すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

その人は、私だ。

2016-10-12 08:11:13 | ひとりごと
たとえば、

あいさつしても無視する人
相手によって態度を変える人
他人の悪口ばかりを言う人
いつも不機嫌な人
笑顔がない人
遠慮がない人
自分勝手な人

目の前にいる、その人に強く反応する私がいる。

嫌い、苦手、不快、一緒にいたくない。

ある時、
その人のその要素は、全部、全部、私の中にあるものだってわかった。

その人は、私だ。私なんだな。
私であってほしくない私。
私が見たくない私。

でも、
見えている、ということ、
反応する、ということが、
その何よりの証拠。

自分の中にないものはそもそも見えないし、
反応だってしないから。


否定して、押し込めて、受け入れたくない私のその要素が、私の前に現れて、私に何かを懇願しているようにも見える。
ここから出してくれ、って呻き声をあげているようにも感じる。


目の前にいる、
その、嫌い、苦手、不快、
一緒にいたくない相手を受け入れるんじゃなくて、その要素を受け入れるということ。
私の中にも、それあるよーって、受け入れること。

そしたら、
相手に反応しなくなる、というしくみ。


じゃあ、受け入れるってなんだ。

実際に、その要素を決行してみるのもいい。
不機嫌な人に不機嫌に返す。
あいさつしない人にあいさつしない。


でも、
もっとシンプルなのは、

その要素が自分の中にあることを認めること、
そんな要素がある「悪い私」も、
その「悪」さえもすでに許されているんだと信じること。


その人は、私だ。
そんな眼差しで周りの人を見るとき、私の中の「その要素」が、フーッとゆるむのがわかる。



今度は、自分を徹底的に許してみた。

2016-09-27 10:42:48 | ひとりごと
前の記事には続きがある。


今度は、徹底的に自分を許してみた。

あれから丸一日経って、それは自然に起きた。罪悪感が抜けた心と身体の空っぽから、声がする。

答えがほしい、と。

勝手に、何かが、誰がが、その声に呼応した。


息子を感情的に責めたことを許すよ。
うまくいかないことを夫のせいにしてきたことを許すよ。
母や姉や亡くなった父にしたことしなかったこと、言ったこと言わなかったことも許すよ。

ちゃんとしすぎるところも、ちゃんとできないところも許すよ。
自分に罪悪感を持ってしまったことも許すよ。
自分を嫌う自分も許すよ。
自分を許せない自分も許すよ。
演じてきた自分も、嘘つきの自分も、つくり笑いの自分も、許すよ。
全部全部許すよ。
これまでだって本当はそうだったし、これからもそうだよ。
自分の全部を、まるごと許すよ。

だって、最初から罪なんてなかったんだよ。
謝るから、許しただけなんだよ。

これからも、謝りたかったら謝ればいい。許すだけだからね。




涙腺が、前日以上に決壊した。

自分を許す、というその感覚もまた、エネルギーだった。空っぽに満たされていく、優しいエネルギー。


統合、というやつなのかな。


そして、
自分に対するのと同じだけ許せなかった息子のすることしないこと、夫のしたことしなかったこと、母にも姉にも、その他の人にも、「私も許すよ」という感覚が生まれてきた。


私は、本当は、誰に謝って、誰に許してもらったんだろう。

わからない。答えは出ない。
でも、今はそれでいいかな。許された実感だけが、今の私には宝物だ。



自分を徹底的に責めてみた。

2016-09-27 09:12:47 | ひとりごと
罪悪感。自己否定。自己憎悪。

自分が自分を、馬鹿にして、嫌い、憎み、勝手に罪を背負い、自分を消したいとすら思う感情。

誰もが、多かれ少なかれ抱いている感情。生まれてから今日までのさまざまな体験によって、膨らんできた感情。

頭ではわかる。それは、必要がない、と。
心ある人も言う。自分を責めてはいけない、自分を嫌ってはいけない、と。

その感情に気づいた私にとっては、いかに罪悪感を減らすか、が課題だと考えていた。色々な気づきやワークなどによって、罪悪感が減ってきている自覚もあった。

けれど、まだまだ罪悪感は、底なし沼のように、私の無意識を占領していた。

つい先日、私の身の回りで、あるトラブルが起きた。誰が悪いとか、何が悪いとか、ではとても判断できない出来事。ただ起きた、としか言えないような出来事だけれど、でも、私の無意識は容赦しなかった。

