すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

スモールステップという生き方。

2015-02-09 14:00:49 | 心理メソッド・生き方

受験に合わせて中3の甥っ子にこんなお菓子の詰め合わせを送ったら、昨日私立高校二校の合格通知の画像がLINEで送られてきた。

滑り止めといえ、彼の住んでいる地域ではトップクラスの高校だ。

本命は三月の公立高校だけれど、とりあえずは、本人はもちろん姉家族全員ほっとしたみたいだ。

あの子がね~、と叔母としても感慨深い。

この甥っ子君、3月後半が誕生日の超早生まれ。優しい性格の上に、小さい頃から、なにもかもが遅かった。発語、母子分離、鉄棒、縄跳び、そしてかけっこ。

小学校低学年の頃は、友だちと鬼ごっこをやって一度鬼をやるとそのままずっと鬼から抜けられず、泣いて帰ってくることも一度ではなかったとか。

いじめられっ子体質で運動音痴に生まれた男子の悲惨さを母親である姉はいつも雄弁に、面白おかしく語っていたものだったけれど、多分、死ぬほど悩んでいたはず。

そんな、負け癖のついていた甥っ子に転機がやってきたのは小学校高学年。彼は体育の授業で持久走と出会った。

ひ弱な長男に何とか自信をつけてもらいたいと考えていた姉は、職場の先輩ママから言われた言葉を、藁をも掴む思いで聞いていた。

その言葉とは。

「短距離がダメでも、長距離なら努力で強くなれるよ。男の子は、小さな目標を立ててそれを少しずつ達成して伸びる子が結構いるんだよね。スモールステップよ。焦らず頑張って」


スモールステップ。姉は、長男に、このスモールステップの生き方を授け、持久走で実践させようとした。

持久走ももちろん最初は300人中280番代という惨憺たる順位だった。けれど、姉のアドバイスを素直に聞いた甥っ子は、雨の日も寒い日も毎日欠かさず、家の周りを何周も走るようになった。その効果は、少しずつ少しずつ現れた。順位が、じわじわと上がったのだ。

やがて甥っ子の中に、「努力×小さな目標=達成」という公式が出来上がる。

小学校を卒業する頃には持久走でトップ5の常連組になり、相変わらず優しい子ではあるものの、売られたケンカは買ってでるたくましさも身につけていた。

小学生の時に自分の生き方の公式を見つけた彼の、中学3年間は輝かしいものだった。陸上部のキャプテンを務め、自ら地域の陸上大会や駅伝大会など大きな舞台で何度も表彰台に上った。

勉強面も持ち前の努力体質でメキメキと実力をつけて成績をあげ、特にスランプに陥ることもなく、校内、塾内のトップグループの一角としてこの春受験を迎えることになった。

この甥っ子のすごいなぁと思うのは、自分の弱点と持ち味をきちんとわかっているということ。

瞬発力やスピードには自信がないから、そこには最初から目標を置かない。そのかわり、小さな目標を立ててそこに向かって一歩一歩努力する。彼にとっては確実に結果を出す方法がこれなのだ。

負け組出身の底力、ここにあり、だね。彼には多くのことを教わったなぁ。その一つが、負けから学べることはいっぱいあるってこと。

この、かわいい甥っ子に合格のお祝いを買ってあげるのが、叔母さんの今のささやかな楽しみなのだ。


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「お母さんは幸せ」と言える人生を。

2015-02-08 16:20:37 | 心理メソッド・生き方


冬になると、こんなリンゴが箱入りで2回ほど届く。今年の1回目は年末だった。ふじ、王林、紅玉など、目にも楽しい色とりどりのブランドリンゴの詰め合わせだった。

そして、2回目は先週。シンプルな信州リンゴ。3人家族の我が家には少々多いけれど、ゆっくり時間をかけて消費するつもり。

この送り主は、この人。夫の母、私の義母だ。

妊娠中に義母がリンゴを送り届けてくれて、苦しんでいたつわり期間だったから、その瑞々しい味わいに救われた。と、そんなことをいつだったか義母に話したら、それから毎年リンゴが送られてくるようになった。

この義母という人は、はたから見て、不幸が似合わない人だなと思う。この先の人生も、悪いことが起きるようにはとても思えない何かを、この義母は持っている。初めて会った日に抱いたその直感は、今も変わらない。


