すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

発達障害という用語は、もう限界かもしれない。

2016-03-06 11:48:38 | 世の中のこと
発達障害という用語は、もう限界かもしれないな、と、

武田双雲さんの、このブログ記事を見て思いました。

こんな記事にもなってました。


ここ何年かの間に、発達障害という医学用語?福祉用語?は、流行り物のように多くの人に認知されるようになりました。

空気を読まない人、片付けられない人、人の話を聞かない人、天然な人、オタクな人、友達がいない人は、「発達障害じゃない?」なんて、軽く揶揄されるような雰囲気も世間にあったり。

乳幼児期の息子の健診では、この種のパンフレットは必ずもらったし、健診する側の保健師やドクターからは、子どもを診ながらつねにその可能性がないかどうかを探っているな、というのが、ひしひしと伝わってきました。

息子の言葉の出始めがやや遅めだったこともあり、私もそれなりに勉強しましたね。でも、結局よくわからなかった。発達障害とは、そうといえばそう、そうといわなければそうでもない、という曖昧な理解しかできなかったんです。

しかし、武田双雲さんがね、こんな記事を堂々と載せると、改めて、発達障害の人が障害者で、発達障害じゃない人が健常者とか定型発達って、その定義がやっぱり心許ないなぁって思えてしまうんです。


苦手と得意の差が極端なのが障害、
苦手と得意の差が少ないのが定型、

集団行動が苦手なのが障害、
集団行動が苦手でないのが定型、

空気を読めない、読まないのが障害、
空気を読むのが定型、

こだわりが強いのが障害、
こだわりが弱いのが定型。



なんでこっちが障害なのー?
なんでこっちの定型なのー?健常なのー?
いや、どっちが障害でどっちが健常って、そのジャッジメントがすでに、今の時代には合わなくないかな。

例えば、苦手と得意の差が激しいことを障害とすることが、もうナンセンスなんじゃないか、限界なんじゃないのかな、という気がします。

やっぱりどこまでいっても、障害なんかじゃなくて、個性でしかないんじゃない?そんな風に感じるんです。


🔹🔹🔹

私の身近なところにも発達障害と診断されている人がいます。

職場にもいますし、息子の仲の良いお友達にも、息子のお友達のパパにも、私が援助した人のなかにもいます。

確かに、彼らや彼らの家族の多くは困っています。当事者や家族が困っているから、だから、診断名を療育を治療を、となるわけなんですよね。

でも、彼らが困るのは、この国のスタンダードが彼らの個性を「障害」としない限りは受け入れないよ、という懐が深くないところに困っているだけで、彼らは自分自身には、自分自身であることには困っていないんじゃないかな。

つまり受け手側の問題、逆にその個性を障害というカテゴリーに押し込めてしまう、こちら側の心性に障害かあるのかもしれませんよね。これは、発達障害に限ったことではないですが。


ただね、徐々に、時代も、日本人も気づき始めている気がします。

自閉症スペクトラムやADHDの発達障害に特有な個性が、この閉塞感のある時代に、この国を牽引するチカラのあることを。

もちろん、誰もが武田双雲さんになれるわけじゃない。エジソンや、スティーブジョブズやビルゲイツになれるわけじゃない。


でも、夫がこんな話をしてくれたんですよ。

彼の勤務先は、比較的保守的な会社です。

出世する人、実力のある人というのは、かつては、集団を束ねる力や調整力が抜群ないわゆる「やり手」だったり、家庭なんて全く顧みない滅私奉公的な人だった。

それが最近は明らかに変わってきた、と。

例えば、ひと昔前には、パソコンオタクとしてオフィスの片隅に押しやられていたような人が重用されるようになったと言います。

また、閉塞感が漂うとき、数字を上げることが求められるとき、場の空気を殆ど考えず自分の感覚だけで物を言うようないわば子どもっぽい人の意見が採用されたりするんだとか。しかも、その8割がいい結果に結びついているという感触があるといいます。

その、傍若無人なところや、ジコチュー的なところを敬遠したり、嫌う人は多いのに、でも、いざと言う時には、その人の声、感覚に頼ってしまう、という現象が起きているといいます。

決して有名ではない人たち、爆発的な才能を表現する「天才」ではない人たちの間でも、こうしたことが起きているってことです。

🔹🔹🔹


誰に、どう、思われるか。

発達障害ではない普通の人は、何かをしようとする時、ここに多くのエネルギーを割きます。ここに消費されたエネルギーの分だけ、集中力は削がれます。

たとえ、素晴らしいアイデアが生まれても、表現する段階でここにエネルギーが奪われたら、それは最初のインパクトをもって周知されません。

これを突破していくチカラが、発達障害の人には生まれつき備わっていると思います。

苦手なことばかり、標準よりも劣っているところばかりがフォーカスされがちな発達障害ですが、得意なところ、優れているところに目を向ければ、その能力はすさまじいはずです。


もちろん、そんないい話ばかりじゃないとか、診断された方が楽に決まってるとか、家族の気持ちはどうなるのとか、障害のレベルによる、とか色々な事情はあると思います。

私が、こんなことを書くのは、自分の周りにいる発達障害の人を通してしか私が発達障害というものを知らないからなんですが、何よりも私は彼らが好きなんです。正直に言うと、憧れにも似た感情も覚えるんです。

発達障害を一つの個性ととらえ、発達障害の人たちの能力を伸ばしていく方向、少なくとも、自然に伸びていくのを邪魔しない方向に受け入れ側の意識が、私たちの意識が変わったら、(すでにその兆候は始まっていると思います)、それは、とてもいい世界だな、と感じます。

そして、そんな世界は、発達障害の人たちにとってだけ最良なのではなくて、そうでない人たちにも居心地のいい世界なんじゃないかな、と思うのです。










錦織選手はどうしたら良かったのか?

2016-01-28 15:35:50 | 世の中のこと
全豪オープン、錦織選手の敗戦から、まだ立ち直っていません。

あー、悔しかった!
もう、ジョコビッチ強すぎー!

錦織君も、きっと、悔しさと、不甲斐なさと、打ちのめされ感を全身で感じつつ、次に気持ちを向けていることでしょう。

でも、この悔しさと不甲斐なさと打ちのめされ感が残っている限り、彼の世界の頂点への挑戦は、現実感を帯び続けます。

悔しさ=可能性

で、あり続けるからです。

こうした激しい感情が静かに彼の無意識に織り込まれ、それがやりきった感に変容しない限り、彼の無意識に呼応するような舞台は何度でもやってくるのです。

そして、どういう形かはわかりませんが、彼の感情(悔しさ)が必ず日の目を見る時がきます。

🔹🔹🔹

さて、錦織敗戦の後、スポーツ新聞からテレビニュース、テニス解説者、テニス愛好者、錦織ファン、そしてもちろん、あの愛すべき松岡修造さんも、みんながみんな一斉に語り始めました。

錦織は、
どうしたら良かったのか?


