あれから、ひたすら、脳のことばかり考えています。
「脳を観察する私」という視点が気に入ってしまいました。あらゆること、自分の心に起きる現象を、脳が起こしている、脳で起きている、と考えてみると、ずいぶんと気持ちが落ち着きます。楽です。
これまでも、自分を客観的にみる癖はついていました。
腹を立てる自分、
イライラする自分、
その言葉に傷つく自分、
といった感じで、「私」と「自分」を切り離す作業。
でも、「自分」というワードは、「私」ととても距離感が近いので、「自分」=「私」の公式が自動的に発動して、客観的という実感は薄かったかもしれません。「腹を立てている」、「イライラしている」、「傷ついている」という出来事を俯瞰する力は弱かった気がします。何度も何度も飲み込まれましたから。
でも、そこに脳を登場させると、「私」と私の中で起きている「現象」にしっかりとした距離ができます。
私の中で起きている現象は、私の脳の癖が起こしている。しかも、その癖は生まれつきの性質と、これまでの人生で私の思考や感情が刻んだ台本によって形成されているということ。
もちろん、その癖は、良い癖でもなければ悪い癖でもない。ただ、そういう癖ということ。
腹を立てるのも、イライラするのも、その言葉に傷つくのも、脳の癖。
心、生き方、性格、っていう目に見えないもので私を表現するよりも、脳という物体を関与させることで、私という現象がよりわかりやすくなる気がします。
距離ができたところで、その脳の癖が、私(身体や魂とか)を苦しめるのなら、その癖を少しずつ、変えていこうという気持ちになれます。
ここで、少し違う角度からお話をします。
やりたいことやる、やりたくないことをやらない。
そんなミッションを掲げて生きていくことを楽しもうとしましたが、実は、わからなくなってしまうことがありました。
やりたいことってどこまでをいうの?
過度なネットサーフィン、夜中の暴飲暴食、二度寝、も、やりたいことと言えばやりたいことなんだけど。
やりたくないことってどこまでをいうの?
毎日の掃除、弁当づくり、きちんとした姿勢、もやりたくないことといえばやりたくないことだけど。
でも、ここにあげたやりたいことをやりたいままに、やりたくないことをやりたくないままにやっていたら、何かが、うん、私の中の全体が「苦しい」「すっきりしない」と言いだした。あるいは、言いだすことがわかっているのです。
それで気付いたのが、多分、やりたいこと、やりたくないこと、には、2種類あるってことです。
一つは、脳の反射・反応としてのやりたいこと、やりたくないこと。
もうひとつは、私全体(この中には脳も入る)のやりたいこと、やりたくないこと。
そして、私が探しているやりたいこと、やりたくないことは間違いなく後者。
さらに、その二つを見分けるのは、「気持ち良さ」なのかな、という着想が自分の中に生まれました。この「気持ち良さ」を感じている時というのは、まさに脳と私全体の双方が一致してる感じがします。
「掃除は面倒だ」と脳が言っていても、やってみると「気持ちいい」と私全体が言っている。ならば、掃除が面倒と言っている脳を説得するのが、脳を含め私全体が「やりたいことをやる、やりたくないことをやらない」ための最善の道ということになります。
大切なのは、説得であって、強制はNGでしょうね。「ねばならない」という発想をすると、ほとんどの脳は抵抗して、新しい反射を生んでしまうからです。脳の性格や台本によって、優しく促したり、サボることを認めたり、時に積極的に尻を叩いたりしながら、脳を説得するのがいいのかなって思っています。
最初からあれもこれもと欲張らずに、あくまで「脳くん、頑張って」「これやると気持ちいいよ~」という寛容なスタンスなんでしょうね。
もちろん出来なかったときには、間違っても「やっぱりできなかった」、「サボり脳め!」なんてののしったり、責めたりしたら逆効果。
出来なかったことはさらっと流し、出来たことを認めていく、というのも脳に気持ちよく働いてもらうためには必要なことです。
脳の観察、しばらくマイブームになりそうです。
ちなみに、軽いタブレット依存は、脳との駆け引きによりかなり改善。私の脳、頑張りました(*^^*)
