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仰木監督の死を悼む

2005-12-17 10:25:27 | Weblog
 多くの名選手を育てたプロ野球界の名将が逝った。
 その名は、仰木彬。「急死」と受取ったが、癌の再発を繰り返しての闘病生活の末にこの世を去られたとのことだ。
 彼は名将というだけでなく、人間的な魅力に溢れた男と聞いていた。その風貌は、高齢になってからもパンチパーマにサングラスと、街のヤクザ顔負けのもので、夜のネオン街を夜な夜な飲み歩く仰木さんに「地回り」が挨拶することもしばしばであったという。「親分肌」なのは、その風貌だけでなく、人柄も包容力に溢れていたようで、後輩達に心から尊敬され、慕われていたようだ。
 昨夜のニュースで、かつて仰木さんの下でプレイし、今はメイジャー・リーグで活躍する田口壮選手がインタヴューに答えていたが、目に涙を一杯ためて仰木さんのことを語っていた。また、日本の野球界で世話になり、その後、アメリカに渡って活躍した吉井理人投手も記者会見で涙ぐみながら「心から信頼できる大将。終わりかけていた選手にチャンスをくれた。感謝のひと言」と語っていたという。吉井投手は数年間の野球生活だけでメイジャーからマイナーに転落し、米球界からお払い箱になってしまった。失意の帰国をした同投手に関心を払う日本の球団はなく、日本でも「もう吉井は終わった」との見方が大勢であった。その時、吉井投手に声をかけたのが仰木さんだったのだ。吉井投手が渡米前に所属した近鉄バッファローズで監督をしていた仰木さんと確執が噂されていただけに周囲は驚いたが、仰木さんはそんなことはお構いなしに声を掛けたらしい。仰木さんの「プロの目」がそうさせたのか、人情の篤さだったのか、その辺りは知らないが、吉井投手はそれに応えて、見事に復活した。
 仰木さんと言えばイチロー選手というくらい、二人の仲は有名だ。
 そのイチロー選手は、渡米後も仰木さんと親交を続け、昨年仰木さんが野球殿堂入りした時にはシアトルから駆けつけ、今年のシーズン後に一時帰国した時には、仰木さんの病床に空港から直行したと言われている。訃報はロサンゼルスで聞かされたとのことだが、同行している所属事務所の職員の話では、ショックでコメントも出来ない様子だという。
 私は残念ながら仰木さんとは何の面識もないが、個人的に言えば、1995年の仰木監督率いるオリックスが、阪神大震災で破壊された神戸の街から「がんばろう神戸」のスローガンの下、リーグ優勝したのを避難所のTVで観て感激させていただいた。あの優勝がどれだけ被災者を励ましたか、恐らくあの時神戸で同じ空気を吸う者のみが味わえた感激だっただろう。その優勝の胴上げに加わっていたのは、言うまでもない、イチローと田口であった。その1年後、今度は「日本1」になる瞬間を神戸市内の設けられた特設会場で体験させてもらったのも印象に残る思い出だ。
 日本球界から次々に、名選手、名監督が消えていく。その人たちのプレイや采配振りが記憶にあるだけに寂しさはあるものの、仰木さんの死は、本当に惜しまれる。
 「もう少し、あなたの生き様を見たかったですよ、仰木さん」。
 
 

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