先週参加した、心屋仁之助さんの講演会で、「僕の話を聞きにきてくれる人に、今からする質問をすると9割の人が手を上げる」という話があったのだけど、実際に心屋さんが質問すると、まるで魔法にかかったみたいに9割の人の手がワーっと上がった。私もその一人だった。

小さい時に、お母さんが幸せそうには見えなかった人。

質問の設定があまりに心屋流だわと苦笑しつつ、圧倒的な結果にグウの音も出なかった。心屋さんのところに集まる人の共通点は、優しい人、そして何らかの生きずらさを抱える人、というのは想像に難くない。

でも、その大元が「お母さんが幸せに見えない」にあったりするなんてね。

幼少期に1番身近にいた人が、「幸せに見えなかった」というのは、確かに、その人生に物悲しさを伴う決定的な何かを与えるのかもしれない。

それが、「お母さんは、私が絶対に幸せにしなくては。自分の人生を脇に置いてでも」だったり、「この世界は私を幸せにするものではないんだ。だってお母さんが、そうだったから」だったり、「私は、一番身近で大好きなお母さんを幸せにできなかったんだ」だったり。生きずらさを生む、いじらしいスキーマだ。

昨日、「子どもの時、お母さんって、幸せそうに見えなかったことあった?」って夫に聞いたら、「ん?全然」と即答で返ってきた。「おやじとの結婚も含め、あの人は恵まれた人生だよ」。想定内すぎる回答。

質問の意図もわからないほどに、うちの夫は、生きずらさには無縁な人だ。繊細な部分もある優しい人ではあるけれど、気持ちの浮き沈みが穏やかで、「生きてるだけで丸儲け」が座右の銘。自分の母親に対する感情にも、余計な感傷がほとんどにじまないのだ。

あの母だから、この息子。うーん、納得。

義母ほどの幸せオーラをまとうのは難しいとは思うけれど、息子にも、どうか、「お母さんは幸せ」って思わせてあげたい。そこを基準にして生きていってほしい。

となると、私、責任重大だ。



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父と子(辻仁成イクメンツイッター)。

2015-02-07 16:56:15 | 世の中のこと
ツイッターで、最近この方の育児ツイートがタイムラインに上がってくるのが楽しみだ。


↑ある日の父と子の会話。


↑昨日はこんな感傷的なつぶやき。

辻さん特有の自意識の強い表現に最初はこそばゆい感じがしたけれど、読み慣れてくると、悪くない。

別れた奥さんには、こうしたツイッターはボディブローに違いなく、もしかして元奥さんへのあてつけ?なんて、最初の頃は少なからず穿って見ていた。でも、まあそれがゼロではないにしても、辻さんは、いいお父さんとお母さんの一人二役をかなり一生懸命に、頑張ってこなしている。間違いなく。

びっくりするくらい手の込んだ料理をつくり、子ども部屋を掃除して、学校の送迎や保護者会にも参加、誕生日会の準備まで万全に整え、やや過剰ともとれる手の掛け方で、息子さんを大切に育てている。

ツイートに登場するのは、そんな完璧イクメンの辻さんの姿だ。

こうした父と子の幸福な生活風景を垣間見ると、母性って、なんだろうな、って思ってしまった。みんなが当たり前に使う母性って言葉。女の人一般、あるいは母親固有の性質とも考えられているけれど、これ、男の人の中にも育まれるものなんだね。もっと言えば、男性の中にもこの母性の素質を強く持っている男性というのがいるのだろう、きっと。

辻さんがそうかもしれないし、うちのダンナも、まさにそのタイプ。歯磨き、着替え、寝かしつけなど息子を甲斐甲斐しく世話したり、一緒に遊ぶ時の様子を見ていると、私なんかよりずっと母性にあふれた印象がある。「自分より常に息子優先」の姿勢も、私にはとても真似できない。

ある時、ママ友さんたちとの会話で、「万一離婚したら、子どもは絶対私を選ぶ」と断言するママがいたけれど、私自身はとても断言できないなーと思った。

むしろ、ものすごく怪しい。息子、私を選ぶかなー。息子の選択以前に、息子は夫と二人でも辻さん父子みたいに幸せに生活できる気がするし、私といた方が絶対幸せなんて材料だって見当たらない。経済力も含めて、もしや、私の出る幕なんぞないのでは、なんて気にもなる。

