日々、あんのん。

からだの育ちの凸凹、学習のスタートラインにつけない人のもっと学びたい、発達したいを応援します。

言葉の呪縛。

2024-01-11 15:19:00 | 発達応援
p毎年、地元の和菓子屋さんが
鏡開きのぜんざいのお裾分けしますよーと、
SNSで案内してくださる。

今年は一日引っ張って、
成人の日の8日がぜんざいのお裾分けだった。

今年もタイミングよく
その案内を見つけて、予約してぜんざいをいただいた。

小鍋を持って和菓子屋さんに行くときの
心踊るこの感じ!

今年も無病息災とまでは言わないが、
ぼちぼち元気に日々過ごしたいものです。

私たちは、だいたいが言葉を用いて
コミュニケーションをとっています。

あれ食べたい、これやって欲しい、
というような単純なことから、
もっと複雑な心の動き、
機微のようなものもまでも、
誰かに伝えたいと本気を出すときは、
色々と言葉を駆使しています。

なんとなく、
「言葉」ってすごく重要で、
なくてはならないものだと無意識のうちに
そう思っている気がするのだけど、どうでしょう。

言葉は、もちろん、
とてもわかりやすい、大切な道具です。

でも、言葉がなければ、
コミュニケーションが取れない、
相手の気持ちがわからないと
思いすぎている気もするのです。

そして、私たちが言う「言葉」は、
声に出して音として相手に伝わるもののみを
指している気がするのだけど、
本当にそう?と思うことがあります。

私が亡くなった義母と暮らしていた数ヶ月。

耳が聞こえず、声が出なくなっていたけれど、
好きなものを食べたときの目の開き、光、
顔の表情からは嬉しさが溢れていた、と思う。

故郷の島唄のCDを聴いたときの
一瞬びっくりしたような表情も忘れられない。

言葉はなかったけれど、
義母と私たちの間には気持ちの行き来があったと思う。

同様に一緒に遊んでいるお子さんが、
言葉は話さないけれど、
口で面白い音を出すのでマネたら、
ハッ!とした顔をした。

その後もその子が出す音をマネていたら、
色々な音を出してくれて、
私がその音を出すまで、ちょっと待っていてくれたりもする。

こうなると、もう、やり取り遊びで、
ピッタリのマネ音を出すとウケていて、
大笑いしていた。

ここにも言葉はなかったけれど、
あーおもしろかった!というような充足感のようなものがお互いの間にあった気がする。

一番、誰にとってもわかりやすいのは、
言葉を用いることだとは思います。

義母やお子さんとのこれらのやりとりは、
言葉はなかったけれどコミュニケーションだし、
目の輝きや口から発した音は、
それぞれがそのとき持ち得た最大の「言葉」だったのでは?と思うのです。

でも所謂、「言葉」こそが最上級のものと思うと、見えにくいかもしれませんね。

言葉を引き出すことに懸命になるあまり、
目の前に展開されている豊かなものを
見過ごしてしまわないようにしたいなぁ、と
思うことです。


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