すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

自由な毎日。

2014-11-29 19:55:10 | My メソッド
今の私は、

幼稚園児の「母」と、「ライター」としてのわずかな仕事と、日常生活に困難を抱えている人を対象にした「相談援助」の仕事の三つが生活の要になっている。あっ、一応、妻も、か。妻業は、相当、かなり、物凄ーくさぼっているけど。

稼ぎはとても少ないけれど、このバランスがこの上なく心地いい。育児も含めて三つとも好きなことだから仕事というより趣味に近いかも。じんわりとした達成感がいつもある。

いいトコ取りの生活で、ストレスをめったに感じなくなった。体調が悪かったりすると仕事しない日もあるし、NHKの「あさイチ」についつい見入ってしまった日には、今日の仕事はお昼食べてからにしよー!なんてこともしょっちゅう。気功とかママ友との付き合いとかがあると、いそいそと出かけていく。

ライター稼業の納期やら約束の訪問時間はもちろん真面目に守るけれど、どれもゆったりめなものしか受けないから、ほぼ自分の裁量で自分の1日を組み立てられる自由さがある。

以前の私だったらこんな自分を心から許可するなんてとてもできなかった。けれど、最近はそうでもない。変われば変わるもんだなぁとしみじみ思う。

人生の折り返しに来て、若い頃には美徳としていたシャカリキさに疲れたからか、違う価値観に比重を置くようになったからか、多分どちらもなんだよね。罪悪感もほとんどない。

こんな自分で、こんな毎日で、困ったことになったらその時考えようと思ったのだけど、今のところちっとも困ったことにならない。

むしろ、私の精神状態はすこぶるいいし、そのせいか不思議と夫も息子も楽しそうに見える。見えるだけでもないような気がするけど、どうなんだろう。会社や幼稚園は私の生活ほどは自由でもないけれど、だからといって2人から「ズルい」とも言われない。

今年の春まではフルタイムに近い状態で福祉系の事務仕事をしていた。朝早く起きて息子の弁当を作り、満員電車に乗り、夜になると延長保育に迎えに行き、インフルエンザシーズンには息子がかかって仕事を休む羽目になったらどうしようかとヒヤヒヤして、幼稚園が夏休みや午前保育の時には幼稚園児の息子の預け先を確保するために奔走したり。

お給料はそこそこもらって、「働いているママ」の顔ができて、自分の専門も役に立って、というのは確かに魅力だった。でも、肝心の私の気分、気持ちは置いてきぼりだったかも。

その仕事の契約更新をしないでゴールデンウィークに辞めた。更新を促されたとき「勤務日を週3にしてほしい」と条件を出したけれど飲んでもらえなかったのだ。勤務先が公的機関なので、イレギュラーの雇用が無理なのはわかっていたけれど、その条件を引っ込めてまで働くつもりもなく、再び無職になった。

自分が望んだこととはいえ、でも、実は、専業主婦に戻るのは怖かった。稼げない自分、外で働いていない自分、子どもとすごす時間が長くなるのが怖かったのだ。

怖い、怖い、と言いながら、でも腐らずになんとなく「やりたいかな」ということをやっていくことだけを考えた。そしたら、今の自由で満足度の高い生活が出来上がっていったというだけだった。

例えば、「ダンナが稼いでるからできるのよ」って言われたら、「正解」と答えるしかない。

でも、ダンナは稼ぐのが好きで得意なんだから、感謝はしても、卑屈になって自由な自分の居心地を悪くすることもない。



自由とくると、やっぱり義務は?となるのかな。

個人的には、
自由と義務は等分のセットなんだと思い込んで、というか、思い込まされてきたけれど、必ずしもそうでもないのでは、なんて思い始めている。

自由の範囲を広げてさらにそれに満喫すると、対極の義務は義務というより自由を美味しくしてくれるスパイスみたいなものになるんじゃないかな。だからスパイス担当の義務は等分である必要はない。入れすぎると辛くなるから、むしろ少なくするに越したことはない。ゼロにはできなくても、思い切って少なくしたって大丈夫。意外に怖いことは起こらなかったりする。

来年は、この生活を大切にして、「稼ぐ」にも少しだけこだわりたいな。どこまで行けるかな*\(^o^)/*


↑こんなラジコンがクリスマスプレゼントに欲しいらしい。




学級崩壊に、少しの勇気を。

2014-11-24 09:24:54 | 世の中のこと
小学生のお母さん集団でした。スーパー前の歩道で学級崩壊についての立ち話が白熱していたので、しばらく聞き耳を立ててみました。

「お兄ちゃんのクラス、今年は多動児ばかりが集まって本当に最悪。学級崩壊」

「◯◯小も、◯◯小もらしいね」

「若い先生だから、全然言うこと聞かないみたいで、授業も全然すすまない」

「先生が泣いて訴えると、響くのは普通の子どもたちで、多動の子達には全然伝わらないみたい」

「そういう子の親に限って、出てこないんだよね。保護者の集まりとか」

「学級崩壊するようなクラスになるかならないかは、はっきり言って運なんだよね」


背筋が凍り付きそうな会話でした。お母さんたちの、その冷たい物言い。自分さえ、自分の子どもさえ無事ならいいという感じ。なんだか、無性に悲しくなりました。


学級崩壊が起きているクラスって、本当は何が起きているんだろう。一般的な母親たちの意識が、その会話のトーンに支配されているとしたら、先生、子どもたち、学校、それぞれどんな気持ちでいるんだろう。


若い先生は?

