すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

決心

2006-05-28 22:35:30 | ひとりごと

決心するには、
いろんな障害を乗り越えないといけない。
自分の中に芽生える、
いろんな迷い、苦しみと散々すったもんだしないといけない。

誰かを傷つけるかもしれない、というのが怖い。
自分が壊れてしまうかもしれない、というのが怖い。
大損をするかもしれない、というのが怖い。
将来を棒に振るかもしれない、
仕事を失うかもしれない、というのが怖い。
決心したことをいつか後悔するかもしれない、というのが怖い。
ああ、怖い、怖い、怖い。怖いよー。

怖いから、やっぱりやめておこう。
そんなに大きなリスクを払ってまで決心することでもない。
もし、そう素直に思えたのなら、そこで決心ゲームは終了。
勝ちでも負けでもない。
本当に決心するほどのことではなかったのだろう。
この判断をせず、突き進んだら、
それこそ後悔する可能性が高いだろうから、
やめられるものはやめたらいい。

でも、どうしてもあきらめきれない。
誰かを傷つけるかもしれないことも、
自分が壊れてしまうかもしれないことも、
しつこいくらいに頭の中でイメージし、その恐怖を心の中で擬似体験した。
ああもこうも悩んだ、苦しんだ、泣いた、
周囲に馬鹿にされた、呆れられた。
そして、その都度、それに見合った激しい感情を味わった。

それでも、だめだった。そうしたものを超えてきた。
結果として、自分の中に、あきらめきれないものが、
くっきりと、鮮やかに残ってしまった。
そして、気づいた。
それが、自分にとって一番大事なものだった。
本当に欲しいもの、成し遂げたいことだった。
それを得るためにできるのが、本当の決心なのだろう。
それが確信できたら、もうあせる必要はない。
ここまで来てしまったのだから、あとはもう、なるようになれ。
結果がどうあれ、自分はそこに向かうしかない。
別の選択肢はすべて捨ててしまったのだから。
自然にそう思えるはずだ。
そうしてやっと、じっくり、それに取り組む覚悟ができる。

一番大事なもの、本当に欲しいもの、成し遂げたいこと、
そこに本当の自分がいる。
本当の自分を見つけるのには、たくさんの血と涙を流さないとならない。
自分探しというのは、だから、そんなに生易しいものではない。
決心というのは、一朝一夕で実践できるものでもない。

実は本当に難しいのは、
得ることではない、成し遂げることでもない。
自分の中のあきらめられないものを探り当て、
それを得るために、成し遂げるために、
ゆるぎない決心を、固めるということのほうだ。

それができれば、
結果はおのずとついてくる。
そういうことなのかもしれない。



本当の気持ち

2006-05-22 21:04:57 | ひとりごと

失恋したとき、
すぐに「もう潮時だったから・・・」と思う。思おうとする。
その前にあった、悲しい、苦しい、という気持ちを抑えて。
割り切らないといけない・・・
そんな「~ねば」の気持ちが言葉になる。
悲しい、苦しい、と感じてしまうのは、
情けない、みじめ、みっともないって決めているから、
そんな感情を抑えるクセがついてしまった。

友だちが先に結婚したとき、仕事で成功したとき、
すぐに「よかったね。私もうれしいよ」と思う。思おうとする。
その前にある、羨ましいな、悔しいな、という気持ちをうやむやにして。
友だちの成功を喜べるのが良い友人であるはず・・・
そんな「~ねば」の気持ちが言葉になる。
羨ましい、悔しい、と感じてしまうのは、
情けない、みじめ、みっともないって教えられてきたから、
そんな感情をうやむやにしてしまうクセがついてしまった。

でも、もうそんなことやめてしまったほうがいい。

悲しい、苦しいという感情を認めたとき、言葉にできたとき、
初めて自分がほっとする。
ほっとして、楽になって、「~ねば」じゃなくて、
この失恋について、本当に潮時だったと思えたりする。