二日間、身体全体が鉛のようになって、起き上がるのがやっとというくらいに重く、締め付けられるような緊張に覆われた。心が痛くて痛くて、どうしようもなかった。心も身体も、自分から切り離したい、と思うくらいだった。

二日後そのままの状態から、ふっと少しだけ身体が軽くなった。頭が動きだした。そして気づいた。

これは、私の中にあった果てしなく大きい罪悪感なんだ。あのトラブルが、この未消化の罪悪感に挑みかかってきたんだ。


私のせいだ。私が悪い。私が全部悪い。
ごめんなさい、ごめんなさい、許してください、許してください。



心には、こんな言葉がくっきり浮かんだ。こんなことを言ったら自分の罪悪感を認めたことになる、という抵抗もあって私は打ちひしがれた。


ふっとある本が思い出された。安田隆さんの「誰でも簡単にできる『気』の本」だ。ものすごく前に買って、パラパラ読んだ程度だけれど、その中の最後のページに、今の私のヒントがあったはずという確信が起きた。

藁にもすがる思いで、本棚を探し回り、この本をさがし当て、最後のページをめくった。




コラム⚫︎和解
もしあなたが、自分の全てを変えたいなら、黒い紙をかぶり、眼前に広がる黒の世界に向かって、次のように言い続ければいい。
「許してほしい、許してほしい」
(略)



福音に聞こえた。


最初に読んだ時には、奇妙な印象というか、「こんなネガティヴなことやりたくない」という抵抗心だけで、ほぼ素通りだったのに、今は、この意味がわかった。

私の中の罪悪感が、徹底的に罪悪感を感じたい、吐き出したいと言っているんだ、と。


クローゼットから黒いTシャツを取り出し、顔に乗せて、仰向けになった。

私のせいだ。私が悪い。私が全部悪い。
ごめんなさい、ごめんなさい、許してください、許してください。



ゆっくり心の中で、心がそうしたいように唱えていった。息子や夫や母や姉や、色んな人の顔が浮かび、そのエネルギーが感じられた。私がいろんな人たちに罪悪感をもって、いろんな出来事に責任を感じていることがわかった。もつ必要がないものであったとしても、私が現に持ってしまってきたものたちだった。

涙がとめどなく溢れて、溢れて、溢れて、止まらなかった。顔を覆ったTシャツがぐっしょりとぬれた。

だんだん頭がボーッとしてくる。放心状態。
本にも書いてあるけれど、やがて、一体私は、誰に何の罪で謝っているのかわからなくなる。私の罪の理由も。

私が何らかのきっかけで、その罪を、その悪を必要としたのだろう、ということだけがぼんやりとわかる。

15分くらい経っただろうか、しばらくして、Tシャツを顔から取り除いた。

身体が軽くなり、胸の中の錘が薄れ、視界が柔らかく明るくなった。相変わらず、頭だけがぼんやりしていた。


ああ、なんだろう。この感覚。

罪悪感は、消えていた。笑いさえ起きた。そして、自分がそこはかとなく愛おしい。



あれから、

この体験の後も、罪悪感はやってくる。小さいのも大きいのも、中くらいのも。

でも、罪悪感をエネルギーとして体験できたことが、私を根本的に変えた気がする。出せば、終わりなんだ、と。

ただ、この罪悪感があとどれだけ私の中に眠っているんだろう、っていうのと、この罪悪感を出し切るまでにどれだけの出来事が必要なんだろう、と考えると少々怖くもある。(笑)

