自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

東学農民軍の歴史を訪ねる旅/研究者三傑揃う/中塚明、井上勝生、朴孟洙

2019-12-01 | 革命研究

2019年は3.1朝鮮独立運動100周年に当たる。独立宣言でうたわれた独立、民主の精神は125年前東学農民革命を始原とする。
かつて「間島出兵/不逞鮮人/関東大震災・朝鮮人虐殺の前史」の記事において、わたしは、1910年の韓国併合、それに至るまでの民衆の抗日義兵闘争とその義軍将校・安重根による前韓国統監・伊藤博文暗殺について以下のコメントを付けた。

この討伐戦は日清戦争時の東学農民戦争*の繰り返しのように見える。満州、沿海州に逃げ込まないように、ソウルから遠ざけるように、忠清道から南へ追って包囲網を縮めて最後は全羅南道沿岸と島々で息の根を止める。
*東学教徒の死者が日本軍の日清戦争中の戦死者2,3万を上回ることは知られていない。川上操六参謀本部次長は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す、向後悉くkotogotoku殺戮すべし」と命令した。捕虜、家族まで殺す皆殺しの報復は日清戦争に始まる。中塚明・井上勝生・朴孟洙『東学農民戦争と日本 もう一つの日清戦争』 2013年

 以下の記事の種本。各文言のクレジットは割愛します。

その東学農民戦争の史跡巡りが現役の三博士参加の下で実施されると知って即座に参加を決めた。

李氏朝鮮は1876年(明治8年)日本の砲艦外交により不平等条約(治外法権、無関税)を呑まされた。曰く「朝鮮は自主の邦にして日本国と平等の権利を保有せり」
この規定により日本は清国の朝鮮に対する伝統的な宗主国としての影響力を断つ足掛かりを得た。後述するが、対清開戦の言い掛かりとして利用される。
開国の結果、朝鮮は清と日本の経済侵略により農村は疲弊した。王朝貴族と両班官僚は清・露・日という大国・強国の狭間で漂い改革の方針も定まらないまま党争と保身に明け暮れて民の困窮を顧みなかった。
こうした状況下で東学を名乗る新宗教が誕生した。その名のとおり西学(天主教中心の西洋思想)に対抗する社会改革思想である。真心をこめて「侍[在の意味か]天主・・・」*
と13文字の呪文を唱えるだけで天と人が一体となりやがて万人平等の現世楽園「後天開闢」が実現すると説いた。 世直しの危険思想を嗅ぎ取った政府は東学を邪宗として弾圧し1864年に教祖・崔済愚che jeu(慶州出身)を処刑した。
*万人にあまねく天主(宇宙万物の生命の根源)が内在しているという思想。ほかに「輔国安民」「有無相資」を主張した。

不公正な対日貿易で農民の困窮はますます深まった。1893年、輸出の90%、輸入の50%は対日だった。全貿易を収支金額で示せば総輸出170万ドル、総輸入390万ドルだった。農村は米穀不足に陥った。地方官が防穀令を出して日本政府のむたいな賠償請求(11万円で決着)を招いた。こうした日本による外患に加えて地方官の悪政と苛斂誅求があった。

東学は潜行布教で教団組織を広め全羅道を中心に各地で教勢を高めた。
1893年12月、東学全琫準chon bonjunを盟主とする謀議が全羅道古阜kobuでおこなわれた。首魁20名が円環連判状をつくり全州監営を陥落させソウルに直行することを決議した。
1894年2月、蜂起した農民軍は古阜郡庁を占拠し租税台帳を焼き払い監獄を解放し武器糧米を奪って民衆に分け与えた。
4月全琫準らは茂長muJanで蜂起し移動して四方を見渡せる大平野の中心白山peksanに本陣を置いた。そこで同盟を強化し組織を整え大義名分*と軍律**を定め「除暴救民」「輔国安民」の旗幟を掲げた。各地から万余の東学農民が詰めかけ「立てば白山(山が白衣でおおわれた)座れば竹槍(の林立)」の俚諺が生まれた。
5月増強した農民軍は全羅道地方軍、続いて政府軍を破り大きな犠牲を出すも全羅道首府・全州城に無血入場した。戦勝地・黄土峙fantozeには立派な「東学農民革命記念館」が建っている。また戦勝日5月11日は東学農民革命法定記念日となっている。
*日本の夷狄itekiを駆逐すること ソウルに進撃して権貴をことごとく殲ぼすこと [国王は別格]
**軍律12か条 降伏した者は受け入れること 困窮した者を救済すること 悪逆な者を追放すること 農民軍に従う者は尊敬すること 逃げる者は追わないこと 飢えた者には飲食を与えること [以下略 キューバ革命軍の規律を想起した]

