自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

治安維持法適用/京都学連事件/共謀罪の次は?

2017-09-13 | 体験>知識


号外写真の出典  刊行会編佐々木敏二執筆『京都帝国大学学生運動史』(1984年 昭和堂)

1922年11月7日、ロシア革命5周年記念日である。玉城素『日本学生史』(1961年)によれば、東大の新人会、早大の文化会、早大その他の建設者同盟、明大の7日会、一高の社会思想研究会、三高の社会問題研究会、五高FR会、七高鶴鳴会など全国26校の学生思想団体が連合して、約50名の代表が当夜、東大学生第二控所に集まった。隠密裏の夜間発会式だった。
菜っ葉服にオールバックのいでたちが目立った。労働運動、農民運動方面で活動したいという願望が身なりに表れていた。学生連合会(略称学連)誕生である。名称から社会主義を隠し学生相互間の親睦を目的として掲げていたが、1922年7月に秘密裏に結成された日本共産党とのつながりが明白である。ところが日本共産党は1923年の第一次検挙でほぼ壊滅状態におちいり1924年3月にみずから解党してしまった。

1924年、普通選挙実現に備えて、労働総同盟、農民組合、、学連は無産政党準備に向かって走り出した。無産政党準備団体「政治研究会」が創立され、並行する研究機関として産業労働調査所が設立された。それらの会員の3分の1を学連会員が占めていたという。各地に労働学校、農民学校が開校されたのも同一趣旨からである。学連に講師派遣要請が相次ぐ。高校25校中23校に社会科学研究会(社研)ができた。

1924年9月14日、学連は東大学生控所で第一回全国大会を開き、名称を学生社会科学連合会(略称学連、個別校では社研)に改めた。学連が研究と普及を目的とする社会科学はもっぱらマルクス・レーニン主義を意味した。このとき学連は49校、1500名の会員を擁していた。この年京大社研が最大会員数を誇りその数は150名に達した。マルクス主義に転じた河上肇に惹かれて全国から関心のある学生が集まったせいである。西田幾多郎、三木清の哲学にあこがれて来た学生もいた。
震災後ようやく高まった学生の「革新」への意欲が社会主義的傾向から共産主義に転じようとしていた。革命に反革命が対峙する如く共産主義の勃興に国粋主義の「反動」が攻勢をかけてきた。東大に七生社、京大に猶興学会が誕生した。この両皇道右翼団体から1932年一人一殺の血盟団員(東大4人、京大3人、國學院生1人)[国学院生の出身団体不詳]が出た。
早大の軍事研究団反対事件に端を発する軍事教育反対が学連の政治課題となった。11月2日学連は東大で全国学生軍事教育反対同盟を結成した。関係校では反対運動が学生大衆の支持を得て盛り上がったが、これについては次稿で扱う。
1925.5.22 治安維持法施行
1925年7月中旬、学連は第2回全国大会を京大学生集会所で開催した。司会栗原佑(京大1年)議長村尾薩男(新人会)副議長鈴木安蔵(京大1年)、所属59校1600余名の代表80名参加と発表された。実際の代表参加数は14校51名だった。小樽高商など高校5校の代表は入場を禁止された。すでに前年11月、全国高校長会議が高校社研解散を決めていた。前年23校にあった高校社研の火はほとんどが掻き消されていた。
京大学生監の命令に従って、大会は、高校社研を禁止した文相と高校長への抗議、軍事教育反対を議案から撤回した。久保田特高課長臨監の手前、カモフラージュした「大会テーゼ」を採択し、すでに腹案があった「全国的教程」は作成を起草委員に一任、とする偽装を施し、組織について連合方式から中央集権方式へ規約を改正した。
翌日の秘密会で学連運動を無産階級解放運動の一翼として位置づけマルクス・レーニン主義に立脚して社研会員と労農無産者を教化することを明確にした。社研会員のための「全国的教程」は明治学院社研が、無産者教育の教程は京大社研が作成し、東西の学連で討議された。これらの協議、討議が後日裁判で共謀の証拠とされた。