初めて受け持つクラス。校長や親や子どもたちからダメな教師だと思われたくない。親のクレームは、校長からの評価にもつながるから特に怖い。このクラスは多動児さえなんとかすればうまくいくのに。多動児さえ。でも、どなっても叱っても無視しても彼らは全く言うことを聞いてくれない。でも、誰にも頼れない。どうせ助けてくれない。多動児に憎しみさえ覚えながら、でも、彼らに対して大きな罪悪感も抱えてる。教師失格。


クラスの子どもたちは?

あの子たちは悪いヤツら。先生を困らせて、授業もできない。お母さんも、困った子達だ、とんでもないクラスだって呆れてる。そうか、人と違うことをしたり、人に迷惑をかけると絶対嫌われるんだ。みんなと一緒にできないヤツ、和を乱すヤツは、大人に見捨てられる運命なんだ。あんなヤツらはイジメられたって仕方がないのかもしれないよな。僕は、絶対、あんな風にはなってはいけないんだ。


多動児といわれる子は?

ここは安心できない場所。怖い場所。僕の自由を壊す場所。優しい人もいない。おこられてばかり。いつ押さえつけられるかわからないし、従順に座ってるなんてできないよ。少しでも安心したいから、自分の世界に逃げたいから動いているんだ。ずっとずっと動いていよう。


学校は?

ベテランの厳しい教師なら、もっとうまくやれたろうに。新人だからこんなもんだろう。学級崩壊は、学校の責任というより、多動児の存在がある限り防ぎようがない。親からのクレームには、「そういう子たちは病気だから学校ではどうしようもない」というしかない。


多動の子の母親は?

学校の先生に会えば、息子の苦情ばかり。クラスの母親たちの冷たい視線だって、もううんざり。こういう子を持つ親の苦労なんてわかるわけない。誰もわが子を褒めてくれない悲しさだって、理解してくれる人はいない。学校は、みんな敵ばかり。そんなところに乗り込む勇気なんてない。


あくまで私の想像ですが、それぞれのこんな意識が透けて見えます。

実は、一番問題なのはクラスの子どもたちへの影響です。学級崩壊よりも、そのことを巡って大人たちの中に生じている異物と感じるものを「排除」する意識。これを彼らが生きる土台にすることがものすごく怖くありませんか?

「迷惑をかける」「人と同じようにできない」という理由で他者を排除する意識が強いと、そのベクトルは自分にも必ず向います。

自分がそうした境遇になった時に、自分が自分を排除したり、他者が自分を排除することを受け入れることにつながります。例えば障害者に対して偏見の強い人は、自分が障害者になった時に、自分を受け入れられない人が多いものです。


そんな人間に育てなければいい。

そう考える人もいるかもしれません。でもそれは無理です。人生の中で、誰かに迷惑をかけたり、多数の人と違う境遇に立たされる場面は必ずあります。

受験に失敗するかもしれない。結婚しないかもしれない。子供が欲しくても持てないかもしれない。生まれた子どもに障害があるかもしれない。不治の病にかかって働けなくなるかもしれない。リストラに合うかもしれない。自然災害で全財産を失い生活保護を受給することになるかもしれない。離婚してシングルマザーになるかもしれない。認知症で要介護になるかもしれない。

長い人生、ちゃんと、みんなと同じように生きられない状況なんて、いくらでもある。逃れる方が難しいのです。


みんなと同じようにできない他者を排除することは、みんなと同じようにできない自分を排除することに他なりません。


じゃあ、どうすれば。

学級崩壊を構成する意識の中で、もしかしたら誰かが小さな勇気を実践することで突破口が開けることもあるはずです。

たとえば、お母さんができることはないでしょうか。

少なくとも先生や多動の子や、その子の親の悪口で盛り上がることではない気がします。その意識が、もしかして、事態をもっと悪くしているのかもしれません。

若い先生を、温かな眼差しで応援することは難しいでしょうか。小さな勇気を出して先生を信じることはできないでしょうか。

「先生、のびのびとやってください。少しくらいクラスが騒がしくても、勉強が遅れても大丈夫ですから。どうぞ楽しいクラスを作ってください。応援します」

例えば、そんな温かな意識を向けられた先生の中になにが起こるでしょう。親からの非難やクレーム、そんなプレッシャーに注いでいたエネルギーが取り戻せるかもしれません。本来、その先生がもっている能力が動きだして、多動の子に対して本当に大切な粘り強い関わりができるかもしれません。