まあ、でも、それを楽しむしかないのかな。今は、そんな風に感じる余裕ができた。



ちゃんと嫌う。ひとりで嫌う。

2016-09-10 12:05:05 | ひとりごと
むかし、こんな記事を書いていました。

人を嫌えなかったんだなぁ、私。今なら、この私に言ってやりたいです。

大嘘つきーーーってね。笑

その人の存在や言動で嫌な思いをしたり、できるだけ関わりたくないっていうのは…

あなた、それを嫌いっていうんですよーってね。笑笑

でも、嫌いって言っちゃダメな気がしてました。
嫌い、を否定してました。
自分の中の「嫌い」、を見ないようにしてました。

その人だって、いいところがあるみたい。
口は悪いけれど面倒見もいいらしい。
苦労人みたいだからね。
誤解されやすいんだよね。

そんな情報が耳に入ったり、自分の仲良しさんがその人を褒めていたりすると、そっちを取り込もうとする。頭の中で無理やり納得させようとする。

自分の「嫌い」という気持ちの方がおかしいのかな、って無意識に「嫌い」を殺そうとしてましたね。

誰かに共有されない「嫌い」は、間違っているということにしてしまってたんでしょう。

自分の感覚より、いわゆる「空気」を重んじてました。

でも、好きも嫌いも、自分の中から湧き上がってくるもの。ただ湧き上がってくる思いであり、感情です。本来、そこに良いも悪いもない。全部等価です。

ここが腑に落ちると、本当に楽です。

「嫌ってはいけない」という意識は、湧き上がるものを必死に抑えこもうとしている状態。抑えこんだものは、必ずよろしくないものに姿を変えます。

他の誰かが、ある人のことを好きと言っても、私が嫌いならそれは嫌いでいいんですよ。自分の「嫌い」を誰かと共有することで、その「嫌い」を正当化させようとする必要もないです。賛同した人の数が多いから、正しいというものでもないのだから。

だから、他人にももちろんご本人にも「嫌いです!」なんてわざわざ宣言することもない。


ちなみに嫌いな人って、自分が抑えこんでるものを投影している人ってことが言われます。つまり、嫌いな理由は相手にあるわけではなくて、自分の中にあります。

相手の「何か」に自分の抑えこんでいる「何か」が反応しているだけで、それを全くスルーする人には反応する「何か」がないのです。

その事実を受け入れたら、嫌いな人を攻撃する必要もなくなるし、その人を好きだという人がいてもいいわけです。

好きも嫌いも所詮は投影、感じる人の中に理由があるわけです。もっといえばその感じ方だって理由だって、何らかのトラウマだって、もちろん否定したりすべきものでもないんです。強いて言えば、癒されること、解放されることを待っているその「何か」に気づいてあげることですね。

でね、私の中の「嫌い」を殺さないで生かしておいてやると、その私の言いたいこと、自分の中で息を潜めて窮屈にしていた「何か」が息を吹き返し、報われ、終わっていきます。

「嫌い」が成仏されるんですね。そこに抵抗がなければ、やがて嫌いな人を嫌う理由も薄れていって、どっちでもよくなります。


矛盾しているようですが、自分のなかの「嫌いっ!」って感情を素直に認めてあげることが、嫌いな人への「嫌い」という感情の呪縛から解放されるための最初の一歩なんですね。









いい人やってちゃだめ。

2016-09-01 22:13:38 | ひとりごと
昔、仕事仲間のだれかから、

上に行きたいなら、いい人やってちゃダメなんだよ

って言われたことがあった。

その時は、悪い人をやるくらいなら、上になんていかなくていい、って、心の中で反発していた。

でも、上に行くかどうかは別にして、確かにいい人ばかりをやっていたら、自分が行きたいところにはいけない。

今は、そう強く思う。

いい人は、良い人でも、善い人でもない。
いい人、それは自分を殺す人だ。何よりも真っ先に自分を殺す人のこと。

それがクセになりすぎて、自動的になりすぎて、いい人というあり方が、自分を殺している自覚すらないかもしれない。

でも、殺したつもりの自分は決して死んだりしない。心の深いところに窮屈に窮屈に仕舞われていく。そして、じわじわ染み出てきては、勝手に人生の舵を切っていく。不幸な方へ、望まない方へ。私が、本当は行きたくない方向へ。