この夏8月モスクワ帰りの佐野学が党「再建ビューロー」を結成するが、学連大会時までに相互接触があったか私には分からない。大会後には学連が共産主義者の揺籃、党員の一大供給源となった。

大会テーゼの趣旨を明瞭にするものが「学生運動と教育」(討議の一資料)であった。私はこれを大会テーゼの虎の巻とよぶ。虎の巻による簡略化、純粋化をみてみよう。
個人的に興味深いのは、この大会を境にして「中心分子」がマルクスの原論を軽視してレーニンの戦略戦術論を重視していること、しかもスターリンによって単純化された解説書『レーニン主義の理論と実際』で手っ取り早く大衆をオルグし闘士を養成しようとしていることである。さらに学生を「全体として見る時、ブルジョア的反動的集団」と規定し、「我々の運動はかかる集団の利害のために戦うものでもなく、また集団全体を教育せんとするものでもない。我々の運動は、始終無産階級の利害のために闘いうる者を獲得し教育することに焦点をおく」という、「福本イズム」の影響を受けた偏狭路線には驚きを禁じ得ない。大衆にマルクス主義に基づく意識を外部から注入することを最優先する知識人前衛主義は「福本イズム」由来だと思うが、教化の手本、手法は浅薄の一語に尽きる。
925.10.15 小樽高商軍事教練反対事件
1925年11月15日同志社の掲示板に貼られてあった「狼煙ハアガル兄弟ヨ此戦ニ参加セヨ」と題する、差押処分済の軍事教育反対ビラが京都府の特高課長と地裁検事正を刺激した。1923年の共産党検挙で出世の糸口をつかんだ久保田俊特高課長は学連をふるいに掛ければ「第二次共産党事件」の種を見つけ出せると踏んだ。
12月1日京大、同志社の寮、社研の合宿所、会員の下宿、自宅が手入れを受け、京大18名、同大11名、大阪外大(現阪大)1名、大阪高校2名、労働組合京都地方評議会書記*1名が出版法違反容疑で検挙され、私用、研究用の書籍、書類が押収されたが、証拠不十分で間もなく全員が釈放された。荷車3台分の押収物件は、スターリンの『レーニン主義の基礎』の中の一章「プロレタリアートの独裁」の翻訳プリント以外はめぼしいものがなかった。
*上村正夫 23歳 三高社会問題研究会(社研に改称)創立者 三高2年中退 在学中英訳資本論、マルク主義文献を耽読 職業的運動家 京都無産者教育協会設立の立役者兼書記 釈放後無産者新聞編集部勤務 それ以上の事は不明
「全員が釈放されるなかで、岡本忠文(医学部3年)が病臥中を検束され、留置所内で喀血卒倒して再起不能となったこと、芝田平治(経済学部2年)が拷問にあい全治3ケ月の傷をうけたことが判り、学生は殺気だった」 
出典 京大白川会企画・佐々木敏ニ執筆『京都帝国大学学生運動史』(1984年)京都学連運動の詳細な研究書でこれに勝る類書はない。1933年の滝川教授事件までの京都学生運動を詳述し、年表、名簿をふくむ資料と実名入りの事件、活動、エピソードを満載している。たとえば戦後できた「白川会」OBは、政党では自民党員が一番多く、共産党員は一番少ない、とか、京大社研は「天皇制とそれを利用する軍人・官僚の権威主義への抵抗が、共産主義的外見をとったものではないか」とかの回想を転載している。
大学当局は大学の自治を蹂躙したとして府知事と地裁検事正に抗議した。法経両学部は研究の自由擁護上譲れない最低限条件を声明として明らかにした。
1925年12月16日司法省は幸徳事件を足掛かりに思想弾圧で出世してきた小山松吉検事総長指揮下に全国から検事長、検事正と特高課長を招集し秘密会議で学連一網打尽の陣立てを決めた。治安維持法があればこそ可能になった歴史的弾圧事件である。