羨ましい、悔しいという感情を認めたとき、言葉にできたとき、
初めて両肩の力が抜ける。
虚勢を張っていた自分が緩んで、「~ねば」じゃなくて、
本当に心から友だちに「おめでとう」と言えたりもする。

自分の、最初に生まれてきた本当の気持ちを見逃さないこと。
見逃してしまったら、一生懸命探すこと。
そして、それをちゃんと自分が自分で受け止めてあげること。
きっと、
自分の嫌いな自分に出会うのがこわくって、
嫌な感情が怖くって、
逃げたり、見ないふりしたりする。
でも、ちゃんと言ってあげればいい。
「しばらくここにいてもいいですよ。
よかったら、とことん付き合いますよ」って。

本当の気持ちは、
決してやっかいなんかじゃない。
想像するほど、聞き分けが悪いわけでもない。
無視しちゃだめ。逃げたらだめ。
ちゃんと存在を認めて癒してあげたら、
いい形に変身してくれるから。




浜田真理子さんへ

2006-05-19 00:12:37 | 本・映画・音楽

5月5日のこどもの日、
浜田真理子さんが、名古屋のライブにはじめて来てくれました。
旅行の予定を変更して無理無理出かけたんですけど、
でも、無理して行ってよかった。
見逃さなくて、よかったです。

みんなすすり泣いてましたね。
私も、ほとんどずっと泣いていました。
あんなライブ初めてです。
しんみりとした、奇跡のような歌声の合間に、
真理子さんのとぼけたMCがあって、
そのギャップが、心地よかったです。
美しさと可笑しさ、温かさと悲しさ、
いろんなものが交差する真理子さんのステージは、
人間的魅力が炸裂でした。

有名どころと言われるアーティストのライブを、
これまで何本か見ましたが、
そのどれとも違うライブでした。
少なくとも、私の魂にダイレクトに触れた、
最初のライブでした。

そこに、自分の心そのもの、
自分の求める世界が広がっている感じでした。
そして、自分のために歌ってくれている、
真理子さんが、自分のためだけに歌ってくれている、
そんな錯覚に自然に酔うことのできるライブでした。

観客席にいた人たちの多くが、
似たような感じで聞いていたんじゃないかしら。

真理子さんの歌は、
ずっと聞いていたいのだけど、
でも、
永遠にステージを見ていたというのとは違い、
終わりがあるからこそ、
そこにいる一瞬が大切で、尊くて、愛おしい。
そんな風に、
始まりと終わりを実感できるステージでした。

私の歌って欲しい曲を全部歌ってくれましたね。

「純愛」「のこされし者のうた」「水の都に雨が降る」
中島みゆきさんのカバーをした「世情」
そして、アンコールに「あなたへ」。
初めて聞いた「十五夜」「胸の小箱」も
本当に一度聞いただけで、とても好きになりました。
真理子さんの選ぶ歌詞の言葉が本当に魅力的でした。
胸にすっと降りてきました。
でも、まだその2曲はCD化されていないんですね。
だからこそ、
余計にライブのあの時間が貴重に思えてきます。

あの日、
一人の人間の魂が、洗い流されました。
流した涙の分だけ、
心がつるんとしました。
頭がすっきりしました。
なんというか、
神様に、
「これまでよく頑張ったね」って
頭をなでてもらった気分でした。

真理子さんにあんなに素晴らしい歌を作らせるために、
真理子さんのこれまでの人生を通り過ぎた人々、
そして何より、真理子さん、
ありがとう。
本当に、ありがとうございました。

雨の日の「とげぬき地蔵」

2006-05-17 21:28:53 | 日記・できごと

つい先日、そぼ降る雨の中、おばあちゃんたちの原宿「巣鴨」まででかけてきた。とげぬき地蔵尊高岩寺に参詣するためだ。

初巣鴨、初とげぬき地蔵。ひそかに以前から参拝したかったお地蔵様だ。

ご本尊のとげぬき地蔵は秘仏ということでお目にかかれず、境内にいらっしゃる洗い観音とお会いしてきた。
(この洗い観音さまをとげぬき地蔵だと思っている人多いみたい。何を隠そう、実は私もその一人でした・・・。笑)

