すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

どっちを選んでも。

2015-03-25 13:45:33 | My メソッド
日々、暮らしの中で、仕事や子育てのなかで強いられる、AにするかBにするかの選択。

家を買うか買わないか、子どもの進学先を私立にするか公立にするか、といった比較的大きな選択から、ママ友ランチのお誘いに乗るか断るか、仕事の小さなトラブルを上司に報告するかしないか、の小さな選択まで。

最近、思い知った。

どっちにしたらいいかわからない、どっちもいいしどっちもよくない、という場合の選択は、結局どっちを選んでも同じ結果になる。

大切なのは、その選択肢の内容ではなくて、選んだモノに向ける自分の意識

選択の時の迷いの意識を、選んだ後もそのまま引きずると、どっちを選んでもいい結果には結びつかない。迷った分量だけ失敗と不満が増える。

迷いを引きずると、捨てた選択肢が「あっちにすれば良かった」と言わせるために常に足を引っ張ろうとするから。

決めるまでは迷ってもいい。散々迷ったらいい。

でも、決めたら、もう迷うのはおしまいだ。

「こっちに決めた!」
「こっちでうまくいく!」

そうやって自分に号令を出す。そうやって選んだモノに全幅の信頼を寄せたら、物事は不思議とうまくいく。どっちを選んでもうまくいくことが多い。途中でうまくいかなくなった時にもう一回選び直す勇気すらもらえる。

だから、最近は力を入れて選ぶのをやめた。

要所は、選ぶ時じゃなくて、選んだ後だとわかったから。

四の五の言わず、自分が選んだもの、選ぶまでもなくたまたま自分のところに来たものを、ただ大切にしてたらそれでいいってことなんだよなー。



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自分だって「正しい」わけではない。

2015-03-15 10:30:35 | My メソッド
少し量を増やした相談援助の仕事と、今年から引き受けている幼稚園PTA役員でてんやわんやの毎日です。

大変ではあるものの、自分が、そこにエネルギーを注げば注ぐほど、色んなアイデアが浮かびます。

仕事の場合には、利用者の気持ちを最優先する援助のあり方。PTAでは、お母さんたちの負担の少なくする方法。

自分にとっては、もう、「最高のアイデア」って感じで、すぐにでも運用したくなります。

ところが、そのアイデアがすんなり受け入れられることはめったにありません。

前例がない。
責任の所在があいまいになる。
事務手続きが大変。
反対意見を抑えるのが面倒。


変化を嫌い現状を維持しようとする人たちの意見に一蹴されます。

こうしたやりとりが続くと、私の中に無力感や怒りすら沸くのですが、ふと立ち止まって考えてみて、あることに気づきました。

私は、自分の意見が「正しい」と思っているんだな、ということです。自分の意見が正しくて、それに反対する人の意見は「間違っている」と考えているから、無力感や怒りを感じるんだな。

正しい意見に反対する人たちに、「だからダメなんだ」なんて、言いたい気持ちになるんだってことです。


私の意見は、正しいわけではない。

この視点が欠けていました。たとえ、斬新で、寛容で、ニーズを満たして、時代に合わせた意見だとしても、それは「正しい」というわけではありません。少なくとも、反対する人にしたら、ちっとも正しくない。