いい人ばかりやってくると、いい人をやめることはものすごくこわい。自分を殺した方がずっと楽に感じてしまうかもしれない。でも、その積み重ねは、殺した自分からの返り血を色んな形で浴びることでしかない。

いい人をしてきた人ほど、やってみよう。

あいさつしたくなかったらしない
お世辞が言いたくなかったらいわない
沈黙に責任を感じて話題を提供しなくていい
自分が悪くないなら謝らなくていい
笑いたくない時に笑わなくていい
要らないものは要らないという
できないことはできないという

悪ぶることとは違う。他人を殺すことでもない。ただ、自分の心のままに、その欲求に従ってあげるだけ。

自分につながる人たちとの関係の中で、社会の中で、自分を「いい人」という名の調整弁にしてはいけないんだ。

「いい人」に殺されてきた自分を救おう。


私は私にどんな言葉を掛けているか。

2016-04-17 12:39:01 | ひとりごと
失敗した時、難しいタスクを背負わされた時、傷つく言葉を投げかけられた時、私の胸には、重苦しい実感が広がります。その実感に無意識でいると、身体全体に重苦しさが広がります。

これは、目の前の現象をジャッジした、その思考がキャッチされないまま、感情や体感に落とし込まれた状態です。


これを放置すると、私の中からエネルギーがどんどん奪われます。元気がなくなる時、私の場合、こうしたことが積み重なっていることが多いようです。

もちろん、思考のすべてが私のエネルギーを奪うわけではありません。エネルギーを奪うのは、何と言っても、「自分を責めたり、ジャッジする思考」。この思考が、不安や喪失感、苛立ちの感情や、重苦しい実感を生み、私のエネルギーをものすごい勢いで消費します。


思考の中でも、特に自分に向けて投げかける思考は、まさに自動的で、気付かないくらいの速さで瞬時に起こります。「思考」であると認識できないくらい、すでに私と一体化しているものが多いからですね。

そんな事から、こうした「自分を責めたり、ジャッジする思考」に気づくのは、だいたい体感・感情まで降りた後になるんです。


🔸🔸🔸

ここから思考の観察と置き換えを試みていきます。

まずは、体感や感情の種類から、思考をたどっていき、言葉にしてみます。

たとえば、何か失敗した時の自動思考は、こんな感じ。

あっ、またやった。
ダメなヤツ。
最近、失敗ばかり。
どうして、私はいつもこんな風なんだろ。
周囲から、「失敗ばかりする」と思われたかも。
また、失敗したらどうしよう。怖い。
対策、対策、ああどうしたら…。
どうせ、失敗してしまうよ。



難しいタスクを背負わされた時は、こんな風。

ムリムリ。
私には、荷が重いよ。
うまくできる気がしない。
助けてくれる人がいないかも。
クレーム、たくさん来るだろうな。
途方にくれてる自分の姿が目に浮かぶ。



これ、列挙するだけで、私が私をどんな人間だと思っているかがわかります(笑)。ちなみに、これらは全部事実ではありませんが、自動思考を私だと思っている限り、これは私の中の事実になります。


これを観察して距離を置くだけでもいいのですが、私は、違う思考への置き換えを試みます。


失敗の時は、

失敗しようとして失敗したわけじゃないよ。
私は、おっちょこちょいで失敗はよくするけど、大きな失敗はめったにしない。
あの人もこの人も、時には失敗してるよ。
疲れてるんだ、仕方ない。
失敗を責めたら、もっと失敗するから。



タスクだったら、

でも、あれだって、これだってできたよね。
意外と私はできる人かもよ。
助けてくれる人もいるでしょ。
100点とろうとしなきゃいい。
80点、60点でも十分。
最悪、どうにもならなくなったら「できません」って泣きつけばいいよ。
できるタスクしか降ってこないさ。


こんな風に、体感と感情が緩む思考を見つけて、自分の中に落とし込みます。そうすると、私の中のエネルギーがまた溜まり始めるのがわかります。元気が戻ってきます。


これが、あまりにかけ離れた思考だとダメなんです。「私は、絶対できる!」「必ずうまくいくはず!」とかね。自分の中になじまないだけでなくて、逆に緊張を生んだりしますからね。一歩だけ、半歩だけ、思考を変えて、自分が緩むのを確かめいく感じです。