辻さんの別れた奥さんは、子どもを捨てて恋人を選んだ、母より女をとった、子どもには母親が必要なのに可愛いそう、と相当バッシングされたけれど、これもあまりに短絡的かもしれない。

夫への嫌悪はどうすることはできないものでも、最愛の息子を託してもいいくらいに、夫の息子への愛情には信頼を置いてたのだと思うのだけどな。

まあ、有名人お二人の実際のところはわからないけれど、私のように、夫との母性対決で白旗を上げる母親もいるわけだから、「父親より母親」的な考え方も、こと子どもの問題で母親ばかりが責められる空気にも、どうも違和感を強くしてしまう。

ちなみに、私は、近所のママ友さんの自信の発言を讃えつつも、実はどこかで自分の立ち位置も誇らしく思っていたりする。

「私がいないと息子は絶対に不幸」とか「息子は私が育てるのが一番いい」という風に考えるのは、母親の自尊心を満たす甘いものではあるけれど、「自分がいなくても息子は幸せに育つ」という私の中の信頼感や安心感って、実は私にも息子にも幸せなことだよなーと。

でも、つきつめると、エライのは私ではなく、キャパの大きい夫ってことになってしまうのね。

とりあえずは、息子と離れ離れになりたくないし、離婚するようなことにならないようにしよう。



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川上未映子「きみは赤ちゃん」を読む。

2015-02-05 18:07:23 | 本・映画・音楽
『きみは赤ちゃん』川上未映子

芥川賞作家・川上未映子さんの出産・育児エッセイ「きみは赤ちゃん」を読みました。このお方、私の好きな池田晶子さんの名が冠せられた賞を最初に受賞した女流作家で、ずっと気になる人でした。

純文学系の作家ですが、小説は読んでないので、私にとっては、このエッセイ本が初・川上未映子本です。

この手の話は、赤ちゃんと縁遠くなった私にはすでに今さら感があったのだけれど、「新しい命の幸せ&感動物語」に収斂されない、むしろネガティヴてんこ盛りの「ほんとう」が書いてありそうな雰囲気にがぜん興味を惹かれたのです。

読んで、さすが人気作家の筆力を見せつけられました。やはり優先したいテーマの本でもなく、しばらくは他の本たちの山に埋もれていたのですが、ある時エイヤと読み始めてみると、もう、ホント、あれよあれよと一気読みです。

いやぁ、面白かった。圧倒された。面白すぎて、圧倒されすぎて、まず感じたのは、これ、出産前の女性が読んだらやばいかも。私だったら、恐れおののいてたかも。

だってそれくらいに、妊娠、出産、新生児育児の赤裸々が書いてあります。それもネガティヴ面が包み隠されることなく。事実も心の動きもあまりに生々しいです。

妊婦検診、出生前診断、つわり、マタニティーブルー、パートナーへの激しい感情、無痛分娩への風当たり、陣痛、帝王切開の痛み、産後クライシス、授乳、不眠、3歳児神話、成長曲線、仕事か育児かの選択と罪悪感等々。

うわあ、お腹いっぱい。
痛い、怖い、辛い、がいっぱい。

赤ちゃんに注がれる奇跡的な愛情の発露についてもふんだんに書かれてはいるけれど、でも、痛い、怖い、辛いの方が実感として想像しやすいって気がします。

川上未映子さんという作家個人の主観の筆致ではあるし、川上さんのような表現者特有の繊細すぎる感受性をフィルターにした内容だから、あらゆることが確かに過剰ではあります。でもそれを10倍に薄めたような実感しか体験していない人でも、「そうだった、そうだった。うんうん、そうだった」と涙混じりに頷かせてしまう迫力があります。

川上さんが悲鳴をあげた出産・新生児育児に関するネガティブポイントが10あるとして、私も少なくとも6か7くらいは共有している感じですが、残りの3とか4もまるで自分も体験したかのような錯覚に陥りました。

経産婦からすると、この本のおかげで、私って壮絶な体験をしたんだなー、すごい頑張ったんだなー、という感慨を持つことができました。ついつい育児日記を引っ張り出してきて、追体験しながら、「ここ!ほら、ここ読んでみて!」とダンナに読ませたい衝動にかられたりね。