このころ情況はめまぐるしく展開する。農民軍も政府軍もいっぱいいっぱいだった。農民軍と政府軍との間で、農民軍は全州を撤収、政府軍は農民軍の弊政改革案を国王に上奏、という妥協(全州和約)が成立した。
一方朝鮮政府は宗主国・清に農民軍討伐の来援を要請した。清が出兵すると日本も10年前の天津条約に基づき出兵した。清軍を上回る兵員と大本営(戦時措置)を準備した。重大事態を危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、日清両軍の速やかな撤兵を求めた。
民族の危機に直面して全琫準は全羅道監司と全州で会談し「官民相和」の原則で治安秩序を正し、農民軍主導の弊政改革をおこなうことで合意した。農民軍は全羅道中心の勢力圏で身分制の廃止と土地の均等分配を目標に史上初の自治組織をつくり革新行政を開始した。戦局、政局がそれの成功をゆるさなかった。
日本は混成旅団をソウルに進軍させて朝鮮政府に圧力をかけた。その時持ち出した奥の手が「朝鮮は自主の邦」条項だった。条約違反で日本を欺いたという難癖である。
7月20日、日本は朝鮮政府に対して、清国との宗属関係破棄と朝鮮の「自主独立を侵害」する清軍の撤退について、22日までに回答するよう最後通牒を突きつけた。
22日夜半、朝鮮政府は、乱は収まったので改革は自主的にする、日清両軍は撤兵すべし、と回答した。
7月23日早暁、日本軍は王宮(景福宮)を占領し高宗を擒torikoにした。
並行して親日傀儡政権工作をした。閔妃(高宗の后)との政争に敗れて幽閉同然の大院君(高宗の実父)にたいする復帰説得である。大院君は雲峴宮を日本兵に囲まれ警官同行で王宮に担ぎ込まれた。日本は閔一族を追放して大院君を執政とする親日政権を樹立した。
1894年7月25日、日清両軍は豊島沖で交戦し日清戦争が勃発した。日本の大義名分は朝鮮政府の依頼による朝鮮独立のための清軍駆逐であった。

日本軍の進軍に合わせて京釜(ソウル‐プサン)路、京義(京城-鴨緑江)路の兵站、通信線に対するゲリラ的蜂起が起こった。第二代教主・崔時亨che shihyon率いる忠清道東学の影響下にあった地域である。
11月
、全ボン準ら率いる南接部隊と崔時亨率いる北摂部隊が論山nonsanで合流して抗日戦を宣言しソウルに向かって進軍を開始した。東アジア初の大衆的抗日戦争である。
鴨緑江を渡って清国に進撃中の日本軍にとって後背の農民軍は獅子身中の虫軍事上絶対に駆除しなければならない大敵だった。大本営は東学討伐のために三中隊を派遣し朝鮮の官・民軍協力のもと三方から包囲網をしぼりながら南進した。
北上する東学軍と日本軍の主力は公州南方の峠・牛金峙ugumuchiで激突した。
前後20日間にわたる激戦の末農民軍は敗れ後退、逃避行を余儀なくされた。ゲリラ戦ではよく敵を悩ませたが会戦では武器の優劣、徴兵と義兵の訓練・組織の差が勝敗を決めた。竹槍と猟銃では最大射程1800mのライフル銃を装備した徴兵制度で訓練された正規軍の敵ではなかった。農民軍は2カ月におよぶ遠征の末全羅道南部に追い詰められ壊滅した。
12月末全琫淳は密告により捕らえられソウルに押送されて処刑された。
1月北摂農民軍の主力は南部、東部の長い逃避行の末、忠清道の本拠地・報恩pounに戻って、情報を得て待ち構えていた日本軍と戦って壊滅した。申榮祐氏の研究によれば鐘谷jonggokで犠牲になった北接農民軍は、夜間戦闘で395人、翌朝の掃討戦で2200余
人である。
2月18日、記録上最後と思われる戦いが峻険な大芚山daedunsanであった。大芚山は全羅北道の北端にあり秋の紅葉が美しい峨峨たる岩山である。今回ゴンドラで行けるところまで登ったがゲリラ終焉の痛ましさをもっとも実感した史跡となった。残党25名全員死亡。ある特務曹長の戦闘詳報の断片である・・・。「28,9歳ばかりの懐胎せし一婦人あり、弾丸に当たりて死す。また、接主[首魁]、金石醇は一歳ばかりの女児を抱き千尋の谷に飛び込み、ともに岩石に触れ粉殲となり即死せり、その惨状いうべからず」(原文はカタカナ混じり文)