私の意見は、私が好きな意見であり、私が「これイイ!」と思う意見なのです。賛同する人がたとえ多くても、それは多くの人が好きな意見ということでしかありません。

自分の意見が正しいわけではなく、私が好きな意見だと再定義すると、相手の意見を「間違った」意見として受け取らなくなります。

間違っているものは正したくなりますが、自分の「好き」の反対側にある意見の扱い方には、それなりの配慮が生まれます。

自分の意見を言う時も、「正しい」ではなく、あくまで「好き」な意見でしかないのですから謙虚に提案できるし、反故にされても一々落ち込まずにすみます。

力んで何かを訴えたり、敢行しようとしているとき、そこには自分の「正しさ」へのこだわりがあるのかもしれません。

べき思考は変えるべき

という言葉の矛盾に似ているかもしれませんね。

正しさ、なんて、どこにもないんですよね。好きか、嫌いか。それしかないんだな。改めて、そう感じる毎日です。



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いつも正解をださなくてもいい。

2015-03-11 15:11:51 | 世の中のこと
初めて、テニスの錦織選手の試合をテレビできちんと見たのは2月に行われた全豪オープンでした。

世界ランキング5位の選手とあらば、バッタバッタと下位選手をなぎ倒すように試合を展開するのかと思いきや、そうではなかった。

同じく初めて錦織選手の試合を隣で見ていた夫が、「ものすごく強いわけではないんだね」とつぶやきましたが、まさに私も同じ感想だったのです。

だって、世界ランキング5位と言えば、もう圧倒的な試合展開をする人なんだと勝手に想像していたのですから。

ぱっと見ただけでは、錦織選手と下位選手の力の差なんてわかりません。むしろ、サーブの速い選手との序盤を見ているだけでは、とても勝つ気がしないくらいです。素人テニスファンの認識ってこの程度なんですね。

でもね、じっくり何試合かを見続けているとわかるんです。錦織選手が5位にランクインしている訳が。トップ10に入る選手と100位の選手の違いというのが。トップ10に入る人たちのメンタルと100位代の選手たちのメンタルの差が。

その差とは、失点したとき、凡ミスをしたとき、不意をつかれた時、サービスゲームを落とした時、つまりマイナスの現象に陥ったときのメンタルの崩れ加減の大小です。落ち込んだ気持ちをニュートラルな状態に戻す速度です。一言で言えば、上位の選手ほど、切り替えが早いのです。

トップ選手の条件は、一つの試合の中で、あるいは一つのシーズンの中で、凡ミス、アウェイ、体調不良や怪我、などあらゆるマイナスな出来事は起きるという前提を承知していて、そのマイナスな出来事に対する卓越した対応力を持っていることなんですね。

マイナスから元に戻す力が強い、早いというだけで、そうしたマイナスを打ち負かそうとすらしない。「そういうこともあるんだ」と淡々と流していって、次のチャンスを狙う感じです。その姿勢が不思議と次のチャンスを引き寄せます。


こうしたテニス選手のテニスに対する構えって、私たちの日々の生活や、人生に当てはめても、結局は同じなんですよね。

自分にとって良いことというのが100%起こり続けるなんてあるわけない。テストで100点をとり続けること、そもそも、それを目指す人生なんていうのはありえないんです。

地球も自然も天気も、私たちの心も脳も身体もつねに揺らいでいるんです。

その揺らぎの下がったところに意識が向かいすぎたり、引きずられてしまったら、転落してしまう可能性もあります。でも、その揺らぎの存在をちゃんと知っていたら、今が悪くても、また事態が変わること、次のチャンスが来ることを素直に信じることができます。

積み重ねた経験や人との出会い、考え方の転換によって、雨ばかりが続いていても必ず晴れる日が来ること、失敗しても挽回できる機会が来るということ、悲しいことがあっても楽しいことが失われるわけではないこと、そうしたことを自然に信じられるようになることが「メンタルが強くなる」ということなんでしょうね。

つまり、強さっていうのは、マイナスを避ける力ではなくて、マイナスを受け流す力なんですよ。


錦織選手を世界ランキングのトップ10に押し上げたのが、マイケルチャンコーチですが、彼の言葉はテニスだけではなく、人生をよく知っている人の言葉で、美しくさえあります。

「いつも正解をださなくてもいい。勝った時には謙虚さを、負けた時には潔さを学べばいい」
(NHK「勝てない相手はいない~錦織圭 成長の軌跡」より)

うーん、しびれます。

受験真っ只中の中3の甥っ子、本命の一つ前の試験でいい感触を持てなかったとか。頑張ってる彼に、この言葉を届けたいです。




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「愚痴を言う」を考察する。

2015-03-07 07:16:50 | My メソッド
みなさんは、愚痴っぽい方ですか?それともめったに愚痴を言わないタイプですか?

