モノと心の独り言

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社会の未来も風評被害、情報整理のないアンケート自体が風評づくり

2011-05-31 08:51:35 | 暮らし・街・環境
アンケートが多用され、一喜一憂される現代だ。
商品やサービスのアンケートなら、そのモノや機能に対する期待と効果にたいして、期待し、対価を払い、利用して、様々な観点にたいして直感的に応えることができる。
アンケートを設定する側もその意図が明確だし、応える側も、その意図に応じている。

しかし、政治のアンケートは、期待・対価・効果の過程の一部を、中立の立場のように装って、期待度・費用・効果の情報もなく、直感的に答えさせる。無作為抽出される対象こそ、情報が偏在しているから、母数を大きくしても、結果が偏在する。期待が生まれる状況も、その金額・手間・所要時間などの費用も、結果による効果にたいする見識も、分野・機能が細分化して相互の関連性を調整出来ないゆえに、偏在はひどくなる。
だから、大まかな(支持する・支持しない・わからない)の三択か、五択でまとめ、良い悪いの二者択一を迫りつづけ、プロセスを始める前、あるいは途中の結果を待たずに、否定がつづく。状況が全国的に遍在している中で、集計してしまう。
エネルギー問題も、長期的な環境問題、中期的な対策、短期的な原発の危険性の相対化ができていない。理解しきれない問題を、リスクばかりで計るのは、イデオロギーかそれ以前の支配欲。マスメディアがメディア価値を競うことで、このアンケート風評が拡がる。だれもが、夢を創造するより、現実を否定するほうが簡単で、優位に立っていると錯覚できる。その現実から自己を、外においてしまっていることを忘れている。外に立った言葉や答えだから、風に舞い風評となる。

集票優先の金権・村政治による早すぎた政権の危機は、その金権・村政治によって揺さぶられている。金権・村政治の野党に協賛する保守議員は、みずからの民主の本質を外れてゆく。また、階級政治に親しんだ議員は、観念の政治に囚われて、期待・対価・効果を相対化できない。
国民は、国に対する当事者感覚を失い、占領軍を救世主と錯覚したほどに自己喪失をしてこの数十年であこがれに変わり、守られ続けた平穏の年月の後にはじゃま扱いする。母性と国政は違うし、主義と外交もちがう。
この大震災被災が終わっていない今は、保守議員が野党に迎合しつつ、政党を出ないといいつづけるのは、政党政治自体を否定することだ。理念でも金権でもの政党の時代が終わっていたと言えるのではないか?政党としての政治資金だけは欲しいということ自体が、辞退して、支援金に廻す方が活きた金の使い方ではないかとさえ、思う。本来、政治資金は、情報収集・検討・優先順位をさぐる資金であって、票集めのための金ではない。その優先順位にそって、チャンスとリスクのバランスが取られるべきなのだ。理念や心情をカンバンに掲げ、裏で身近な利権・支配権で動くのでは、時代劇では「人間じゃね~」と暗殺されるのだが。

敗戦後、亡国のリスクを引き受け、復旧から復興へとむかった勇気は、飢えをしのいだあと、アメリカンモダンライフへと志向した。そして、バブル期には、そのアメリカの母国、ヨーロッパの貴族階級へのあこがれへ向い、ブランドへセレブへとシフトした。しかし、今、ギアを入れる先がない。夢を持てない不安がひろがっていた。

そんな、あこがれも基準もないときに、大震災を受け、全国が精神的な動揺の余震のなか、情報整理のないアンケートや政治理念を問うこと自体が、自家中毒への道ではないか?
だから、政治にもマスメディアという商品にも関心がうすれ、身のまわりのことをツブヤク相手を探すのだ。
今の政治は、話題にもしたくない!事業、持続的に続けることが出来ることを、模索し、とりあえずタコの足をくっているのと同じように、もらえるモノをもらい、税負担を増やし、より税を使うほうへと廻りたがるのだ。
その都度の安易なアンケートは、その回転を加速するだけではないか?
(負の回転に入ったら、ファッショになる。ポピュリズムの台頭は、その顕われ)



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