「井上直幸ピアノ奏法」というDVDを持っているのですが、日常生活の中で落ち着いてDVDを鑑賞するような時間も滅多にないので(あったらピアノ弾くよね)、何年もしまったままになっていました。
←準備できてないときに教わっても、吸収できないの。
それを思い出して、ものすごくしばらくぶりに見てみると:
「結局は好きに弾かなければいけないんだけれども。そうでないと何も楽しくないから。
でも、当時の人たちが思っていたこと、楽譜の見方を知らないと好きに弾くといっても真実からかけ離れてしまう。
「様式感」を覚えることで自由になる。」
(元がゆったりしたしゃべり口調なので正確な引用ではありません)
というようなことを言っていて、そのことが、数年前よりずっと素直に腑に落ちたのです。
* * *
大人再開ピアノをヤマハで習っていたとき、その先生は私に、もっと自由にピアノを弾いてもらおうと腐心していました。「どう弾きたいか、まずは好きに弾いてみて? それが音楽としておかしいときはちゃんと言うから」というような。
でも、私のほうはといえば、どう弾きたいかといわれてもさっぱり浮かばず、相変わらず「音並べりゃそれでいいよね」的なつまんない弾き方をしていました。先生の説明によれば、「どう弾きたいか」が生まれる元は、「妄想」(?)「イメージ」であるようだったのですが。
私は「妄想」が下手で(笑)、だもんで「好きに弾く」にも材料がなくて途方に暮れていたわけです。
その先生が日本の音大にいたときに教わっていた先生というのは、かっちりと「どう弾くべきか」を教える(教えすぎる)先生で、それがトラウマになっているので、自分はそういう、弾き方を押し付けるようなレッスンがしたくないのだとも言っていました。つまり、その音大の先生は、「結局は好きに弾かなければいけないんだけれども」の部分がない人だったのかな? 少なくとも、教える場面では。
結局、日本の音大を出たあとにリスト音楽院に留学して、そこではじけて「自由に弾く」ようになったそうなのですが。それでも「水もの(ラヴェルの水の戯れのような)」がトラウマで、今でもその類の曲は弾きたくないんだとか。
確かに、私も一度その日本の音大の先生のコンサートを聞きに行ったのですが、ベヒシュタインのグランドで、たいへん繊細で親密な音空間を作っていて、津田ホールでも広すぎる、もっとこじんまりしたサロンで聞きたいような演奏でした。とりわけ小さく弾くときの美しさ、音色の多彩さには自信を持っている様子。
一方、私が習っていた先生は、「いくら大きな音で弾いてもきたない音にならない自信がある」そうで、ショパンのポロネーズとか、カプースチンとか、派手に「滞空時間長め」の演奏をしていました。
どっちもうまいんだけどねぇ。「こう弾く」という具体的なことに関しては、そりゃ合わないでしょう。
適度に(?)教えるのって難しいのかもしれませんね。
おゆき先生には最初から「妄想が苦手だ」ということをお話ししたところ、「アンダンテさんは妄想しなくていいです」といってもらって(^^;;
守らなければいけない部分とか楽譜の読み方とかを「是非モノ」の部分から要領よく教えてもらっているわけですが、不良生徒なので月イチしかいかなくて亀の歩みだけど、気が付いたらだいぶいろいろなことを「知って」そしてその結果、妄想はしなくても「こう弾きたい」と思うことが増えるようになりました。
でも、あらためて振り返ると、ヤマハの先生も、かなり良い先生だったので、教えてくれていた内容はちゃんとひとつひとつ具体的な、必要なことで、間違っていなかったし、それはおゆき先生から習っていることとかなり共通しているような気もするんですよね…。ただ、性急に「妄想」を迫って私にビビられてた(抵抗されてた)だけで。
教える、教わるということはずいぶん複雑微妙なものだと思います。受け取る側の準備ができていないと、がんばって教えてもちっとも入って行かないし。まったく同じDVDを見ても(生身の人間じゃないんだから、言うことは逐一同じなのに)、数年前と今じゃ受け取り方が違うように。