後出しじゃんけん感満載ですが、まあ、でもどれもなるほどーと思わされます。その人それぞれの実感のこもった持論だからでしょう。

ジョコビッチに攻撃的なテニスをさせて、自分は守りに徹するべきだった。

大事な場面でもっと攻撃的になるべきだった。

五郎丸のように、サービスの時にルーティンをもつべきだ。


いろんなアドバイスが耳に入れば、錦織選手も、もしかしてなるほどー、と思うのかもしれませんが、彼がコテンパンにジョコビッチに負けた理由を彼自身が語っています。

「もっと何かができた」「守って勝てる相手じゃない」「自分の全部が出せなかった」

彼は、守ることではなくて、攻めるテニスを選びつつ、相手の守備が盤石すぎて、迷いが出てしまい、ミスを連発させて、自分の選択を全うできなくなった、ということです。

つまり、自分を、自分の選択を信じきることができなかった、ということでしょうね。

裏を返せば、守りを作戦にしようと、ルーティンを取り入れようと、はたまた彼が選択した攻めの攻撃を展開しようと、そこに、「自分が選んだ作戦だから、成功する」という絶対的な自己信頼がなければ、うまくいくはずがありません。

そもそも自分を信頼できなければ、もっと言えば信頼に値する自分がいなけれぱ、どんなこともうまくいくはずがないからです。

そういう意味では、錦織選手が自分の選んだ作戦、戦略に間違いはなかったと思うのです。

あとは、信頼に値する自分をどうつくっていくのか。トップ10に君臨する錦織選手の技術力は、すでに頂点にあると言われてますから、その技術に余すことなく力を発揮させる、信頼に値する自分です。

努力か、経験か、メンタルトレーニングか、勝ちの積み重ね、か、その方法はチーム錦織、中でも、彼の精神的メンターでもある、マイケルチャンコーチが当面は教えてくれるはずです。

錦織が今の自分に必要と判断して迎えたチャンコーチの、その選び方において、彼は自分の感覚を信じきり、それが結果を生み出しました。

しばらくは、チャンコーチとチャンコーチを信じる自分を信じ切ってほしいです。

ま、多分ですが、チャンコーチから必要なすべてを吸収したら、今度も無意識の要請によって、やがてチャンコーチとは違う視点をもつ人をコーチに迎えるのではないでしょうか。それが、いつかは、わかりませんけどね。

彼は、こうしてトップクラスのテニス人として、自己実現の道を歩みます。

🔹🔹🔹

今年は、錦織選手のグランドスラム優勝と、世界ランキング4位でフィニッシュ、が、一ファンの私の抱く淡い願望!

個人スポーツのテニスは、選手その人の自己信頼度、無意識の世界か如実にわかる競技。そうした世界を見せてくれる錦織選手に、本心では、ありがとうっ!しかないんですけどね。

長くなりましたが、今年も錦織選手、本気で応援します♡

いつも正解をださなくてもいい。

2015-03-11 15:11:51 | 世の中のこと
初めて、テニスの錦織選手の試合をテレビできちんと見たのは2月に行われた全豪オープンでした。

世界ランキング5位の選手とあらば、バッタバッタと下位選手をなぎ倒すように試合を展開するのかと思いきや、そうではなかった。

同じく初めて錦織選手の試合を隣で見ていた夫が、「ものすごく強いわけではないんだね」とつぶやきましたが、まさに私も同じ感想だったのです。

だって、世界ランキング5位と言えば、もう圧倒的な試合展開をする人なんだと勝手に想像していたのですから。

ぱっと見ただけでは、錦織選手と下位選手の力の差なんてわかりません。むしろ、サーブの速い選手との序盤を見ているだけでは、とても勝つ気がしないくらいです。素人テニスファンの認識ってこの程度なんですね。

でもね、じっくり何試合かを見続けているとわかるんです。錦織選手が5位にランクインしている訳が。トップ10に入る選手と100位の選手の違いというのが。トップ10に入る人たちのメンタルと100位代の選手たちのメンタルの差が。

その差とは、失点したとき、凡ミスをしたとき、不意をつかれた時、サービスゲームを落とした時、つまりマイナスの現象に陥ったときのメンタルの崩れ加減の大小です。落ち込んだ気持ちをニュートラルな状態に戻す速度です。一言で言えば、上位の選手ほど、切り替えが早いのです。

トップ選手の条件は、一つの試合の中で、あるいは一つのシーズンの中で、凡ミス、アウェイ、体調不良や怪我、などあらゆるマイナスな出来事は起きるという前提を承知していて、そのマイナスな出来事に対する卓越した対応力を持っていることなんですね。

マイナスから元に戻す力が強い、早いというだけで、そうしたマイナスを打ち負かそうとすらしない。「そういうこともあるんだ」と淡々と流していって、次のチャンスを狙う感じです。その姿勢が不思議と次のチャンスを引き寄せます。


こうしたテニス選手のテニスに対する構えって、私たちの日々の生活や、人生に当てはめても、結局は同じなんですよね。

自分にとって良いことというのが100%起こり続けるなんてあるわけない。テストで100点をとり続けること、そもそも、それを目指す人生なんていうのはありえないんです。

地球も自然も天気も、私たちの心も脳も身体もつねに揺らいでいるんです。

その揺らぎの下がったところに意識が向かいすぎたり、引きずられてしまったら、転落してしまう可能性もあります。でも、その揺らぎの存在をちゃんと知っていたら、今が悪くても、また事態が変わること、次のチャンスが来ることを素直に信じることができます。

積み重ねた経験や人との出会い、考え方の転換によって、雨ばかりが続いていても必ず晴れる日が来ること、失敗しても挽回できる機会が来るということ、悲しいことがあっても楽しいことが失われるわけではないこと、そうしたことを自然に信じられるようになることが「メンタルが強くなる」ということなんでしょうね。

つまり、強さっていうのは、マイナスを避ける力ではなくて、マイナスを受け流す力なんですよ。


錦織選手を世界ランキングのトップ10に押し上げたのが、マイケルチャンコーチですが、彼の言葉はテニスだけではなく、人生をよく知っている人の言葉で、美しくさえあります。

「いつも正解をださなくてもいい。勝った時には謙虚さを、負けた時には潔さを学べばいい」
(NHK「勝てない相手はいない~錦織圭 成長の軌跡」より)