1926 年1月15 日早朝から、報道禁止の下、京都における学連メンバーの検挙が一斉に開始され、4月下旬までに全国規模でその数は 38 名にのぼった。また社研の指導教授、支援者である河上肇京大教授、山本宣治同大講師等の私宅、京都地方労働組合評議会の事務所兼京都無産者教育協会事務所(上村正夫が両書記兼務)その他十数カ所を捜索した。報道規制が解かれた9月15日までに全員保釈され起訴された。
1927.5.30 学連事件一審判決
38名全員治安維持法第二条協議罪違反 学連、社研、評議会、政治研究会、労働学校などの結社ではなく学連、社研の無産者教育方針、方法を協議した幹部を処罰 禁錮1年以下8ケ月の刑 内執行猶予=宮崎菊次他15名 以下私が氏名を知っている者だけをピックアップして記載する。実刑=是枝恭二(1年)淡徳三郎・石田英一郎・岩田義道・野呂栄太郎・栗原佑・鈴木安蔵(10ケ月)上村正夫(8ケ月)
1928.2.20 第1回普通(男性のみ)選挙水谷長三郎、山本宣治当選 労農党(容共の合法政党)当選者は全国で京都のこの2名のみ
192
8.3.15 共産党大検挙3.15事件 
共産党再建大会は26年師走 結社つぶしを狙った治安維持法第一条適用 検挙数およそ1600名、起訴488名 京大関係起訴多数 内在学社研10名 水谷弁護士、弁護要請を拒絶 「共産党は悪い奴」
1928.4.10 労農党・労働組合評議会・無産青年同盟解散命令 ついで東大新人会・京大社研解散命令 河上肇教授依願免本官発令1928.4.20 山東出兵(第6師団) 国民政府軍と衝突(済南事件) 第3師団増援派遣
1928.6.4 関東軍による張作霖爆殺謀略事件
国家機密ゆえ東京裁判まで「満州某重大事件」と称して真相が隠されたた。
1928.6.29 治安維持法改訂公布即日施行 議会審議未了⇒緊急勅令で死刑、無期刑を追加 「結社の目的遂行の為にする行為」を追加(カンパ、会場提供等でも加入同様の処罰)
田中義一首相、思想国難を理由に治安維持法強化を強行 真相は戦争立法だった!
90年後の今日、共謀罪の次は何か? 情報国難理由に公安官憲強化と朝鮮危機理由に憲法9条を自衛戦争とそのための自衛軍を認める条項に改訂か?
1929.2.8 山本宣治代議士、衆議院予算委員会で、3・15弾圧の「不法検束、不法拘留、拷問」について質問 女性被告九津見房子の前で15歳の娘を凌辱(エロ・テロ) 石田英一郎拷問(三度気絶) 石田家と横山家は姻戚関係のほのめかし 警視庁特高課・横山警務局長面目失って激怒
1929.3.5 山本宣治暗殺
犯人は門司の沖仲仕組を本部とする七生義団員 6年で恩赦出所 戦後ニコヨン暮らし 特高出身で戦後代議士になった「えらいひと」に頼まれ裏切られた、ともらす。
在野研究者本庄豊は背後に元警視庁特高課長大久保留次郎、横山助成内務省警務局長がいたと推定している。この暗殺で議会で特高による拷問を追及する人権の「孤塁」が消された。
1929.4.16 共産党一斉検挙4.16事件
4942人が検挙、339人が起訴され、共産党は壊滅的打撃を受けた。京大社研関係者は大門英太郎、服部周平、泉隆、氏家正人が起訴された。3.15事件をふくめると京大関係者の起訴は32名である。
1929.10.24 暗黒の木曜日 ウォール街株価大暴落 世界大恐慌の始まり
1929.12.12 学連事件控訴審判決
被告の中には1928年3月15日の共産党大検挙事件(逮捕1000余名、起訴471名、内学生関連147名)に連座していた者もいて、刑が重くなった。私が知っている人名のみ列挙する。
共産党事件併合審理分 宮崎菊次(懲役7年、同志社社研、共産党京都支部責任者)石田英一郎(懲役6年半)
共産党未加入分 鈴木安蔵(禁錮2年)上村正夫(同1年半)

