自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

クラスノシチョコフとアレクセーエフスキー/極東共和国の夢まぼろし

2017-03-24 | 体験>知識


 出典 『
誰のために』 クラスノシチョコフ 石光真清 右端アレクセーエフスキー 

1919年、ちょうどムーヒンが殺害された翌3月10日、ウラル山脈の西でコルチャーク政府軍は、赤軍から中心都市ウファを奪い取り、1か月後にはモスクワを占領すると豪語した。
一方クラスノシチョコフは行商人に変装してモスクワに向けて逃避行中、5月ヴォルガ河東岸のサマーラで敗色濃いコルチャーク軍に捕まった。身分がばれず「死の監獄列車」で東へ移送されることになった。
コルチャーク軍は6月にウファで赤軍に大敗し以後クラスノシチョコフの後を追うように東へ東へ退却する。その後を赤軍が追撃し11月オムスク政府をイルクーツクに潰走させる。
そのイルクーツクでクラスノシチョコフは、年末に、反コルチャーク「政治センター」(エスエル、メンシェヴィキ)によって解放され、以後、武市から流れ着いた元アムール州長アレクセーエフスキーと共に緩衝国家・極東共和国樹立に奔走した。敵として別れ同志として出会う不思議な縁である。

1920年のシベリアは反革命軍の退潮のうちに新年を迎えた。ドイツは敗戦しチェコは独立した。帰心矢のごときチェコ軍は
コルチャークをボルシェヴィキに売って帰国の保障を贖った。日本軍と居留民は1月中旬にイルクーツクから撤退した。
3月西からバイカル湖までが赤軍とソヴィエト政府の支配下に入った。レーニン政府の自重により赤軍はさらなる東進をひかえ、日本軍とセミヨーノフ軍がチタに居座り続けた。

東シベリアではパルチザン勢力が日本軍と対峙しながら地方政権を回復しつつあった。2月浦潮、ハバロフスク、武市等に臨時政権が成立した。政権の赤色の濃淡は各都市によって違いはあるがボルシェヴィキ色が濃くなりつつあった。
日本軍は、ハバロフスク等沿海州と東支鉄道沿線を最後の防衛圏と位置づけた。「日本が自衛したいのは、〈帝国と一衣帯水〉のウラジオストク、〈接壌〉の朝鮮、北満州である」(麻田雅文 『シベリア出兵』 2016)
日本軍は、此処を防衛圏とすれば間宮海峡と日本海を制海、内海化できるという夢想を始終抱いていた。朝鮮、満蒙の赤化防止が焦眉の課題として軍部と政府に認識され始めていた。これが日本軍が居座り続ける理由、新たなシベリア戦争目的となる。


3月 尼港事件 パルチザン暴走による日本軍民の虐殺
アムール河を挟んで沿海州北端の対岸、サハリン州首府、金鉱と林業と漁業の街ニコライエフスクでは、優勢なパルチザン部隊(司令官トリャピーツィン)が白軍を圧迫し、アムール河と海峡の凍結で孤立無援となった日本軍守備隊に武器弾薬貸与を強要したため、3月12日午前2時日本軍の奇襲攻撃を招いた。明ければ革命記念日の丑三つ時、宴の酒で熟睡中だったトリャピーツィンは負傷しながらも難を逃れ、分散宿営中のパルチザン部隊をまとめて反撃に移り守備隊本隊を制圧した。

簡単に状況と経過に触れておく。主に山崎千代五郎『血染の雪』付録「尼港事件顛末」(1927)と石塚経二『アムールのささやき』(1972)に依存した。
当時人口=ロシア人8700 中国人2300 朝鮮人900 邦人居留民400(島田商会中核の自衛団含む) 日本軍370 白軍150(崩壊中) ロシア義勇軍若干(多くは在獄中) パルチザン2000~4000 
1月24日 市を包囲しているパルチザンの和平協議軍使オルロフを石川大隊長と憲兵隊長は白軍司令官に引き渡し殺害 
2月5日 市外で両軍攻防戦 陸軍砲台要塞と海軍無線電信所放棄 以後パルチザンが利用 在ハバロフスク山田旅団長は石川大隊長との通信手段喪失 伝言を双方向ともパルチザンに依頼 
2月28日 旅団長指令「交戦は避けよ」により
和議成立 市長は歓迎白軍司令官自決
2月29日 パルチザン部隊入城して治安維持を担う 白軍武装解除 パルチザンに多数の「支那人及び朝鮮人」   入市後再編成した連隊に「無政府
共産主義支那人連隊/バルサン第四連隊」名あり 白軍将校、官吏、有産知識階級数百人を逮捕 白軍将校自決か処刑 パルチザン志願者増大・武器弾薬不足
3月11日 パルチザン、日本軍に武器弾薬「借り受け」強要 翌12日正午期限 
12日 石川大隊長・山野井憲兵隊長・副領事・自衛団協議し部隊配置、作戦決定の上未明の奇襲を決死敢行 動員兵力413 憲兵隊準士官1下士兵卒13と日露義勇軍50含む 大隊長区処下になかった憲兵隊長は蹶起不同意、憲兵隊は庁舎に籠ったまま捕虜となり銃殺された