うーん、しびれます。

受験真っ只中の中3の甥っ子、本命の一つ前の試験でいい感触を持てなかったとか。頑張ってる彼に、この言葉を届けたいです。




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「ぼっち」も悪くない。

2015-03-04 12:19:02 | 世の中のこと
「ぼっち」という、若者の間で使われている言葉を、最近、知りました。

ひとりぼっちの略語だとか。私の世代が聞いても、その語感からほんのり「からかい」の空気を感じますが、多分、若者たちは、独特の意味を帯びた独特の語感として受け取るのでしょう。

ひとりでいることが楽でひとりでいるのに、「あの人、ひとりだ」と他者から思われるのは究極の苦痛。だから、仲間がいない人はトイレでお弁当を食べたり、休み時間には寝たふりをして机に突っ伏したり。大学でも、そんな風景が当たり前にあるようです。

気の毒というか、身につまされます。その気持ち、共感できないわけではないけど、そこまで?って思ってしまいます。

「ぼっち」でない側も大変。「ぼっち」になるのが怖いから、SNSのチェックに何時間も割いて、滞りなく返信したりコメント残したりして、やがて疲弊する。疲弊するというのは明らかに自分にとってはよろしくない状態ですが、その疲弊感も「ぼっち」になる恐怖に比べたらまだまし、というところでしょうか。

小さい頃からケータイ、スマホを与えられた世代のそのねじれたしんどさ、何とかならないものかと思います。

先週のNHK「日曜討論」という番組で、尾木ママもLINEがいかに若者たちのプレッシャーになっているかを解説していました。尾木ママが教鞭をとっている大学の学生たちは、「LINEが中学や高校時代になくて良かった」と口を揃えるのだとか。「今の子は大変」「ルール作りが必要」って、尾木ママは熱く語っていました。

私もLINEを使うのでわかりますが、「既読」も確かに、腹の探り合いみたいな妙な心理を煽ります。便利だけれど、苦しい。やっかいなツールです。人間関係に悩みやすい人ほど、遠ざけた方がいいツールかもしれません。

もともと人間の本能に「人とつながりたい」「集団に帰属したい」欲求があるのだからそれに従って行動するのは普通のことですが、それが「ねばならない」になって、LINEのようにコミュケーションの方法がスピーディかつ安易になった結果、他人からどう思われるかを特に気にする世代で、振り回される人が増えたのでしょうね。

それにしても、つながるための努力ではなくて、一人にならないための努力は虚しいです。他人の反応を過剰に気にする行為は達成感がなく、その分ものすごい量のエネルギーを消費します。若い人の貴重なエネルギーがそんなことばかりに使われてるとしたら、もったいない。

もちろん、こうした心理は若者に限ったことでもなく、大人の世界でも大なり小なりありますけどね。ママ友の世界にも、職場でも、高齢者の付き合いでも、1人で行動する人や家族のいない人にみじめ、可哀想というラベルを貼る人はいます。そして、「寂しい人」と思われないために行動している人は少なくないと思います。


若い人にも、そんな大人にもあえて声を大にして言いたいな。

「ぼっち」は悪くないって。全然かっこ悪くない。「ぼっち」を恐れて、自分じゃないことをやりすぎている方が、ずっとかっこ悪いです。SNSも疲れたのなら、休止宣言しちぁえばよしですよ。私の周りには、スマホからガラケーに戻す人も、チラホラいます。

もっと言えば友達だっていなくてもいい。つながらなくてもいい。きずなを遠慮してもいい。孤独死も悪くない。そんな価値観の方もあってもいいですよ。

ひとりぼっちはつまらない
誰とでも仲間になって仲良しになろう


という歌詞の歌をね、子ども時代は、無邪気に口ずさんでました。でも、ひとりぼっちは必ずしもつまらくないし、誰とでも仲間になるなんてかなり難しいです。まっとうな大人なら、そんなこと重々承知しています。

そんな大人が、影響力のある大人が、子どもや若者たちの「つながり圧」を緩めてあげてほしいです。

「私、友達ほとんどいないんですよ」って言う文化人とか有名人はよくいますけど、あれ見て、「かわいそうー」とは思わないですよね。

むしろ、「かっこいい」って思ってしまう。有名人が言うから、実際は多くの人の注目を集める人の逆説だからかっこいいとも言えるのですが、一般人でも様になる人はいますよ。

それは、やっぱり「ぼっち」の自分を肯定している人の立ち振る舞いや孤高の姿です。大勢の人に囲まれている人気者とは、また違う魅力があります。

若い人も若くない人も、ひとりが好きなら、そんな人をめざせばいいです。その姿に魅力を感じて寄ってくる人もいますから、そしたら、本当の仲間ができます。

人間、死ぬときは1人です。それは、寂しいことでもみじめなことでもありません。私たちの中に組み込まれている事実ですもん。

私たちのなかにある「ぼっち」の才能を劣ったものとみなさず、大事にしましょうよ。



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父と子(辻仁成イクメンツイッター)。

2015-02-07 16:56:15 | 世の中のこと
ツイッターで、最近この方の育児ツイートがタイムラインに上がってくるのが楽しみだ。


↑ある日の父と子の会話。


↑昨日はこんな感傷的なつぶやき。

辻さん特有の自意識の強い表現に最初はこそばゆい感じがしたけれど、読み慣れてくると、悪くない。

別れた奥さんには、こうしたツイッターはボディブローに違いなく、もしかして元奥さんへのあてつけ?なんて、最初の頃は少なからず穿って見ていた。でも、まあそれがゼロではないにしても、辻さんは、いいお父さんとお母さんの一人二役をかなり一生懸命に、頑張ってこなしている。間違いなく。

びっくりするくらい手の込んだ料理をつくり、子ども部屋を掃除して、学校の送迎や保護者会にも参加、誕生日会の準備まで万全に整え、やや過剰ともとれる手の掛け方で、息子さんを大切に育てている。

ツイートに登場するのは、そんな完璧イクメンの辻さんの姿だ。

こうした父と子の幸福な生活風景を垣間見ると、母性って、なんだろうな、って思ってしまった。みんなが当たり前に使う母性って言葉。女の人一般、あるいは母親固有の性質とも考えられているけれど、これ、男の人の中にも育まれるものなんだね。もっと言えば、男性の中にもこの母性の素質を強く持っている男性というのがいるのだろう、きっと。

辻さんがそうかもしれないし、うちのダンナも、まさにそのタイプ。歯磨き、着替え、寝かしつけなど息子を甲斐甲斐しく世話したり、一緒に遊ぶ時の様子を見ていると、私なんかよりずっと母性にあふれた印象がある。「自分より常に息子優先」の姿勢も、私にはとても真似できない。

