いよいよ。このシリーズも最後になりました。
教祖と共に歩まれた方のお話はやはり違う。「鳴物」のところで出て来ますが、親神様が見定められた方だと思いながら、書き換えを続けて来ました。
私には、その当時の様子が事鮮やかに目の前に起こっている如く、思えました。
とても辛いお話もありますが、なんでそんなんことが起きるのと思うような事が実際に起こり、親神様が人々を導いた。そして、今なおこの資料を通して、私たちに親神様が導いているのだと、語りかけているように思えました。
今回は以下の3つの質問です。
『かぐら勤めの初めはいつ頃からでございますか』
『鳴物はどういうところから起こったのでございますか』
『教祖ご在世中に行われたと聞かせて頂いております、雨乞いのお勤めについてお話しくださいませ。』
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『かぐら勤めの初めはいつ頃からでございますか』
明治13年旧8月26日が始めや。
それより前、慶応2年あたりは「あしきはらい 南無てんりわうのみこと」一点張りで、教祖も参拝者も区別なく、皆一様にぼてこ(渋紙張りの行季(こうり、入れ物))に入れてある拍子木を出して、たたきながら、「あしきはらい、たすけたまえ南無てんりおうのみこと」と唱えるだけのお勤めだったそうや。
それが明治元年、初めてお手をつけられてから、だんだん12下りのお手もついて、(当時は隠れ忍んでのこと故、2年3年で出来たものではないと聞く。伊)前にも話した通り明治13年旧8月26日、仏式教会(転輪王講社)の社開きの日(?為)かぐら勤めをせよとおっしゃって、初めて本勤めをされたのや。
このお勤めの手をつけて頂いたのは、初めから終わりまで教祖が、自然にお手の動く方へ運ばれて教えて下さったのや。足の運び方も同じや。
そして教祖は『この勤めは理で振るのやで、遊び事や気晴らしに振るのやない、みな理で振るのや』とおっしゃった。また『勤めというものはなかなか軽いものやないで、勤め一座で如何ような事でも治めさすで』と、また『ちょとはなしの終わりと、よろづよの終わりに、ようしようしという言があるが、これはどうでもこうでも言わねばならん、悪い事にはようしようしと言わんやろ、どうでもこれは言わんといかんで』とおっしゃったのや。
『鳴物はどういうところから起こったのでございますか』
鳴物人衆としては、初め3人お定めになったのや。(明治9年頃だったかと聞く。伊)その3人というのは、私と上田ナライトさんと辻留菊さんとで、それは皆身上のお障りによってお知らせを頂いて、教祖にお伺いするとお言葉があったのや。
そのうちで私が一番先にお言葉を頂いたのやが、私のお障りは右手の人差し指が痛むので、教祖にお伺いすると『三味線の稽古させよ』とおっしゃった。
上田ナライトさんは、不思議にも身体がフラフラとふらつくのやった。お伺いすると『胡弓を稽古させよ』とのことやった。
辻留菊さんのは、当人にお障りは無かったのやが、父親の忠作さんにお障りがあった。それは右手に腫れ物が出来たのや。お伺いすると『娘の留菊に琴の稽古をさせよ』とおっしゃった。(忠作先生は早速郡山の古道具屋で琴を求めて来られたと聞く。伊)
これで3人やが『一人の控えを置く』とおっしゃって、増井おりんさんになったのや。
そこでこの4人に、赤い着物を着る事をお許しになって、『これは先のまなびやで』とおっしゃって、さて3人がそれぞれ稽古をする事になったのやが、誰もその道は知らんので、当の私などはもとより親たちも心配して『せめて師匠について地歌の稽古からはじめて、お勤めの鳴物の手を教えてもらったら』と教祖にお願いしてもらうと、教祖は『習いにやるのでもなければ教えに来てもらうのでもないで、この屋敷から教え出すものばかりや、世界から教えてもらうものは何もない。この屋敷から教え出すので理があるのや』とおっしゃって、続いて私に『芳枝さんへ、これから先になれば会った事も見た事もない人たちに教えにゃならんで、今は仮名に(やさしく)手を付けておくで』とおっしゃった。
それからは毎日教祖の御前でお教え頂いたのや。
教祖は、また『これから先になれば、われもわれもと出たがる者があるで、それは代わりに出してやったらよい、けれども三味線だけはこっちで持たんといかんで、外の鳴物は出る者が無かったら並べといても役に立つで』とおっしゃった。
こうしてお勤めの手も鳴物の手も、教祖御自ら教えて下さったのだが、お歌の節だけは村田幸衛門という人が浄瑠璃が好きで、多少できるところから歌ってみて思召しに叶ったのやが、やっぱり教祖のお手入れがあって稽古したのやった。
このようにそれぞれ稽古したのやが、教祖は『まさかの時に間に合わせにゃならんから、しっかり手合わせをせよ』とおっしゃって、みんな一生懸命にしたのやが、いよいよ初めて本勤めしたのが、前々から言った通り明治13年の旧8月26日だったのや。
『教祖ご在世中に行われたと聞かせて頂いております、雨乞いのお勤めについてお話しくださいませ』
それは明治16年の夏(8月15日、旧7月13日と聞く。伊)で、私の18才の年やった。
この時は大変な旱魃で、各家の井戸水までも干上がる程で、人畜にまでその害が及ぶというようなあり様だった。ことに百姓衆は困り切ったのや。
