すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

尾崎豊に会いたくて。

2013-01-18 17:02:20 | ひとりごと

夢に尾崎豊が出てきた。

彼は、死んでなかった。髪が少し長くて、生きている年齢からすると、若すぎる印象だ。

吸い込まれそうな、傷つきやすそうな、澄んだ眼。とにかく、その目が印象的で、釘づけになった。

生々しい夢だったけれど、「夢を見た」という実感しか残らなかった。夢の中身を思い出したのは、今朝の新聞。テレビ欄を見ると、BSで尾崎特集をやっている。

シンクロ?っていうのは、大げさかな。
でも、そうか、私は、尾崎に会いたかったんだな、と素直に思った。

時間になってテレビをつけると、尾崎は米軍キャンプをうたっていた。懐かしい人に会ったようで、昔の自分に慰められているようで、とめどなく、とめどなく、涙があふれ出た。

高校一年の時に初めて聞いたのは、街の風景。そして、卒業。一瞬にして、心臓を鷲掴みにされた。

そして、中毒のように彼の歌に、歌声に聞きふけった。本当に中毒患者のようになっていった。

その尾崎の歌に出会って数日後のことだった。

正月明けの実力テストの試験勉強をやらなくちゃいけなくて、でもやりたくなくて、リビングのこたつの中で丸くなって、まどろんでいた。

夕方のテレビのニュースが、終わりそうだったところに、男性アナウンサーの低い声が響いた。

「今、ニュースが入ってきました」

もしかしたら、「ロックシンガーの・・・」と言われる前の、このときにすでに予感があったかもしれない。

あ、尾崎だ、と。尾崎のことだ、と。

死んだ?

そして、ニュースはやっぱり尾崎だった。でも、死んだのではなかった。

アナウンサーは、彼が、覚せい剤で逮捕されたと伝えた。(今思えば、このとき、彼の何かは死んでしまっていたのかもしれない)

それから4年半後。高校を卒業して、尾崎からはいわゆる卒業していた私。毎日を、軽薄に、したたかに楽しんでいた大学生には、もう尾崎は必要なかった。

なんとなくみていたニュースで、
「ロックシンガーの・・・」というフレーズを聞いたときだった。
次に続く前に、今度ばかりは確信した。
尾崎が、死んだんだ、と。絶対にそうだと。

はたして、尾崎は死んだ。

どうして、私、わかったのかな。あれほどのめりこんだ人だもんな。当たり前だよ。不思議な感じはしない。


彼の死後、彼はものすごい有名人になった。

そして、彼の、強烈な個性や、人としてダメなところ、がたくさん伝えられた。
一緒にいたら、近くにいたら、とても共感などできる人ではない、と、大人になった私にはわかる。

でも、まだ彼がものすごく有名ではなかった頃に、高校生の私が感じていた、
なんともいえない親近感は、一ファンだった私が知る由もない彼の人柄とか、人間性とかによるものではなく、彼の魂からダイレクトに伝わってくるものだったんだと思う。

亡くなった26歳という年齢を、ずいぶん追い越してしまった私にとっても、やはり尾崎は特別だ。

毎日聞くわけでもないけれど、やっぱり時々聞きたくなるし、尾崎にまつわる番組をテレビでやっていると、ついつい見てしまう。

もちろん、あの頃のような激しさや渇望感いっぱいで慕う気持ちではないけれどね。

私が70歳、80歳まで生きているとして。

高校生の時の感覚も、今の私のこの感覚も過ぎ去っていくのだろうけど、やっぱりおばあちゃんになっても、尾崎は特別なんだろうな、と思う。

私の中に、確実に変わらない核のようなものがあるという証でもあるね。



煮詰まった時の、池田晶子さん。

2013-01-16 22:47:04 | 本・映画・音楽




年齢を冠したタイトルに惹かれているわけではない。

でも、97歳に続き、今回は41歳。はい、自分の年齢です。

日々の生活、現実世界に転がる問題に辟易すると、帰りたくなる場所があるとすれば、私は、池田晶子さんの本を読むという行為が、それになる。

たとえば、天空に広がる無数の星を眺めながら、「この星の光は、実際には何億光年も昔のもの」とかなんとか、宇宙的規模なことを考えて見たりする。

そうやって、自分の悩みを俯瞰して、こんなの大したことないや、って意識を変える感じに似ているかも。

でも、池田さんは、日々のこまごまとした生活にまつわることではなく、生きて死ぬことについて、命について、宇宙について思いをはせることことが、本当のことなんだと看破する。