ある時、ママ友さんたちとの会話で、「万一離婚したら、子どもは絶対私を選ぶ」と断言するママがいたけれど、私自身はとても断言できないなーと思った。

むしろ、ものすごく怪しい。息子、私を選ぶかなー。息子の選択以前に、息子は夫と二人でも辻さん父子みたいに幸せに生活できる気がするし、私といた方が絶対幸せなんて材料だって見当たらない。経済力も含めて、もしや、私の出る幕なんぞないのでは、なんて気にもなる。

辻さんの別れた奥さんは、子どもを捨てて恋人を選んだ、母より女をとった、子どもには母親が必要なのに可愛いそう、と相当バッシングされたけれど、これもあまりに短絡的かもしれない。

夫への嫌悪はどうすることはできないものでも、最愛の息子を託してもいいくらいに、夫の息子への愛情には信頼を置いてたのだと思うのだけどな。

まあ、有名人お二人の実際のところはわからないけれど、私のように、夫との母性対決で白旗を上げる母親もいるわけだから、「父親より母親」的な考え方も、こと子どもの問題で母親ばかりが責められる空気にも、どうも違和感を強くしてしまう。

ちなみに、私は、近所のママ友さんの自信の発言を讃えつつも、実はどこかで自分の立ち位置も誇らしく思っていたりする。

「私がいないと息子は絶対に不幸」とか「息子は私が育てるのが一番いい」という風に考えるのは、母親の自尊心を満たす甘いものではあるけれど、「自分がいなくても息子は幸せに育つ」という私の中の信頼感や安心感って、実は私にも息子にも幸せなことだよなーと。

でも、つきつめると、エライのは私ではなく、キャパの大きい夫ってことになってしまうのね。

とりあえずは、息子と離れ離れになりたくないし、離婚するようなことにならないようにしよう。



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お花畑でいい。~後藤健二さんの死に思う

2015-02-03 13:05:05 | 世の中のこと
イスラム国の人質となったフリージャーナリストの後藤健二さんが亡くなった。

一昨日の朝、「殺されちゃったよ」という夫の神妙な声に起こされた私は、飛び起きてすぐさまテレビとタブレットにかじりついた。

悲しい。その最期を思うと、胸が張り裂けそうになる。助かる予感がしていたのに。帰国後の彼のメディアでの活躍ぶりすら、目に浮かぶようだったのに。

この二週間あまり、テレビやネットでは、オレンジ色の囚人服に身を包んだ後藤さんの姿がこれでもかというくらい流され続けた。

何度も目を背けたくなりつつ、どこかで逃げてはいけない気がした。目をそらしてはいけない気がした。

残酷な映像を見続けて、苦しく辛くなることで、計り知れない苦痛を味わう後藤さんたちの苦しさをほんの少しでも味わっている心境になりたかった。無意味とわかっていても。


この間、事件に対するさまざま意見に触れて、私の心は揺れ続けた。

「テロに屈しない」とばかり言う政府にはげんなりしたし、「自己責任」を叫ぶものすごい数のネットの声には虚しさを覚えたし、政府を非難する人を「テロの味方」と糾弾する意見には恐ろしさを感じた。

生活保護で、お笑い芸人が叩かれていた時みたいだと思った。何かを叩こうとする集団のエネルギーが不気味だった。

最初は、政府や政府寄りの意見を非難し、後藤健二さんのジャーナリスト魂を讃える人たちの声に気持ちが大きく傾いた。

ただ、「後藤さんみたいな人がいるから紛争地帯の人々の様子がわかる」とか、「ジャーナリストが危険なところに行こうとしなくてどうする」みたいな声があまりに多く出始めると、なんだかその機運にも馴染めなくなった。

自分の家族だったら、それこそ命懸けで止めるだろう人々が、後藤さんの行動を手放しに賛美する姿の矛盾に消化不良を起こした。


そして、気持ちの落ち着くところを失った私は、当の後藤健二さんの心の中に思いを馳せた。

彼を突き動かしたのは、正義感なんだろうか。使命感なんだろうか。困難な立場にいる人への過剰なまでの共感は、一体なんだろう。この、何か、普通ではない感じはなんだろう。

かつて福祉系のNPOに参加した時の、その代表が、後藤健二さんの雰囲気と重なる。人当たりが良くて、笑顔があどけなくて、自分に対して異を唱える他者を怒鳴ったり威嚇したりもしない、好青年そのものの立ち振る舞い。でも、埋めがたい大きくて深い穴を抱えているような人だった。

彼の社会的弱者のための活動は、終始自分に甘えがなくて、自己犠牲的な態度に貫かれ、活動そのものが自分の穴を必死に埋めようとする行為に見えた。彼も多分自分の活動のためなら、死ぬ男だと思う。

そして、後藤さんも、大きな穴を抱えた人なのだと私は思う。生い立ちなのか、生まれつきなのはよくわからない。でも、そんな種類の穴を持たない大方の人間は、後藤さんに魅力は感じても、本当にはその行動を理解はできない。私もできない。でも、できない自分でかまわないと思う。できない自分ができる平和への貢献の方法もあると思えるから。

ネットでは、こういう事件に無関心の人や、「争いはやめよう」などと生温い意見を言う人は「頭にお花畑が咲いている」と笑われたりする。

でも、お花畑人間の在り方こそが、私たち普通の人たちが、平和をめざすのにふさわしいまっとうな在り方だと思う。

私の目の前にはお花畑満開の5歳の息子がいる。テロリストに敵意ももたず、後藤さんの功績も知らないこの息子に語りたいのは、「テロに屈してはいけない」でもなく、「自分の命を賭して困難な人を守れ」でもない。ただ、「人を殺してもだめだし、人に殺されてもだめなんだ」ってことと、「お花畑人間でいいんだよ」ってことだ。

政治学者の山口二郎さんが、こんなツイートをした。


文意は、政府に向けたものだけれど、これは私たちへのメッセージにもできる。

頭にお花畑が咲いていて、平和ボケで、温室育ちで、戦場で戦える体力も度量もとてもないし、自分や家族をおいてまで人助けする犠牲精神もない人。でも、怖いこと、痛いことには、イヤだと言い、自分も、他人も、傷つけない選択ができる人。

テロにひかれない人間って、言うなればそんなユルーい姿の人間だと思う。自分にも他人にも寛容な人間だと思う。とするなら、そんなお花畑人間でいることが、お花畑人間を増やすことが、普通の私たちにできる一番簡単で、一番大切な平和貢献なんだ。

