の生活」には「愚かな使い道に金を消費する自由」が含まれている


などと、生活保護の現物支給の意見に異を唱える少々リスキーなツイートを繰り返すこともありましたが、私はなるほどーと膝を打ちました。

週一で連載コラムを載せている日経オンラインの「ピース・オブ・警句」では、安藤美姫さんの出産騒動に物申して安藤さんを擁護したり、生活保護不正受給の件で某お笑い芸人を徹底的に糾弾した国会議員にかみついたり、最近ではフランスのテロに端を発した風刺画の「ユーモア」の違和感について意見を展開したりして、毎回物議を醸しているようです。

小田嶋さんの書くものはネット上でよく炎上するそうなのですが、まあそうでしょうね。取り上げるネタが相当際どいですから。でも、きっとそれすらも楽しんでるんですよ、このお方は。

ガンバ大阪についてのツイートをしたところ、ガンバのサポーターからなのかよくわかりませんが、「ボケ」だの「バカ」だの「消えろ」だのずいぶんなことを言われるんですが、こんなのにも無視しないで返しちゃうんですよ。「バカってもしかしてわたしのことですか?」みたいなとぼけた感じで。

私が惹かれるのは、このおとぼけ感もそうなんですが、ゆらぎの賛美とでもいうかな。政治イデオロギーとしての右も左も言わない感じ、権力反権力でもない。人間の矛盾と葛藤をそのまんま不格好な姿として体現している文章で、そんな中にも「弱さ」の受容と肯定、「自由」だけは踏みにじられてたまるかという負けん気、この二つの芯は全然ぶれない。絶対譲らない。このなんというか、アルデンデみたいなところに魅力を感じてしまいます。

書いていることのほとんどが取材や研究によっているというよりも、自らの人生を土台にした生き方あり方感じ方によって表現されている印象で、それが間違いなく優しくて温かい。

といっても、「置かれた場所で咲きなさい」とか、「人間だもの」みたいなわかりやすい優しさや温かさではないですよ。毒も吐くし、笑いも幼稚性も漂わせているんですが、多勢に無勢の考え方には取り込まれないぞっていう気迫は伝わってきて、特に理不尽に叩かれる側への援護射撃は破壊的ですらあります。

ただ固定化された弱者を応援する感じでもなくて、社会的には強者と呼ばれる人だって、あまりにもひどい叩かれ方をしていたら、さりげなくホローにまわったりしてね。たとえば信条や生き方的は真逆?な大阪の橋下知事について、とある週刊誌が悪意のある記事を載せようとした時の顛末については「下品」と週刊誌の記事を断罪してますからね。こうしたゆらぎのバランス感覚も好きです。


でね、私が初めて手にとった小田嶋さんの書籍がこれなんですよ。


『場末の文体論』小田嶋隆


「場末の文体論」なんてタイトルで、あれっ、内田樹さん?って一瞬なるわけですが、違いまーす。タイトルつける時に参考にはしたみたいですけどね。 「ピース・オブ・警句」のコラムをまとめたものの書籍化第四弾。ご本人も解説してますが、この本に限っては時評の要素の強い記事は少なく、少年時代のあれこれを綴った懐古的な雰囲気をもつ記事を中心に集めたようです。だからかな、かなり読みやすいです。

頑張ることも、それを期待されることにも疲れていた中学時代、「怠ける」ことにひたすら憧れた小田嶋少年が好んで読んだのは北杜夫の「どくとるマンボーシリーズ」と狐狸庵先生こと遠藤周作の本。そして小田嶋少年が求めてやまない怠惰イズムを後押しした言葉が、これですって。

「明日できることは今日するな」


遠藤周作の著書の中で紹介されたトルコの有名なことわざだとか。

ほー!と感心しつつも、おーい!中学生が、こんな言葉にトキメいてどうする!ってつっこみたくもなりますが、すでに中学生にして人生の本質を見抜いてしまうほどに老成してたのかな。お勉強はできたみたいですから、頑張る経験も努力もしたでしょうし、ただの怠け者ではなかったはずなんですよね。

さらに言えば、自分の弱さに素直で、自由を希求する心の感度はきわめて強かった小田嶋少年。その気性というか生き方を持ったまま大人になりコラムニストになったということなんですかね。頑張らない、頑張れない人を追い詰めないのも、マジョリティとは違う行動にでる人を庇うのも、それらを恐らくはご自分にも認めているからなんでしょう。だから、こんな感じの文章になるんだろうなー、というのがわかります。

