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日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

猫との共依存。

2015-02-18 21:21:45 | 日記
 てくてく歩いて買い物に行く途中、
近所の金柑の実にめじろが止まったり、飛び立ったりしています。
めじろを見て、うぐいす餅を毎年食べたくなります…。

 飼い猫の桃ちゃんは、私のことをとても好いてくれています。
追尾装置がついているかと思うほど、付いて回り、
お風呂に、トイレに、台所にとほぼついてきます。
ぐっすり寝ている!と思っていても起きてついてきます。

 飼い主としては、嬉しいことですが、
猫のご飯も他の猫は、器につげば食べますが、
桃ちゃんは、一粒ずつだったり、近くでなくては食べないことがあり、
夫がやっても食べなかったりします。

 もちろん、私の猫可愛がりが原因ですが、
私への依存度が高すぎて、留守中などは大丈夫!?と要らぬ心配もすることになります。

 依存というのは、なかなか厄介なものなのね、と、
猫の桃ちゃんの執拗な追尾に少々戸惑いながら、思うことです。

 まぁ、それでも、猫との依存はでれでれしている場合が多いのですがね。

お灸。

2015-02-17 16:31:14 | 養生・薬膳
伸びすぎた猫の爪のような月が朝方沈みかけていました。ブラッドオレンジの中味のような色。早起きも、やっぱりいいですね。

今日は、養生の日でした。
いつもは食べることを意識する養生ですが、
今日は、外側からの養生で、色々なお手当てのやり方を学びました。

豆腐や小麦粉を混ぜて作る「豆腐パスタ」
こんにゃくをふつふつ煮て、熱々を患部にのせる「こんにゃく湿布」
ひね生姜をすりおろし、お湯で煮出したもので患部を温める「生姜湿布」

どれも、台所にあるものでできる家庭養生です。病院に行くまでもないけど…、というような時に自分でやって症状を軽減できるのが、家庭養生の魅力ですね。

もちろん、症状がおさまらないときは、ちゃんと病院の門を叩きましょう。

そして、午後からはお灸の魅力について、鍼灸師さんが千年灸を使いながら教えてくださいました。

色々なことを幅広く学んでいらっしゃる先生で、本の知識とご自身の治療家としての経験からのお話は興味深く、先生も進化中という感じがびびーーっと感じられるものでした。

お灸をツボにしましたが、もう、2時間ほど経っているのに、お灸をした足の裏や手のツボは、ほんわり暖かいです。

家庭養生、家庭お灸。
広まると体が楽になって良いのにな、と思います。

媒介の重さ。

2015-02-16 20:01:43 | フォイヤーシュタイン
 からだが油断するほど、暖かい1日でした。
これで、急に寒くなると、調子が狂い、少しからだがだるくなります。
でも、そういうことを意識するようになって2,3年。
なんとなく、乗り越えているので何事も意識することは大切なのですね。

 私はお調子者なので、子どもが調子に乗ってなにかやっていると、
「あら、楽しそうで良いねぇ。」と呑気に思ってしまいます。

 ふと、今日『「このままでいい」なんていわないで!』という、
フォイヤーシュタイン博士の著書を読んでいて、
ちくり、と考えることになりました。

 アダムという少年のことを書いた章で、

(様々な展示物を見ている)アダムは物事がなぜ起こるかを理解するよりも、
目の前で何かが起こることに心を奪われている。目に見えること、体験することが彼にとっては刺激的なのである。
彼が喜んでいるのだから、それで充分ではないだろうか?
<中略>
アダムと展示物との相互作用の中心が全て身体的活動に限られ、思考活動が置き去りになってしまっている


という文章がありました。

 私が目を奪われる活動は、しばしばこの「身体的活動」に夢中になっている子どもの姿なのです。
それはそれで、懸命に何かに取組んでいる、きらきらと輝く姿なのですが、
私の場合、その姿に見とれているだけでは良くないのだった!ということに、
今更ですが、ハタと気がついたのです。