1929月12月下旬、解散命令後も抵抗運動を続けていた京大社研、三高社研も学連および東大新人会の「戦闘的解体」にならって解体した。当局の暴圧に抵抗する学生運動は1935年まで学園で燃え続け1931年にピークに達した。最後に学校関係事件数の寒暖計を示す。75 117 223 395(1931年) 308 157 84 40(1935年)

感慨無量そしてこの頃の関係者になると1960年代後半私が研究活動でかすかに接触した人物が出始める。
栗原佑と鈴木安蔵、それに長谷川博は、二高(仙台)で社研活動家として有名だった。1925年春3人そろって京大社研に「入学」した。その年の夏早くも学連大会栗原佑は司会、鈴木安蔵は副議長に抜擢される。
栗原佑の父基は三高教授をしながら教会指導者として京都YMCA洛水寮隣に居住していた。佑は父の母校二高に進み妹俊子も兄を追って仙台高女に進んだ。そこで根本和子と知り合った。

1925年7月頃、栗原俊子の手引きで島崎藤村の姪こま子が洛水寮のまかない婦として栗原家に移り住んだ。1926年初頭の学連弾圧直後島崎こま子は北白川に在った京大社研の本部兼合宿所の寮母になる。

1926年の春休みを利用して、同志社の栗原俊子と仙台女専の根本和子、東京女子大と日本女子大グループが落ち合って、それぞれの以後の社会運動について語り合った。

その後栗原俊子は鈴木安蔵(京大)の妻として出所後の安蔵の在野憲法研究を支えた。こういう事情を知らないまま私は、鈴木安蔵が植木枝盛憲法私案に発する自身の私案、正確には自身が中心になってまとめあげた「憲法草案要綱」を戦後幣原内閣とGHQに提示して象徴天皇制のアイデアを新憲法に反映させたことについて、学生時代の最後に研究したことがあった。

仙台高女で俊子と同学年だった根本和子については、その兄辰(ときと読む、京大文学部卒)が片山潜、在モスクワ共産主義者たちと関わる数奇な運命の稿で今後再三触れることになる。山根和子は無産者新聞を手伝った縁で、音楽評論で一時代を築いた山根銀二(新人会、無産者新聞編集部)と結婚した。わたしは1967年ごろ兄根本辰について手紙でたずねたことがあるが返信がなかった。

島崎こま子のことは、こま子と勝野金政の出身地南木曽で同じころ私が金政に面会、聞き取りしたとき直に聞いて知った。金政は、モスクワで根本辰が京大時代のことを語るなかで、島崎こま子が京都で共産党の地下活動を助けていたことを知った。
こま子は合宿所のオバサンとして「新緑の如き」学生の熱い討論と献身に触れるうちに自然と同じ志をいだくようになった。同志婚した夫の長谷川博は3.15事件で検挙され懲役3年のところ未決を入れて4年服役した。
山本宣治の従弟で1918年に京大に入学し学生運動をやり、始終社会運動を支援した安田徳太郎医師は『思い出す人々』のなかで述べている。3.15事件が起こると山宣とこま子以外みな恐れて逃げ出した、「わたくしは山宣の命令で、島崎[長谷川]こま子さんと二人で救援活動に駆けまわらねばならなかった」と。
三池の時にも感じたが闘争においては女性のほうが我慢強いのではないか。こま子は特高の監視下で赤貧の中救援資金作りと生計のために身を粉にして働き、何度も検挙され、
裸にされて吊り下げられ(エロ・テロ)生涯腕の麻痺に苦しんだ。1937年には行倒れて板橋養育院に収容されたこともあった。こま子は長寿で1979年に86年の波乱の生涯を閉じた。

 

 

 



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