まあ、そんな私の感想はこの際どうでもいんですが、この本かなり面白いです。昭和の名残とメンタリティをあらゆる生活シーンでひきづってる方々、少年少女時代のノスタルジーに浸りたい方々、必読です。笑いあり、涙ありの一冊。ついでに自分の10代に読んだ本とか音楽とか趣味とか、振り返って辿りたくなること請け合いです。

小田嶋さんと同世代ではなくても、少年少女を過ごしたのが「ザ・昭和」の人には、相当シンクロてきる代物ではないでしょうか。多分アラフォーより下の世代には、よくわからかない世界かなって気もします。

ちなみに、私が読んでいた小田嶋本を最初はなんとなくチラ見していた夫も、案の定はまり中です。夫のお気に入りはコレ↓で、読みながら、ずっとクスクス、ニヤニヤ、時に声をあげて笑っておりましたよ。こちらもオススメです。

『人生2割がちょうどいい』岡康道・小田嶋隆














自分を愛する心。~吉野弘詩集から2~

2014-12-22 15:33:36 | 本・映画・音楽
吉野弘さんの詩で、もう少し。

『吉野弘詩集』を手に取って思い出したのが、精神保健福祉士をしていた頃に参加した精神科クリニック主催のクリスマス会。

メンバーさん(当事者の方)のお母さんが、吉野弘さんの「奈々子に」をくぐもった声で朗読していた。

お父さんは お前に
多くを期待しないだろう。
ひとが
ほかからの期待に応えようとして
どんなに
自分を駄目にしてしまうか
お父さんは
はっきり知ってしまったから。


果てしなく、いい詩だと思った。そして、現代的な詩だとも。

吉野弘さんが現役で父親をしていた昭和の時代に、子どもに「期待しない」と鮮明に宣言する父親がいたことに驚いた。

その時代は、子どもに「期待」をかけることがむしろ肯定的に見られるものなのだと思っていたけれど、そうでもなかったのかな。

「ほかからの期待」で苦い思いをした吉野さんが、子どもにかかる親の期待がいかに残酷なことかについて、とりわけ自覚的な人だったということは間違いない。


詩人・吉野弘と、朗読しているお母さんも重なった。

子どもの病気の前後に、このお母さんにも嵐のような日々があったはずである。

「奈々子に」の詩の中に、このお母さんもまた、親としての本当にあるべき自分の姿を見たのかもしれない。


そして、吉野さんは、奈々子にあげたいものとして、こう結ぶ。

かちとるにむずかしく
はぐくむにむずかしい
自分を愛する心だ。


つくづく、こんな親でありたい。

そのためにはまず、私が知っていなければならない。

自分を愛するとはどういうことなのかを。

これもまた、果てしなく難しい。




正しいことを言うときは。~吉野弘詩集から1~

2014-12-20 07:27:47 | 本・映画・音楽
吉野弘さんの詩が読みたくなって自分の本棚を物色していたら、となりの夫の本棚に、『吉野弘詩集』 を発見。

いつ、買ったものだろう。うちのダンナ、こんなの読むんだ、と少し新鮮な驚き。




私のような世代が初めて吉野さんの詩に出会うのは、中学校の国語の教科書かな。

あの「夕焼け」の詩の世界に触れた時に感じた、「わー、これってなんだ…」というのが忘れられない。こんな情景、場面を、こんなに直截に汲み取って言葉にする詩人がいるのか、という衝撃。

「最後に席を替わらなかったときの娘の気持ちを説明せよ」

なんて、先生からしつこく質問された授業の様子さえ、ぼんやりと覚えている。



と、懐かしい感傷に浸りながら、ページを手繰り、お目当ての詩を探す。

あったあった。

披露宴の定番、と言ったら誰もがピンとくるかな。私もこれまで出席した披露宴で少なくとも2回くらいは聞いたことのあるこの詩。

せっかくのいい詩もお酒で顔を赤くしたおじさま達のスピーチに使われると、なんだか一気に低俗な空気を帯びた感じがして、「ヤメテー」と言いなくなったものだけど。

その中に、改めて知りたい一節があった。

「祝婚歌」



正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい




そう、これだ、これ。


これ読んで確認したかったのだ。

自分が「正しい」と思っていることを、誰かに伝えるときに躊躇する気持ちについて。

例えば、意見や考えの違う人のたちに囲まれて、ちっとも同意できない話で盛り上がっていても、私はいちいち、「それは違うんじゃない?」とか、「私はこう思うんだけどね」とは言わない。