先生の意識が緩むと、子どもたちの多動の子へのまなざしも緩みます。クラスの雰囲気がかわります。

そして、多動の子にとってそこは居心地の悪い場所ではなくなります。彼らが何も感じない?そんなの嘘です。アウトプットの方法が異なるだけ。自分を受け入れてくれる場所だと分かると、彼らの問題行動は確実に減ります。全部を同じにできなくても、みんなと一緒にできる部分は増えます。

そうなると、彼の個性がたどる成長を先生もお母さんも、大人は、楽しんで見守る余裕が生まれます。

学級崩壊と聞くと、とかく何かを悪として、問題として吊るし上げます。それが悪だとして、問題だとして、自分はそれに加担してないと言えるのでしょうか。何かのせい、誰かの責任、そんな意識を止めることが一番の解決策だと思うのです。

はじまりは、きっと誰か一人の小さな勇気です。


photo by pakutaso.com







絵本「おこだでませんように」を買う。

2014-11-23 08:44:21 | 本・映画・音楽

息子が読んでいるのは、こちら↓

「おこだでませんように」

作者はくすのきしげのりさん。教員時代の実体験を基に書かれた絵本です。

おこられてばかりいる一年生の男の子が、七夕の短冊に、ある願い事をするというお話。おこっている側の、お母ちゃんと先生、その願い事を見て、大切なことに気づきます。

以前、息子のために図書館で借りて、びっくりするくらい心に沁みた本です。絵本でこんなに泣いてしまったの、初めて。Amazonのプレビュー読んでも、これまた泣けるコメントがいろいろ。必ずしも親や先生の視点でもなかったりして、またそれがいい感じです。

大人のための絵本という括りの本ではないのですが、大人の立場で読むと、果てしなく深い本になるんですよね。

子供の抗議には、抗議という形をとらない神聖さが宿っています。他罰的ではない、という神聖さ。

大人に直接向けられたのではないからこそ、本当の事が大人のエゴに引っかからずにダイレクトに伝わる時があります。その純粋なメッセージをきちんと受け取るためには、大人もまた無垢さを持ち合わせている必要があるんですよね。

手元に置いておきたくて、いつか買おうと思っていました。

昨日たまたま立ち寄った小さな本屋さんで、「あったら買おう」となんとなく決めたら、ちゃんとありました。なんだか、私のこと待っててくれてたみたいな感じで嬉かったりして。

息子は、図書館で借りたときは、それほどではなかったのに、昨日は別人。

本棚に、真新しいこの本を見つけると、突然音読を始めました。4歳児が音読するには、長さも言葉遣いも、それなりに高いハードルのものですが、なんとか最後まで読み通しました。

すすめられてもやらない音読ですが、自分てやると決めたら、頑張れるものなんですね。子供にとっても、それほど魅力のある絵本ということかもしれません。

お母ちゃんと先生の涙の意味は説明できない息子でしたが、男の子の気持ちには共感したようでした。

「おこられてばっかりで、かなしそう」

かわいそう、ではなくて、かなしそう、なんだそうです。

息子なりの、解釈というか、感じ方なんですね。深く意味を求めるのはやめておきますね。




ユマニチュード入門

2014-11-17 20:32:14 | 本・映画・音楽
『ユマニチュード入門』


久しぶりに社会福祉従事者として、心ゆさぶられる良書に出会いました。

専門書を読んで泣いたのっていつ以来かな。読み進めながら胸が熱くなりました。

簡単にいえば、見つめる、話しかける、触れる、立つ。この4つを基本にした認知症ケアの新しい技法を紹介した本です。

この4点にとことんこだわる技法は、ともすれば患者のための、患者の立場に立ったスペシャルケアとも定義づけられそうですが、ユマニチュードは決して患者のためだけに編み出された一方通行のケアではありません。

ケアする側とされる側「人と人との関係性」「絆」に着目したケアは、ケアする側にとってもスペシャルケアなのです。

なぜか。

清拭や入浴の場面で、嫌がる患者さんを無理やり誘導して職務を遂行するとき、「仕事だから。患者さんのためだから」といくら自分に言い聞かせても、ケアする側には真の満足はなく、そこはなかとない罪悪感が残ります。

しかし、ユマニチュードは、ケアする側のこうした罪悪感を排除するものでもあります。患者さんへの強制と義務を排除して患者さんの嫌がることをしない、患者さんの喜ぶ関わりをする。それが患者さんに快をもたらし、患者さんの快に共感することでケアする側にも快をもたらします。

