すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

ブログのお引っ越し。

2018-03-29 18:49:30 | ひとりごと
新しいブログに、お引っ越ししました。

また、気が向いた方は、お立ち寄りいただければ、幸いです。



すれっからし手帖 II ↓↓↓

https://irodori9.hatenadiary.jp/

バランスの取り方。

2016-11-30 08:25:41 | My メソッド
たとえば、

愛想笑いばかりしてきた人が、ある日、愛想笑いをやめました。

愛想笑い、というお守りを捨てる恐怖を受けいれるための、大きな勇気を振り絞った。怖いけれど、このままはいやだ。怖いけれど、やってみよう。

ドキドキしながら、後ろめたさに呑み込まれそうになりながら、覚悟を決めてやってみた。

こわいよー、
あれ?でも平気だ
こわいよー、
あたしすごい、強い人みたい

恐怖と解放感が交互にやってきた。やがて、恐怖が鳴りを潜めて騒がなくなった。脳が慣れたのかもしれない。

愛想笑いをやめても、恐れていたこと、は起きなかった。

嫌われたり、注意されたり、避けられたり、は全然起きなかった。

逆に、「今日、なんかあった?」って心配されたり、いつもは無愛想な人が挨拶してきたり、不思議なことが起きた。仏頂面の人をみても、怖い人だなとか、感じ悪いなとか、あんまり思わなくなった。むしろ同志みたいな気分になった。


それから、全く愛想笑いをしない人になった。そういうあり方を決めた。

愛想笑いをしないと生きていけないと信じていた自分を一段超えた。怖いことを避けるために使い果たしてきたエネルギーを取り戻し、もう怖いものはない、もう大丈夫と思った。

愛想笑いをする人に、「愛想笑いなんてやめなよ。心配しなくても怖いことなんて起きないんだから」と触れて回りたい心境だった。


やがて、
自分の中に、何とも言えない違和感を感じるようになった。胸のあたりがキューっとした。あえて言葉にするなら、力み、焦り、窮屈さ。その違和感は、愛想笑いをしていた頃に感じていたものになんだか似ていた。

それが強くなるのに比例して、周りの反応が変わったように感じた。避けられたり、注意されたり、誘われなくなった。愛想笑いをしていた頃に、恐れていたことが現実になった。


愛想笑いをやめたから?
やっぱりそうなの?

でも、愛想笑いをやめたときの解放感は、忘れられない。自分の気持ちに正直になって得られた自尊心は消えない。愛想笑いをやめた自分の勇気を否定したくない。


じゃあ、なぜ?
なぜ、こんなことに?

愛想笑いをしない人というあり方を決めた瞬間、
愛想笑いは、忌むべき、醜い行為になった。お守りだった愛想笑いが、倒すべき敵になった。

愛想笑いを敵とみなしたり、それを自分の中から締め出して再び侵入させないようにするためには、果てしないエネルギーが必要になる。切り捨てたはずの愛想笑いに、逆に足元をすくわれる。

愛想笑いをしたら、以前のように軽く扱われるかも、負けを認めるような気もする、自分で決めたことを破るなんて絶対にダメなことだから。

今度は、愛想笑いをする事が、自分にとって一番怖い事になってしまっていた。

恐れの対象が、すり替わっていた。

どうしよう。
こうなったら、やるしかない。
今度は、愛想笑いを。今の自分が恐れている愛想笑いを徹底的に。愛想笑いをやめた自分の勇気に報いるためにも。


さあ、なにが起きるのか。


🔸🔸🔸🔸🔸

生きずらさを産む自分の中の偏りは、恐れという形で現れる。その恐れを直視して、勇気をもって反対側をやろうとする。反対側に少しずつ馴染んではまりこんだ時、今度はそれが自分のアイデンティティになる。そして、元の偏りを無意識に敵視する、排除する。

でも、これはとっても大切なプロセス。こういうことを何度かやって、恐怖に注いだエネルギーを取り戻したり、すり替えたりしながら、バランスを取る。一つひとつ、実感しながら、体験しながら勝手にバランスが取れていく。

全体として、怖いものを避けるために使っていたエネルギーの量は、限りなくゼロに近づく。

どっちでも、いいわ。
最後は、勝手にそうなる。


反対側のあり方に挑戦してしばらくしてうまく行かなくなったら、元のあり方にあえて戻ってみるのもあり。大丈夫、反対側のあり方を実感した私は、前の私とは違うから。

今、自分は何を恐れているんだろう。
この言動は、このあり方は何を避けるためのものだろう。

自分に問いかけると、見えてくるかもしれません。

面白いなと感じた人、心当たりのある人は、ぜひ体験してみてください。





避けていることをあえてやる。

2016-11-20 13:43:57 | My メソッド
久しぶりの更新です。

錦織選手の今シーズンが終わった今日。ツアーファイナルの準決勝で、ついこの間まで世界ランキング一位のジョコビッチに、あっと言う間に勝ちを持ち去られました。惨敗ってやつです。チリッチに負けた時に感じた予感は、「やっぱり」という実感とともに現実となりました。