最近、小さな失敗が重なって、こんなことを地道に実践しています。それで、つくづく思いますよ。

普段はもちろん、失敗した時や、困難に見舞われた時に、私が、私にどんな言葉をかけているのか。それが、本当に本当に重要なんだって。

私は、私から掛けられた言葉の集積によって造られるんです。そして、それを基盤にして、私がこの世の中をどう思うのか、私が他人をどう思うのか、が自動的に決まっていくんですよ。

私の人生、佇まい、もう、あらゆることが、私が私にどんな言葉を掛けて、私が、私をどう思っているか、に収斂されていきます。

だからこそ、私が、私に普段どんな言葉を掛けているか。小さくて、聞こえない言葉、やり過ごしている言葉の中に、私を責める声、私を貶める声、私を蔑ろにする声が大量に混じっていないか、に意識的に耳を傾ける必要があるんですね。




九州の空は、今日は快晴です。地震に痛めつけらた家々やひとの心に、優しい光が差し込んでいます。

熊本の傷はあまりに深く、癒えるにはまだまだ時間がかかりそうですが、被災された方たちが、ひとときでも、このすみきった青空を見上げ、明日の希望を見つけてくださることを、心から祈っています。

「私」を満たしながら。

2016-04-14 20:07:18 | ひとりごと
最近の自分の読書傾向のせいなのですが、こんなメッセージをよく目にします。


「私」なんていない。
「自我」を捨てる。
「マインド」が悪い。
「思考」が悪い。

「気づき意識」を育てる。
「魂」の声を聞く。
「真我」「ハイヤーセルフ」につながる。
「ハート」「仏心」で生きる。
すべての存在は「無我」。



全部、ぜーんぶ、ある一つの真実を伝えるメッセージだとは思うのですが、これだけだと、大切なことを受け取り損ねてしまうかも、と感じるんですよね。


それは、こういうこと。


私、自我、思考、つまり、私の介在によって起きる現象、「私」の世界が安定していないと、

もっと噛み砕いて言えば、「私は私」「私は私でいい」「私は価値がある」「私は善良だ」という、程よい自己肯定感と、「この世は比較的安全なところだ」「他人は概ね信頼できる」という、自分を取り巻く環境への基本的な信頼感が低いと、

「私」と自我と思考を超えた世界とつながることは難しいのではないでしょうか。


「私」が満たされていない人、自我が安定していない人、思考が極端にマイナスにふれる人が、いきなりそっちの世界を覗こうとすると、ものすごくバランスを欠いてしまう、ということが起こり得る気がするのです。

例えば、自我の弱い人に、自我を捨てなさいなどというメッセージは、さらに自己犠牲的な意識を課すかも知れません。そうなると、満たされていない自我が暴れだすか潜在意識に抑圧されるはずです。

自分を観察する、見つめる、というあり方も、ある程度安定した自我がいないと、観察ではなくてジャッジに傾きます。そして、その違いもわからなくて、途方に暮れることになるかもしれません。


🔹🔹🔹


子どもを見ていると、わかりやすい。彼らは、自我を全身にまとった存在です。その自我を満たしてやることなしに、彼らの心の成長はありません。

「私」なんてないのよ、などと子どもに教えても仕方がないと思うのです。まずは、自我のめざめを促し、「私」という土台を丈夫なものにしてやることの方が、うんと大切な気がします。

そして、満たすというのは、なんでもかんでも「私」の思い通りにする、ということではなくて、「私」の言い分を無視しない、「私」の声に丁寧に耳を傾けるということです。もちろん、必要であれば、その都度満たしながら。


結局は、大人も同じでね。

例えば、「私」を粗末にされてきた人、「私」を自分で粗末にしてきた人は、まずは「私」をはっきりと浮き上がらせることなんですよね。


「私」のために意見を言う
「私」の居心地のよい環境を選ぶ
「私」の好き嫌いを認める
時には、
「私」のために、怒る、泣く、戦う



自分に割り当てられた「私」をしっかり生きることをしないで、「空」だハイヤーセルフだと言っても、どこか虚しい。捨てたつもりになった自我の逆襲に合うだけなのかな、と。