私がしてほしいことをあなたにしてあげて、私がしてほしくないことはあなたにもしない。

あなたが嬉しいと私も嬉しい。


本当は当たり前のこと。でも、そんな当たり前の実践が難しくなっている介護の現場に、当たり前を持ち込んだ。ユマニチュードは、それが革命的なのです。


もう一つ感心するのは、患者さんを「立たせる」ことへのこだわりです。日本の多くの病院や介護施設では、患者さんを積極的に立たせたり歩かせたりはしません。職員の数が足りない状況で、転倒の心配があるからです。

このユマニチュードを編み出したフランス人のイヴ・ジネスト氏はいいます。

「転倒のリスクはあります。医療訴訟の不安はあります。しかし、ケアの専門家として、ケアを受ける人が得るものと失うものを本当にきちんと天秤にかけて考えているでしょうか…」

「よりよい健康状態を保つためには、転倒もそのなかで起こりうることのひとつである」

それを社会に訴えるべきだと。

理想論とは、思えません。

自分だったら、自分の親だったら、どちらを望むか。リスクのない無難を取るか、リスクのある快を取るか。

私なら後者です。私にとって生きているとはそういうことだからです。

それが私の答えだし、私のように考える人は多いはずです。

フランスや北欧は、リスクを負うことや失敗に対する徹底した寛容さがある国なんでしょうね。だから、こんな思想が認知症の介護ケアにも生まれるのでしょう。

ユマニチュードはケアする側もケアされる側も誰も犠牲者にしない、人間としての尊厳を持って最後まで遇し遇されることに妥協しないという強い意思による哲学が流れている気がします。

哲学が貫かれた技法は、決して魔法ではなく、時間をかけてケースを読み解き洗練されたものですから、本来はどこでも実践可能です。

あとは、勇気。

病院や施設のトップ、そして援助職一人ひとりにリスクを引き受ける勇気さえあれば、ユマニチュードは実践できます。

私は、身体介助をする援助職ではありませんが、ユマニチュードの哲学は私の現場でも適用可能。

きっと、教育場面でも活かせるはずですよ。



やりたくないことをやらないために。2

2014-11-15 13:33:45 | 育児・母稼業
前回の記事。

幼稚園の執行役員の選挙の日を迎えた。

開始から、30分もたたないうちに、選挙終了。

異例の早さと言われ、役を免れたお母さんたちから歓喜と驚きの声がわきあがる。その高揚感の証として、彼女たちはまるでとんでもない奇跡が起きたといわんばかりに、あるいは革命を起こした英雄たちを褒めたたえるみたいに、会場の壁の方に向かって大きな拍手を浴びせた。

その先にいるのが、新役員達4名。

AさんとMさんと私。年少の時に同じクラスで仲の良かった私たち。
そして、会長Nさんは2歳児クラスの時のお友達。

そう、あの、みんなが鼻つまみする執行役員に、私を含め4人が立候補した。


photo by pakutaso.com



さてどうなるか、という心境だった朝早くに、LINEの電話が鳴った。Aさんから。来たか、やっぱりなあと思った。私、この人からの電話を待っていたような気がする。

「Mちゃんとバスの見送りの時に話したんだけど、彼女執行役員やってもいいって言ってる。くじとかゴチャゴチャするのいやだからって。私もそれならって。ねえ、あやせ(私)ちゃんもやらない?どうせやるなら気心の知れたメンバーでやらない?」

Aさんと私は同世代。好き嫌いがはっきりしていて、嘘のない彼女に私は信頼を置いていた。でも、彼女は上の子の小学校の役員もやっているので、Mさんと話すまで立候補には積極的ではなかった。会長職も無理という。

Mさんは30代の男の子ママ。柔らかい雰囲気の人で、誰とでも垣根なく話せる人懐こい人。今回のきっかけを作ったのは彼女だから、「芯が強い」「信念の人」というイメージが彼女に加わった。

私は、もう、即答である。
「うん、わかった。やろうか」
すでに、自分自身、意外でもなんでもなくなっていた。

選挙の少し前に集まって、3人で簡単な意思確認。やる気はあるけど、みんな「会長だけはできない」という点で揺るがなかった。私も、さすがに会長まで引き受ける勇気はなかった。でも、くじで決まる会長というのでは、モチベーションが上がらない。うん、困った。