自分が同意していないことを表明する意味で、うなづかない、くらいはするだろうけど。話に加わらないとかも。

保身の気持ちももちろん否定しないけれど、私の「正しさ」に傷つく人がいることがわかるから。そして、その傷は、「正しさ」を受け取ることを拒み、時に猛烈に反撃へと舵を切ることも知っているから。

例えば、誰かをかばうような、何かをたしなめるような「正しい」発言は、特に、そうした人たちのエゴにぶつかり、コンプレックスや罪悪感を刺激する。

「うちは、こんな被害にあったけどね」「それは理想論だよ」

なんて、鼻をピクピクされちゃうかな。そういうのが、もうひたすら面倒だと感じるようになってきた。

反論、反撃は、正直言って受けたくない。敵も、あえて作りたくない。

そういう場面になると、実は観月ありささんが演じたママ友ドラマの「斉藤さん」を思い出す。斉藤さんなら「それは間違ってる!」とスカっとやるんだろうなーなんて。ホントは、ちゃんと言うべきなのかなーと。

でも、斉藤さん的生き方はやっぱり敵を作る。争いを生む。「間違ってる」と言われて傷つかない人は少ないだろうから。

「正しい」ことは、乱暴に、強くぶつけるやり方では、きっとうまくいかないってことだ。相手の心の入り口に張り巡らされたエゴを反応させるだけで、相手の心には、魂には上手く届かない。

だから、きっと、

正しいことを言うときは
少し控えめにするほうがいい


になるんだ。

争いが苦手で、弱虫。そんな私のような人間にも、吉野弘さんの詩のこの一節は優しい。

斉藤さんにならなくていいんだよ、って聞こえる。


最近は、控えめに、傷つけないように伝えることにすら、実はもうあまりエネルギーを使いたくない。

あえて口にすることもない。ただ黙々と、自分が正しい、善いと思うことを実践したらいいんだと。そう、思うようにしている。








絵本「おこだでませんように」を買う。

2014-11-23 08:44:21 | 本・映画・音楽

息子が読んでいるのは、こちら↓

「おこだでませんように」

作者はくすのきしげのりさん。教員時代の実体験を基に書かれた絵本です。

おこられてばかりいる一年生の男の子が、七夕の短冊に、ある願い事をするというお話。おこっている側の、お母ちゃんと先生、その願い事を見て、大切なことに気づきます。

以前、息子のために図書館で借りて、びっくりするくらい心に沁みた本です。絵本でこんなに泣いてしまったの、初めて。Amazonのプレビュー読んでも、これまた泣けるコメントがいろいろ。必ずしも親や先生の視点でもなかったりして、またそれがいい感じです。

大人のための絵本という括りの本ではないのですが、大人の立場で読むと、果てしなく深い本になるんですよね。

子供の抗議には、抗議という形をとらない神聖さが宿っています。他罰的ではない、という神聖さ。

大人に直接向けられたのではないからこそ、本当の事が大人のエゴに引っかからずにダイレクトに伝わる時があります。その純粋なメッセージをきちんと受け取るためには、大人もまた無垢さを持ち合わせている必要があるんですよね。

手元に置いておきたくて、いつか買おうと思っていました。

昨日たまたま立ち寄った小さな本屋さんで、「あったら買おう」となんとなく決めたら、ちゃんとありました。なんだか、私のこと待っててくれてたみたいな感じで嬉かったりして。

息子は、図書館で借りたときは、それほどではなかったのに、昨日は別人。

本棚に、真新しいこの本を見つけると、突然音読を始めました。4歳児が音読するには、長さも言葉遣いも、それなりに高いハードルのものですが、なんとか最後まで読み通しました。