私は、タイプでいうとその中間かな、という感じです。

ものの本によると、「愚痴はとにかく吐き出した方がいい」というアドバイスがある一方で、「愚痴は言わない方がいい。そういう波動を持つ人ばかりが集まってくるから」という真逆のアドバイスもよく見かけます。

個人的には、どっちも正解、って考えています。つまり時と場合、自分の状態によって、愚痴を言った方がいい時と、愚痴を言うのはやめておいた方がいい時の両方があるということです。

自分が今現在どっちの状態にあるかということがわかれば、「愚痴を言う」ということと上手く付き合えるようになる気がしています。

最近私は、意図的にこの「愚痴を言う」ことの使い分けをしています。

私の方法を書いてみますね。

ある出来事に遭遇して、「嫌われた」「馬鹿にされた」「私はダメなやつなんだ」と負の思考をすると、「腹が立つ」「悲しい」「許せない」という激しい負の感情が自動的に自分の中で吹き荒れます。

出来事→思考→感情の流れは、ほとんと意識できないくらいの速さです、


たとえば、

いつも仲良くしていた仲間の女子会に自分だけ誘われなかった。(出来事)
→嫌われたんだ。仲間外れだ。ひどい。(思考)
→苦しい、悲しい、不安、怒り(感情)


姑に「赤ちゃんから保育園に預けるなんてかわいそうよ」と言われた。(出来事)
→やっぱり仕事をやめるべき?私はひどい母親?(思考)

→苦しい、怒り、惨め、不安(感情)

こうした場面になんとも思わない人は、そもそも苦しい思考をしない人なので、激しい感情にさらされることもありません。けれど多くの人は、大なり小なりマイナスな思考が起きて、気持ちが動くもので、中にはものすごく激しいマイナス感情を抱え込んでしまう人もいます。

こういう状態の時には、愚痴を言ってもいい、あるいは言った方がいい時です。

必要なことは、たまった感情を吐き出すこと、それのみですから、負の感情を出すこと、つまり愚痴ることを最大限スムーズに行える相手を選ぶことです。

間違っても、「あなたも悪いんじゃない?」とか「もう、それくらいにしといたら」とか「気のせいだよ」というなだめ方をしてくるような相手に愚痴るのは得策ではありません。

愚痴るほどに、傷つく体験をする人はおそらく、相手を間違えています。リスクを最小限にするために「意見は言わないで、ただ聞いてくれる?」と前置きして愚痴るのもおすすめです。

体調不良で胃にあるものを吐き戻す時に、背中をなでながら「吐いていいよ。大丈夫だよ」と優しくて囁いてくれる人がいると温かい気持ちになって吐きやすくなるものですが、そんな感じを味わわせてくれる人が理想です。

感情をある程度吐き出して、すっきりしたら、その時点で大切なことがあります。

その出来事に、理性的な決着をつけておくことです。ニュートラルな自分が一番落ち着く、気に入った思考を決めておくんです。楽天的な人や小さな事に振り回されないな、という人を選んで、「こんな場面ではどう考えるか」と意見を聞くのも早道かもしれません。たとえば、