そこを、2歳児クラスの時に同じだった色白美人でまさしく聡明な学級委員タイプのNさんが通りかかった。すかさず、姉御肌のAさんが声をかける。

「ねえ、役員一緒にやらない?」

「えっ、ああ、うん、いいけど。やるならやってもいいよ」

彼女もほぼ即答である。Aさんは畳掛けるように言う。

「ねえ、会長やって。お願い。私たち全力で支えるから」

「えっー、それは無理無理。いやー、それは」

というNさんだが、なんだか押せば引きうけてくれそうな予感。私も、一緒になって「やって~」と頼み込む。

しばらくもがいていた彼女、意を決したように、ある時現職の会長が待機していた隣の部屋を訪ねる。

「どんな仕事か聞いてくる。それで、やるかどうか決める」。

なかなか戻らない。10分、それとももっとだったかも。

ヤキモキしていた私たちの元に、やや紅潮した顔で戻ってきたNさんは告げた。












「やるっ!」







「お~」


拍手で迎えながら、胸が熱くなった。
その勢いのまま、私たちは会長以外の役割を適当に決めて、セットで立候補したのである。Aさんがあたりをつけて声をかけたメンバーがすごい確率で「OK」の即答したところを見ると、他にも立候補する人がゴロゴロいるのではとも思った。ところが、「立候補する人いますか?」の声に反応したのは、この4人だけ。

4人が手を挙げると、「えーっ!」とい
う悲鳴に似た声が一斉に沸き起こった。その声に、一番驚いたのが4人だった。

会長職を引き受けたNさんがポツリと言った。

「はじめて正夢を見た」

朝方まで眠れず、見た夢が何と、会長になる夢だったのだとか。無意識の世界で起きたことに素直に従った彼女は、まさしく勇気のある人である。私たちに背中を押され、自ら清水の舞台から飛び降りた人。


後日確認したところ、メンバーすべての考え方はほぼ一致していた。

「仕事を楽しもう」「ゆるもう」「ママたちの義務と負担を減らそう」「おかしいと思うものは変えていこう」「空気を読んで行動するのはやめよう」「自分たちが納得する仕事をしよう」

そして、

「私たちがこの幼稚園を心から好きになりたい。誇りに思いたい。そのためにできることを考えよう」。


選挙の次の日からしばらくは、「泣きそうだった」「鳥肌が立った」「このメンバーなら執行役員をやってもいいと思ったくらい」「頼もしい」「すごい、信じられない」「なんか、変えてくれそう」というメッセージをいろんなママたちから受け取った。


幼稚園の役員でこんなドラマを生むってすごくないですか?


幼稚園をよくしようとか、皆がやりたくない仕事を引き受けたとか、大変なことに自ら足を踏み込んだとか、そんなものでもないのだ。

私たちは、ただ自分たちの心の中の「やるかー」の声に素直に従っただけ。やりたくなかったことを、やりたいことに変えただけなんだ。もちろん、それぞれがありったけの勇気を出したのはウソじゃない。

私たちは私たちのために、私たちが納得した仕事をしよう。それが、他の人から見たら「失敗」かもしれないし、「ひどい執行役員」になってしまうのかもしれないけれど、それでもいい。

でもね、きっと、私たちが心から楽しむことをめいっぱいやれたらね、その先にはさ、幼稚園のママたちや子どもたちにとってもイイこと、私たち役員としての本当の「成功」が待っている気がするな。それを素直に信じられるれるのも、実は私にとって奇跡だったりする。


今は、まるで青春ドラマの登場人物になりきっている私たちです。

あー、楽しい!


(この後、すごい爆弾事件が降ってきた。)

またいつか書きます。

















やりたくないことをやらないために。1

2014-11-12 16:54:03 | 育児・母稼業
夏の初め頃からかな。

ある一つのコトが心に引っかっていてそれをどうにかできないものかと、引き寄せ関連のブログを覗いたり、「ツキの正体」という伝説の雀士の本を読んだりした。

どこまでマジメにかはわからないけれど、目に見えない力で、それをどうにかする術をさぐっていた。

だって、それはジャンケンとかくじとかで決まるものだから。運とかツキとかがすべて。実力とか努力とかでなんとかなるシロモノではないものだから。


そのコトとは、幼稚園の役員選挙。


クラス役員ではなく、執行部の役員で、学校でいったらいわゆる生徒会みたいなもの。



たかが幼稚園の役員。

私も最初はそう思っていた。何なら引き受けますよと。

だって姉やすでに小中の子どもがいる友人から聞いた幼稚園の役員は、負担も少なく、楽しそう。ママ同士や幼稚園の先生たちと仲良くなれるチャンスだよ、とも言われた。

でも、古い伝統を守っている息子の幼稚園はどうやら様子が違った。執行役員は義務と強制と犠牲に縁取られた世界というのがママ達の語り草。

執行役員になると、園側やOBの空気を読み、母たちからの不満を受け流し、フルタイムの仕事並みに忙しく、でも誰からも有り難がられるわけでもなく、粛々と目の前にあるものをこなしていくことを求められる。

