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福島章恭 合唱指揮とレコード蒐集に生きるⅢ

合唱指揮者、音楽評論家である福島章恭が、レコード、CD、オーディオ、合唱指揮活動から世間話まで、気ままに綴ります。

ありがたや、ありがたや ~ ドイツ・レクイエム公演に寄せられた文章たち

2019-03-01 00:17:44 | コンサート

拙ブログとおなじgooblogに執筆されているアントンK氏のアントンK「趣味の履歴簿」に嬉しい記事がありました。

「ああ、アントンKさんは、我々の演奏を深いところで理解されておられるのだな」というとが伝わってきて深い感慨に浸っている。関係者にはもちろん、当日、会場にいらっしゃれなかった方にも知って頂きたく、ここに紹介致します。

「今回の演奏では、指揮者福島章恭氏の懐の大きさを見たようで、さらにまた別の楽曲で聴いてみたいという気持ちになっている。あれほどまでに独自性が強く、自分の想いを具現化できる指揮者は、そうそういないと思われるからだ。前回鑑賞したモーツァルトの大ト短にしろ、今回のジークフリートにしろ、ある意味音楽がそそり立っており、これが孤灯の芸術美ということを示した演奏だったのだと思える。だからこそ聴衆は、彼のベートーヴェン、そしてブルックナーを心待ちにしているのだ。想像しただけでワクワクするではないか・・」

https://blog.goo.ne.jp/antonrokuichi/e/12ad28f4af1cb0db7227aaadee33fd71?fbclid=IwAR2kPL8rwyGkVH7pIvC2NFfJSvTIT9tY4a9GlIyildvP3JCLA026JuPZgrY

 

また、素敵なソプラノ独唱を披露してくださった平井香織さんは、Facebookにこのようなご感想を寄せてくださいました。

「ブラームス「ドイツ・レクイエム」終了しました。

私自身はいつもの事ながら反省しかありませんが💦極度の緊張に襲われた事に自分自身が驚いてしまいました😭

ゆったりと柔らかながら濃密な音楽を作り上げるマエストロの的確な指揮ぶり。

崔さん率いる奇跡のオーケストラ
何がどう素晴らしかったか語るのも無粋なくらい⁉️…素晴らしいメンバー(しかいない!)

全国からこの曲を演奏する為に集まった合唱団。
徹底した発声と音楽作りでこの大曲に果敢に立ち向かい、フォルテでも決して叫ばず丁寧に丁寧に歌われていました👏

バリトンソロの与那城君、オペラ「金閣寺」が終わったばかりなのに疲れも見せず安定の歌唱。流石です。

お世話になった皆さま、ご来場の皆さま、ありがとうございました。」

 

また、池田卓夫さんのブログ:iketakuhonpoにも、”福島章恭の静謐な祈り、「独逸鎮魂曲」”という有り難い記事があるのですが、わたしのやり方が拙いのか、うまくリンクが貼れません。

興味のある方は、池田卓夫さんのお名前で検索してみてください。

どうぞ、宜しくお願いします。

 


ドイツ・レクイエム公演終わる

2019-02-27 23:16:53 | コンサート


終わったぁ。

凄まじいコンサートだったのではないか?

という手応えはあり。

崔文洙さん率いるヴェリタス交響楽団が、見事な演奏を繰り広げてくれた。

平井香織さん、与那城敬さんの独唱もお見事。聴き惚れた。

「ジークフリート牧歌」は、オケ・メンバーの1人から、「ヒストリカルの
名盤みたいで、よかったですねぇ」
と。まさに、魂と魂の共振。

「ドイツ・レクイエム」は、我ながら遅めのゆったりしたテンポながら、「癒しの音だった。あのテンポを貫くのが凄い」と、平井香織さん、与那城敬さんから、有り難いお言葉を頂戴した。

260人を超すコーラスも、柔らかな響きの声でホールを満たしてくれた。

東大和モツレクのオーケストラ稽古から5日連続でオーケストラ指揮、うち2日が本番という濃い時間を乗り切った。しばしの休息も許されるだろう。






写真下二枚はゲネプロ風景。

クルレンツィスに脱帽 来日公演2日目

2019-02-11 18:06:42 | コンサート


本日は、ところを、すみだトリフォニーホールに移し、チャイコフスキーの交響曲第4番。前プロは、昨日につづきヴァイオリン協奏曲。

ただただ、クルレンツィスに脱帽。ホールの音響に大きな問題のなかったこともあり、本日は心から楽しむことができた(なお、昨日の記事にひとつ訂正がある。「チェロとテューバ以外は立奏」と書いたが、正確にはコントラバスもコンバス椅子に腰をかけていた)。