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「はじめての中学受験 第一志望合格のためにやってよかった5つのこと~アンダンテのだんだんと中受日記完結編」ダイヤモンド社
←またろうがイラストを描いた本(^^)

それを思い出して、ものすごくしばらくぶりに見てみると:
「結局は好きに弾かなければいけないんだけれども。そうでないと何も楽しくないから。
でも、当時の人たちが思っていたこと、楽譜の見方を知らないと好きに弾くといっても真実からかけ離れてしまう。
「様式感」を覚えることで自由になる。」
(元がゆったりしたしゃべり口調なので正確な引用ではありません)
というようなことを言っていて、そのことが、数年前よりずっと素直に腑に落ちたのです。
* * *
大人再開ピアノをヤマハで習っていたとき、その先生は私に、もっと自由にピアノを弾いてもらおうと腐心していました。「どう弾きたいか、まずは好きに弾いてみて? それが音楽としておかしいときはちゃんと言うから」というような。
でも、私のほうはといえば、どう弾きたいかといわれてもさっぱり浮かばず、相変わらず「音並べりゃそれでいいよね」的なつまんない弾き方をしていました。先生の説明によれば、「どう弾きたいか」が生まれる元は、「妄想」(?)「イメージ」であるようだったのですが。
私は「妄想」が下手で(笑)、だもんで「好きに弾く」にも材料がなくて途方に暮れていたわけです。
その先生が日本の音大にいたときに教わっていた先生というのは、かっちりと「どう弾くべきか」を教える(教えすぎる)先生で、それがトラウマになっているので、自分はそういう、弾き方を押し付けるようなレッスンがしたくないのだとも言っていました。つまり、その音大の先生は、「結局は好きに弾かなければいけないんだけれども」の部分がない人だったのかな? 少なくとも、教える場面では。
結局、日本の音大を出たあとにリスト音楽院に留学して、そこではじけて「自由に弾く」ようになったそうなのですが。それでも「水もの(ラヴェルの水の戯れのような)」がトラウマで、今でもその類の曲は弾きたくないんだとか。
確かに、私も一度その日本の音大の先生のコンサートを聞きに行ったのですが、ベヒシュタインのグランドで、たいへん繊細で親密な音空間を作っていて、津田ホールでも広すぎる、もっとこじんまりしたサロンで聞きたいような演奏でした。とりわけ小さく弾くときの美しさ、音色の多彩さには自信を持っている様子。
一方、私が習っていた先生は、「いくら大きな音で弾いてもきたない音にならない自信がある」そうで、ショパンのポロネーズとか、カプースチンとか、派手に「滞空時間長め」の演奏をしていました。
どっちもうまいんだけどねぇ。「こう弾く」という具体的なことに関しては、そりゃ合わないでしょう。
適度に(?)教えるのって難しいのかもしれませんね。
おゆき先生には最初から「妄想が苦手だ」ということをお話ししたところ、「アンダンテさんは妄想しなくていいです」といってもらって(^^;;
守らなければいけない部分とか楽譜の読み方とかを「是非モノ」の部分から要領よく教えてもらっているわけですが、不良生徒なので月イチしかいかなくて亀の歩みだけど、気が付いたらだいぶいろいろなことを「知って」そしてその結果、妄想はしなくても「こう弾きたい」と思うことが増えるようになりました。
でも、あらためて振り返ると、ヤマハの先生も、かなり良い先生だったので、教えてくれていた内容はちゃんとひとつひとつ具体的な、必要なことで、間違っていなかったし、それはおゆき先生から習っていることとかなり共通しているような気もするんですよね…。ただ、性急に「妄想」を迫って私にビビられてた(抵抗されてた)だけで。
教える、教わるということはずいぶん複雑微妙なものだと思います。受け取る側の準備ができていないと、がんばって教えてもちっとも入って行かないし。まったく同じDVDを見ても(生身の人間じゃないんだから、言うことは逐一同じなのに)、数年前と今じゃ受け取り方が違うように。
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