それも、ホントか盛り過ぎなのかはわからないけれど、とにかく執行役員の大変さを物語る悲惨なエピソードは、枚挙にいとまがないことだけは事実だ。

そんなわけで、良くない噂がさらに良くない噂を呼び誰もがまるで伝染病を怖れるように、執行役員だけにはなりたくないと忌み嫌う。

普通の幼稚園だったら仕事をしているママに代わって「私がやりますよ」と進んで役員を引き受ける人も少なくないという。

もちろん、息子の幼稚園のママたちも基本「私がやりますよ」精神は強いと思う。

でも、そうした人たちをしても、「この園の役員だけは申し訳ないけれど気安く引き受けられない」ということになる。

だから、立候補する人もめったにいない。基本的には、じゃんけんとくじで決まる。「黒い服だと当たりくじを引きやすい」といったジンクスまでもが語り継がれている。くじを引いて毎年泣き崩れる人がいるというのも事実らしい。

執行役員の対象者には、子どもが年中の秋になると「役員選挙のお知らせ」なるものが届く。通称、赤紙。

そこには、執行役員の選挙の日にちや段どりなどが、細かく細かく書いてある。「絶対に逃げられませんよ」の気迫十分なお知らせである。もう、これを手にしただけで、テンションガタ落ち。

ちなみにこの赤紙が届くのは、クラス役員を経験していない人で園児の下に子どものいない人40名くらい。

この対象になりたくなくて、母たちは年少児から必死にクラス役員になろうとする。クラス役員も、おそらくその辺の幼稚園とは比にならないくらいに忙しいと思うのだが、「執行役員だけには絶対になりたくない」という執念がそうさせる。


何を隠そう。私は、今年、その恐怖の執行役員の候補者だったのだ。クラス役員に立候補するという逃げ技は使わなかったけれど、でも仕事もあるし執行役員だけはやりたくない、と思ってきた。


この執行役員をやりたくなくて、空くじを引く方法、じゃんけんに勝つ方法を編み出すために、子供だましみたいなツキとか引き寄せとかに興味を持ったというわけ。

自分でも笑っちゃうけど、でも結構本気だったのだ。



ところが、いろんな本の影響もあったのだろう、最初の思惑とはよそに、私の意識はどんどん違う方向に向かう。じゃんけんもくじもどうでもよくなっていた。


「執行役員は絶対にやりたくない」という気持ちが、知らない間にゆるくなっているのに気づいてしまった。


「ぜったいやりたくない。誰かやってくれないかな」




「くじ引いたらやるしかないか」



「仲のいい人とだったらやってもいいか」



「やるなら、いい仲間とやることになる気がする」


にまで変化していく。


ついでに、私の中に萌してきた、


「やりたくないことはやらない」



という生き方への羨望と実践。


やりたくなかった執行役員をくじて引いたら、やりたくないことをやることになる。それは、やっぱりイヤだ。


さあ、どうする。


役員選挙の前日にも、さすがに立候補には気持ちが向かなかった。ただ、モヤモヤした気持ちか静まり、なんだかワクワクするような、不思議な予感か私の中にあった。


(つづく)



錦織選手のしなやかな生き方。

2014-11-11 17:07:39 | 世の中のこと
錦織圭選手の快進撃が眩しいです。

甥っ子が、錦織選手の顔ともう瓜二つってくらい似てて、以前から勝手に親近感を覚えていました。

あれよあれよと言う間に世界ランキング5位。上位8位までが出場できるツアーファイナルでは、すでに初勝利をおさめました。(って、テニスにとりわけ詳しいわけではありません。(^_^;))

今朝の朝日新聞の記事では、錦織選手が前日から入念にイメトレに励んでいた様子を紹介。

「絶対に雰囲気にのみこまれると思ったので、会場に入るところから頭で想像して」

「スタジアムを見上げたら、さらにその上に何段も観客席があって、見たら終わりだなと(略)」


スタンドを見て動揺しないように、試合中は視線を上げなかった錦織選手のコメントから、この人の強さは自分へのまなざしの柔らかさだな、と思いました。

「雰囲気に呑みこまれる」という弱点を素直に認め、「見たら終わり」だからあえてスタンドを見なかった。

弱点を拙速に克服しようとしたり無理にごまかしたりしない。自分の苦手をつつかず、「フェデラーだったら、観客席の方を見るんだろうな」とか人と比較して、落ち込んだりもしない。

それも、ある種の強さですよね。今時点の自分の最良を選んでいる。

やがて、大舞台の場数を踏み、さらに一回りもふた回りも大きくなった時に、そんな雰囲気すら楽しめるようになっているのかもしれません。自然な形の弱点克服です。

錦織選手の最近のインタビューを見ると、試合に負けた時にも、悔しさをにじませつつも、卑屈にならず、素直に敗因を認め語る姿にすがすがしさを感じます。チャンコーチのイメトレ、メントレの効果も大きいのでしょうね。

