モノと心の独り言

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「きことわ」からアフリカ・中東内乱まで

2011-02-24 06:03:28 | 暮らし・街・環境
貴子と永遠子の刻と場は、溶け出していた。
人は独りで活きていず、自身の想いと廻りの人やモノに依存しつづけている。
今は、子どもへの想いと父母の思い出を手がかりとして在る。

我が子と知り合いの子どもが拡がって、街や社会の子どもを想うことが未来であるし、
想う手がかりは、父母から廻りの過去の人々、そして支えてきた街や自然となる。
未来への期待=希望と、過去のてがかりがなければ、今は刹那にもろい。


近代を越えるには、近代の個人の自律という幻想をこえる必要がある。
脱亜入欧から、滞米での個人神話の破綻は見えた。
なんでセラピストに頼りながら、精神と肉体、労働と遊びを分離しつづけなければならないか?
しかし、脱欧帰亜という回帰では行き止まり。
亜細亜が個人の自覚に目覚めている時には、西欧の向こう側
「言葉ありき」=原理ありき を越えて、
手がかりの言葉・記号・図・絵・写真・映像・音・臭い・触感の相乗を感じ得れば、
言葉と象徴の両極から距離を保てる。
言葉ばかり・イコンばかりでは、使うほど・感じるほどに孤立を深めてきた。

図・絵・写真・映像などがコピーされ、ネットワークに氾濫するとその差異・価値は減じられ、
音・臭い・感触と連続したリアリティに欲が向かう。
それは、世界のキワモノ(オンリーワン)ではなく、
身のまわりの世界とゆっくりと呼応する世界。
人と人・人と街・人と自然が呼応する、豊な世界は、常に有り続けてきたのでは?
戦後の荒廃をともに立て直してきたのは、身のまわりから。
いつの間にか、身のまわりに境界をつくり、自分だけの世界を楽しみ、
私有世界での独裁者になることが自己充実だと考えたのか?
それは、尊敬される相手を求める「マズローの五段階」節の上ではないか?
’説’ではない’節’(ふし)というのが日本語に適していた。

言葉と象徴の衝突は、アフリカから中近東の混乱にも顕在化してきた。
今、独裁国家というレッテルで、アフリカ・中近東をグローバル市場化へと急ぎ向かわせるのは、
その拒絶と対立へと油をそそぐ。回帰しようにも原理宗教が分離をつづければ、
族や派閥の政戦は、個人テロへと細分化してゆく。
国の中枢の政治家・市場市民(富裕層)は賛成しても、ついて来られない個人は絶望する。
今は、戦争の時代ではなく、国家テロ・宗教テロ・民族テロも押さえ込まれた、個人テロの時代なのだ。
秋葉原ではナイフだったが、アフリカでは世界の武器のリユース市場。
そして、究極兵器を開発して輸出する国家は、戦争のためではなく、食料のためだとしたら、悲劇は喜劇と紙一重。
正義と悪という次元でなく、戦争も競争も変動も、すべて富を偏在化させてゆくグローバル資本市場経済というシステムは、ネットワーク化で深化を早めている自覚は必要だ。

貴子と永遠子は、懐かしい蕎麦やたべられなくても、カップラーメンで楽しんでいた。
永遠子はコカコーラが好きだった・・・
スローフードは、食のブランド化ではない。
イタリアでの地域の暮し方の手がかりが、地方の食事の中で意識されたということだ。

「きことわ」の身体の廻りから世界へと、今朝も妄想を楽しんだ!
「貴子永遠」? だから、小説は、怖いのだ。

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