すすめられてもやらない音読ですが、自分てやると決めたら、頑張れるものなんですね。子供にとっても、それほど魅力のある絵本ということかもしれません。

お母ちゃんと先生の涙の意味は説明できない息子でしたが、男の子の気持ちには共感したようでした。

「おこられてばっかりで、かなしそう」

かわいそう、ではなくて、かなしそう、なんだそうです。

息子なりの、解釈というか、感じ方なんですね。深く意味を求めるのはやめておきますね。




ユマニチュード入門

2014-11-17 20:32:14 | 本・映画・音楽
『ユマニチュード入門』


久しぶりに社会福祉従事者として、心ゆさぶられる良書に出会いました。

専門書を読んで泣いたのっていつ以来かな。読み進めながら胸が熱くなりました。

簡単にいえば、見つめる、話しかける、触れる、立つ。この4つを基本にした認知症ケアの新しい技法を紹介した本です。

この4点にとことんこだわる技法は、ともすれば患者のための、患者の立場に立ったスペシャルケアとも定義づけられそうですが、ユマニチュードは決して患者のためだけに編み出された一方通行のケアではありません。

ケアする側とされる側「人と人との関係性」「絆」に着目したケアは、ケアする側にとってもスペシャルケアなのです。

なぜか。

清拭や入浴の場面で、嫌がる患者さんを無理やり誘導して職務を遂行するとき、「仕事だから。患者さんのためだから」といくら自分に言い聞かせても、ケアする側には真の満足はなく、そこはなかとない罪悪感が残ります。

しかし、ユマニチュードは、ケアする側のこうした罪悪感を排除するものでもあります。患者さんへの強制と義務を排除して患者さんの嫌がることをしない、患者さんの喜ぶ関わりをする。それが患者さんに快をもたらし、患者さんの快に共感することでケアする側にも快をもたらします。

私がしてほしいことをあなたにしてあげて、私がしてほしくないことはあなたにもしない。

あなたが嬉しいと私も嬉しい。


本当は当たり前のこと。でも、そんな当たり前の実践が難しくなっている介護の現場に、当たり前を持ち込んだ。ユマニチュードは、それが革命的なのです。


もう一つ感心するのは、患者さんを「立たせる」ことへのこだわりです。日本の多くの病院や介護施設では、患者さんを積極的に立たせたり歩かせたりはしません。職員の数が足りない状況で、転倒の心配があるからです。

このユマニチュードを編み出したフランス人のイヴ・ジネスト氏はいいます。

「転倒のリスクはあります。医療訴訟の不安はあります。しかし、ケアの専門家として、ケアを受ける人が得るものと失うものを本当にきちんと天秤にかけて考えているでしょうか…」

「よりよい健康状態を保つためには、転倒もそのなかで起こりうることのひとつである」

それを社会に訴えるべきだと。

理想論とは、思えません。

自分だったら、自分の親だったら、どちらを望むか。リスクのない無難を取るか、リスクのある快を取るか。

私なら後者です。私にとって生きているとはそういうことだからです。

それが私の答えだし、私のように考える人は多いはずです。

フランスや北欧は、リスクを負うことや失敗に対する徹底した寛容さがある国なんでしょうね。だから、こんな思想が認知症の介護ケアにも生まれるのでしょう。

ユマニチュードはケアする側もケアされる側も誰も犠牲者にしない、人間としての尊厳を持って最後まで遇し遇されることに妥協しないという強い意思による哲学が流れている気がします。

哲学が貫かれた技法は、決して魔法ではなく、時間をかけてケースを読み解き洗練されたものですから、本来はどこでも実践可能です。

あとは、勇気。

病院や施設のトップ、そして援助職一人ひとりにリスクを引き受ける勇気さえあれば、ユマニチュードは実践できます。

私は、身体介助をする援助職ではありませんが、ユマニチュードの哲学は私の現場でも適用可能。

きっと、教育場面でも活かせるはずですよ。



昨晩のカレー、明日のパン。

2014-10-31 16:58:21 | 本・映画・音楽
NHKのBSでこの秋から始まったドラマ、「昨晩のカレー、明日のパン」。

木皿泉さんの小説を原作に、木皿さんが脚本も手がけたこの作品。

原作は、今年読んだ、というか、ここ数年読んだ小説の中で、私の中で間違いなくナンバーワンなので、ドラマ化されるニュースを見て、それはもう楽しみったらありませんでした。

ただ、配役が発表されて、テンションが一気に下降。主人公のテツコさんが仲里依紗さんで、ギフが鹿賀丈史さん。

なんかキャラ、濃くない?