苦手を認めてあえてそこには触れず、ひたすら得意を伸ばす。

錦織選手の、そんな、しなやかな生き方を想像させられます。

凡人の私は、それを免罪符にしちゃいそうですが、でも、それでいいような気もしたりして。

苦手に目を向けない自分を、罪悪感なく、許可できれば。

これも、自分を認めるってやつですね。

ちなみに、私はイチロー選手も好きですが、彼だったら、もっと足掻くんだろうな、あえて自分の弱点に触れていくんだろうな、なんて勝手に想像します。違うかな。

イチローの負けん気の強さ、自分をとことん追い込む姿勢も、もちろん魅力的なんですけどね。好きというだけで、とても真似できませんが。




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芋掘り体験で泣いた日のこと。

2014-11-06 17:09:03 | 日記・できごと
スーパーで見つけたでっぷりしたさつまいも。

週末には、親子3人で初めてスイートポテトを作った。粒つぶが残った垢抜けない味でも、息子は大満足で、

「また、作って~」

と満面の笑み。

手作りのおやつってめったに作らないけれど、こんなに喜んでもらったら、また作ろうか、って気になる。

残ったさつまいもでとりあえず煮物を作って、お弁当に。



そもそも、ベネッセの子どもチャレンジのテキストに出てきたサツマイモのページに釘付になった息子が、

「芋掘りをやりたーい」

「さつまいものおやつ食べたーい」

と言い出したのが、ことの発端だった。

そろそろベネッセやめようかな、と思っても中々やめられないのは、息子が時々こうやってベネッセの教材や付録に異様に食いつくからだ。

ちなみに芋掘りの方は、まだ実現していない。都会ではイチゴ狩りより、意外に難しいのが芋掘りだったりする。田舎の秋には、日常なんだろうにね。


芋掘りといえば、
昔、記者をしていた頃のことを思い出す。

田舎町の議員が選挙違反で逮捕された事件を取材した日のこと。

議員の家を訪ねると、人の良さそうな田舎のおばさんが出てきた。イメージしていた議員の奥さんとは、程遠かった。

取材の理由を告げると、おばさんの表情は少し曇った。でも、

「じいさんは、なんでも人にあげたい人で、バカだよ」

というと、すぐに柔らかな表情になった。

それからどんなやりとりがあったかは覚えてないけれど、おばさんがせっかくこんな田舎町まで来てくれた若い女性記者の私に珍しい体験をさせてくれるという。

連れて行かれたのは、おばさん所有の畑。おばさんはトラクターに乗り込んで畑を耕しながら、私に芋掘りの指南をした。土の中に手を入れると、さつまいものでっぷりした感触。なんか、懐かしいような不思議な感じがした。

私が楽しそうに芋掘りに夢中になると、日によく焼けたおばさんの顔はほころんで、すごく嬉しそうだった。

暗くなってきた頃、おばさんは掘ったさつまいもをビニール袋に入れて私に手渡すと、今度は自宅へと導いた。

私を玄関に待たせて、中に入ったと思ったら、しばらくして何か袋に入ったものを手に持っていた。覗くと、栗やさつまいものたっぷり入ったおこわだった。お店でも売ってないような、具のたっぷり入った美味しそうなおこわ。

私に持っていけと言うので、もらえないと返すと、おばさんは優しい笑顔で言った。

「あんた、一人暮らしなんやろ。うちにはいっぱいあるから遠慮しないで食べて。今度は、ツレも一緒にくるといいわ」

記者として、こういう時の身の処し方の正解はわからなかったけれど、1人の人間としては気持ちよくいただくのが筋だと思った。


帰り道の車の中で、私はいっぱい泣いた。恥ずかしくて泣いた。議員を逮捕した捜査官が「終わったから、さあ、ゴルフいくぞー」とほくそ笑んだのすら許せない気持ちになった。もちろん自分のことが一番許せなかった。

丸腰のおばさんに、私はいかつい名刺を出して、正義の人みたいな顔した。

そんな私から逃げてもいいはずなのに、おばさんは、おそらく誰にでもするように、手厚くもてなしてくれた。

もちろん、
「じいさんのこと、悪く書かないで」とか、
「じいさんは悪くないんだ」の言い訳もなかった。

そこには、マスコミ人の私への媚びも恐れも微塵も感じない。

ああいう人に、正義を説くことのおろかしさ。本当の正義なんて知らない私の未熟さと、若さ。


そんな積み重ねで、記者の仕事は三年半でやめてしまった。合わなかった、とか、イヤな世界を見たくない、とか、そんなかっこいい理由じゃない。

いろんなことを、キチンと飲み下せず、自分にも仕事にも厳しすぎた。バランスが悪すぎた。ダメな自分をダメと認めることすら苦しかった。

でも、今は、あの仕事をして良かったとつくづく思う。

他の仕事をしていたら感じなかったことをたくさん感じて、悩まなかったことを吐きそうになるほど悩んだ。

あの日々は、今の私にはなくてはならない日々なんだ。




さつまいもで、あの大きくて、あったかいおばさんを思い出した。息子に感謝だね。



「良い」を言いすぎると、問題が生まれる。

2014-11-04 10:36:04 | 世の中のこと
脳腫瘍で余命半年を宣告されたアメリカの29歳の女性が、「尊厳死を選ぶ」という本人の予告通り、亡くなった。