すっきりとした気持ちでシーズンオフを迎えたかったけれど、澱のように心を覆う悔しさと寂しさとモヤモヤ。一ファンの私はもちろん、ご本人も今頃似たような重い感情エネルギーを抱えていると思います。でも、どこかでこの感情に徹底的に浸るのも悪くないなぁと思っています。

いやいや、オリンピックの銅メダルをはじめ今年の錦織選手の活躍は評価すべき点の方が多いでしょ、なんて頭で感情を説得するよりも、この不快さを感じ切る。たとえ感じ切れず、残ったままでも、その不快さを受け入れる気持ちがあれば、その感情は、やがて違うもの、もっと素晴らしいものに姿を変えますからね。

まあ、どっちにしても、来年もファンはただただ応援するのみ。色んな感情を味わうのみ。逆に言えは、色んな感情を味わいたくて、錦織選手を応援してるんですからね。


すいません、独りよがりなテニスネタで(苦笑)。
さて、錦織ネタはここまで。

🔸🔸🔸

今日は、「行動」をキーワードに書いてみようと思います。

自分の中に湧き上がる感情や思考に意識を向けることは、瞑想に長けた人や、自分の内面と向き合うことが上手な人は、得意かもしれませんね。

ある出来事によって不快な感情が起きた時に、その感情を作り出した思考、さらにはビリーフ(自分が深いところで信じていること)を突き止める、というのは、自分の心のパターンをつかむ方法の定番中の定番かもしれません。

でも、パターンはつかんだけれど、なかなかそのパターンから抜け出せないってことも、あるんじゃないかしら。いや、そっちの方が多いかもね。何をかくそう、私もそれ(笑)。

見たら終わっていく
気づきを入れたら消える

なんてメッセージは理想ですが、長年のパターンが染み付いた心は、そんなに簡単でもない。

まあこれはこれとして、もっとシンプルな方法もあるんですよね。もちろんシンプルですけど、簡単ではありません。楽チンでもありません。(笑)

それは、自分の行動を見ていく
さらに、その行動を止めるということです。

たとえばね、

メールはすぐに返信する
愛想笑いがクセ
贈り物にはすぐにお返しする
自分だけ違うメニューを頼めない
体調が悪くても休めない
頼みごとをしない
仕事を手伝ってほしいと言えない
文句が言えない
先に帰ることができない
必ず自分からあいさつする
誘われたら断れない
手紙もメールも前置きが長い

などなど。

こうした行動から、自分が深いところで何を信じているのか、何を怖がっているかが見えます。

相手のために、とか、常識だから、とか、善悪のジャッジも外して、ただ自分がそう行動せざるを得ない理由、自分が何を信じているかを見ていきます。

たとえば、愛想笑い、という行動には、「無愛想な顔は、生意気と思われる」「どんな時でも笑顔でいることが大切」「笑顔でいれば敵を作らない」「素直な感情を顔に出してはいけない」といったビリーフがあるかもしれません。

でね、このビリーフが自分にあることを認めて、これは必ずしも事実ではないよな、思い込みの部分が大きいよな、さらには、このビリーフは自分を大切にしないよな、傷つけているよな、捨てた方がいいよな、と頭で理解できたとします。それは大きな前進ではあるけれども、自分のパターンは大概ビクともしません。

ためしに、その行動を止めようとする時に、どんな感情が湧いてくるのか想像してみます。多分、「怖さ」か「罪悪感」が強く湧き上がるはずです。少し湧き上がるけだけで、行動は止められる、というレベルのものなら、悩みの種にもなりませんし、生きずらさや何らかの心の症状も生まないでしょうね。

その行動をせざるをえない理由は、深いところで自分のビリーフが事実だと認識しているからで、そのビリーフから生まれてくる圧倒的な不快な感情を避けるためです。別の言い方をすれば、自分が作り出した架空の危険状態に自分が晒されないよう、健気なまでに「怖いこと」と「罪悪感を感じてしまうこと」を避け続けています。

でも、これは心の盲点なんですが、避ければ避けるほど、「それ」は怖くなり、実体を持ち、ビリーフを強化します。自分と自分の心を守るためにしてきたはずの「避ける」ための行動が、結局はもっと自分を危険に晒し、自由を奪い、生きずらさを植え付けます。