そこで困り切ったあげく(土地の風習で、氏神に祈願する事が随分行われたと聞く。伊)いつもは見向きもしないのに、とうとう足達さん(石西さんではなかろうか。為)が代表になって、雨乞いのお願いをしてくれと頼みに来たのや。
教祖にお伺いされるとすぐにお許しになったので、皆支度にかかったのだが、この時教祖は私をお呼びになって、ご自分のお召しになっている赤衣を私に下さって『代理をせよ』とおっしゃった。
そしてこの時、『守護するで、なれどもどんな者連れて帰るやら分からん。その時は決して逃げ隠れしてはならんで』とおっしゃったのや。
そこで人衆揃って三島庄屋敷村の領分を南からひと回りお勤めをして回ったのやが、初めは雲一つなかったのが、2度目には東から曇って来て、3度目にはどしゃ降りの大雨が降って、4度目を終ってみんなずぶぬれになって戻って来たのやった。
そしてそのまま直ぐに、甘露台の前にお礼申し上げたのや。ところが、警官がこれを聞きつけてお屋敷へ出張って来て、勤め人衆を皆拘引するという事になったのやが、不思議な事には他の人等は皆黒の着物を着ていて、私ただ一人が赤い着物を着ているのだから、一番目立つのが当たり前なのに、何と私だけは眼に付かないと見えて、警官は他の人々の名前を一々手帳につけているのに、わたしだけには何にも言わなかった。そのうち私はにわかに小用をもようしたので、すぐそばの便所へ入ったのや。ところが便所の石段を登ればどうでも警官の目につかなければならないはずなのに、とうとう目に止まらなかったのや。私が出て来た時には、他の人たちは皆拘引されて門の外へ出られた後だった。
私はただ一人になって、そのまま教祖の前に行って、お礼を申し上げたような次第やったが、ほんまに出がけに教祖のおっしゃった通りやったのや。(祖母はこの時の感激を、繰り返して最もよく語る処でした。伊)
一方警察ではお勤めに使ったお道具から、おつとめ着までも取り上げられてしまったのや。その上水利妨害として一人50銭ずつの科料を取られたのやが(一部の方々は62銭5厘だったと聞く。伊)何で水利妨害かというと、一般にまんべんなく降るはずの雨を、祈祷によって三島庄屋敷村の領分にだけ集めたのやから、他の村に対しては水利妨害やと言うのや。
なるほどそうかもしれん。お勤めをして回った以外の方は、しょぼしょぼと降っただけやったそうや。
そやけどこの時も、結局教祖に警察へご苦労頂いたのは申し訳ない事やった。
色々と長話ししたけれど、これはみな私の憶えているだけのほんの道筋のあらましを言ったのや。今日はこれくらいにしといてもらおう。
(以上)
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ここまでですが、
私はこの部分で一番気になったのは、「雨乞いづとめ」の時に、教祖の代理として赤衣を着られた芳枝様が、警官の眼に止まらずに、拘引されなかったという事です。
この証拠は、拘引した時のメモなり調書がそれになるでしょう。(おつとめをする人数が決まっていますので、その人数が足りないはずです)
読む方によっては、
ただただ拘引されずに良かったと思う方もあるでしょう。
「なぜ警官に見えなかったのだろうか?」とその理由を探す方もあるでしょう。
「赤衣は隠れ身の術を使えるのか。」と思う方もあるでしょう。
この「赤衣が隠れみの術のようになったのかも」と思える話が逸話編にあります。
岡本シナさんに、
「着て去にや。去ぬ時、道々、丹波市の町ん中、着物の上からそれ着て、踊って去ぬのやで。」
と仰せられて、言いつけ通りに行ったところ、何も起こらなかった。
という話しを思い出したのです。
ともかく、教祖は身上を助けるだけではなく、不思議な事を次々とお見せ下さいました。
教祖は親神様であります。
つまり、親神様の働きは「あるものも無いようにしてしまう事も出来る」という証と思われます。
「大和神社の事件」でもそうでありますが、警察に拘引されるのですが、その時の事がチャンと記憶に残るように、見せられた事とも考えられると思います。
今回、このお話をネット上で公開をしました。
全世界の方々に読んで頂けます。世界だけではありません。おぢばで住む方でも、このようなお話があった事は知らない方が多い事でしょう。
その時だけの不思議を求めたり、不思議が無いと嘆く人も多いかと思いますが、このような不思議もあるのです。
大和神社事件で「後々の話の台であるほどに」と教祖がこかん様に言われた言葉が、とても大切だと思うのです。
先ほどの逸話編に
「今日は、家へは去ぬことが出来ぬかも知れん。」と、思った。ようやく、覚悟を決めて、「先はどうなってもよし。今日は、たとい家へ去ぬことが出来なくてもよい。」と、教祖から頂いた赤衣の襦袢を着物の上から羽織って、夢中で丹波市の町中をてをどりをしながらかえった。
と出てきます。
この「我が身どうなっても」と定めた誠真実によって、親神様の不思議を見せて頂き、話の台を頂けるのではないでしょうか。
読まれた感想など、コメントで共有できれば、ありがたく思います。
Facebookの「復元」グループへは毎日少しずつ、スキャン画像をアップしています。
今日、『復元』3号 教祖御伝稿案(2)が終わるところです。
また、多くの方に見て頂きたいと思うものがありましたら、書換えて見たいと思います。
ありがとうございました。
世界が陽気ぐらしになる一助となりますように。。。
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