前半のヴァイオリン協奏曲だが、初日の「よし、やったるで」感満載、特に第1楽章に於ける崩壊寸前のスリルが後退した代わりに、作品の造型が保たれた安定感と秩序があって、わたしには好ましかった。第2楽章の瞑想性も稀有のもので、コパチンスカヤ、クルレンツィスともに、こういう静謐な音楽性をうちに持っていることは大きな武器である。一転、第3楽章の弾けっぷりはコパチンスカヤの面目躍如といったところで、聴衆の大喝采を呼んだところである。

なお、ソロ・アンコールの3曲は昨日と同じ曲目であったが、これまた、音響の良さもあって、より楽しむことができた。

後半の「4番」は、ロシアの凍てつく大地、作曲家の憂愁、夢や幻想などを描き尽くした超名演。
究極の弱音から怒涛の強音までのダイナミクスの幅の大きさは「悲愴」でも感じたものだが、どんな熱狂のときにも、楽器間のバランスはギリギリのところで保たれており、闇雲な熱演とは一線を画している。というより、稽古で作りあげたバランスを守りにゆくのでなく、壊すことも辞さない情熱の苛烈さが彼らの演奏を非凡なものとしているのだろう。ひとつのメロディーに内在する憧れや溜め息が、オーケストラの隅々にまで共有されている様は圧巻で、クルレンツィスとムジカエテルナが本物であることを語っていた。

そして、驚きのアンコール。
これについては、サントリーホール公演を前に書いても良いのだろうか??
この有名なチャイコフスキーの幻想序曲が、かくも激しく、かくも切なく、そしてかくも美しく演奏された例をわたしは知らない、とだけ記録しておこう。

クルレンツィス& ムジカエテルナ 「悲愴」ひとつの究極

2019-02-10 17:51:59 | コンサート


クルレンツィス&ムジカエテルナ来日公演初日を聴く。本日のプログラムはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲と「悲愴」。

正直、前半のコパチンスカヤとのヴァイオリン協奏曲の印象は最悪であった。乗りたくもないアトラクションに座らされて、持ち上げたり落とされたり、揺すられたりの連続で「もう勘弁してくれ」と悲鳴を上げたくなったほど。スコアに縛られず、小節線を感じさせない表現はよいとして、作品の骨格までもが抜き取られたようで、その場その場のスリルや面白さはあっても、音楽の造型美というものとは無縁。自由というよりは身勝手を感じたのである。ただ、この自由と身勝手の境界線がどこに引かれているかは、聴き手の数だけあるわけで、この演奏を評価する人があっても不思議ではない。



ただ、本編同様に自由奔放なコパチンスカヤのソロ・アンコールが大いに楽しめたのは、これらの小品には、協奏曲のような古典的造型を求める必要がなかったからであろう。

後半の「悲愴」は、チェロとテューバ以外は立奏という珍しいスタイル。長身のクルレンツィスならよいけど、自分なら飛び箱のように高く積んだ指揮台が必要だな、などとくだらないことを考える。

実はわたしの座席は、二階席左サイド後方。見上げると三階席の床が頭上近くにあるという最悪の場所で、安物のラジカセのトレブルをゼロに絞ったような冴えない音響だったのだが、弦のプルトが増えたことと立奏によって、幾分聴きやすい音になって救われた。

「悲愴」は、フレーズの自由さはそのままに、造型を犠牲にするような大きな崩しもなく、繊細の弱音から凄絶な強音まで、文字通り、オーケストラがクルレンツィスの手足となった究極の名演と呼べるだろう。
それにしても、第1楽章展開部直前のクラリネットの最弱音、あれほど極限に迫る弱音はこれまでの人生で聴いたことはなかった。

ひとりの指揮者と強い絆で結ばれたオーケストラのみに許された唯一無二のスタイル。3日のリハーサルのみで本番を迎える一般のオーケストラでは到底なし得ない域に達していた。

というと、かつてのメンゲンベルク&コンセルトヘボウやチェリビダッケ&ミュンヘン・フィルを思い出したくなるが、これらかつての巨匠ほどの完璧や精密なアンサンブルを目指しているわけではなく、その演奏は常にクルレンツィスの狂気とともにある。

音の良い座席で、その狂気の渦に巻き込まれるのなら幸せだろうが、わたしのように音の悪い座席だと、その狂った人々を客観的に眺めなければならないという辛さはある。それでもなお、大きな感銘を与えてくれたのだから、本日の「悲愴」は、かなりの名演であったのだろう。出来ることなら、オペラシティ、サントリーホールかミューザ川崎の良席で聴きたかった。

以上、自らのコンサート準備に追われているため手短に。



テオドール・クルレンツィス指揮 ムジカエテルナ公演

2月10日(日)15時 
Bunkamuraオーチャードホール

チャイコフスキー: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35 
(Vn: パトリツィア・コパチンスカヤ)