私は、息子を見ていてそう思い至った。

photo by pakutaso.com


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母と娘 外野の立場から。

2015-01-25 17:01:29 | 世の中のこと
最近、よく目につくのが、母と娘についての本やテレビの特集。なかでも、毒母を論じた本やノンフィクション、小説の類はブームのようになっている。

実際に手に取ったのは、記憶にあるものでざっとこんなところ。

『母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き』信田 さよ子

『インナーマザー―あなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」』斎藤 学

『毒になる親 一生苦しむ子供』スーザン・フォワード

『放蕩記』村山 由佳

『母がしんどい』田房 永子

専門家が書いた上3冊は、これほどブームになるより前に読んだ。なるほど、なるほど、と首を何度も縦に振りながら読んだ。やっぱりな、だからか、なんて自分が見聞きした母と娘のうまくいかない関係が読み解けて、爽快ですらあった。

そして、いわば当事者の自伝的要素の強い下2冊はブームが来てから読んだ。膝を打つような共感よりも、激しい衝撃とそれに続く後味の悪さに辟易した。特に、「放蕩記」の方はすさまじかった。

母親サイドから語ればまた違う風景が見えるのだろうが、娘が記憶する母との日々が、娘の中にはこうした事実として残るという、その関係を思うと、いたたまれない気持ちになった。

こうしたテーマに多数の人が関心を向けるというのは、程度の差こそあれ、こうした母と娘の関係がいたるところで存在するということなのだ。

私が援助職をしていた職場の精神障害の人たちには、母との関係が症状に影響を与えている人が多かったし、私の昔からの友人たちを思い浮かべても、母親との関係をうまくいかない人生や生きずらさの元凶として、引きずっている人は多かった。

彼女たちは、みんな母親の聞こえない声を聞きながら、その影と戦っている風にも見えた。嫌いだけど好き。重いけど捨てられない。そんなアンビバレンツな感情に揺れていた。

私は、母との関係は悪くない。

正義感が強く情に厚い反面、若い頃は感情の不安定さ、激しやすさなどを抱えていた人で、子どもとしては大変な面があった。ただ、その影響は、ほとんど姉が引き受けてくれたのだと思う。

次女という立場のおかげもあって、母に対しては、好きとか嫌いとか、こじれた感情も、激しい思慕もない。

私には娘もいないから、母と娘の問題は実際には外野の立場でしかない。でも、母と娘は厄介なものと考えている節はあった。だから、息子がお腹にいて性別がわかった時、ほっとした、というと言いすぎだけれど、やっぱり女の子は来ないよね、とは思った。

元々私は自分が親になる姿を想像できないくらいに、親になることに違和感があった。自分にも自信がなかったから、自分が影響を与えてしまう存在を産みだすことが怖かったのかもしれない。

そんな私が息子を育てていて思うのは、やっぱり男の子は楽、育て易い、ということだ。多分一般的に言われていることとは逆だと思う。

一般的に女の子が母親にとって育て易いといわれるのは、体力的に楽というのと、自分も女の子だったから子どもの気持ちを理解しやすいというものだろう。

体力面は、確かにそうだろうけれど、「理解しやすい」という面が曲者だったりする。

私は、小さな女の子を見ていると、自分がその頃に感じていたこと、考えていたことが生々しく浮かび上がってきて、なんだか胸がいっぱいになる。楽しいことだってたくさんあったけれど、悲しみや傷の方がより鮮明た。

大人を見るまなざし、友だちとのやりとり、その心の中で動いていることが、自分に起きているような錯覚を起こす。姪を見ていてもこれだから、自分の娘だったらと思うとたまらない。

また、少し大人びた女の子に出会うと、どきまぎする。同じ女性として、値踏みされるのではと身構えてしまう。大人対子供という立場を越えた、女対女の対等かつ誤魔化しがきかない雰囲気が落ち着かない。いわゆる女子力の低い私は、こんな女の子が娘だったら、きっと負ける、もたないはず、と弱気になる。

体力勝負は否めないけれど、宇宙人である異性の子どもは最初から理解を諦めている。だから、自分の過去がシンクロしない。しかも、彼らの母親への眼差しはあまりにゆるい。

公園通いの日焼けが辛くても、ピンクやレースの子ども服が買えなくても、私にとっては、この二つのメリットに救われているのだ。

こんな私は少数派で、世間では、娘を産みたがる人が圧倒的に多い。男の子しかいないママで男の子育児の魅力を語る人にも、本当は女の子を望んでいた、という人は多い。

女の子の趣味を楽しみたい。自分が姉妹で楽しかったから。男の子を一人生んだから女の子も育ててみたい。娘を産んで母と自分みたいに仲良し親子なりたい。

そんな理由を聞くと、微笑ましく感じる。ただ、私は女の子趣味がないし、姉とも母ともべったり付き合っていないから、彼女たちのような女系へのこだわりがなくて共感度は低い。

一方で、それと同じくらいよく聞く女の子が欲しい別の理由には、胸がざわつく。

将来、買い物や旅行に一緒に行けるから。女の子だと結婚してもそばにいてくれるから。実家を大事にしてくれるから。女の子はずっと母親の味方だから。女親の気持ちをわかってくれるから。

女の子でも、母親と買い物にも旅行にもいかない娘もいるよ。結婚して夫の実家の近くに住む娘もいるし、転勤族と結婚することもあるよ。父親の味方をする娘もいるし、電話やメールがそっけない娘もいるよ。

と、喉から出そうになるけど、面倒くさいことになってもいけないので一応ひっこめる。それ、全部私だ(笑)、と自分突っ込みをしながら。

いや、トータル的には、母親と買い物や旅行に行ったり、父親よりも母親の味方をする娘は多いし、実家に比重を置くのは息子よりも娘の方が割合としては多い。私ほど母親に対してそっけない娘は少数派かもしれない。

でも、娘とは「そういうもの」、という多くの人たちが共有する前提や期待が実は、それらを叶えることのできない娘たちを苦しめている。

母親が描いた理想におさまれない優しい娘は心身ともに抑圧され、強いエネルギーを持った娘は母親との縁を切って完全に背を向ける。そんな極端なことに陥っている母と娘が特殊でないのは、最近の毒母ブームが何よりの証拠だと思う。

娘を「そういうもの」と都合よく考える人が多いから女の子の赤ちゃん人気は高く、母と娘の問題も娘は「そういうもの」だと考える母親が多いから増えたってことも言える。でも、世間が望む、母が願う娘像には馴染まない、はまれない娘は案外多いということなのだ。そのギャップの度合いが悲劇の大きさを左右するのかもしれない。

とまあ、外野の立場だから言えることなのだけれど、私も同性の子に対しては自分と同一化、あるいはなんらかの期待を無意識にかけてしてしまいそうな自分のメンタリティを自覚しているから、娘を持つことに怖さのようなものを感じてしまうだろう。

