宇宙の彼方から

自然の不可思議な森羅万象に揉まれる自分や他人の有り様を見つめる。

必要を越えた愛国心の強要。

2005-12-24 22:27:29 | 政治
最近、右翼の御仁と意見を交し合うことがあった。
問答無用のやくざな右翼と違って、彼は彼なりに持っている理論を披露してくれた。
彼との話の中で感じたことを書いてみたいと思う。
過度の愛国心や闘争心から考えてみると、若さに裏打ちされているように思った。
しかも、彼には勝つか負けるかの二者択一であって、真ん中がないのだ。
これは若さの証明みたいなものだ。
どんな人も日本食を食べ、日本語を話し、日本にアレンジされた習慣の下に生活している。十分、日本人として埋没しているのだ。だからこそスポーツでも日本人の活躍に応援を惜しみなくしているのだ。それ以上何を求めるのか?
これ以上の愛国心の強要は全体社会を意味し、ナショナリズムの高揚を目論んでいることになるのである。すでにその社会は先人たちが体験してきている、その結果があの惨劇、悲劇であったのだ。そして今また日本国民が、分別ある大人になれるかどうかの岐路に立っていると思える。
そうなると、日本選手のミステークなプレーにはボロクソが生まれるでしょう、
相手選手、相手国をなじり、相手の美技にも音なしの構え。それこそ世界に、歪んだみっともない根性の醜態を晒すように相成る。マスコミがややそうなりつつあるような気がしています。
このように「必要を越えた」愛国心や闘争心は、精神に歪みを発生させることになるでしょう。つまり、石原さんや中曽根さんたちの大人としての成長を鈍らせているのは、信念を強く持ち過ぎるカッコマンであるが故に、謙虚に聞く耳を持っていないところにある。小泉さんもお仲間であろう。
「必要を越える」と言うことが、私が常に言うところの「過ぎたるは、及ばざるより悪し」に当てはまるのである。
問題点は、老人大国でありながらの精神年齢の未熟さである。本来、分別が生まれてしかるべしなのであるが、それがなく、どうにもこうにも救いようがないのだ。保守的、固定的であって、弾力性が失われつつあるのに、みんなそれに気づいてさえいないのである。
そんな中での(国自体、若くも無いのに)過度の愛国心と闘争心の強要は、見苦しい行いを誘発するだけでなく、半端なプライドとやらのために衝突、イザコザに発展する要素を孕んでいる。そう言う日本にとっての「戦争に至る、かも知れない危険な要素、因子」は出来得る限り減少、削減していかなければならないと思う。老人大国ならば、指導、誘導できるものであるのにも拘わらず、先人たちの行いを糾弾もせず、できず、ただひたすら生活の豊かさを目指して一心不乱に生きてきたからこその精神年齢の未熟さに辿り着いたのかも知れない?人間学を振り返りもせず、ないがしろにしてきたツケなのだ。
今一度、自分は何だったのだ?と言う事柄を今からでも遅くは無い、噛み締めてみるのも大事なことなのではあるまいか?
他国や他人のことを、とやかく言う前に、良くも悪くも、己自身をしっかりと見つめるべきがよろしいかと思う。そうでないといつまで経っても幼児から脱却できない、幼児以上青年未満と言うことになってしまう。青年になるには、自分中心から他人の異質な存在を認識し、決して自分だけのためだけに地球は回ってはいないことを知る必要があろう。中国に関心が強く、それほども中国事情を探っているのは、好き或いは興味津々の裏返しでもあるのだから、見方を変えてみるなり優秀な人材になるべく、高めてください。真の嫌いは無関心で通り過ぎるだけだから・・・
だから、あなた方は、60歳の赤いチャンチャンコを着て、子供に帰る戦前回帰をしているようなものだ、と言うことを客観的に自らを振り返ってみてください。
きっと、苦笑が漏れること請合います。