普段の境内はおばあちゃんたちの長蛇の列で、洗い観音さんのところにたどり着くまでには、それなりの覚悟が必要のようだ。たまたま私が参拝した日は、雨ふりが幸いして、 数人の方たちが待っているだけで、するするっとおそばによることができた。

いやぁ、なんというお優しいお顔なのだろう。言葉を失うほど感動を覚えた。すべてを包み込む温かで、美しいまなざし、優雅なお姿。

もともと、仏像好きで、お気に入りの仏像というのも色々あるけれど、 これほどお優しいお顔をした観音さまは初めてお目にかかった。

いつまでも、いつまでも、ずーっと見ていたくなる、そんなお顔だ。

別れが名残惜しくて、帰るときに携帯の写真を撮ろうかとも考えたけれど、写真におさめるのが、なんだかもったいない気がして、やめてしまった(少し後悔・・・悲)。

この洗い観音さま、お腹の悪い人はお腹、頭痛のする人は頭痛、腰の悪い人は腰、という具合に、体の治したい箇所を白いお手拭でこすると効果があるという。直接手で触れてもいのだとか。

特に身体に悪いところのない私は、迷わず、水にぬれた観音さまの心(心臓)に手を当てて、ゆっくり撫でてみた。石の感触が、優しく指先に伝わる。なんともいえない心地よさ、そして安心感。

なんだか、心の棘がすっと抜けたように、わたし自身も優しい気分になってくる。

まるで、恋わずらいのように、今でもあの慈悲ぶかいお顔を頻繁に思い出す。とびきり悲しいことや辛いことがあったときには、迷わず会いに行こう!そう思っている。(まあ、すこし悲しかったり辛いときでもいいけど)

ゆっくりじっくり時間を掛けてお顔を見るために、もちろん雨の日をねらって。


自分を知る、相手を知る

2006-05-14 21:04:06 | ひとりごと

相手に何らかの感情を感じさせたいと画策することは、
ほとんどの場合失敗に終わるだろう。
相手が自分を好きになるように仕向けても、
うまくはいかない。
相手は相手の理由で、
感じたいことを感じ、
好きだと思う人を好きになる。

相手に感じて欲しくない感情を
感じさせないようにすることは、ほぼ無理に近いだろう。
相手に別の人や物事に興味を持たないでと懇願しても
うまくはいかない。
相手は相手の理由で、
感じたくないことは感じないし、
興味や関心のベクトルも自由に向ける。

人が感じていけないことはない。
周囲に迷惑を掛けたり、傷つけたりする、
という理由で、
口にしてはいけないことはあったしても、
感じていることは、感じていることだ。
たとえ悪い感情であっても、
感じでいる事実を消すことはできない。

感じるのをやめるということは、
人にとって心の死を意味する。
感じることをごまかすことで、
自分を殺してはいけないように、
感じることをやめさせることで、
相手も殺してはいけない。