ただ、この世のことは全て相対的だから、こうした危うさのある母と娘の関係だからこそ、その反対側にある大きな魅力についても想像はできる。その黄金バランスを保ち、母と娘の関係を楽しんでいる人のことは心底うらやましい。

作家の田口ランディさんは、私にとってそんなお母さんの一人。

ランディさんの娘さんは、この春大学に進学するにあたり家を出ることになった。そんな娘さんに向けた珠玉の言葉を、このところたくさんツイッターにのせているランディさん。娘さん以外の若い人にも送りたいメッセージだとか。


こんな感謝の言葉を巣立つ子に向けて紡ぎだせるお母さんは、息子とか娘とか、そもそも子どもの性別なんてどうでもいいんだろうな、と惚れ惚れする。

田口ランディさんのアドバイス
娘さんへ&若い人たちへ

(↑ランディさんをフォローしている方がまとめたものです。)






他人の人生なのに(安藤美姫さん騒動より)。

2015-01-04 16:39:26 | 世の中のこと
実家から帰る新幹線の中でスマホをいじってて思わず釘付けになったニュース記事があります。

それは、フィギュアスケートの安藤美姫さんが、自身のSNSに娘さんと現在の彼氏のスリーショット写真を投稿したところ、いくつか否定的なコメントがつき、それに対して安藤さんか反論する記事を書いたことで、賛否両論が巻き起こったというもの。詳しくはコチラ

安藤さん曰く、

「私のことが心から嫌いなのであれば、見なければいいし、気にしなければいい」

「こんな風にコメントするということはどこかで気になっているから。そしてあなたが何か幸せではないから」

「私の人生は私のもの。あなたのものではありません」

すがすがしいほどの「正論」、と私は感じました。現役の選手時代から公私にわたり色々叩かれてきた彼女、メンタル面でも相当鍛えられ、かつ勉強してきた様子が滲みます。

誰かを、何かを嫌うのは「自由」というのは大前提です。でも、その自由は「関わらない」によってはじめて完結します。関わらないから「嫌い」という自分の中のネガティヴ感情にすら結果的には関わらなくてもよくなります。

嫌いな人にネガティヴなコメントをしたり、「あの人許せないよね」といった形でわざわざ他者と「嫌い」を共有して、「嫌い」な対象に自ら積極的に関わろうとするのは、彼女の言う通り、「気になるから」であり、「あなたが幸せでないから」かもしれません。

その嫌いな誰かが、何かが、自分を直接攻撃するわけでもないのに、刃を向ける行為は、自らの中にある不満や不全感から生じる八つ当たり、溜飲を下げることに他なりません。

このロジックに気づいている人は意外に多くないようです。

安藤さんに反論された側の人はさぞやグウの音も出ないはず、と思いきや、そうでもなさそう。

ニュース記事に寄せられた口コミを見ていると、安藤さんの反論に対する非難の声があまりに多く、その事実に改めて驚きました。

「スケート会の恥」「そういう自分が載せなきゃいい」「有名人なんだからとやかく言われて仕方がない」「波風立たせてるのはそっち」

たとえ、有名人だからといって、どうして他人の人生にこれほどムキになってしまうんだろう。彼女の反論コメントにそこまで腹が立つのはどうしてだろう。その不自然さはどこからくるんだろう。

見つめるべきは、こうした疑問です。

自分が直接言われたわけでもないのに、強く反応する人は、彼女にネガティヴコメントを書き付けた人たちと同じ心性を持っていて、安藤さんの自由で奔放な生き方やあり方に傷つけられたのかもしれません。

でも、やはり彼女の反論は図星であることを心のどこかで知っているから、傷つけられた恨みを晴らすために、全く的外れな理由でさらに彼女を叩く。もちろん傷ついている自分には無自覚だから、そんなことをしても一時の憂さ晴らしにしかならない。

傷ついついる自分、本当は一番関心を向けるべき自分は、そうやってほったらかしにされています。

嫌いな人の存在やその存在から発信されるものに傷ついてしまう人は、自分の傷のありかを突き止め、その傷を癒すことに一生懸命になったほうがいい。

そう思いますが、その傷に気づき、認める作業は多くの人にとって至難の業かもしれません。自分の傷を刺激する人を、非難される理由のある人に仕立てて、正々堂々と非難しているほうが手軽ではあります。

安藤美姫さんの言い方云々が大人気ないとか、キツイという面はあっても、それは彼女の個性ですし、嫌いな人は嫌いで構わない、それはそれでいいと思います。(私も、どちらかというと浅田真央ちゃんタイプに肩入れする人間です)

ただ、彼女は、意図を持って、固有の人を標的にして、誰かを傷つけたりなどしていません。あくまで自分の奇抜な個性を素直に表現しているだけ。そこは、しっかりと押さえることが大切だと思います。

アスリート界の哲学者とも言われる為末大さんは、ツイッターでこの件に言及し、安藤さんに否定的なコメントをする人たちに丁寧にこう問いかけていました。

「あなたの人生と安藤さんの人生は何の関係があるのですか?」

そして、昨日、「嫌いと言うだけで人に憎悪の言葉をぶつけてはならない理由」というタイトルのブログを更新していました。

為末さん、いい人だな。

それにしても、他人の人生に物申さずにはいられないほど、介入しないではいられないほど、傷ついている人が多い世の中なんですね。

ちょっぴり、やりきれなくなりますが、そういう世の中にあって自分がどう生きるか?私は、そっちに専心しようと思います。





生きずらい人って誰のこと?

2014-12-14 14:00:08 | 世の中のこと
「障害」とか「障害者」というキーワードが、この頃頭をかすめます。

「身体または精神に何らかのハンディキャップをもち、日常生活・社会生活に相当の制限を持つ人」、そして「そのために、医療的・福祉的援助を必要とする人」というのが教科書的解釈になると思います。

確かにそうです。でも、これって障害者とは呼ばれない健常者(←この言葉嫌いですが)、あるいは援助する人たちによる定義だと思うのです。

仕事上で、障害者と呼ばれる人たち、そのお母さんたちとお付き合いがありますが、母という立場に立って初めて、私はこの「障害」とか「障害者」という言葉の危うさに直面しました。

息子の言葉が少し遅かったこともあり、たまたま相談した保健師にすぐに臨床心理士につながれ、「発達障害ではないかどうかの経過を見ましょう」という状態に置かれたことがあります。(結局、経過観察で終了でした。)

障害者の援助職だった私がですよ、この時素直に感じたのは、自分の息子が「障害者」にされてしまう、という恐怖でした。このていたらく、援助職失格って言われても仕方がない感情です。