テツコさんはもっとしっとりしたイメージだし、ギフもなんというかもっと落ち着いた感じだったような。

日曜夜は、ゆっくりテレビを見れる時間帯ではないのでとりあえず録画。配役の違和感を引きずって「見ないかもな~」なんて思いながら。


それが、おととい、体調不良で寝込みながら、何か刺激の少ない番組が見たくなって見始めたのが、このドラマ。

ああ、体調不良になってよかった
ああ、消さなくて良かった


と思わず呻きたくなるくらい、素晴らしいドラマでした。最初から最後までずっと泣いてる私は、ちょっとウザいかしらね。

のっけのテツコさんとギフの朝食の風景から、泣ける。ユーモアたっぷりの描写なんですが、なぜだか泣ける。ついでに、エンディングはプリプリの「M」。明るい音調なのに失恋ソングというギャップ感が、このドラマとマッチして、これまた泣ける。

悲しいとか、感動!とか、嬉しい、とか、そんな理由以外て泣ける作品があることを知ったのは、やっぱり木皿さんの「すいか」だったかもしれないな。

私は、こういう世界の何に反応するんだろう。

この涙は、オトナだけに許されたご褒美って気がする。それなりに頑張って、それなりに悲しみも苦しみも味わって、大きな別れも経験して。そうやって、「よく頑張ったね」と大きな存在に頭を撫でてもらってる感じの涙。

ちなみに、テツコさんな仲さんも、ギフの鹿賀さんも、こんな素敵な配役があるのかっていうくらいの馴染み方。どの口が言うか~って感じですが、でも事実です。

配役聞いてテンション下がっていた自分に言ってやりたい!

「食わず嫌いは、損するよ!」

って。

個人的には、心はそれなりに元気だけど体調悪い人にオススメのドラマです。

それ、あたしか(^_^;)




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武田双雲さんに会いに行きました。

2014-10-06 13:00:58 | 本・映画・音楽
横浜高島屋で個展開催中の武田双雲さん。

昨日は、生双雲さんに会えるということで、台風の大雨のなか、トークショー&パフォーマンスに夫と息子と3人で行ってました!

あらかじめ、高島屋に電話してトークショーの時間を確認。パフォーマンスを先にやるとのことなので、息子にも見せてあげたい!とワクワク気分でタクシーに乗りこみました。

高島屋の1階ギャラリーでやる予定が、台風のため、7階画廊に場所が変更。

画廊に到着して、すごい人だかりに呆然。いざ双雲さんが登場しても、姿はほとんど見えず。夫が息子を肩車しますが、クラクラするような熱気で息子は段々機嫌が下降。

パフォーマンスは、なかなか始まらない。トークは面白いけど、私としては「お願い、パフォーマンス早くしてー」の心境。結局、息子脱落で「あーあ」の途中退場でした。

その道の本物の人と、書の醍醐味を見せてあげたかったんだけど、残念です。

私、ひとりになってからは、ゆっくりトークもパフォーマンスも楽しめました。「躁気味だから、雨でちょうどいいんですよ」という双雲さん、オヤジギャグを織り交ぜながら、どちらかというと書の話より「生き方」講座っぽかったかな。

「ポジティブの教科書」など自己啓発本のベストセラー作家でもある方ですが、やっぱり書家として一流の方なんですね。

私も書家以外の顔から双雲さんに魅了されたくちで、双雲さんの書は初めて拝見しました。

パフォーマンスを見ても、展示されている作品を見てもなるほど凄まじい才能です。素人が見ても圧倒されました。

トークショーが終わると、握手希望のお客さんたちの長蛇の列。一人ひとりまるで知り合いみたいに気さくに話しかけている様が素敵でした。

ヘタレな私は、物怖じしてそのまま退散です(^_^;)



一方息子なんですが、「なんのために横浜まで‥‥」になるところでしたが、ちゃんとおまけを用意しました。


カップヌードルミュージアムです。台風にもかかわらず大盛況でした!

