日々の泡

こころに浮かんでは消え、消えては浮かぶ
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カルチャーセンターの役割

2015-01-07 22:52:57 | 日々
2011年震災のあと、ワタシは(自分の)頭の中が混乱した。
もう、なんか生きるために必要な、自分の軸をすべて失ってしまったような気分だった。
それまで自分が「大切だ」と思ってきたもの・・・・
それは、本当に大切なものだったのだろうか。(あんなにたくさんの人が。)
自分が目指してきたもの
そのことに意味はあったのだろうか。(なにもかもが、一瞬に。)

自身は、直接の被害はまぬがれたものの、自分からすべてを投げ出してしまいたいような気分になった。
社会も、思っていたものとは全く違っていた。マスコミも嘘だらけだと思った。
「本当」に飢えた。なんでもいいから、本当のもの、に触れたい、と思った。

自分がタップを続けていることの意味を知りたくなった。
当時、NHKのカルチャーセンターで教えていた自分は、(震災当日も、夜からレッスンで、その準備をしていた時に揺れがはじまり、その後停電で信号機も消え真っ暗闇になった。)後日、生徒さんへの連絡事務もあり、徒歩で会場まで通い、その中で「こんな時にカルチャーを開講している場合ではない。」という苦情と、「カルチャーがあることで、心が紛れる」という意見があることを知った。開講するかどうかも、講師の判断に委ねられていた。ワタシは、ガソリン不足でみんなが来られないことがわかっていたので、休講にしてもらった。

でもまもなく、ワタシは、これ以上は続けられない(気持ちが)という気持ちを無視することができなくなって、随分お世話になったけど、やめることを決断した。たぶん、カルチャーという枠にあわせて、教えるということに耐えられなくなったのだと思う。どこも妥協したくなくなったんだと思う。どこまでも自由に、思い切り我がままに、自分のタップを伝えたくなった、んだと思う。どうやったら生徒さんをたくさん集められるだろう、なんて考えたくもない、と思ったのかもしれない。ただ自分がタップに惹かれたのはなぜだったっけ、ってことばかりが鮮やかに思い出されてしかたがなかった。そのことをちょっぴりでもシェアすることができたら・・・。結局は、自分にとってタップは、やはり大切なものだったんだ、って・・・時間がかかったけど確かめることができた。

カルチャーのような場所は必要だと思う。いろいろな形でひとが繋がれる場所は多ければ多いほどよい、と思う。
ワタシには、カルチャーではなかったけれど。昔、カルチャーが果たしていたような役割を果たせる新たな場所が、ますます必要にはなるだろうと思っている。
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