じゃあ、どうするのか。
はい、その行動を止めるしかありません。

止めたら何が起きるのか。
恐怖や罪悪感がやってきます。わんさわんさと出てきます。はっきり言って苦痛です。ジャッジしないように、とか、感覚として感じる、というアドバイスもよく聞きますが、どっちにしても気持ちのいいものではありません。だから、シンプルだけど、簡単ではないし、ラクでもないんです。でも、だからこそ逃げないで、あえて自分から迎えに行くつもりで、その恐怖と罪悪感を受け入れにいきます。

私は、PMSなど体調が不安定になると「忘れ物をする恐怖」と「過度に確認してしまう」という強迫観念と強迫行為がやや出てくる傾向があって(この話はまた機会があれば書きます)、少し認知行動療法の暴露療法も勉強しましたが、暴露療法では、こんな風にあえて不安にさらすことは「不安に慣れるため」で、さらされ続けることで不安が軽減されると説明されています。

私的には、不安に慣れる、というよりは「感情を味わう」「感じきって手放す」という表現の方が好きですね。感じたら感じた分だけ自分のなかにある不安の総量が減って自由になる、というイメージがご褒美感を与えてくれます(笑)。

心屋さんの言ってる「逆をやる」「やりたい事をやるためには1番やりたくない事をやる」や、セドナメソッドほかさまざま感情解放ワークも、EFTなどのエネルギー療法も、避けていること、抑圧している感情を受け入れるためのメソッドなんですね。おおざっぱに言えば。

避けていることをやるのは大変なことですが、でも、その避けているところにこそ宝物が眠っています。自分が注ぎつづけているかけがえのないエネルギーが眠っているんです。

色々試してみるのもよし、一本釣りもよし、ですが、どちらにしても、どのやり方にしても自分と向き合うことは外せません。そのための勇気と意志はもちろん、これは忘れがちになるんですが、続けられなかったり投げやりになりそうになる自分も認める、自分への寛容さが物凄く大事です。

この寛容さ、自己愛とも言えますが、この土台がないと、自分と向き合うというのはただの苦行になりますからね。子育てには父性と母性の両方が大切ですが、それと似ているかもしれません。

頭ではなくて、

行動して、体験して、
実感として受け入れたら終わる、
のでしょうね。

そして、そのためには、ドリカムではないけれど、「何度でも」「何度でも」「何度でも」です。

その人は、私だ。

2016-10-12 08:11:13 | ひとりごと
たとえば、

あいさつしても無視する人
相手によって態度を変える人
他人の悪口ばかりを言う人
いつも不機嫌な人
笑顔がない人
遠慮がない人
自分勝手な人

目の前にいる、その人に強く反応する私がいる。

嫌い、苦手、不快、一緒にいたくない。

ある時、
その人のその要素は、全部、全部、私の中にあるものだってわかった。

その人は、私だ。私なんだな。
私であってほしくない私。
私が見たくない私。

でも、
見えている、ということ、
反応する、ということが、
その何よりの証拠。

自分の中にないものはそもそも見えないし、
反応だってしないから。


否定して、押し込めて、受け入れたくない私のその要素が、私の前に現れて、私に何かを懇願しているようにも見える。
ここから出してくれ、って呻き声をあげているようにも感じる。


目の前にいる、
その、嫌い、苦手、不快、
一緒にいたくない相手を受け入れるんじゃなくて、その要素を受け入れるということ。
私の中にも、それあるよーって、受け入れること。

そしたら、
相手に反応しなくなる、というしくみ。


じゃあ、受け入れるってなんだ。

実際に、その要素を決行してみるのもいい。
不機嫌な人に不機嫌に返す。
あいさつしない人にあいさつしない。


でも、
もっとシンプルなのは、

その要素が自分の中にあることを認めること、
そんな要素がある「悪い私」も、
その「悪」さえもすでに許されているんだと信じること。


その人は、私だ。
そんな眼差しで周りの人を見るとき、私の中の「その要素」が、フーッとゆるむのがわかる。



お母さんが幸せであること。

2016-10-05 14:15:51 | 育児・母稼業
何日か前に、為末大さんが、「さすが」のコメントとともに、ツイッターで紹介していた記事。

はなまる学習塾の高濱先生のインタビューです。

お母さんが幸せであること。

このところ、母親としてのあり方、というか、「私、こんなんで大丈夫?」と痛切に感じることが続いて、ある時、それが臨界点に達しました。

それで、自分の中で、一つ覚悟を決めたところにこの文章が目に飛びこんできました。

自分が感じていることのまんまが、書かれていて、釘付けになりました。



私は、

「大丈夫だよ」


という言葉
その言葉の持つ、安心のエネルギー

ただ、それだけを欲していたんだってこと、安心に浸かりたかった、リラックスしたかった、そして、それはとても当たり前のことなんだと確認できたようで、嬉しかったのです。


