すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

自分を徹底的に責めてみた。

2016-09-27 09:12:47 | ひとりごと
罪悪感。自己否定。自己憎悪。

自分が自分を、馬鹿にして、嫌い、憎み、勝手に罪を背負い、自分を消したいとすら思う感情。

誰もが、多かれ少なかれ抱いている感情。生まれてから今日までのさまざまな体験によって、膨らんできた感情。

頭ではわかる。それは、必要がない、と。
心ある人も言う。自分を責めてはいけない、自分を嫌ってはいけない、と。

その感情に気づいた私にとっては、いかに罪悪感を減らすか、が課題だと考えていた。色々な気づきやワークなどによって、罪悪感が減ってきている自覚もあった。

けれど、まだまだ罪悪感は、底なし沼のように、私の無意識を占領していた。

つい先日、私の身の回りで、あるトラブルが起きた。誰が悪いとか、何が悪いとか、ではとても判断できない出来事。ただ起きた、としか言えないような出来事だけれど、でも、私の無意識は容赦しなかった。

二日間、身体全体が鉛のようになって、起き上がるのがやっとというくらいに重く、締め付けられるような緊張に覆われた。心が痛くて痛くて、どうしようもなかった。心も身体も、自分から切り離したい、と思うくらいだった。

二日後そのままの状態から、ふっと少しだけ身体が軽くなった。頭が動きだした。そして気づいた。

これは、私の中にあった果てしなく大きい罪悪感なんだ。あのトラブルが、この未消化の罪悪感に挑みかかってきたんだ。


私のせいだ。私が悪い。私が全部悪い。
ごめんなさい、ごめんなさい、許してください、許してください。



心には、こんな言葉がくっきり浮かんだ。こんなことを言ったら自分の罪悪感を認めたことになる、という抵抗もあって私は打ちひしがれた。


ふっとある本が思い出された。安田隆さんの「誰でも簡単にできる『気』の本」だ。ものすごく前に買って、パラパラ読んだ程度だけれど、その中の最後のページに、今の私のヒントがあったはずという確信が起きた。

藁にもすがる思いで、本棚を探し回り、この本をさがし当て、最後のページをめくった。




コラム⚫︎和解
もしあなたが、自分の全てを変えたいなら、黒い紙をかぶり、眼前に広がる黒の世界に向かって、次のように言い続ければいい。
「許してほしい、許してほしい」
(略)



福音に聞こえた。


最初に読んだ時には、奇妙な印象というか、「こんなネガティヴなことやりたくない」という抵抗心だけで、ほぼ素通りだったのに、今は、この意味がわかった。

私の中の罪悪感が、徹底的に罪悪感を感じたい、吐き出したいと言っているんだ、と。


クローゼットから黒いTシャツを取り出し、顔に乗せて、仰向けになった。

私のせいだ。私が悪い。私が全部悪い。
ごめんなさい、ごめんなさい、許してください、許してください。



ゆっくり心の中で、心がそうしたいように唱えていった。息子や夫や母や姉や、色んな人の顔が浮かび、そのエネルギーが感じられた。私がいろんな人たちに罪悪感をもって、いろんな出来事に責任を感じていることがわかった。もつ必要がないものであったとしても、私が現に持ってしまってきたものたちだった。

涙がとめどなく溢れて、溢れて、溢れて、止まらなかった。顔を覆ったTシャツがぐっしょりとぬれた。

だんだん頭がボーッとしてくる。放心状態。
本にも書いてあるけれど、やがて、一体私は、誰に何の罪で謝っているのかわからなくなる。私の罪の理由も。

私が何らかのきっかけで、その罪を、その悪を必要としたのだろう、ということだけがぼんやりとわかる。

15分くらい経っただろうか、しばらくして、Tシャツを顔から取り除いた。

身体が軽くなり、胸の中の錘が薄れ、視界が柔らかく明るくなった。相変わらず、頭だけがぼんやりしていた。


ああ、なんだろう。この感覚。

罪悪感は、消えていた。笑いさえ起きた。そして、自分がそこはかとなく愛おしい。



あれから、

この体験の後も、罪悪感はやってくる。小さいのも大きいのも、中くらいのも。

でも、罪悪感をエネルギーとして体験できたことが、私を根本的に変えた気がする。出せば、終わりなんだ、と。

ただ、この罪悪感があとどれだけ私の中に眠っているんだろう、っていうのと、この罪悪感を出し切るまでにどれだけの出来事が必要なんだろう、と考えると少々怖くもある。(笑)

まあ、でも、それを楽しむしかないのかな。今は、そんな風に感じる余裕ができた。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