それをかけてという人も、ときどき現れる政治生命とは、何のことなのかわからずにいましたが、これはどうやら議員の資格のことなのかもしれません。
議員の資格を失えば、政治の仕事が何もできない、何を言っても聞いてもらえない、それでは生きているとは言えないということなのでしょう。
しかし、大ものと呼ばれる人には、議員の職を失っても、いろいろなところに顔を出したり、あるいは何かにつけて人が訪ねてきたり、舞台裏でのだいじな役目が待っています。
落選で議員でなくなったとき、政治の仕事ももぎ取られてしまうのは、現役議員のときにあまり役に立っていなかった人たちなのでしょう。
そういう人の唱える政治生命という言葉には、実感が伴います。
この場合に「政治生命をかける」と「生活がかかっている」の間柄が濃厚になるように、けとかの前の言葉が入れ替わると、大違いの関係がほぼ同じことのようになるのも、言葉の綾の不思議なところです。
政治生命は、生活条件ではあっても命ではありません。
命を投げ出しても、「慷慨死に赴くは易し」で、生きる望みと一緒に失う命は、とくに政治家の場合意味の褪せ方が際立ちます。
政治家が他から狙われて命を落とすことはあっても、自ら大義大事のために命を捧げる機会を作らないよう、世の中の仕組みがうまく働いているのも、人間の知恵なのかもしれません。
もし、本当に命を投げ出さなければならないときには、いったい何が起きているのでしょうか。
そんなときはやってくるはずがない、と思っていると、政治生命どころではない、真の想定外のことも、やってこないとは限りません。
どうぞお覚悟を。