 フォイヤーシュタインでは、「媒介」ということがとても大切です。
近くにいる大人が、単純な身体的活動の先に子どもの生活や自立を見据えて、
その一見単純な活動を、思考したり想像したり、選択することを学ぶものに変容させるのです。

 こうして書きながら、一体、私にそんなことを思考する力があるか?と
本を読みながら頭が痛くなりました。

 大人の知恵のある関わり、ということをしっかり考えなくては、
せっかくの伸びしろにも気がつかず、ちょきちょき刈り込むことになるのですね。
心せねばいけませんね。

普通の日々。

2015-02-15 17:52:22 | 日記
 日曜日も夕方です。
毎週、「ああ、な~んにもしなかった…」と後悔の夕暮れです。

 友人が遊びにきたり、何かを学びに出かけたり、
いつもとは違う日常はそれだけで、わくわくしたり、心が躍るものです。
そういうときは、それだけで、気持ちの中に新しいものが生まれたり、
次の行動への原動力になったりしているような気がします。

 でも、それは自分の中からというよりは、外に吹く風に動かされて、
風がやむと止まってしまう、そういう感じでなんとも心もとないものです。

 日々の生活の中で、自分がやるべきことをコツコツ積み上げる。
そういう地道な作業があまり得意ではなく、すぐに、「面倒だなぁ~」と明日に回して、
実は、やらなくてはいけないことが小さくはありますが、山のようにあります。

 日曜日はベニシアさんの番組を観ながら、
何もない日々の暮らしをきちんと送ることの大切さを思い、
月曜日の仕事始めに、週末が来るのを心待ちにします。

 さぁ、次の週末は充実させるぞ!
その前に、残り少ない今日と明日からも「メンドクサイ」を言うなよ!私!!!!!


 

共通感覚。

2015-02-14 15:08:58 | 発達応援
 世の中は、バレンタインデイ
このときしか鹿児島では買えないチョコもいっぱいあるんだろうなぁ~と、
デパートのチョコ売り場を映すテレビを眺めたりしています。

 今日はフォイヤーシュタインの日でした。
休憩中に、「まっすぐ、字を書けるように云々」という話になりました。

 ここで、保護者の方が言われている「まっすぐ」とは、
すべての字の上下が、ある枠からはみ出さず、
ジグザグに字が並んだりしていない状態のことのようでした。

 どうやら、子どもさんの字がジグザクうねっていて見にくいようでした。

 「まっすぐ書きなさい!」といえば、済むことのようですが、
この保護者の方が言う「まっすぐ」という状態はどういうことかが、
子どもさんとの間で共通に認識されていないと難しいだろうなぁ~と感じ、
そういうことをお話しました。

 私自身が「まっすぐ」ということが苦手だったので、わかるのですが、
たとえ、傍から見たら右上がりだろうと、本人にとっては「まっすぐ」だったりするものです。

 私自身のことで言うと、横書きの字が右上がりになっていても、
私の書いているところから字だけを見たら、まっすぐだなので気がつかなかったり、
紙自体の構えが右上がりであることにも気付けない、残念なお子様でした。

 その度に、まっすぐ座って紙の位置も自分と平行に置いてもらって、
「ほぉ~ら、右に上がってるでしょ!」と言われて、はじめて
「あれま!」と気付くような子どもでした。

 「あれが水平線だよ」と海の彼方を指差されても、
「すいへいって?」と思うような小学3年生だったので、実に残念です。

 漫画をノートに描くようになって、コマ割りのようなことをしだしてから、
はじめて、自分が定規で引く横線がノートの上下と平行かな、と意識した感じでした。

 自分の中で基準ができて、はじめて、自分で比べることができるのではないでしょうか。

 フォイヤーシュタインの教材でも自分の中の基準をコツコツ積んでいっている最中です。

 相手に望む状態をひとつひとつ、具体的に言葉にして、認識を共有する。
その認識が伝わっているかは、実践して試して、伝わっていなければ、伝え直す。

 伝える工夫をするのは、経験豊富な大人の仕事です。