つまり、「私」を蔑ろにしても、「私」は決して消えてなんてくれないし、逆に消そうとすればするほど、より力を得るのです。

「私はいない」という体験は、「私」が鮮明になって初めて、立ち現れる可能性を持つものなのかもしれません。


自我が安定している人も、悟りの領域に足を踏み入れている人も、人間というあり方を生きる限りは、「私」という土台を帳消しにはできません。自我から発せられる欲求がなくなるわけでもないでしょう。

どんな道も「私」を満たしながら進むもの、どんなあり方も「私」を満たしながら深めるもの。 そんな風に思うのです。












改めて、許すこと。

2016-04-06 07:51:01 | ひとりごと
前回紹介したウ・ジョーティカ師の書簡集「許すこと」を何度か読み返して、私なりにこんなことを考えました。

マインドフルを心掛ける時、自分を傷つける人や嫌な気分にさせる人、その人の言葉や行動に対して、人の意識は、こんな風に変化・成長していくんじゃないか、と。

反応する
(責める、仕返しする、怒る、自分を責める等)


離れる


構わない


許す


まずは、「反応する」。怒る、責める等は、いたって普通の反応。負の意味において、相手や相手の言葉、行動に積極的に関わっていく姿勢です。

自分の心には1番負荷の高い意識の状態ですが、無意識に反応し続けると、中々そこから抜け出せません。


そして「離れる」。相手や出来事から自分の心を離していくという意識。避ける、関わらないとも言えます。「嫌いな人とは距離を置きましょう」というフレーズは心理学の本でもよく出てきます。

ただし、距離を置く、避ける、という意識は、その相手や出来事がどうでもよくなったというわけではありません。嫌な人や嫌な環境から逃げ続けることを余儀なくされることもあります。


さらに「構わない」。これが、今、私が一番目指しているというか、気に入っている意識のあり方です。

自分を傷つける人、不機嫌な人、苦手な人、のその言動や態度には構わない。これは、関わらないというのと近いのですが、関わらないのが視界に入れない、そっぽを向くというイメージなのに対して、関わりはあっても、視界に入っても、こだわらない、自分の心にダメージを与えさせない、というイメージです。


最後の「許す」は、自分を傷つけた相手を理解して、慈愛を向け、共感するということを含みます。最初の反応が、負の関わりだとすると、こちらは正の関わりです。相手や内容によっては、簡単にできる場合もありますが、多くの場合は、最難関の道です。


これらの、意識のあり方は、相手や出来事によっても変わりますから、優劣を一概に言えるものではありません。

例えば、誰かにいじめられたら、まずは怒ることが必要な場合もありますし、何より関わらないことが最良な選択の場合もあります。

自分を誤魔化して許すふりをするくらいなら、反応する自分に素直になり、思い切って反論した方がずっといい場面だってあるわけです。


ただ、大ざっぱな言い方をすれば、下の意識に向かえば向かうほど、下の意識が自然になればなるほど、もう誰かに簡単に傷つけられる、傷つけさせる自分ではなくなっているということです。

自分の価値が、他人の言動に左右されない状態、他人に自分の心の平和を奪われない状態です。まさに自由の境地です。


🔸🔸🔸

ところで、
5年ほど前に、私、こんなブログ「許すとか、許さないとか」を書いていました。

結婚してから何年目かの、夫婦の危機があり、「許すこと」が、私にとって、大きなテーマになっていた頃です。

夫がしたことによって、私は傷ついた、傷つけられた、私は被害者なんだ、と大騒ぎしました。反応しまくりました。夫を責めて、責めて、責め倒しました。

夫がしたことは褒められたことではないけれど、世の中には、多分、同じようなことが起きても、それほど反応しない妻だったり、傷つけらたと思わない妻も一定数いるんだろうな、と今になるとわかります。

