有田芳生の『酔醒漫録』

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遥かな記憶 戦争の真実

2006-10-04 08:41:23 | 単行本『X』

 10月3日(火)名古屋の錦三丁目。3年ぶりに懐かしい寿司屋「吉鳳」に顔を出す。若い職人が生き生きと働いている姿がとても好ましかった。17歳の少年は中学時代からアルバイトで働いていたという。ガリを包丁で薄く捌く手つきはもはや職人だ。こんな年齢から自分の適性を見いだせれば幸せなこと。多くの若者にそうした機会があればいい。この広い世界にはきっとふさわしい仕事があるのだから。店を出て仰ぎ見れば街中に大きな観覧車風のデコレーションがあった。「ザ・ワイド」の「食育」企画で取材したハヤト君を思い出して電話をしたが留守電になった。名古屋に住む中学生だ。仕方なく伝言を入れておいた。近くのバーに入り、バーボンを飲みながら明日行われるトークショーで話すことをメモする。ところが頭のなかではすぐ単行本『X』のことが浮かんでくる。新幹線で熟読していたのは、いまから40年前の雑誌『展望』10月号だ。佐田啓一さん、高橋三郎さんの「波濤と花火」を読むのはこれで3度目。あっと驚く発見があった。木村久夫さんと同じ部署にいた大野實さんからは、何度も話を聞いてきた。なにしろ60年前の記憶だ。当然のことだがはっきりしないことがある。自分のことを振り返っても昨日の記憶さえ不鮮明であるのに、過去の経験はどうしても加工されることがある。都合のいいように歪められることさえある。誰でも避けえないことなのだ。イヤなことをいつまでも鮮明に覚えていたくないという自己防衛の機能も働くだろう。たとえば事実だと思われることと矛盾する証言があったとする。しかし、当事者の言葉は重い。

061003_21320001  そこで為すべき作業は史実と証言の信憑性を比較し確定することだ。Aという証言、Bという証言。それがありえないことかもしれないと判断しても、「60年前の事実」は明らかにはならない。ところが、ある単純な事実が明らかになることで、AとBとが結びつき、「すべて」が解きほぐされることがある。「ありえない」ことが、ある情況では「あった」のだ。たった5行の記述ーー「判決の翌日」ーーに引きつけられた。「これだ」と興奮して大野さんに電話をする。それでもご本人の現在の記憶には変化がない。「わたしの記憶ではそうなんですよ」という。60年前のシンガポールでの記憶、33年前にNHKで証言したときの記憶、そして現在。記憶は変形されるのだ。それをいかにして確定するのか、いやできるのか。幸いなことに木村久夫さんの上司がまだ存命だ。再び問い合わせをすることにした。そこで確認をすれば事実が確定できるかもしれない。面倒だが心はずむ作業である。当事者に話を聞いて戦史を書く仕事は誰にとってももはや最後の局面に入っている。1945年に28歳だった木村久夫さんの世代は80歳代後半から90歳代の方々だからである。貴重な経験をしていることを喜ばなければならない。「急げ、急げ」と内面の声がしている。