でも、あんなに過酷な痛みや体力的、心理的消耗を味わっても、それが直接的に自分をドラスティックに成長させるわけでも変えるわけでもないんだなーというのが実は驚きです。

陣痛を経験したからといって特段痛みに平気になったわけでもないし、3時間授乳の日々をクリアできたからといって、体力的な苦痛に強くなったわけでもありません。

体だけでなくて、心も同じでしょうね。あの体験をして忍耐強くなったとも言えないし、それだけで人格者になれたわけでもないんですよね。

じゃあ、あの体験って何だろう。どんな意味があるんだろう。

あの壮絶体験と引き換えに、可愛いわが子を手に入れた、というのが一番座りのいい話なのでしょうが、それもねー、なんか私としてはしっくりこない。例えば、痛みの強さと可愛さは全く相関関係ないんですよね。

あんなに過酷でなくても、もっと言えば、自分から生まれたんじゃなくても、私、ちゃんと息子を可愛がれたと思うなー。養子とか代理母にお願いする、とかっていう意味ではなくて。命懸けで産んだから母と子の絆ができるってわけではないんですよね。

自分を忍耐強い人格者に変えるわけでもないし、わが子への愛情の引き換えという実感もない。

となると、あの体験はなんでしょうね。

あえて言えば、貴重な「思い出」にはなってくれました。強い痛覚と強い感情が通り過ぎた分、鮮明で強烈な「思い出」です。

それは、すでにわが子も介在できない「思い出」で、誰かに誇るものでも、自慢するものでもない、ましてや「あんな思いをして産んであげたのに」と子どもに恩を着せる材料にできるものでもない、ただの、でも、とてつもなく大きな「思い出」なんでしょうね。

久々に、あの「思い出」に再会させてくれた一冊でした。


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お花畑でいい。~後藤健二さんの死に思う

2015-02-03 13:05:05 | 世の中のこと
イスラム国の人質となったフリージャーナリストの後藤健二さんが亡くなった。

一昨日の朝、「殺されちゃったよ」という夫の神妙な声に起こされた私は、飛び起きてすぐさまテレビとタブレットにかじりついた。

悲しい。その最期を思うと、胸が張り裂けそうになる。助かる予感がしていたのに。帰国後の彼のメディアでの活躍ぶりすら、目に浮かぶようだったのに。

この二週間あまり、テレビやネットでは、オレンジ色の囚人服に身を包んだ後藤さんの姿がこれでもかというくらい流され続けた。

何度も目を背けたくなりつつ、どこかで逃げてはいけない気がした。目をそらしてはいけない気がした。

残酷な映像を見続けて、苦しく辛くなることで、計り知れない苦痛を味わう後藤さんたちの苦しさをほんの少しでも味わっている心境になりたかった。無意味とわかっていても。


この間、事件に対するさまざま意見に触れて、私の心は揺れ続けた。

「テロに屈しない」とばかり言う政府にはげんなりしたし、「自己責任」を叫ぶものすごい数のネットの声には虚しさを覚えたし、政府を非難する人を「テロの味方」と糾弾する意見には恐ろしさを感じた。

生活保護で、お笑い芸人が叩かれていた時みたいだと思った。何かを叩こうとする集団のエネルギーが不気味だった。

最初は、政府や政府寄りの意見を非難し、後藤健二さんのジャーナリスト魂を讃える人たちの声に気持ちが大きく傾いた。

ただ、「後藤さんみたいな人がいるから紛争地帯の人々の様子がわかる」とか、「ジャーナリストが危険なところに行こうとしなくてどうする」みたいな声があまりに多く出始めると、なんだかその機運にも馴染めなくなった。

自分の家族だったら、それこそ命懸けで止めるだろう人々が、後藤さんの行動を手放しに賛美する姿の矛盾に消化不良を起こした。


そして、気持ちの落ち着くところを失った私は、当の後藤健二さんの心の中に思いを馳せた。

彼を突き動かしたのは、正義感なんだろうか。使命感なんだろうか。困難な立場にいる人への過剰なまでの共感は、一体なんだろう。この、何か、普通ではない感じはなんだろう。