それなら、私と、その妻と何が違うか。それは、夫のしたことと自分の価値を結びつけるかつけないか、だと思うのです。自分を被害者にするか、しないか、だと思うのです。

もちろん、ある出来事には反応しない人でも、別な出来事になると多いに反応する、ということは普通にありうることだと思いますけどね。


そして、自分の文章を読み返して、はたと考えました。

今なら、今の私ならどうするだろう、夫が同じことをしたらどうするだろう。

まあ、その場にならないとわかりませんが、夫を責めたり、夫に呆れたりはしても、恐らく、私自身、昔みたいな傷つき方はしないだろうな、被害者にもならないだろうな、というのは感じます。

何故か。

それは、夫を含めて、他者の言動は自分の心に致命的な傷を与えられない、と少しは思えるほどに、私の心が強く、しなやかに、変化したからだと思うのです。この変化は、私の5年間の成長です。

この自分の心の変化を辿るとき、許すこと、の本質は、行為ではなくて、あり方なのかもしれないな、としみじみ思うのです。

自分の心を自分で守ることができる人、自分の心の平和を他者の言動に委ねない人は、他者に対して許すことを意識しなくても、すでに許している、許せる人なんですね。


ウ・ジョーティカ師は、「許すこと」の最後の方で、こう書いています。

私は、誰についても、もう許す必要もありません。私はオーケーということができる。

許す必要もないほど、すでに許しているということですね。師の心の境地です。


この人生の中で、とても、そんな境地にまでは辿りつけませんが、少しずつ、一歩ずつ、目指していけたらいいな。これが、私のマインドフルネス道でもあります。








負けられない時がある。

2016-03-31 13:17:51 | ひとりごと
『仏教思想のゼロポイント』の著者、魚川祐司氏が、テーラワーダ僧侶ウ・ジョーティカ師の書簡集を翻訳し、広く公開しているこのサイト

まるで宝箱のようです。見つけて、すぐに二つをダウンロード。

ティクナットハン師の、読む人を優しく包み込むような文章とは、また違う趣き。仏教書というよりも、高尚な心理学の教科書のようにも感じます。

師の人生における葛藤が包み隠さず書かれている、直截で、それでいて温かな文章に、すぐさま魅了されました。

興味のある方は、ぜひ読んでみてくださいね。マインドフルネスを実践している方も。読むだけで、瞑想効果がありますよ。




🔸🔸🔸

ただね、

実は、私、

許す

という言葉を見ると、

許さなければならないの?

と、心の中で反応が起きます。

師のおっしゃることは深い所で納得しますが、その深い所の別の場所で、反応というか、抵抗している部分があります。

物事のレベルにもよりますが、私は、きっと、とりあえずなんでも許すタイプでした。自分の感情を取り上げることよりも、許す大人であることを選んでいた、のかな。

笑顔で許しながら、実際には許せていない自分にすら気付かなかった。

でも、本当は、許せていなかったんですよ。そういう仕方での「許す」の後、師が言うように心が自由になったどころか、不自由になりましたから。

得体の知れない、濁った感情が、心の奥底に沈んでいきました。

本当は、責めたい
本当は、怒りたい
でも、許さなくてはならない
私は、許さなくてはならない


言うなれば、自分の本心を狭く暗い部屋に押し込めている状態です。

そして、そんな感情に出会いたくないから、特に、自分をぞんざいに扱う人、失礼な人、高圧的な人、感情的な人、つまり私を傷つける可能性が高いと察知する人の前で、萎縮し、そういう人たちが怖くなりました。

自分のこうした心の癖がわかると、「許さなくてはならない」という心の動きは、結局は、許しているわけでも何でもなくて、ただ相手のエネルギーに負けているということなんだ、ということが腑に落ちます。