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「脳を観察する私」という視点が気に入ってしまいました。あらゆること、自分の心に起きる現象を、脳が起こしている、脳で起きている、と考えてみると、ずいぶんと気持ちが落ち着きます。楽です。
これまでも、自分を客観的にみる癖はついていました。
腹を立てる自分、
イライラする自分、
その言葉に傷つく自分、
といった感じで、「私」と「自分」を切り離す作業。
でも、「自分」というワードは、「私」ととても距離感が近いので、「自分」=「私」の公式が自動的に発動して、客観的という実感は薄かったかもしれません。「腹を立てている」、「イライラしている」、「傷ついている」という出来事を俯瞰する力は弱かった気がします。何度も何度も飲み込まれましたから。
でも、そこに脳を登場させると、「私」と私の中で起きている「現象」にしっかりとした距離ができます。
私の中で起きている現象は、私の脳の癖が起こしている。しかも、その癖は生まれつきの性質と、これまでの人生で私の思考や感情が刻んだ台本によって形成されているということ。
もちろん、その癖は、良い癖でもなければ悪い癖でもない。ただ、そういう癖ということ。
腹を立てるのも、イライラするのも、その言葉に傷つくのも、脳の癖。
心、生き方、性格、っていう目に見えないもので私を表現するよりも、脳という物体を関与させることで、私という現象がよりわかりやすくなる気がします。
距離ができたところで、その脳の癖が、私(身体や魂とか)を苦しめるのなら、その癖を少しずつ、変えていこうという気持ちになれます。
ここで、少し違う角度からお話をします。
やりたいことやる、やりたくないことをやらない。
そんなミッションを掲げて生きていくことを楽しもうとしましたが、実は、わからなくなってしまうことがありました。
やりたいことってどこまでをいうの?
過度なネットサーフィン、夜中の暴飲暴食、二度寝、も、やりたいことと言えばやりたいことなんだけど。
やりたくないことってどこまでをいうの?
毎日の掃除、弁当づくり、きちんとした姿勢、もやりたくないことといえばやりたくないことだけど。
でも、ここにあげたやりたいことをやりたいままに、やりたくないことをやりたくないままにやっていたら、何かが、うん、私の中の全体が「苦しい」「すっきりしない」と言いだした。あるいは、言いだすことがわかっているのです。
それで気付いたのが、多分、やりたいこと、やりたくないこと、には、2種類あるってことです。
一つは、脳の反射・反応としてのやりたいこと、やりたくないこと。
もうひとつは、私全体(この中には脳も入る)のやりたいこと、やりたくないこと。
そして、私が探しているやりたいこと、やりたくないことは間違いなく後者。
さらに、その二つを見分けるのは、「気持ち良さ」なのかな、という着想が自分の中に生まれました。この「気持ち良さ」を感じている時というのは、まさに脳と私全体の双方が一致してる感じがします。
「掃除は面倒だ」と脳が言っていても、やってみると「気持ちいい」と私全体が言っている。ならば、掃除が面倒と言っている脳を説得するのが、脳を含め私全体が「やりたいことをやる、やりたくないことをやらない」ための最善の道ということになります。
大切なのは、説得であって、強制はNGでしょうね。「ねばならない」という発想をすると、ほとんどの脳は抵抗して、新しい反射を生んでしまうからです。脳の性格や台本によって、優しく促したり、サボることを認めたり、時に積極的に尻を叩いたりしながら、脳を説得するのがいいのかなって思っています。
最初からあれもこれもと欲張らずに、あくまで「脳くん、頑張って」「これやると気持ちいいよ~」という寛容なスタンスなんでしょうね。
もちろん出来なかったときには、間違っても「やっぱりできなかった」、「サボり脳め!」なんてののしったり、責めたりしたら逆効果。
出来なかったことはさらっと流し、出来たことを認めていく、というのも脳に気持ちよく働いてもらうためには必要なことです。
脳の観察、しばらくマイブームになりそうです。
ちなみに、軽いタブレット依存は、脳との駆け引きによりかなり改善。私の脳、頑張りました(*^^*)
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