モノと心の独り言

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社会の記録の優先順位、ユニファイドしてゆくのは個人、ファインアートが日常になる日へ

2011-05-30 07:21:48 | コミュニケーション-メディア
東北の大震災主要被災地で、国土地理院は360度写す映像を記録した。
映像は、写像の集積として、画像処理により、スケールまで残る。
印象が、量へと変換され、比較され、相対化され、優先順位による判断が下される。

しかし、その場に住まい、無くなった方の身内には、
数量には変換されない想いが残る。
三日目、七日目、四十九日、一回忌、三回忌、七回忌、十三回忌、
寿命が延び、長期記憶だけは保持されると、この時系列が逆転する。
そして、認知症になれば、短期記憶が保持されず、過去と情念に活きることになる。

今の苦しみや、課題を、大げさにコト挙げて、振る舞うほどに、
苦悩や衝動は解放される。
生命のエネルギーも又、共振し・増幅され・解放されて、発散され、
ゼロになるのか、エントロピーを増すのか?
多分、私たちが生まれてから六ヶ月間肥大を続けた脳のどこかで、ツナガリを失った痕跡として、
いつか接続される時を待っているのかもしれない。

グーグルのストリートビューには、行ったこともない街の通りの、その瞬間が写像に残る。
わざわざ見るのは、そこにすでに関わりがある人だろうが、観光や引越先を探す機会に見ることはある。そこには、命や住処、街の表づらが、写っていて、のぞき見ているような気分になる。
TV映像は、のぞき見られていることを望んで写され、誇張した化粧と照明で、
現実よりも明るく・キレイに映る。

戦争まで、一方でモニターで行い、死が操作となっている一方で、子を産める女性一人が自爆テロをする時代だ。

ワタシは、どんどん不感症になり、引きこもって、感性を癒す。
映画での主役と同じように、脇役も、一人一人の生き様があるのだが、
同時並行で進む役柄それぞれの、誰かに同化して見てしまう。

昨日、台風2号で知らされた犠牲者は、死亡1名、行方不明1名。
報道も、今日明日までで、明日には私たちの目には入らない。
ニュースさえパーソナリティーが感情付で語り、
ワイドショーでは、同情・非難の演出と振り付けにのった人が、
フレームで選ばれ、コラージュされて、ドラマになって伝わってくる。

しかし、世は、淡々と、粛々という、気分も寄せ付けず、
関係・非対称・優先順位という個別の人のうごめきを、
より小さな空間・短い時へと分解しているようだ。
そこに身を預けていられるのは、
リスクを越えるチャンス、不安を越える歓び、
縮小と拡張を繰り返す、生命の原理に沿っているからなのだろう。

多様なメッセージが生命を共振させ、凝縮や分散を繰り返す予測が、
より就きにくくなったのは、五感を相関させるユニファイド・メッセージの現実化にもよる。
モバイル・ユニファイド・ネットワークという複雑系と自己生成の土壌を、
一つの生命にたとえマクロの視点から、
偏在した個の多層的な振る舞いとして、ミクロから見る時代になったのかもしれない。
一つの生命もまた、一つ一つの刺激による複雑系の中の自己生成の経過であると。
その刺激に共振し、共鳴してゆくことが、共感という質の次元を垣間見させる。

技術用語のユニファイド・メッセージに戻れば、
一つの振る舞いは、’呼’’calling sigunal’ と扱われる。
電話とコンピューターの統合だけの用語ではなく、写像・映像とも繋げてしまう時代のユニファイド・メッセージは、人間の神経系の拡張を更に可能にする。

拡張の果て、最早自己をまとめ得ない近代自我・近代個人観をこえる現代自我・現代個人観は、
サイバーワールドから、身体性への深層へと潜ってゆく。

シュールレアリズムの旗手、ブルトンの通底器が、その両極を繋げた実感があるのだが、
作品をつくらなくなっデュシャンは、ファインアートという純粋性・普遍性の幕を閉じた。
アートという’人の技術’は、解体・拡散しようとしつづける生命を繋ぎつづける技なのだ。

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