町の事情3
小濱に残る口伝によると後日買い戻すとして泣く泣く売却したことになっている。
この場合に考えられるのは、町の象徴でもある見送幕を保存することを考えないか?
後日買い戻すのであればなおさら売却しなくてよいはずである。もちろん購入者から売却金額との兼ね合いから付けてくれと要望されれば別であるが。
川面東の事情から推測し、買戻しに応じるとは到底思えない。先代地車も売却しているし、それこそ買い戻されたら新しい地車を用意しなけらばならない。金額うんぬんではないと思われる。
小濱の上記事情より川面東が購入したとして、幕も付けてくれとなった場合には、明細文献に幕の文字がなぜ記されていないのか?疑問である。
今日ある宝塚地車のさきがけは、おそらく小濱である。
今日存在する宝塚地車は宝塚型地車と分類されるだけに他地方とは、基本形態が異なる。
すなわち今日存在する宝塚型地車は総て地元で製作されたと考えて間違いない。もちろん川面西地車のように大阪より大工を呼んだかもしれないが。(川面西地車は、現蔵近くで製作)
暴論になるかもしれないが、宝塚型地車で購入先不明地車、山本東・山本西・丸橋・口谷・平井・中筋南いずれかは、元小濱で曳行されていた地車、あるいは小濱製作販売の可能性あるのでないかと思っている。それ以外にも他地方に出た地車もあるかもしれない。
小濱においては頻繁とまでは言わないが、地車売買が行われていたと考えられないか。
小濱は商人の町である。
各町ごとに見送幕製作していることを考えると、宝塚型地車の見送幕は、その町の象徴でもあり、購入者が、思いを込め製作したのではないか。
そのシンボルでもある幕が町々間を行き来した可能性は少ないと思う。
町の事情完
小濱に残る口伝によると後日買い戻すとして泣く泣く売却したことになっている。
この場合に考えられるのは、町の象徴でもある見送幕を保存することを考えないか?
後日買い戻すのであればなおさら売却しなくてよいはずである。もちろん購入者から売却金額との兼ね合いから付けてくれと要望されれば別であるが。
川面東の事情から推測し、買戻しに応じるとは到底思えない。先代地車も売却しているし、それこそ買い戻されたら新しい地車を用意しなけらばならない。金額うんぬんではないと思われる。
小濱の上記事情より川面東が購入したとして、幕も付けてくれとなった場合には、明細文献に幕の文字がなぜ記されていないのか?疑問である。
今日ある宝塚地車のさきがけは、おそらく小濱である。
今日存在する宝塚地車は宝塚型地車と分類されるだけに他地方とは、基本形態が異なる。
すなわち今日存在する宝塚型地車は総て地元で製作されたと考えて間違いない。もちろん川面西地車のように大阪より大工を呼んだかもしれないが。(川面西地車は、現蔵近くで製作)
暴論になるかもしれないが、宝塚型地車で購入先不明地車、山本東・山本西・丸橋・口谷・平井・中筋南いずれかは、元小濱で曳行されていた地車、あるいは小濱製作販売の可能性あるのでないかと思っている。それ以外にも他地方に出た地車もあるかもしれない。
小濱においては頻繁とまでは言わないが、地車売買が行われていたと考えられないか。
小濱は商人の町である。
各町ごとに見送幕製作していることを考えると、宝塚型地車の見送幕は、その町の象徴でもあり、購入者が、思いを込め製作したのではないか。
そのシンボルでもある幕が町々間を行き来した可能性は少ないと思う。
町の事情完
ょうか。記録があるものだけ漠然と伝えられてきた。そんな気がします。世代が代われば小濱東の地車でなく川面東の地車に自然となります。たまたま記録があっただけじゃないですかね。売った側にしたらもうその町には地車祭りが存在しないのですから。記録なんて無意味ですし。時が経てば自然と地車があったことですら記憶から消えると思います。約140年前の出来事なんて伝説ですよ。金太郎伝説となんら代わりないと思います。のち140年も経てば我々の残した本がおそらく真実の伝説になってますよ。
川面東先代幕シリーズ、長らくお疲れ様でした。言いたいことはすべて吐き出せましたか?