つまり、そっちを「考える」ことに時間を割くことが、まっとうなことだと。


手持ちにあった「暮らしの哲学」を流し読みしてから、図書館で借りた「41歳からの哲学」を読んだ。

この人が言っていることは一貫しているので、基本的にどの本を読んでも同じ。
ただ、「暮らしの哲学」の中にある、穏やかで柔らかい感じが、「41歳からの哲学」では感じられず、あくまでアグレッシブで、扇動的な印象を受ける。

前者が、自分の死期を知って書いていたことが、大きく影響しいてるだろう。
後者は、バリバリ現役感が漂っている。

個人的には、「暮らしの哲学」の方が読んでいて心地いいのだけれど、「41歳からの哲学」も、やっぱり、いい。

『人は、そのなるところのものに、自ずからなっている。物事は、なるようになっていて、ならないようにはなっていない。
これは偉大な真理である。宇宙の真相である。
なるほどそれを運命というなら、運命なのかもしれない。
しかし、それは、生きればそれが運命であるという、当たり前のことでもある。
裏から言えば、運命は、人生は生きてみなければわからない』

たとえば、こういう文章。

私がこういう文章に心動かされるのは、
他の誰でもない、考えて、考えて、考えることに一生を費やした池田晶子さんが書いているからに他ならない。

悲しいかな、私は、この人がいわんとしていることを、「わかった」と言えるレベルではない。でも、なんていうかな。
ああ、読書はもう、この人のものだけでいいかもしれないな、なんて思わされてしまう、私とこの本、私と池田晶子さんとをつなぐ、何かがあるのだ。

本当に残念なのは、もう、この人の新刊は出版されないこと。

言っていることは同じでも、タイトルを変えて、文体を変えて、テーマを変えて、何度でも何度でも読み続けたかった。

星を眺めるように、この人の本を生涯読んでいきたかった。そして、できたらこの人の年齢を追い越したくなかった(追い越さない可能性ももちろんあるけれど)。いつでも、ずっと先人でいてほしかった。

幸い、全著を読んだわけでないので、
読んでいない本は、片っぱしから読んでいきたい。

ただ、もったいないので、ぼちぼち、ときどき。




97歳への憧れ。

2013-01-15 11:03:16 | 本・映画・音楽

今年最初に読んだ本は、「97歳の幸福論」。御年97歳の現役報道写真家、笹本恒子さんのエッセイ。

都内のマンションに一人暮らし。老人ホームに入ることを考えたこともあったが、その資金を、リフォームに充てて、自由な生活を満喫している。

58歳のときに夫が亡くなって、それ以来の一人ぐらしというのだから、筋金入りだ。

お子さんはいないようで、週に一度姪御さんが訪ねてくるという。

食事は、毎食自分で作り、夕食にはお肉と赤ワインが必ず並ぶ。その盛り付けの美しいこと。食器にもこだわりがありそう。

毎朝テレビ体操や、英会話の視聴も欠かさない。自分に甘えを許さず、お洒落や美意識へのあくなき思い、あらゆるものへの好奇心も、決して衰えない。

「孤独」を感じることは、もちろんあるという。それでも、仕事関係者や姪っ子、ホームヘルパーなど、いろんな人が頻繁に訪れてくれるので、さほど強烈に感じてはいないようだ。

強い人だな、素敵な人だな、と思う。

人を受け入れ、それでも必要以上に人に依存せず暮らしている様子に、本当に尊いものを感じる。

97歳という年まで健康ではいる自信はないけれど、自分の遠い目標ができたような気がする。