だったら黙っていればいいのか、というと、
そうではない。
自分と相手、散々葛藤して、
お互いの感じ方を明かし合えばいい。

自分の感じていることを素直に認め、
それを相手に告げること。
相手が感じていることを否定しないで聞き入れ、
それに率直な感想を言うこと。

それが、
自分を知るということ、
相手を知るということ。
関係はそうしてはぐくまれるものだ。



自分を納得させる難しさ

2006-05-14 02:06:36 | ひとりごと

普通、
他人は自分の言いなりになってはくれない。
そして、
自分自身だって自分の言いなりになってくれないことが多い。

自分を納得させるのって、
実はものすごく難しいのだ。

ある事柄について、
納得できない自分に出会ったら、

「自分はなんて融通が利かないんだろう。
聞き分けが悪いんだろう。
頭ではわかっているのに、
どうして自分はそれが納得できないんだろう」

と落ち込むばかりでなくてもいい。
むしろ、その事柄に反応する自分の芯の部分に、
“譲れない、大きな何か”があるということに、
気づくことが大切なのかもしれない。

周囲からは、つまらない物に見えても、
自分にとっては、
かけがえのない何かなのだろう。
今は、捨てられない、
捨てたくない、何かなのだろう。

そんなときは、
納得できない自分に観念して、
その自分のままで、
迷い、苦しみ続けるしかない。

自分を動かせるのは、自分。
結局最後は自分なのだ。
家族や友達、占い師や自己啓発本、
周囲の助言で動くことができても、
それが、自分の本心と合致しないものだったら、
やがてブレーキがかかる。
他人のアドバイスに一旦は納得しても、
自分の奥深くに相容れないものが潜んでいたら、
結局は、自分の本心を優先させることになるだろう。

それって普通で自然なことなのだ。
自分は納得していないのに、
周囲の意思で突っ走ることのほうが、
危険なことかもしれない。

さまざまな葛藤や心のプロセスを散々繰り返して、
“その日”は来るかもしれない。
“譲れない、大きな何か”が、
もう、自分にとって必要でなくなるその日。

自分が自分で納得させることができたときに初めて、
多少のことでは挫けない意思や力がわいてくる。
失敗したり、挫折したりしても、
人のせいにしないでもすむ覚悟もできる。

自分の人生は、
そうやって一つ一つを自分に納得させて、
自分が作っていくものなのだ。

もちろん、
一生かかっても、
自分で自分を
納得させることができない事柄もあるだろうけどね。



「わからない」は準備中

2006-05-08 21:18:32 | ひとりごと

自分の気持ちが、わからない。
相手の気持ちが、わからない。
将来どうしていいか、わからない。
わからない、わからない、わからない。

そんなの、
悩まなくっていいです。
苦しまなくたっていいです。
わからないものを、
無理やりわかろうとさえしなければ、
大丈夫です。
それをするから、苦しいんです。

まだ育ってない花のつぼみを
無理やり咲かすことはできません。
話したくないという人の口を
無理やりこじ開けないほうが懸命です。

咲くときは、自然に咲きます。
開くときは、自然に開きます。
そういう風にできています。

だから、
わからないときは、
ほかっておけばいいのです。
待っていたら、いずれわかります。
どれくらい・・・と聞かれると、
困りますけど、
しいて言うならば、
待つことを、
忘れてしまうほどになったときには、
きっと答えがでています。

ただ、どうしても、
「わからない」を「わかる」必要があるときっていうのが、
あります。
そういう時は、適当に選ぶしかない。
選んだときに違うとわかれば、
後で必死に選び直しますから、
そのとき「わかる」ことになります。

でも、選び直しが困難なときもあります。
それが許されないことはほとんどありませんが、
でも、その対価は大きかったり、
いろんな人を巻き込んで、
傷つけたり、自分も傷ついたりします。
もちろん、それだって成長に必要な
プロセスですけど・・・・。

ただ、わからないときは、
無理して選ぶよりも、
自然にわかるのを待つほうがいいのかもしれません。
わからない、というのは、
まだ準備ができてませんよーってことですから。



そこにいていい。去っていっていい。

2006-05-07 22:20:25 | ひとりごと

今そこにいるものは、そこにいていい。
追い払わなくていい。
邪魔者扱いしなくていい。
そのものにとって、まわりにとって、
今必要だから、そこにいる。
いていいのだ。

去っていくものは、去っていっていい。
追いすがらなくていい。
縛っておかなくていい。
そのものにとって、まわりにとって、
必要だから、去っていく。
去っていっていいのだ。