  大芚山daedunsan

百年後の1995年北海道大学のある研究室で新聞紙に包まれた6体分の頭骨が見つかった。その一つに「韓国東学党首魁首級ナリト云フ」と墨書きしてあった。添え書きには珍島[全羅道西南端の島]平定時の死者数百名の内のさらし首とあった。採集者は日露戦争後に韓国で農業指導にかかわった農業技師であった。これを機に日韓の共同研究と交流が始まった事実に奇縁を感じる

今回の戦跡巡りは農民軍の順路に沿っておこなわれた。各地に大きな白亜の記念塔や記念館が建てられ立派に管理されていることに感じ入った。昼食をとった教育農場内レストランの庭にあった小さな古びた板碑の文が脳裏に焼き付いた。「もし湖南[古阜の謀議と蜂起があった全羅道]なければこれ国家なし」(若無湖南是無国家) 急いでいたので確かではないが安重根の言だと思う。
また関東大震災後に大逆罪容疑で裁かれた金子文子が朴烈と共に独立記念館で顕彰されているのを見て感慨を新たにした。金子文子は少女時代居場所がなくひもじい思いをしていたとき「鮮人のおばさん」に「麦飯でよかったらお食べ」とやさしく声をかけられて「この時ほど私は人間の愛と云うものに感動したことはなかった」と裁判で述べている。
文子はまた朝鮮で3.1独立騒擾の光景を目撃して「私すら権力への叛逆気分が起こり、朝鮮の方のなさる独立運動を思う時、他人のこととは思い得ぬほどの感激が胸に湧きます」と予審判事に述べている。

最後に朴孟洙先生に東学農民革命の位置づけを語ってもらおう。古阜の記念事業継承会が蜂起100周年を記年して1994年に建立した下掲写真の立像群から始めよう。写真 「熊谷から平和を考える」BLOGから転載

  無名東学農民軍慰霊塔 

民衆が建立しただけあって立像が参拝者の目線に合わせて低い。犠牲者を抱き支えている戦士の立像は1987年の6月民主抗争時の実写真をもとに彫られた。無名戦士の顔はそれぞれ表情が異なる。武器は手作りの竹槍、農具である。これでもその後、なぜ石礫がないのか、なぜ女性像がないのか、という批判が出たそうである。

朴先生は、東学は支配者のイデオロギーではなく「下からの思想」である、と言われた。そして写真手前の福像[文字不鮮明]を指してコレがその象徴である、と解説された。わたしが訊くとそれは「命を養う飯椀」と答えられた。食と農が命と同様もっとも大事、というのが東学であり、日本の近代史の中にも観られる普遍的な世界観である、と指摘された。
 飯椀の拡大写真

朴先生は、秩父市を訪れて村の博物館で秩父困民党の行動綱領に「命」の思想を確認した時の喜びを記述している。自由自治元年[と自称した1884年]の困窮民救済を訴えた日本近代史上最大の農民蜂起の軍律は5か条からなり、略奪、女色、酒宴、放火等乱暴、命令違反を犯す者は「斬」としている。西郷軍にならって「新政厚徳」の旗
を押し立てたと云う。
朴先生はまた来日中に、田中正造が「東学党は文明的、12カ条の軍律たる徳義を守ること厳なり」と書いて東学思想を高く評価したことを知って感動した。田中正造は明治政府の富国強兵策がもたらした足尾銅山鉱毒事件に半生を投じて、廃村になった谷中村に移り住み日本初の産業公害闘争に文字どおり殉じた先覚者である。

出典  NPO田中造記念館
日本でも「命」ファーストの思想は沖縄、三池、水俣、成田・・・と受け継がれている

 



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