オリジナルカップヌードルを作ったり、アスレチックを楽しんだり、帰りはびしょ濡れになりましたが、でも、なかなかの1日になりました(*^^*)


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浜田真理子さんの誕生日。

2014-09-30 21:11:45 | 本・映画・音楽
今日は、素敵な日だ。

ツイッターで歌手の浜田真理子さんに誕生日のお祝いメッセージを送ったら、返事が来た。

感激で涙が出てしまった。

7、8年前に初めて聞いた「あなたへ」。寺島しのぶさん主演の映画「ヴァイブレーター」のエンディングソングだった。

衝撃だった。
浜田真理子さんの歌声、歌詞は、今まで聞いたどの音楽とも違ったから。

安っぽい言い方をすれば、魂にいきなり飛び込んできた歌声だった。

映画の雰囲気によくあっていたし、当時の私の、あまり幸せではない、少し破れかぶれな心情に馴染んでいたのだろう。

何枚かのアルバムを買って、「あなたへ」以外の曲にも惹かれて、その後二度ばかり名古屋と横浜のライブにも出かけた。

気さくであっけらかんと笑う人だった。軽快なMCと歌の雰囲気とのギャップもたまらなかった。

好きな歌ばかり歌ってもらって、あまりの感動で泣き通しだった。終演の頃には、心がツルんとなっていた。薄皮が剥けたみたいに。
これがカタルシスというものなんだな、としみじみ思った。

あれから結婚して、子どもを産んで、浜田真理子さんの曲をあまり聞かなくなった。浜田真理子さんだけでなく他の人の曲も聞かなくなっていた。
自分ために、じっくり音楽を聞く時間を持たなくなったってことだ。

最近、ツイッターで浜田真理子さんをフォローしてから、やっぱり、素敵な人だなぁと再確認した。

ドロドロだったり、こわーい歌詞も書く人なのに、ツイートの言葉は、MCの時と同じ、気さくであっけらかんとした感じ。毎日、元気をもらう。

今日、いただいたメッセージが嬉しくて、久しぶりに「あなたへ」を聞いた。古傷に触られるような感じがするかと思ったら、そうでもなかった。

何年経っても、いい歌で、やっぱり魂にダイレクトに響いてくる歌声だった。


また、ライブに行こう。
そう、誓う夜でした。

「生き抜くための整体」片山洋次郎を読む

2014-09-25 09:33:44 | 本・映画・音楽
『生き抜くための整体』片山洋次郎


「カラダとココロのゆるめ方」というサブタイトルに惹かれて、ついつい手に取りました。

河出書房に、「14歳の世渡り術シリーズ」というのがあるんですね。

池田晶子さんの、「14歳からの哲学」の向こうを張るものなのかしら。

なかなか面白そうな、ラインアップです。

気功を始めたので、東洋系のボディワークに興味があります。整体もやってみたいな、と思いつつ、本を読んでみるんですが、本通りに実践するのは至難の技。

本気でやりたかったら、やっぱり道場とか教室なんかに参加したほうがいいですね。まだ、本気でやりたいわけでもないみたいです。

片山洋次郎氏は、整体の世界で有名な方のようで、私はよしもとばななさんの本で知りました。

野口整体をベースに独自の整体法を広めています。「身がまま」というのが、片山氏のスタイルです。

この方の本、三冊目なんですけど、整体の実践は全然やれてません。私にとっては、まだ読みものカテなんですね。

特に強烈に印象に残った言葉とかは、ないんですが、文章全体に流れている氣みたいなものが、心地いいんです。

緊張と弛緩の波が穏やかで、熱すぎず冷めすぎず、近すぎず遠すぎず、去る者追わず、来るもの拒まず。でも真ん中にある芯はブレない、ほんのりあったかい。

ボディワークの素晴らしい人たちの書く文章って私の印象だと、こういうのが似てるんです。

特に、ではないものの、いいなあと気になった言葉を拾いあげてみました。



「今・目の前」が見えると、周りの世界は一転生き生きとする

行き詰まり=息詰まりを切り替えることは、固まった体をゆるめることにつながる

何かに直面するたびに一息つくこと、待つことは大切な要素

迷う(焦る)→ 判断する → 決断するというサイクルを、日々静かに回していくこと



全米オープンの決勝の後、錦織選手が敗因について、

優勝のプレッシャーで「ここまで硬くなったのは初めて」

と話していました。

緩んではじめて力が発揮できる、というのはスポーツ界でも常識なのですね。


最近、「ゆるむ」が気になっているのでどうも、意識がそのあたりにフォーカスされるようです(^_^;)