「友達が誰を誘うかは、友達の自由。つまり、私も、誰を誘ってもいいし、誰を誘わなくてもいいんだ」


「どうして誘ってくれなかったか聞いてみよう。もしはぐらかされたら、そんな人たちとは、少しずつ、距離を置くことにしよう」


「嫌味の好きな義母の言うことは半分に聞いてたらいいや。なんなら反論してもいい」

「仕事をすることで、子育ても充実する例を私はたくさん知っている。子育てだけしてて辛い思いをしてるお母さんもいる。私は私にとっての最良を選択している。大丈夫」



古い思考はしつこいし、新しい思考は自分にすぐに根付きませんが、ようは訓練です。筋トレ、脳トレと一緒。いや、じっさい脳トレなんですよね。

まずは、使い慣れた苦しい「思考→感情」の自動装置を意識的に外していく努力です。感情に落ちる前に、その思考の暴走を止める努力です。

私が最近使っているのは、こんな方法。

「あのことをまた考えようとしてるな」という感じが萌してきたら、まずは「来てる、来てる」と反射的に自覚して思考をブロックして、「あの時は、こう言われて、こんな風に苦しかったんだな(今の感情ではないので過去形です)」ということをはっきりと認めます。

そして、出来事と思考と感情の全てを、頭上にイメージしたベルトコンベヤーの棚に乗せて左から右手に流していく様を頭の中に描きます。川の葉っぱや、滝の時をイメージする時もあります。

ここで大事なのは、苦しい思考にアクセスしようとする自分も、そこから生じる過去と現在の感情も、責めたり、励ましたりしません。ただ、淡々と、観察して流す。私の脳はこういう働きをするんだなー、と他者目線を濃くします。

これが結構効果あって、最近は、めったに感情まで届かなくなりました。感情まで届かないと、苦しい思考をする脳の回路が薄れていくので、自分を苦しめた出来事や思考にも自動的に近寄るということが減ってきています。「ついつい考えちゃう」というのが少なくなるんです。

苦しい思考をしそうになったとりあえず散歩する、買い物に行く、という体を動かすやり方や、忙しくして思考を強制終了するのもありだと思います。

ちなみに、古い思考にアクセスしようとする動きが何かのきっかけで強くなったり頻回になった時にも、もう一度新しく思考し直したりはしません。愚痴を吐き出した時に手に入れた思考をもってきて、「もう、答えは出てますよ」とばかりに対抗してみます。こうした時は、あんまりこねくり回さないほうがいいのです。

こうして「観察・流す」と「新しい思考で対抗」を臨機応変に使うと、古い思考は徐々に勢いを失っていき、不思議と頭の中が鎮まります。新しい思考の馴染みやすい環境が頭の中で整います。


そして、愚痴の話にやっと戻っていきますが、こんな風に自分が体験した出来事について思考を止める作業を意識的に行っている段階では、誰かに愚痴を言って盛り上がることは逆効果になります。

それは、古い、苦しい思考にわざわざ自分からアクセスする行為で、その思考回路が再び強化されて感情も動いてしまうからです。他人に話す行為は刺激が強い分、頭の中の自動思考よりもやっかいです。それが繰り返されると、一時的なすっきり感を求めて、愚痴中毒に陥るかもしれません。

こうした時の愚痴は、みっともないからでもなく、波動が下がるからでもなく、余計な雑音を再び自分の中で響かせないために避けるべきです。依存症の一種だと思うと分かりやすいです。

「この件の愚痴は十分言ったから、もう言わない」「しばらくは愚痴を言いたくなる環境には出向かない」。腹の底でそう決めると、案外そうなります。そっちの方が結果的に自分を守ることになることを心は知っているからです。




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「ぼっち」も悪くない。

2015-03-04 12:19:02 | 世の中のこと
「ぼっち」という、若者の間で使われている言葉を、最近、知りました。

ひとりぼっちの略語だとか。私の世代が聞いても、その語感からほんのり「からかい」の空気を感じますが、多分、若者たちは、独特の意味を帯びた独特の語感として受け取るのでしょう。

ひとりでいることが楽でひとりでいるのに、「あの人、ひとりだ」と他者から思われるのは究極の苦痛。だから、仲間がいない人はトイレでお弁当を食べたり、休み時間には寝たふりをして机に突っ伏したり。大学でも、そんな風景が当たり前にあるようです。

