宇宙の彼方から

自然の不可思議な森羅万象に揉まれる自分や他人の有り様を見つめる。

死刑

2008-02-21 22:06:16 | 事件
最近、時々「死刑」というジャンルのところに訪問してます。
私は死刑推進派なので、廃止の意見のブログに質問形式でお邪魔虫しています。
みなさん、右翼意見の方々と同じように、真反対の意見を取り入れて、ブログに厚みを出そうとする意欲がないようで、「来ないでくれ」と邪魔扱いされてしまい、けんもほろろです。

みなさん、ご自分が可愛いのでしょうね・・・・
イエスマンの意見ばかり大事になさっているようで、いかにも「脆い思考」の方々ですね・・・・

で、そういう訳で、仕方なくここで書きます。
皆さん押しなべて共通するところは、加害者と被害者の関係性だけで論じていらっしゃるので、視野が狭いのです。
殺人に関わるものは、必ずしも被害者と加害者だけの問題ではないのですね。
あらゆる関係者にも影響が及んでいるのです。
被害者家族はもとより、親戚、友人、現場の持ち主、警察、司法、そして加害者家族、その親類、友人、そして、その車や凶器の販売店、目撃者、まるで披露宴のように関係者で埋め尽くされるのです。
それぞれがPDSDなどの後遺症に悩まされることもないとは言えないのです。
ひとつの、一人の殺人が、多くの人たちを巻き込んでいくのです。
そのおぞましさはどれほどに罪深きことでありましょう。
若気の至りで済まないのです。

そして、その掛かる費用も莫大な額でもありましょう・・・
なのに「死刑廃止」を叫ぶ人たちは、あまりそこまで考えている節がありません。

殺人を行う者は、日本に「死刑」と言う刑罰のある事は大概、百も承知です。
実際には殺人時に死刑を考える人はいないかも知れませんが、逃げようとしたり、隠蔽を図ったりの行動時にはすでに死刑及びかなりの刑罰を意識している訳ですね・・・・

それに対して、被害者はよもや自分がこの世から抹殺されてしまうとは夢にも思わない訳です。何故死ななければならないのか、自覚さえできない場合があります。

つまり、加害者の死刑による死と、被害者の殺人による死とでは、明らかな相違が見られる訳です。従ってイコールではないのです。
私たちは常日頃、ツケは、行為行動や言動から必ず発生することを知っています。
相手がある場合は、利息を払うべきことも覚悟できています。
原則、殺人を行った結果の「ツケ」は、利息を含めて払わねばなりません。

多く自分だけを助ける自己保存本位から他者を殺害します、つまり、邪、邪気というものです。
そのような人を生かして、楽しい、明るい家庭生活を送る筈だった被害者を死なすのを世の無情と言うべきではないか・・・・?廃止論者はそれらのことに空しさを感じないか・・・?
殺人者による安直な殺人を自然様がお許しになるならば、安直な死刑があっても何の不自然でもない。
死刑にそんな重しを感じる必要は何らないのだ。
私たちだって、ガンになればお医者さんから「死の宣告」を受けるし、交通事故でいつ何時死ぬかも知れぬ?
一寸先は闇なのである。
それなのにいろいろな人を、恨みと憎しみと悔悟の奈落の底へ招待して、のうのうと生き長らせようとするは、ホンに邪道なり・・・・
まして、途中解放にでもなれば、先に死んだ者は浮かばれはしない。

死刑をもって、被害者家族親戚も、加害者家族親戚や友人知人たちも、恨み、憎しみは消えぬとも、新たなる旅立ちが叶うのだ。
生きながらえていたのでは、恨み、憎しみ、悔悟の情はいつまでも引き摺るのである。

私のこの考えに異論ある方は、どうぞ指摘なさってください。
受けて立ちます。
楽しみに待っています。