だから、この恐怖が、自分の専門職としての日々も打ちのめすわけです。だって私は障害者やその親御さんに「障害があってもなくても、その人らしさが大切です」と声かけし、それが自分の本心だと思っていましたから。

でも、いざ自分が当事者になるかもしれないとなると、この「障害」「障害者」というワードが怖くて仕方がない。私が、「障害」「障害者」という言葉を甘くみていたんだと気づきました。

この矛盾は、医療関係者・福祉関係者、そして保育・教育に携わるような人が親になった時、だれもが抱えるものかもしれません。でも、この矛盾をやっぱり捨て置けない。母でもない、専門職でもない、ただ1人の人間として、このワードが人に与える「恐怖」はなんだろう、とずっと思ってきました。

自分やわが子がただ単に「みんなと違うといっても、必ずしも悪いことばかりでもない。教えてなくても3歳で九九ができてしまう。ずば抜けた美貌の持ち主で道を歩けばだれもが振り向く。そんな「違い」に悩む人はほとんどいないと思います。

では、同じく「みんなと違う」障害が、なぜ恐怖なのか。

それは、この言葉が、決して教科書的説明では説明しつくせない、忌むべき共通認識を背負う言葉で、それを私自身も共有していたということなんです。迷惑をかける人、助けてあげなくちゃならない人、自立が難しい人。障害者にはそんなレッテルが張られている。そう無意識に定義していたのです。

いや、仮に、迷惑をかける人、助けてあげなくちゃいけない人、自立が難しい人という側面があっても、それはそんなに怖いものなのか、ダメなことなのかということです。

つまり、自分が迷惑をかけること、助けてもらうこと、自立できない人になることを怖れているから、そのレッテルを張られた言葉を極端に怖れるわけなんです。

あるいは、逆も。迷惑をかけられること、助けてあげること、頼られる事が嫌な人も同じです。だから、自分が、我が子が、そんな状況になるのが怖い。

私のあの時の怖さにもこれが絡んでいたのでしょう。

これを自分に、他人に許せてしまえれば、障害の怖さはゆるむんです。間違いなく。

私は、許したい。許せる自分でありたい。そのために今、いろんな事を書いています。仮に自分や息子が「障害者」になったときにも、まずやることは、「許す」その一点なのだと、今の私は思っています。



障害の中でも、発達障害は、また独特のスティグマを背負う言葉です。発達障害の世界では、この「障害」というワードを「個性」「特性」と言い替えましょうよ、という事を言う専門家もいるようです。

でもね、だったら療育も訓練も必要ないのでは、とも言えてしまうんです。「個性」なのに、どうして訓練が必要なのか、「個性」なのに、どうしてみんなと同じようにするための療育が必要なのか、とも。「本人が集団に入って苦労するから」というのが定番の回答ですが、この本質ってなんだろう。

気付きませんか?

裏を返せば、個性を受け入れたくないという世界が前提とされているのです。だから、結局、少数の個性派の人たちが「みんな一緒」が得意な多数派の人たちに合わせるために、「障害」という言葉が必要になるってことなんです。

障害者ではない人から迷惑をかけられたり、頼られるのは嫌だけど、障害があるなら少しくらいの迷惑はいいよ、そういう行動も理解するよ、ということを言っているようなものですよね。多数派の人たちも、それを代弁する専門家も。

障害者であることを受け入れた個性派の人たちは、大人の対応をしている、人と違うあり方、迷惑を極端に忌避する人たちに合わせてあげてる、ってことも言えするんです。

だから、「◯◯障害」というワードも、自分が得な場合は使っても、そうでなさそうな場合は使う必要もないのでは、って私なら考えるし、そう援助します。「障害」があるから安心して助けられるという人に対しては使っても、「障害」を盾に傷つけてくる人がいるような環境であえて使う必要もありません。

療育も、受けたら本人が得をする、本人らしさを発揮する助けになる、というあくまで本人のためにこそあるものです。受けないと大変なことになる、手遅れになるという脅し、強制や矯正にフォーカスした療育はどんなに効果があっても、私ならわが子に受けさせたくありません。

ちなみに、「わが子の障害を認める」ことができないというお母さんもいると思います。これ、当たり前なんです。負のレッテルが覆われた「障害」を認めるなんて生理的に無謀ですもの。

使い古された言葉ですが、「ありのまま」を認めるでいいと思います。「わが子のありのままを認める」んです。みんなと違っても、迷惑をかけても、自立が難しくても、でも、だからこそ輝く何かをもっているわが子のありのままを。

もちろん「障害」を自分なりに捉え直して受け入れてる方はいるでしょう。でも、無理をすることもない。「障害」にひっかかる自分の感情を押しこめる必要はないと思うのです。



ところで、内海聡氏というドクターを知ってますか?

内科医のドクターですが、暴露本とか、トンデモ本とかを多数出版している人で、「門外漢な内科医が精神医療のことをつべこべいうな」とか多くの批判を受けている方です。

マクドナルド、ワクチン、電子レンジ、精神医療、薬物療法、発達障害などを、いわゆる常識とは違う角度から真っ向否定しています。悪意に縁取られた文体が売りなのか、親としては罪悪感をつつかれる扇動的な論調なので、読むに耐えない人も多いのかな、と。

私も好きというわけではないのですが、でも、この内海氏の言っていることから受け取るものはあります。傷つけられることを覚悟で聞けば、この人もすごいことを言っています。


「発達障害とわが娘」というタイトルのブログ記事は特に読みごたえがありました。

発達障害の人を「生きずらい人」と定義することに異を唱える内海氏。生きずらいのは、発達障害の人だけなのか?と。障害のあるなしにかかわらず、生きずらい人は生きずらい。「生きずらい」のだから援助や療育をと言う前に、その生きずらさは何から生まれるのか。特性、個性、障害のある人を生きずらくさせているのは、その特性、個性、障害のせいなのかということです。

そして、私なりの解釈を加えると、「生きずらい人」が先にいるのではなく、「生きずらい世の中」が先にあって「生きずらい人」が生まれるってことも言える。

つまり、発達障害の人が「人と違う」「みんなに合わせることができない」という理由で生きずらいのならば、発達障害でなくても「人と違う」「みんなと合わせることができない」人は、生きずらい世の中ってことです。

マイノリティの人たちは、ぜんぶ生きずらいってことです。実際、そうですよね。で、たぶんマジョリティー、多数派の健常者の多くも生きずらいんです。

「生きずらい」と勝手に忖度して少数派の人や発達障害の人を変えようとばかりするのか、「生きずらさ」を作っているのはこちらかもしれないと自分たちの意識を点検してその人たちのありのままに歩み寄ろうとするのか。