かつて福祉系のNPOに参加した時の、その代表が、後藤健二さんの雰囲気と重なる。人当たりが良くて、笑顔があどけなくて、自分に対して異を唱える他者を怒鳴ったり威嚇したりもしない、好青年そのものの立ち振る舞い。でも、埋めがたい大きくて深い穴を抱えているような人だった。

彼の社会的弱者のための活動は、終始自分に甘えがなくて、自己犠牲的な態度に貫かれ、活動そのものが自分の穴を必死に埋めようとする行為に見えた。彼も多分自分の活動のためなら、死ぬ男だと思う。

そして、後藤さんも、大きな穴を抱えた人なのだと私は思う。生い立ちなのか、生まれつきなのはよくわからない。でも、そんな種類の穴を持たない大方の人間は、後藤さんに魅力は感じても、本当にはその行動を理解はできない。私もできない。でも、できない自分でかまわないと思う。できない自分ができる平和への貢献の方法もあると思えるから。

ネットでは、こういう事件に無関心の人や、「争いはやめよう」などと生温い意見を言う人は「頭にお花畑が咲いている」と笑われたりする。

でも、お花畑人間の在り方こそが、私たち普通の人たちが、平和をめざすのにふさわしいまっとうな在り方だと思う。

私の目の前にはお花畑満開の5歳の息子がいる。テロリストに敵意ももたず、後藤さんの功績も知らないこの息子に語りたいのは、「テロに屈してはいけない」でもなく、「自分の命を賭して困難な人を守れ」でもない。ただ、「人を殺してもだめだし、人に殺されてもだめなんだ」ってことと、「お花畑人間でいいんだよ」ってことだ。

政治学者の山口二郎さんが、こんなツイートをした。


文意は、政府に向けたものだけれど、これは私たちへのメッセージにもできる。

頭にお花畑が咲いていて、平和ボケで、温室育ちで、戦場で戦える体力も度量もとてもないし、自分や家族をおいてまで人助けする犠牲精神もない人。でも、怖いこと、痛いことには、イヤだと言い、自分も、他人も、傷つけない選択ができる人。

テロにひかれない人間って、言うなればそんなユルーい姿の人間だと思う。自分にも他人にも寛容な人間だと思う。とするなら、そんなお花畑人間でいることが、お花畑人間を増やすことが、普通の私たちにできる一番簡単で、一番大切な平和貢献なんだ。

私は、息子を見ていてそう思い至った。

photo by pakutaso.com


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初・心屋仁之助さん講演会。

2015-02-01 19:03:47 | 心理メソッド・生き方
今日は、千葉県の松戸市民会館まで、初&生・心屋さんを拝みにいってきました。

NHK文化センター柏教室の特別講座です。



朝、夫に「もっと上がり調子の時に行きたかったなー」とグズグズ言うと、「行って上げてもらえばいいじゃない」と神発言。確かにー。

このところのダンナ、忠犬ハチ公みたいに超優秀です。

松戸まで、自宅から電車で1時間と少々で到着。会場は、私と似たような世代の女性と付き添いとおぼしき男性1,200人に埋め尽くされ熱気ムンムン。圧倒された私は、しばらく過呼吸気味でした。


生の心屋さんは、なかなかの男前で、有名人オーラがでまくってました。


トークもキレが良く、まるで綾小路きみまろ?!みたいでたくさん笑わせてもらったし、賛否両論の歌も全然上手でしたよ。

肝は、みんなで唱和した「魔法の言葉」。それも100とか200とかの数を続けざまにリピートアフターぢんさん。思わぬ言葉に反応して涙がサラサラ流れて、自分でもびっくり。カタルシス体験で気持ち良かったなー。

心屋さんの言葉や考え方にはブログなどで普段から触れているので、特別印象に残った話というのはないのですが、それでも2時間たっぷり飽きることなく楽しませてもらいました。

講演が終わって、ふっと頭によぎった言葉は、昔見た寺島しのぶさんの映画「ヴァイブレータ 」の主人公の最後のセリフです。

あたしは
自分がいいものになった気がした。


ヒロインが恋に落ちた男から去っていくとき、自分が大切にされたことを感じて呟いた言葉。

心屋さんの講演会は、なんだかそんな気分にさせてくれる時間でした。また、行きたいです。