そこにいることがうれしいときは、うれしがればいい。
憎らしいときは、憎らしがればいい。

去られて悲しいときは、悲しがればいい。
ほっとしたときは、ほっとすればいい。

その気持ちをなかったことにしないほうがいい。
口に出せなくてもいいから、
自分の中だけにとどめておけばいいから、
そのとき自分の中に芽生えたものを、
素直に認めたほうがいい。

そこから、自分が、
どこかに向かっていくことになるから。

いなかったものがそこにいること、
そこにいたもののが去ること。
その動きを通して、
動きの主体はもちろん、
まわりも、成長し、後退し、
そしてまた成長する。

その振り幅の中で、
人は、何かを思い、感じ、そして変わっていく。

最初からいたわけじゃない、
最初からいなかったわけじゃない。

いたものが、いなくなる。
いなかったものが、いるようになる。
そこに、何かがある。

だから、
そこにあるものは、尊い。
そこからいなくなったものは、尊い。

自分を幸せにするレッスン

2006-05-06 06:48:18 | ひとりごと

過去にいろいろあって、
その傷や痛みから、
なかなか抜け出せないでいる友だちがいる。
不眠、めまい、婦人科の疾患、
数々の不調が彼女の体を襲う。
そんな彼女と一緒に考えた、
「自分を幸せにするレッスン」。

○どんな自分も認める。

○自分はどんな感情も感じていいことを知る。

○嫌な感情、否定的な感情が出てきたとき。
→無視しない、自分の中に押し込めないで吐き出す。
→その存在を認め、逃げないでじっと味わい、味わい尽くしたら手放す。
→相手に伝えたほうが双方にとっていい場合は、きちんと伝える。

○自分や自分の感情を裏切るような我慢はしない。

○自分を大事にして、自分を満足させることを探し、実践してみる。

○自分を第一にする。

○自分は辛い状況から脱出する力があることを信じる。

○自分の中に一番知りたい答えがあることを信じる。

○自分を、一番中のいい友達のようにあつかい、ほめてみる。

○自分を信頼する。自分の人生、未来を信頼する。

○好きなことをやる。好きなこと以外は極力やらない。

○大事なのは「幸せを選択する」「こういう自分になる」という自分の決心。

○あきらめないで続けること。結果はすぐには出ない。でも、必ず出る。


今の自分の積み重ねが未来の自分を作る。
今の自分の延長線上に未来の自分がいる。
幸せな未来が欲しかったら、
“今、自分を幸せにする”それしかない。



四葉のクローバーを見つける

2006-05-03 01:41:18 | ひとりごと

四葉のクローバーを上手に見つけられる人と見つけられない人がいる。

同じ場所で、同じように探していても、
なぜか差が出る。

その違いって、何だろう。

探すぞー!見つけ出すぞー!と必死な人、見つけられなかったらヤだな、かっこ悪いな、そもそもこんなところに本当に四葉クローバーなんてあるの?と余計な想念や疑問がいっぱいの人は、なかなか見つけられない。

いとも簡単に見つけてしまう人は、ただ、そこに四葉のクローバーがあることを知っていて、自然とそこに手が伸びているように見える。そして次から次へと探し当てることができる。探しているとき、疑うこともなければ、心配もしない。あんまり深く考えていないように見える。

人でも植物でも動物でも、物質はすべてエネルギーの塊だという。

だから、物質は、いつも存在感をアピールしている。オーラとか波動とか、とにかくその存在から放出されているエネルギーがある。

その目に見えないエネルギーは、意気込んでキャッチできるものではなく、普通に、何気なくしていれば、同じようにエネルギーを放出している人間に、自然と伝わってくるものなのかもしれない。

例えば、モノを失くしたとき、必死に探している間は全然見つからないのに、探すのをやめたとたん、ヒョイっと出てくることは多い。これも、そういうことと関係があるのかもしれない。

本来、人や植物や動物、あらゆるモノやちは、執着や疑いの心が苦手なんだな。

モノは役割を終えていない限り、出てきたいときに出てきてくれる。

だから、あたふたせず、疑いもせず、そう信じていれば、早く出てきてくれるのかも。