どっちを選ぶか。すべての生きずらさを和らげるための答えは、ここにあると思います。


学級崩壊に、少しの勇気を。

2014-11-24 09:24:54 | 世の中のこと
小学生のお母さん集団でした。スーパー前の歩道で学級崩壊についての立ち話が白熱していたので、しばらく聞き耳を立ててみました。

「お兄ちゃんのクラス、今年は多動児ばかりが集まって本当に最悪。学級崩壊」

「◯◯小も、◯◯小もらしいね」

「若い先生だから、全然言うこと聞かないみたいで、授業も全然すすまない」

「先生が泣いて訴えると、響くのは普通の子どもたちで、多動の子達には全然伝わらないみたい」

「そういう子の親に限って、出てこないんだよね。保護者の集まりとか」

「学級崩壊するようなクラスになるかならないかは、はっきり言って運なんだよね」


背筋が凍り付きそうな会話でした。お母さんたちの、その冷たい物言い。自分さえ、自分の子どもさえ無事ならいいという感じ。なんだか、無性に悲しくなりました。


学級崩壊が起きているクラスって、本当は何が起きているんだろう。一般的な母親たちの意識が、その会話のトーンに支配されているとしたら、先生、子どもたち、学校、それぞれどんな気持ちでいるんだろう。


若い先生は?

初めて受け持つクラス。校長や親や子どもたちからダメな教師だと思われたくない。親のクレームは、校長からの評価にもつながるから特に怖い。このクラスは多動児さえなんとかすればうまくいくのに。多動児さえ。でも、どなっても叱っても無視しても彼らは全く言うことを聞いてくれない。でも、誰にも頼れない。どうせ助けてくれない。多動児に憎しみさえ覚えながら、でも、彼らに対して大きな罪悪感も抱えてる。教師失格。


クラスの子どもたちは?

あの子たちは悪いヤツら。先生を困らせて、授業もできない。お母さんも、困った子達だ、とんでもないクラスだって呆れてる。そうか、人と違うことをしたり、人に迷惑をかけると絶対嫌われるんだ。みんなと一緒にできないヤツ、和を乱すヤツは、大人に見捨てられる運命なんだ。あんなヤツらはイジメられたって仕方がないのかもしれないよな。僕は、絶対、あんな風にはなってはいけないんだ。


多動児といわれる子は?

ここは安心できない場所。怖い場所。僕の自由を壊す場所。優しい人もいない。おこられてばかり。いつ押さえつけられるかわからないし、従順に座ってるなんてできないよ。少しでも安心したいから、自分の世界に逃げたいから動いているんだ。ずっとずっと動いていよう。


学校は?

ベテランの厳しい教師なら、もっとうまくやれたろうに。新人だからこんなもんだろう。学級崩壊は、学校の責任というより、多動児の存在がある限り防ぎようがない。親からのクレームには、「そういう子たちは病気だから学校ではどうしようもない」というしかない。


多動の子の母親は?

学校の先生に会えば、息子の苦情ばかり。クラスの母親たちの冷たい視線だって、もううんざり。こういう子を持つ親の苦労なんてわかるわけない。誰もわが子を褒めてくれない悲しさだって、理解してくれる人はいない。学校は、みんな敵ばかり。そんなところに乗り込む勇気なんてない。


あくまで私の想像ですが、それぞれのこんな意識が透けて見えます。

実は、一番問題なのはクラスの子どもたちへの影響です。学級崩壊よりも、そのことを巡って大人たちの中に生じている異物と感じるものを「排除」する意識。これを彼らが生きる土台にすることがものすごく怖くありませんか?

「迷惑をかける」「人と同じようにできない」という理由で他者を排除する意識が強いと、そのベクトルは自分にも必ず向います。

自分がそうした境遇になった時に、自分が自分を排除したり、他者が自分を排除することを受け入れることにつながります。例えば障害者に対して偏見の強い人は、自分が障害者になった時に、自分を受け入れられない人が多いものです。


そんな人間に育てなければいい。

そう考える人もいるかもしれません。でもそれは無理です。人生の中で、誰かに迷惑をかけたり、多数の人と違う境遇に立たされる場面は必ずあります。

受験に失敗するかもしれない。結婚しないかもしれない。子供が欲しくても持てないかもしれない。生まれた子どもに障害があるかもしれない。不治の病にかかって働けなくなるかもしれない。リストラに合うかもしれない。自然災害で全財産を失い生活保護を受給することになるかもしれない。離婚してシングルマザーになるかもしれない。認知症で要介護になるかもしれない。

長い人生、ちゃんと、みんなと同じように生きられない状況なんて、いくらでもある。逃れる方が難しいのです。


みんなと同じようにできない他者を排除することは、みんなと同じようにできない自分を排除することに他なりません。


じゃあ、どうすれば。

学級崩壊を構成する意識の中で、もしかしたら誰かが小さな勇気を実践することで突破口が開けることもあるはずです。

たとえば、お母さんができることはないでしょうか。

少なくとも先生や多動の子や、その子の親の悪口で盛り上がることではない気がします。その意識が、もしかして、事態をもっと悪くしているのかもしれません。

若い先生を、温かな眼差しで応援することは難しいでしょうか。小さな勇気を出して先生を信じることはできないでしょうか。

「先生、のびのびとやってください。少しくらいクラスが騒がしくても、勉強が遅れても大丈夫ですから。どうぞ楽しいクラスを作ってください。応援します」

例えば、そんな温かな意識を向けられた先生の中になにが起こるでしょう。親からの非難やクレーム、そんなプレッシャーに注いでいたエネルギーが取り戻せるかもしれません。本来、その先生がもっている能力が動きだして、多動の子に対して本当に大切な粘り強い関わりができるかもしれません。

先生の意識が緩むと、子どもたちの多動の子へのまなざしも緩みます。クラスの雰囲気がかわります。

そして、多動の子にとってそこは居心地の悪い場所ではなくなります。彼らが何も感じない?そんなの嘘です。アウトプットの方法が異なるだけ。自分を受け入れてくれる場所だと分かると、彼らの問題行動は確実に減ります。全部を同じにできなくても、みんなと一緒にできる部分は増えます。

そうなると、彼の個性がたどる成長を先生もお母さんも、大人は、楽しんで見守る余裕が生まれます。

学級崩壊と聞くと、とかく何かを悪として、問題として吊るし上げます。それが悪だとして、問題だとして、自分はそれに加担してないと言えるのでしょうか。何かのせい、誰かの責任、そんな意識を止めることが一番の解決策だと思うのです。

はじまりは、きっと誰か一人の小さな勇気です。


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