🔸🔸🔸


それで、ある出来事を思い出します。

テニススクールに通い始めた頃、私は50代くらいのある女性とウォーミングアップで軽いラリーをすることなりました。

彼女は、すでに相当な技術があり、スクール歴も長そうで、コーチとも他のスクール生とも打ち解け、体全体から余裕と自信を漲らせています。

初心者の私の拙いボールさばきにイラついたのか、それでも済まなそうにしないのが生意気と映ったのか、途中から露骨に嫌な顔をしたり、横を向いてしまったりするのです。

焦りつつも、そんなにひどい球でもないしなぁ、と思っていたところ、いきなり、

「今は、ボレーの練習をしてるんですよっ」


と明らかに強い怒気を含んだ言葉を投げかけられました。一瞬固まってしまい、全身から血の気が引きそうでした。

反射的に、

上手い人からしたら初心者のタルい動きに苛立つのかも

と、いつもの癖で彼女の言動を正当化する理由、つまり、私を傷つけた人を「許さなくてはならない」理由を自動思考しました。

でもね、やっぱり、許したくないって言う心の声も強くて。

ウォーミングアップが終わった後、できるだけ卑屈にならないように、ある種嫌みも込めて彼女に近づいて言ってみたんです。

「初心者で、うまくできなくてすいません」


彼女はバツが悪そうに、目を泳がせ、横を向いて軽く頷きました。今度は、バツを悪くさせた私に怒っているようにも見えました。

その後、一時間のレッスン中、私の全身には怒りと惨めさと悲しさとが激しく渦巻いていました。テニスには身が入らないし、その人にばかり目がいくし、しかもその人のテニスは素晴らしい。

完全に、私の負け。その実感が一番こたえました。


ただ、レッスンの最後に面白い場面がやってきました。このレッスン最後のゲームが私に回ってきたのです。2ポイント先取のダブルス形式のゲーム。そして、彼女は、ネットを挟んだ向こうにいる。つまり対戦相手です。

いつもなら、やっぱりダメだろうな、とか、結局負けるんだろうな、とか思いがちな私が、この時、腹の底から思ったんです。相手との実力差は、全く話にならないのに、

絶対負けたくない。
絶対に勝つ。


ああ、あの時の自分の中に湧いたエネルギーを思うと、今でも泣きそうになる。

1ポイントとったあと、彼女の完璧なフォアのストロークが私に向かってきた時、私も向かっていった。そこに迷いはなかった。しかし、私ね、やっぱりまだまだテニスが下手クソなんで、返球したボールに勢いはなく、詰まるわけです。で、相手のネット際にフワンと落ちる。

でも、それが功を奏して、彼女は前のめりになってバランスを崩し、必死にラケットを伸ばすもボールに届かず。

2ポイント先取で私たちの勝利!

私、チームメートに向けてガッツポーズして、ハイタッチしました。こんな自分を、今まで知らなかった。

歓喜しつつも、でも、どこかで落ち着いていました。それで、確信したんです。

人には、絶対負けてはいけない時がある。
そして、私にとっては、
あのゲームの、あの瞬間がそうだった。



🔸🔸🔸

あそこで立ち向かわなかったら、気持ちで負けてたら、私、必ず引きずってましたからね。最初から「許すこと」を目指したら、「許さなくてはならない」という、不自然な思考に決着がつけられなかったかもしれません。

あの後、すぐに、心のわだかまりが消えたわけじゃないです。正直に言うと。

でも、許す許さない、ということとは少し違うのだけれど、大方どうでもよくなっていったわけです。彼女のことも、あの一件も。


師の言う「許すこと」が、自分の心を自由にさせてくれるというのは、とてもわかります。私も、いつかそういう人になりたいなあ、と心から思います。

ただ、人には必要なプロセスがあって、「許すこと」に意識を向けた途端、苦しい思考に捕まってしまうこともあります。(私のように。 )

それならば、「許すこと」以外の選択肢の中で、自分の心をいかに自由にするかを考えることもできるんですよね。私は、相手に負けないという体験によって、自分の心を解放しました。

もちろん、「許すこと」だって、そこに行き着くまでには、時間や葛藤が必要な事は、師がすでに語っているとおりで、「許すこと」までの道のりがまさに多彩なプロセスを孕んでいます。

そこに最初から抵抗がない人は、ダイレクトに目指せばいいのですよね。

さしずめ、私はまだ、例えば自分を傷つける人に対して、自分にとって何か理不尽さに出会った時にも、「許すこと」以外のプロセスを自分に許す段階なんだろうなあ、と感じているんですよね。

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少し長くなったので、今回はこの辺で。おそらく、また続きを書くと思います。