有田芳生の『酔醒漫録』

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『ペンギンの憂鬱』

2006-09-17 05:31:30 | 読書

 9月16日(土)朝刊各紙の「麻原死刑確定」はもちろん1面トップ。夜まで何も読まなかった。被害者の悲しみにはとても追いつかない。語れないところに真実は隠されている。そんな思いが大きい。「ざ・こもんず」にオウム問題の原稿を少し書いたものの、どうも気分が乗らない。統一教会問題の「同志」宮村峻さんと電話。「まだ読んでいないんですけど、どうですか」と聞いたのは「週刊現代」の「安倍晋三と統一教会」という記事だ。新聞広告には馬鹿でかい広告が出ていた。宮村さんは「中身のない記事だよ」という。そこで週刊誌で仕事をする知人からファクスで送ってもらい一読。スカスカ記事の典型で無惨。アンドレイ・クルコフの『ペンギンの憂鬱』(新潮社)を読む。売れない作家とペンギンとの生活に不気味な政治が飛び込んでくる。ウクライナを舞台にした不条理小説だ。なべてこの世はこんなことばかり。いつものようにテレビも見ずにただ単行本『X』の原稿を書く。まだプロローグを書いているのだが、文才がないなと自嘲する。ならば何度も推敲するしかない。最初のシーンで何を伝えるべきなのか。梯久美子さんが書いた話題作『散るぞ悲しき』(新潮社)はとてもすぐれた作品だった。硫黄島で総指揮者として散った栗林忠道の人生をたどることで、筆者が声高に語らずとも戦争の悲惨さはよく描かれていた。

 編集者の多くは、この読み物が「読ませ」「よく構成されたもの」だと評価する。熟読してたしかに読みやすい筆致だとは思った。しかし、事実を確認することでいえば、引用された体験記の信憑性がどこまであるのかがいちばん気になった。経験を記した手記に虚構が入り込むことはしばしばだからだ。その場にいた証言ほど「事実」だと他人は思い込みやすい。実はそうではないのだ。文中に「私」が突然登場することも気になった部分だ。しかし完璧などないのだから、それでいいのだろう。いま新たな原稿を書きつつ自覚することは、方法への意識を持ちつつも、自由に書くことだ。誰かに評価してもらうために取り組んでいるのではなく、やりたい仕事を完成させることにあるからだ。面白さではない。歴史の事実を記録することなのだ。麻原裁判もそこに問題がある。夕方、茗荷谷クリニックで昨日の検査結果を聞き、池袋「おもろ」で泡盛を飲む。話題はもっぱら植草一秀さんの痴漢問題。今度は実刑判決だろう。冤罪ならばどう逃げればいいのか。逃げるしかないというのが一般的意見だ。それでも捕まったときには弁護士に連絡すること。池袋から地下鉄に乗り、乗客が少なかったのでホッとした。