すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

子育てのポジティブ担当、ネガティヴ担当。

2016-05-01 15:46:02 | 育児・母稼業
カレンダーは、五枚目までやってきました。ゴールデンウィークの真っ只中ですね。

わが家のひとり息子も、一年生になって、そろそろ3週間ほど経ちました。ポツリポツリと学校であったことを話すようになりました。概ね楽しそうな内容ですが、不満やネガティヴコメントもチラホラ。

そして、夫にはどちらかと言うとポジティブな内容ばかり、私には時々ポジティブ時々ネガティヴを混ぜてきます。

これはもう明らかに、子どもに対する私たち夫婦の眼差しの質に対応しています。

夫は、基本息子はどこにいても大丈夫だと思っている。一時的に大丈夫じゃなくても、どうせトータルとしては大丈夫だと思っている。

私は、大丈夫が半分、心配も半分。時と場合によって、心配に大きく傾くことも。

だから、自然に役割が決まってしまうんですね。別に夫に愚痴や不満を話しずらいのではなくて、夫の「大丈夫」のエネルギーを前にして、息子もネガティヴな気持ちに焦点が当たらなくなるんだろうな、と思います。

🔹🔹🔹

そんなわけで、ある日、こんなことを息子が私にポツリと話します。

「○○君が、仲間はずれにするんだよ。ボクだけなんだよー」

これが、客観的事実かどうかはわかりませんが、少なくとも息子にとっては、正真正銘の事実。

私も、その現象が事実かどうかはさておいて、まずは息子に共感します。

「そうなんだ。何それっ。腹立っちゃっうねー」

と言った感じで。まずは、感情のガス抜きです。

「そうなんだよー」と、息子。


この息子の体験が、こだわりになると面倒なのかもしれないな、と感じます。

あの子は、ボクを○○するヤツ。ボクは、○○されるヤツ。加害者と被害者の構図、特に、ボクは○○されるヤツ、という被害者の自己イメージはやっかいです。


ここで、私は、

「仲間外れにする友だちって、○○(息子の名前)が嫌な気持ちになることをする友だちってことでしょ。

だったら、無理に仲間に入れてもらおうとしなくていいんじゃない。

○○が嫌がることをしない優しい友だちを探して、遊んだらどう。

すぐに見つからなかったら、一人で遊ぶのだってよくない?」

と、できるだけ、押し付けがましくないように気を配りながら言います。

ネガティヴな出来事や相手の子と一旦心の距離をとりなさい、自分に選択権がある事を思い出しなさい、というメッセージを送ります。

私の声掛けの効果かどうかはわかりませんが、そうすると、しばらくして、息子の中でその出来事や相手へのこだわりが薄らいでいくのがわかります。

これは想像なんですが、自分は「仲間はずれにされた」という息子によるストーリーが最初にあって、そこが傷になっていたところを、「関わらない」という視点を得たことで、息子の思考にパラダイムシフトが起きるんじゃないかな、と思います。

「仲間はずれにされる自分」という意識は無力で惨めさを漂わせますが、「ボクは仲間はずれをするヤツとは遊ばない」という意識にシフトできると、逆に自尊感情を呼び起こします。

もっと深刻さを増して、加害者と被害者の構図が固定化された場合には、出来事に積極的に対処する事が必要になるのでしょう。

でも、それ以前の段階なら、ネガティヴに偏った視点を変えてやること、息子の自己肯定感を守ってやることが大切なんだろうな、と。

それと、実はここが一番大事なのですが、息子への声かけの中身って、実は私のためのものなんです。この言葉が、息子のネガティヴコメントと私との間にスペースを作り、私の反応心を鎮め、自己肯定感も守ってくれるんですね。

というのも、母親というのは因果なもので、子どもがネガティヴな発言をすると、多かれ少なかれエゴが反応してしまいます。私もそうです。

「そんなひどいことする子がいるのー!」
「この子は、いじめられっ子気質なのかしら」
「うちの子が、そんな思いをしてるなんて、かわいそう」
「そんな弱虫、うちの子じゃない。やりかえしなさいっ」

たとえば、こんな風に、エゴが雄叫びをあげます。

この声が自分の過去から来ているエゴだと気づかずにいると、このエゴの勢いに私自身も、そしてちょっぴり友だちについてボヤいただけだったかもしれない息子の意識をも巻き込まれます。

息子が幼稚園の頃、この種のエゴと私が一体化してしまい、辛い思いをしたことがありました。表面的に何か重大なことか起きたわけではありませんでしたが、とにかく私が引きずりました。

そこで学んだのは、出来事や相手に焦点を当てると解決はできないなってことです。出来事による感情は起きますから、そこは受け入れますが、一番大切なのは、その出来事をジャッジするこちらの意識の在り方をまず観察すること、そして、それを自分にとってより良いものに変えることなんですよね。

これは、相手や外部に全く働きかけないってことではありません。わざわざ被害者のポジションに自分を置かない、自分の力を取り戻す、というイメージかな。

私の意識を変えると、息子の意識が変わり、やっぱり現象面も違って見えてきます。

🔹🔹🔹

ちなみに、ポジティブ担当の夫。この夫とは、子育てのことで何度か意見の食い違いを繰り返してきました。

たとえば、私が「息子が、一人で寂しそうに遊んでいた」という話をすると、夫はそういう場面はめったに拾わない。「息子が○○君と楽しそうに遊んでいた」という場面によく出くわします。

二人の脳は、違う認知傾向があって、そのまま違う世界を拾っていたんですね。これに気づくまでには時間がかかりましたが、気づいてからは、もう、なんというか、私がいない方が、夫だけで育てた方が、息子は幸せな子に育つのかもなー、なんて思いましたよ(笑)。

不満や愚痴って、吐き出すのが大切って考えがちですが、大丈夫とか安心エネルギーに包まれたら、それはもう不満も愚痴も超えられちゃうんですよ。夫が息子に向けているエネルギーは、愚痴を言わせないエネルギーではなくて、それを溶かすエネルギーなのかもしれない。

それならネガティヴ担当は要らない?となりますが、うん、うちの息子には要らないとも言えそうです。

だから、子育てにおいてネガティヴ担当な私は、その役割を自分のために引き受けているんです。息子のネガティヴ面に触れて、自分のネガティヴな部分と対面する機会を得ているんですね。私が。

私にとっての子育てって、ずっとそうだった気がします。自分の中の思い込み、傷、とらわれ、恐れに再会させられて、それを解消しながら前に進んできた感じです。子育ての悩みが、私の人生の復習、再試験みたいなものです。

もちろん、楽しいこと、嬉しいこともたくさんあって、息子も、可愛いくてたまらない。だからこそ、ネガティヴな自分とも必死に向き合えてきたのでしょうね。

夫ばかりズルい、と時々腐りたくなりますが、そういう夫の安定感、大丈夫エネルギーがあるからこそ、私もネガティヴ担当を心置きなくやれるわけですからね。夫婦とか家族というのはスゴいバランスなんだな、と改めて思ったりします。