どれだけ具体的な解決策をアドバイスされてもそれは、私をゆるめてはくれない。根拠がない安心に包まれた「大丈夫」だけが、私の、根拠のない不安をとかしてくれる。

これはもう、理屈じゃありません。


でもね、この「大丈夫」は、実は誰が言うかが大切なんですよね。付け焼き刃だったり、同情だったり、とりあえず、というエネルギーは、本当の「大丈夫」ではないからです。

本当に、「大丈夫」という安心の世界を生きている人の言葉じゃないと、響かないんですね。


じゃあ、この安心を誰に求めるかってことです。

夫、ママ友、母親、義理の母親、学校の先生、地域の人。身近な人に一人でもいれば、超ラッキーです。

でも、記事にもあった通り、核家族が増えて、夫も長時間勤務のストレス漬け、実家が遠かったり、実家が近くても味方のはずの実母から逆に「あなた大丈夫なの?」という言葉を浴びせられる環境だったりしたら…、不安はさらに膨張しますね。

私にも、身近にそんな存在が見当たらない。いや実際にはいるんだろうけれど、それを求める手続きも面倒くさい。


それで、私が一つ決めた覚悟というのは、


ザ・許し行(ぎょう)


の決行です。

私の中に、その安心を体現して、私をまるごと許している存在を作り上げるのです。

それは、普段、思考観察や瞑想をしている時の「気づき」よりも、もっと人情味があって、力強く、饒舌です。

不安になった時は、その存在に、徹底的に許しコメントを発射してもらいます。


◯◯してもいいよ。
◯◯しなくてもいいよ。
あなたがどんなことをしようと、
たとえ世間的に悪と呼ばれるものをしようと、
あなたが何もしなくても、
たとえ世間的に善と呼ばれるものをしなくても、
そんなことはどっちでもいい。

あなたは、許されている。
誰かに嫌われても、批判されても、ダメ人間と言われても、私はあなたを嫌わない。批判しない。ダメなあなたが好きだ。

あなたが一人ぼっちになっても、見放されても、一文無しになっても、あなたはあなたで大丈夫だ。

その感情もオーケーだ。
その悪口も、その態度も、オーケーだ。
作り笑いも、嘘も、不満、愚痴もオーケーだ。
全部、全部オーケーだ。




バカみたいなんですが、これが筋トレと同じで、数をこなすと、結構効果があります。

メッセージを受け取るたびに、涙が出るんですよ。ちゃんとゆるむ。

今までは、これの逆のメッセージをたくさん受け取ってきたわけですからね。最初は、親や周りの大人から毎日のように言われ、いつしか自分が自分に言うようになっていた。苦しい時は、特にそれが強く現れている。


◯◯してはいけない
◯◯しなければならない
その感情はだめだ
人に迷惑をかけてはだめだ
ちゃんとしないとだめだ
嘘をついちゃだめだ
人の役にたつことをしなさい



母親になってからは、

ちゃんと育てなくては
うまくやらなくては
ダメな母親、悪い母親と言われないように
ダメな子ども、悪い子どもと言われないように
子どもが他人に迷惑をかけないように
子どもが叱られないように
子どもが恥をかかないように
子どもがいじめたり、いじめられたりしないように


そんな否定、義務、制限、抑圧のメッセージを、自ら無意識のうちに取り込んできたわけです。これが私を縮こませ、着実に不安の上塗りをしてきました。

つまりこの逆の積み重ねをしたら、当たり前に逆の世界を生み出していきます。


自己満足の世界ですが、でも、本来の「気づき意識」もいわゆるハイヤーセルフも神様も、善悪を超えた全肯定の世界ですからね。私が作り上げた安心の存在と変わりません。うん。多分。


正直に言うと、最初はね、つぶやきながらも、「こんなこと許していいの?」「いや、それはまずいよね」という違和感や反発心もありました。実際には、上よりももっとエグいこともつぶやいてますから。

でも、突き抜けたメッセージの方がいいんです。これはいいけどあれはダメとか、そこまでは許されないよ、とかメッセージ自体に条件をつけて、バランスを取ろうとすると、安心のエネルギーは弱まります。

心配しなくても、ゆるむと、勝手にバランスが取れるから不思議です。



この許し行の決行から、ベタに楽になりました。私は、自分の中の不安が高まると、夫依存や夫攻撃か始まりますが、それがスコーんと抜けてます。夫にとにかく聞いてほしい、安心できる事を言ってほしい、という欲求が全くない。

私は、無条件に許されている。

このシンプルなメッセージが、大きな安心パワーを生み出します。

というわけで、許し行、しばらく続けます。