パルチザン部隊反撃 石川大隊長戦死 防衛拠点島田商会と領事館燃える 副領事一家自決 動員兵力4000 中国人900・朝鮮人400含む
「在ニコラーエフスク日本人全部は主として支那人及朝鮮人に因り惨殺セラレタリ」(参謀本部『西伯利出兵史』) 
中国五四愛国運動・朝鮮三一万歳事件鎮圧の遺恨を受けた意趣返しが見て取れる。参謀本部の「満鮮人」に対する異常な警戒心と監視が目を引く。
3月17, 18日 山田旅団長両軍司令部に「戦闘中止勧告」電報 堅固な兵営に籠城中の守備隊、武器弾薬兵舎を引き渡し捕虜として旧露兵舎に移動 19日囚人とされ140名・居留民13名内女性7名監
獄へ 
パルチザン部隊、労農兵ソヴィエト*を組織開始 徴発委員会等行政機関設置 チェー・カー作成の有産階級名簿により逮捕、裁判 処刑か釈放の二処分のみ 上記日本人捕虜、
囚人労働に従事(陣地構築あるいはアムール河に航行妨害物を設置)
*極東共和国成立後は極東ではソヴィエト化は不可とされ、できる所ではパルチザンと白軍兵士はまとめて人民軍に改組された。

海路と水路の結氷が溶けて日本救援軍が近づいた5月下旬以降パルチザン軍は、日本人捕虜をすべて惨殺し、市街を焼き払い疑わしき市民を皆殺しにし、従う住民を引き連れて上流に退避疎開した。焦土作戦は広大な国土をもつロシアならではのアイデアである。
無政府主義を自称する司令官トリャピーツィン
と参謀長ニーナは仲間の反乱で銃殺され、避難民の多くは日本軍政下に入った。審問で「過激派」として獄入りした100名の運命については記述がない。
尼港事件の日本人軍民犠牲者数は外務省の記録で735名、目撃体験記録は香田昌三日記と萩原福寿手記のみ。生き残りはいたが中国人等の妻妾であった4名とほかに男女各1名子供2名と考えられる。
日本軍は北樺太を保障占領して石油、漁業、林業、鉱物等の戦利品を得た。

沿海州4月事件 派遣軍謀略暴走
4月、日本軍の動きを牽制していたアメリカ軍が浦潮から撤兵するのを待っていた日本軍は内政不干渉の法衣を脱ぎ捨てて浦潮臨時政府に奇襲攻撃をかけた。公然たる内政干渉である。以下引用は主として参謀本部『西伯利出兵史』に依存。
その背景には「社会革命党ガ過激派ノ傀儡タルニ過ギザルノ実情」(大井軍司令官)あるいは、もはや沿海州には「我ニ好意ヲ有シ又ハ我支持ヲ受クル」べき「穏健団体ナルモノ皆無ナル実況」(稲垣軍参謀長)という現地の危機認識があった。犬が先祖返りしたという認識である。
大井軍司令官は、沿海州の政治不安定が「累ヲ朝鮮及満州ニ及ボス」ので、危険政治団体[狼]はその存在、武装、宣伝、を許さず、排日朝鮮人の扇動についてはとくに注意するよう、指示した。そして3月末までに武装解除の綿密な要領を各指揮官に極秘伝達した。狼は牙を抜くか殺すしかない、という本音が読み取れる。以下要領の骨子を記す。
「武装解除」予定日4月上旬 浦潮臨時政府に「要望」を突き付け応じなければ「武装解除ヲ疾風迅速的ニ決行、一時之ヲ拘束」 敵に先んじられた場合には機を失せず「迅速果敢ノ措置」 伝書バト用意 駆逐艦手配
3月31日に発した撤兵に関する日本政府声明は、4条件つまり沿海州政情安定、鮮満地方に対する危険除去、居留民と交通の安全保障が得られれば、チェコ軍撤退完了後「成ルベク速ヤカニ」撤退するというものだった。
4月2日
大井司令官が政府声明を受けて浦潮臨時政府に対して突き付けた「要望」は撤兵ではなく駐兵に重点を置く6カ条だった。全権代表(エスエル)は4日修正合意した。5日に議定書に調印する運びとなった。その内容は抽象的で下記の「武装解除」を臭わせるものではなかった。
が・・・
4日午後10時ちょっと前、外交を謀略によって覆す現地派遣軍の悪しき伝統劇がシナリオどおり幕を開けた。当日は陰暦十六夜、ためらいがちに上がる色鮮やかな月の光を浴びて日本軍は果断に行動した。
浦潮で巡察中の第58連隊第1大隊副官の小隊が革命軍衛戍司令部前にさしかかったとき突然どこからか銃撃を受けた。1時間後旅団長命令で全域で戦端を開き、計画どおり
浦潮等ウスリー沿線7地域のうち6地域で5日昼すぎ「掃討」を完了した。ハバロフスク制圧は5日朝開始で市街戦になった。
5日夕刻、浦潮臨時政府代表が恐る恐る軍司令部を訪れ前日合意した日本軍駐留を保障する議定書に署名し政権の安堵を得た。シベリアのロシア人の気持ちは恐怖から安堵へ、やがて遺恨に変わった。