気の毒というか、身につまされます。その気持ち、共感できないわけではないけど、そこまで?って思ってしまいます。

「ぼっち」でない側も大変。「ぼっち」になるのが怖いから、SNSのチェックに何時間も割いて、滞りなく返信したりコメント残したりして、やがて疲弊する。疲弊するというのは明らかに自分にとってはよろしくない状態ですが、その疲弊感も「ぼっち」になる恐怖に比べたらまだまし、というところでしょうか。

小さい頃からケータイ、スマホを与えられた世代のそのねじれたしんどさ、何とかならないものかと思います。

先週のNHK「日曜討論」という番組で、尾木ママもLINEがいかに若者たちのプレッシャーになっているかを解説していました。尾木ママが教鞭をとっている大学の学生たちは、「LINEが中学や高校時代になくて良かった」と口を揃えるのだとか。「今の子は大変」「ルール作りが必要」って、尾木ママは熱く語っていました。

私もLINEを使うのでわかりますが、「既読」も確かに、腹の探り合いみたいな妙な心理を煽ります。便利だけれど、苦しい。やっかいなツールです。人間関係に悩みやすい人ほど、遠ざけた方がいいツールかもしれません。

もともと人間の本能に「人とつながりたい」「集団に帰属したい」欲求があるのだからそれに従って行動するのは普通のことですが、それが「ねばならない」になって、LINEのようにコミュケーションの方法がスピーディかつ安易になった結果、他人からどう思われるかを特に気にする世代で、振り回される人が増えたのでしょうね。

それにしても、つながるための努力ではなくて、一人にならないための努力は虚しいです。他人の反応を過剰に気にする行為は達成感がなく、その分ものすごい量のエネルギーを消費します。若い人の貴重なエネルギーがそんなことばかりに使われてるとしたら、もったいない。

もちろん、こうした心理は若者に限ったことでもなく、大人の世界でも大なり小なりありますけどね。ママ友の世界にも、職場でも、高齢者の付き合いでも、1人で行動する人や家族のいない人にみじめ、可哀想というラベルを貼る人はいます。そして、「寂しい人」と思われないために行動している人は少なくないと思います。


若い人にも、そんな大人にもあえて声を大にして言いたいな。

「ぼっち」は悪くないって。全然かっこ悪くない。「ぼっち」を恐れて、自分じゃないことをやりすぎている方が、ずっとかっこ悪いです。SNSも疲れたのなら、休止宣言しちぁえばよしですよ。私の周りには、スマホからガラケーに戻す人も、チラホラいます。

もっと言えば友達だっていなくてもいい。つながらなくてもいい。きずなを遠慮してもいい。孤独死も悪くない。そんな価値観の方もあってもいいですよ。

ひとりぼっちはつまらない
誰とでも仲間になって仲良しになろう


という歌詞の歌をね、子ども時代は、無邪気に口ずさんでました。でも、ひとりぼっちは必ずしもつまらくないし、誰とでも仲間になるなんてかなり難しいです。まっとうな大人なら、そんなこと重々承知しています。

そんな大人が、影響力のある大人が、子どもや若者たちの「つながり圧」を緩めてあげてほしいです。

「私、友達ほとんどいないんですよ」って言う文化人とか有名人はよくいますけど、あれ見て、「かわいそうー」とは思わないですよね。

むしろ、「かっこいい」って思ってしまう。有名人が言うから、実際は多くの人の注目を集める人の逆説だからかっこいいとも言えるのですが、一般人でも様になる人はいますよ。

それは、やっぱり「ぼっち」の自分を肯定している人の立ち振る舞いや孤高の姿です。大勢の人に囲まれている人気者とは、また違う魅力があります。

若い人も若くない人も、ひとりが好きなら、そんな人をめざせばいいです。その姿に魅力を感じて寄ってくる人もいますから、そしたら、本当の仲間ができます。

人間、死ぬときは1人です。それは、寂しいことでもみじめなことでもありません。私たちの中に組み込まれている事実ですもん。

私たちのなかにある「ぼっち」の才能を劣ったものとみなさず、大事にしましょうよ。



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