「新型ウイルスが出る前に偶然耳にした言葉に救われた」と、ITマンから電話が来た。
サウナに入っていた時「早くも(花粉が)始まったかな」と、隣に居た人の会話が聞こえて来て帰りにマスクをまとめ買い。
「神様は時に人を持って救う」という言葉を聞いた事がありますが、ITマンは諭される方ではなく、救われる方なんだと(笑)
さてと、今日は親の病院の付き添い。
マスクはディーに通っている事もあり常備していたけど、あと50枚位、持つかな?
「あの一言で」で検索してみると、面白そうな記事がありましたので読んで見ました。
『美輪明宏の一言でオジャンに 瀬戸内寂聴と横尾忠則の“移住騒ぎ”』
gooニュース
https://news.goo.ne.jp/article/dot/life/dot-2020012300017
(前略)
あのまま京都に住んでいると、1980年にニューヨークには行っていないし、MoMAでピカソ展も観てない。すると画家には転向していない。
もうひとつの僕の人生も体験したかったけれど、美輪さんとセトウチさんの二人の「鶴の二声(ふたこえ)」で、今の人生があり、こうしてセトウチさんと「週刊朝日」のこの往復書簡もやっていることを思うと、色々ある人生の選択肢の中から、その人にふさわしい選択をしているんですね。
セトウチさんの尼僧になる選択肢だって、生まれながらに約束された宿命としかいいようがないですよね。なるべくしてなっちゃったという訳です。僕が一年間禅寺に参禅したのと話が違います。セトウチさんの行為は人生の大革命です。京都に住めなかった僕も考えてみれば自分の意志がどこまで関与したかは実に怪しいものです。自分のあずかり知らない所で、運命があれこれ操作した結果、京都は止めなさいと、何か見えない力がブロックしたんだと思います。自力と他力がひとつになって、アーデモナイ、コーデモナイと。
そー考えると、人間の意志だけが全てでないような気がします。何が起こるか判(わか)らない人生はやっぱり神秘というしかないです。
(以下略)
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