「日本軍はこの奇襲攻撃により各地で圧勝し、約七千人を武装解除し、数千人を殺害、併存状態だった革命派を殲滅して、ハバロフスクと沿海州を事実上支配した」(麻田雅文 前掲書)
その上極東共和国設立委員で共産党極東政治局員ラゾ達3名を生きながら機関車の
で焼き殺してロシア人に永く消えない記憶を焼き付けた。殺害方法には異論もあるが、ロシア人に定着した記憶がもたらした結果は重大だった。
児島襄は『平和の失速』で55ページにわたって逐一「掃討」の状況を記述し地区毎に戦死者のバランスシートを添えている。日本側が1桁、多くても2桁なのに対してロシア側は3桁である。23年後のスターリンによる満州占領計画もかくや、と思いつつ読んだ。シベリア抑留では倍返しならぬ百倍返しだったと考えるのは飛躍し過ぎだろうか。
なお浦潮では、抗日「不逞鮮人の策源地」であったスラム新韓村を「掃討」し放火した。ニコリスクでも同時に抗日朝鮮人「掃討」を実行した。これが「武装解除」の欠かせない目的の一つだった。
最大の目的は地方政権の軍権と武器を奪うことだった。浦潮臨時政府は少人数の警察隊しか保持を許されなくなった。
ウスリー沿線ではパルチザンは地下に潜り、極東共和国の意を体するゲリラ、馬賊が姿を現すようになる。

1920年4月6日 極東共和国樹立宣言 クラスノシチョコフ首班兼外相を擁する連立政権
ポーランド軍、デニーキン軍、ウランゲリ軍に対して西部で戦っていたレーニン政府は日本軍を武力で追い出す国力をもっていなかった。それゆえ日本軍の平和的撤退に道を開くために緩衝国家を樹立する必要があった。
レーニンは、ブレスト講和の時はドイツ軍の進撃を食い止めるために領土(ウクライナとバルト海沿岸)を差し出して平和を贖った。今回はシベリアのソヴィエト化を急がないことで譲歩し、シベリア、サハリン、カムチャッカにおける利権を提案した。緩衝国家案はシベリアのボリシェヴィキとりわけ日々死と直面しているパルチザンに受けが悪かった。「革命への裏切り」という痛罵も聞こえる。

レーニンの政治局は緩衝国のデザインをアメリカの弁護士資格を持つクラスノシチョコフに委ねた。彼が起草した憲法は世界でもっとも民主的な憲法であった。アメリカでさえ女性に選挙権が認められたのはこの同じ1920年だった。その全文がはじめて和訳され我々にも閲覧可能になっている。堀江則雄著『極東共和国の夢』(1999) 
18歳以上の普通選挙で選ばれた「有産制」民主主義が基本になった。レーニンは憲法と経済政策の基本に関するクラスノシチョコフの質問に「共産主義が小さな特権を持った民主主義が許容される」と回答している。
首班クラスノシチョコフは、
体刑死刑の廃止、大赦、集会結社の合法化、言論出版集会の自由回復を進めた。食糧徴発の代わりに現物税の導入、商業の自由を認めた。本国では農民の反乱が繁くなったとき極東共和国では新経済政策を先取りしていた。
シベリアの農民はボルシェヴィキを支持したが共産主義は支持していない。この微妙なバランスが制憲議会選挙(1921年1月)に表れた。農民代表が多数でボルシェヴィキ、エスエル、メンシェヴィキの順だった。
クラスノシチョコフは首班の地位は保ったが、彼の自由共産主義はボルシェヴィキ強硬派の反感を買った。
鉄道の復旧、協同組合事業、人民軍の募集・維持は財政基盤が弱いため困難を極めた。極東共和国人民軍が「チタの栓」を抜いて日本軍を沿海州「自衛圏」に封じ込める頃クラスノシチョコフは徐々に孤立、失脚しモスクワに呼び戻された。
ネップを推進するレーニンに高く評価され融資銀行プロムバンク設立等で能力を発揮したが、スターリン粛清を逃れられるわけがなかった。
1937年11月26日 銃殺 57歳

1956年4月28日 フルシチョフのスターリン批判(2月)で名誉回復

ムーヒン、クラシノシチョコフと肝胆相照らす仲のアレクセーエフスキーは、極東共和国樹立後、家族を呼び寄せるためにパリに旅行した。そのまま支持者の農民の元に還ることはなかった。1957年、パリで交通事故で亡くなった。

1922年10月25日 日本軍浦潮撤退 人民革命軍入城
同年11月14日 極東共和国、本国合併決議でみずから幕引き