昨日の夕方、NHKがニュース7で詳しく報じていたのを見た。

尊厳死についてあれこれ考えるというよりも、映像で見た、まだ生命力にあふれた若い女性が、この世から消えてしまったという事実に「淋しい」という感情が湧く。

でも、そんな彼女が辛い闘病と死の恐怖を超えて出した結論だから「尊い」とも思った。

彼女の選択について賛否両論あるという。

当然だと思う。

個人的には、わざわざ安楽死をメディアに予告した女性の行動と、それをセンセーショナルに扱うニュースに、なんとなく違和感を感じた。


尊厳死や安楽死の問題は良い悪いの問題ではないと思う。正しい正しくないの問題でもないと。

そうしたいと思う人と、そうしたくない人がいる、だけ。

だからわざわざ両者を対立させる必要も、もちろん妥協させる必要もない。

彼女の選択も、反対する人たちの非難のコメントも、大きく取り上げることで、対立を鮮明にすることで、かえって両者の選択や意思の尊厳に傷をつけてしまった気さえする。


こういうニュースを過剰に伝えることが、つねに問題を作る。争いを生む。


もともとは違う考えの人たちがいただけなのに、どっちのメリットとかデメリットとか、どっちがいいとか悪いとか言い出した時点で、問題が生まれる。

何かを「良い」と言いすぎることは、その何かの反対側にあるものの「悪い」につながる。反対側にある人の多くが、そうして反発したくなる。

その構図はどこにでも転がっている。


少し前、母乳の成分が子供が将来かかる生活習慣病のリスクを減らすというニュースに、とある女性漫画家が「こういうニュースがどれだけ母親に影響を及ぼすか」と怒ってツイートしていた。母乳育児推奨に大きく偏っている時代、確かにミルク派や早く断乳したお母さんは肩身が狭いかもしれない。

それに対して、「ただ客観的事実を述べているだけでは」とRTしている母乳育児のお母さんもいた。感情的とはとれなかった。

2人の間で何度かやりとりがあって、そしてもちろん和解などはなく、なんともいえない雰囲気で物別れしていた。

どっちの気持ちも言い分もわかるから、見ている私の気持ちまでもがザラついた感じになった。

何かが「良い」と言いすぎると、ましてやニュースなんかでやってしまうと自ずと「悪い」を作り出してしまうということなんだ。

そういうこと、母の世界には、もう嫌というほどある。

「母乳で育った子は幸せ」というと、
「ミルクで育った子は不幸」となる。

「幼稚園出身の子は、お行儀がいい」というと、
「保育園出身の子は、お行儀が悪い」となる。

「働いてるお母さんの子供は自立している」というと、
「専業主婦のお母さんの子供は甘えている」となる。

「兄弟がいるのは良いこと」というと、
「一人っ子は悪いこと」となる。

「女の子を産むことは勝ち組」というと、
「男の子を産むのは負け組」となる。

何かを良いと言いすぎると、傷つく人がいるということを、私も母になって学んだ。

私もたくさん傷ついたし、きっと知らず知らずのうちに誰かを傷つけてきたのだと思う。

人とともに生きる中で、何かを「良い」という時には、その反対側にあるものを傷つけてしまう可能性のあることは、知っておく必要がある。

「私は、これが良いと言っただけ。それが悪いなんて言ってない」

っていう人もいるかもしれない。

うん。わかるけど、でも、
例えば男の子の母である私に、
「女の子はいいよ。男なんて産んでも損」
って言われたら、反応もしたくなる。

だから、やっぱり他人を適度に慮る気持ちと、「良い」のはあくまで「自分にとって」という前提を忘れないでいたい。自戒もこめて。そうしたら、言い方も自ずと変わるはずだから。


反対側になった時の心構えもある。

自分の選択は、誰かの「良い」の反対側であっても、それは「悪い」を意味するものじゃないってこと。誰かの「良い」は、誰かの「良い」であって、私の「良い」「正しい」ではないのだということ。

それがきちんと腹に落ちていたら、余計に傷つかなくてもよくなるかもしれない。

「そんな言い方されると傷つく」

とピシャリとやって、あとを引かないですむかもしれない。


そもそも、人間がエゴをもとに考えること、行動することに、良い悪い、正しい正しくないなんてジャッジは、向かない。

誰かを直接的に殺したり傷つけたりするわけではないなら、どっちでもいい。

本来は、好き嫌い、するしない、したいしたくない、しかないのだよ、きっと。



最後に、やっぱり、

自らの尊厳死を選んだ女性の冥福を祈りたい。

闘病生活お疲れさまでした。安らかに、お眠りください。