私も「川面東の東」説の可能性を信じていますし、小浜の伝承を鵜呑みにするつもりはありません。ただ、「小浜東の東」説がここれほど流布し、定着するまで、川面の人間が誰一人、反論してこなかったことに疑問が残ります。
もし、「川面東の東」であるなら、私たちは自分たちで作った自慢の幕を「中古品だ」と言われて沈黙を守ってきたことになります。
確かに地車本体のことも、少なからずの引け目があるのか、あまり積極的に語られてきたことではありませんが、ある程度は周知の事実として認識されてきた事柄だったと思います。同じように幕についても何かしらの伝承や心当たりがあったからこそ、「小浜東の東」説もすんなりと受け入れられたのではないでしょうか。
そうそうまっしゃさん、なすび屋さんが月1回地車誌メンバー飲み会しよう言うてましたよ。
鴻池の幕新調年が明治8年やから小濱から鴻池へ売却?どうもこの明治8年から明治14年の空白はなんなのか・・と思います。小濱T氏は、明治8年に製作された東町のヒョウシキから川面東地車製作年を明治8年ではないか?と推測されてましたねたしか。そうなれば、地車3台曳行は微妙ですし、幕に西・東・北はありえませんね。
私は、小濱が西・東・北に分かれていた。その幕に西・東・北の文字があったと言う言い伝えもあまり信用してません。
鴻池が刺繍幕を新調したのが明治8年。北之町の地車売却はおそらくこの時。
つまり、明治の初頭、既に小浜の地車まつりは中断されており、東之町が売却された明治14年にはまだ再開されていなかった。そう考えると、小浜の地車は十年近く、場合によっては十数年にわたって曳行禁止となっていたことになります。
その後、小浜の地車まつりが解禁されます。
しかし、既に小浜には西之町1台しか残っていません。
地車が1台になったことで「1台だけなら、騒動も起こすまい」と許可が出た(早まった)可能性もありますね。
小浜には「後に地車を買い戻そうとしたが、川面東はそれに応じなかった」といったような逸話が残されているようですが、それはこうして地車まつりが再開した後の出来事でしょう。
ちなみに、長らく曳かれていない間に傷みが生じたのか、曳行を再開した西之町地車(現小浜地車)は明治26年に大修理をおこなっています。
では、問題の見送り幕は通説どおり小浜東之町の「東」なのか、あるいは、あにき殿が考える川面東の「東」なのか?
これは本当に難しい問題です。まっしゃの妄想はつづく。
私のつくりばなし。
小濱の地車まつりは3台ではなくもっと台数あったのではないかと思ってます。この3台と言う数字は川面との対抗意識的なものからきた時代あとの空想伝説ではないかと。
現川面東の製作年代は次回登場しますが、私はもう少し古いと思ってます。根拠は明治24年の大修理。
さて、そんな小浜の地車に目をつけたのが川面東である。既に北之町の地車は鴻池に売却されていた。残る2台の地車のうち、東之町を交渉相手に選んだ理由は、それが新調されて間もない状態にあったことにある。
おそらく小浜の地車まつりが中断したのは、この東之町の地車が新調された直後のことである。それ以来、ずっと蔵の中に眠ったままになっていたこの地車は新品に近い状態にあった。
多額の寄付を集めて作った地車が、わずか数年曳き出されただけで放置されている。何度も警察にかけあうが、地車まつり再開のメドはまったくたたない。そんな中で町民の間には「せっかく作った地車を曳かないのなら、寄付した金を返せ。」といった声も大きくなり始めていた。
一方の川面東にしてみれば、安くなければあえて中古の地車を買い求める理由はない。だからと言って、それが間もなく新調される川面西や川面南の地車に見劣るようなものでは話にならない。それゆえ、中古地車としては破格と言われる高値での商談に応じたのである。
但し、小浜東之町にしてみれば、地車を新調するにあたって古地車を下取りに出すわけではない。大切な地車を手ばなすこと、つまり、町から地車がなくなってしまうことに、必ずしも町内全員が賛同していたわけではないだろう。川面東が地車の代金以外に多額の酒肴代を用意したのは、若衆をはじめとする売却反対派との間にわだかまりを残さないためのせめてもの配慮であった。
・・・以上、まっしゃが考える「町の事情」です。まったくの作り話ですみません。
もしこのプログが役にたつのであれば、まっしゃさんじゃんじゃん活用してください。
皆さんに私からも改めてお詫びしますが、本当に川面地車誌発刊最終2年程メンバーは、毎晩と言っていいほど各人それぞれの仕事を終えたのち集まり深夜まで作業をしました。又、機会あれば他地区に取材に行きました。それを発刊間際まで続けましたので最終校正もままならない状態で誤字、脱字、文間違い等ありますことご容赦の程お願いいたします。
私などは、家庭崩壊しかかりました。いやしてるかも(笑)
地車史P.36に掲載している川面西先代幕の木箱に記された文字について、ある読者の方(某学校の先生です)から次のような指摘をいただきました。地車史では「種々緋幕入れ(いろいろな朱色の幕入れ)」と読んでいますが、これは「猩々緋幕入(深紅の幕入れ)」が正しいのではないか、とのこと。
「猩々(しょうじょう)」とは中国の伝説上の動物で、姿かたちは人間によく似ていて、酒を好むとされ、地車彫刻の題材としてもよく登場します。「猩々緋(しょうじょうひ)」とは、この猩々の血で染めた深紅の毛織物、あるいはそのような鮮やかな赤色のことを言うそうです。
「種」と「猩」のくずし字は確かによく似ていますが、見比べてみると確かに「猩」の方がより近いような気がしますし、何よりこの場合の意味を考えれば、ご指摘のとおり「猩々緋」と訳すのが適切でしょう。
お恥ずかしい話ですが、私はこの時まで「猩々緋」といった色の名称をまったく聞いたこともなく、すっかり浅学(無学?)ぶりを露呈する結果になってしまいました。
なお、地車史の内容については、これ以外にも、誤字・脱字などを含め、様々なご意見やご指摘をいただいております。訂正すべき部分については、いずれしかるべき手段でまとめて訂正させていただきたいと願っているのですが、実際にはそういった機会はなかなか難しいようです。