チャイコフスキー: 交響曲第6番 ロ短調 op.74 「悲愴」






大フィル第51回東京定期 ~ 尾高&大フィルの「今」を伝える

2019-01-23 15:43:27 | コンサート


原稿の締切に追われているので、以下、ほんの覚え書き程度に(写真上はゲネプロ開始前)。

昨夜の大フィル第51回東京定期。
尾高先生によって変貌を遂げつづけている大フィルの「今」を伝える素晴らしい演奏会だった。

音楽監督として各セクションの能力を向上させるのは第一条件。その上で、個々の楽曲では、アーティキュレーションを明瞭にし、パート間のバランスを見つめ、楽曲の構造を明らかにするのは当然のこととして、尾高&大フィルには、朝比奈時代から受け継がれた熱さがそこにある。これがオーケストラの伝統というものだろう。

冒頭の武満こそ、もっと透徹した管のアンサンブルを求めたくなる場面もあったが、メインのエルガーではマエストロの智と大フィルの情熱が渾然一体となって大きな魅力となっていた。この名曲を生で聴く機会が少ないだけに、大いなる至福の時間であった。
ただ、個人的には、朝比奈先生のブルックナーから受けた感動には及んでいないことを正直に告白せずにはおれない。その理由は、わたしには分かっているつもりであるが、いまは書かずにおく。

なお、2曲目のブルッフ: ヴァイオリン協奏曲第1番では、神尾真由子が入魂の独奏。解釈云々より、楽器の鳴りっぷりの良さに魅了される。もちろん、音色も含めての魅力だが、その存在感が素晴らしかった。
ソロ・アンコールは、ハガニーニ: 24のカプリースから第24番。鬼気迫る気迫に女王の貫禄。恐れ入りました。


最上級のブルックナー体験 ヴェルザー=メスト & ウィーン・フィル

2018-11-23 22:09:25 | コンサート

チケットを購入した時点では、さして大きな期待を抱いていたわけではなかった。

ヴェルザー=メストのブルックナーについては、以前、クリーヴランド管とのライヴ映像を観たときには、造型、サウンドや指揮姿に至るまで平凡に感じるなど、特別な感銘を受けなかったからだ。しかし、先日の「南国の薔薇」を観て、聴いて、俄然ブルックナーの素晴らしいであろうことを予感した。そして、その結果は事前の予測を遙かに上回る素晴らしいものだった。

第1楽章の冒頭から、弱音の美に胸打たれた。これは、弱音を重んじることのなかった朝比奈のブルックナーとは対極の美であり、水面に揺らめく光のように千変万化に色彩を変化させる弦のトレモロには目眩を覚えるほどであった。総じて、ピアノ以下の弱音に無限の段階とニュアンスがあり、各セクション間のバランスの絶妙さにはため息がもれるほどであった。一方、フォルテ以上にも凄まじいものがあり、総員フルボーイングから立ち上る弦の豊穣な響き、肺腑を衝く金管群の音圧にはただただ圧倒されるのみ。

第2楽章も弱音の美しさに酔った。もっと濃厚な歌心があってもよかったかもしれないが、歌いすぎない美しさもまたある、ということを教えられる。

さらに、第3楽章では、類い希な舞踊性を感じさせた。その聖と俗の綯い交ぜになったリズムの躍動は、メストとウィーン・フィル双方に通うオーストリア人の血のなせる業かもしれない。

フィナーレでは、前述の剛毅なまでの音量のほか、音楽が前へ前へと進んでゆく推進力にも秀でていた。などなど、どの瞬間を切り取っても「留まれ、お前は美しい!」と叫んでしまいたいほどの美しさに貫かていた。

何より嬉しかったことは、わたしがレコードで親しんできた50年代、60年代のウィーン・フィルの響きを彷彿とさせる瞬間が多々あったことである。ティーレマンとのベートーヴェンを聴いたときなどには、「ウィーン・フィルはもう昔のウィーン・フィルではない」と悟らされたものだが、今回の来日公演では古の良さが復活しているように思える。この件、ヴェルザー=メストの指揮がどれほど関与しているかは知らないが、ウィーン・フィルそのものが良い方向に変容してきていることを感じられたのは幸せなことであった。

 

 



ヴェルザー=メスト & ウィーン・フィル ブラームス「2番」

2018-11-21 00:21:45 | コンサート

フランツ・ウェルザー=メスト指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

2018/11/20(火) 19:00開演
サントリーホール 大ホール

【出演】
指揮:フランツ・ウェルザー=メスト
ピアノ:ラン・ラン
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

【曲目】
モーツァルト:オペラ『魔笛』序曲 K.620
モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491
ブラームス:交響曲第2番 ニ長調 作品73

この度のウィーン・フィル来日ツアーでは、11月23日(祝・金)のブルックナー「5番」だけに絞るつもりでいたのだが、ミューザ川崎でのワーグナー「神々の黄昏」ハイライトの評判を聞き、ブラームスも聴くことを決意。そんなとき、たまたま都合の悪くなった知人からチケットを譲って頂けることになったのはラッキーである。来年2月27日の「ドイツ・レクイエム」サントリーホール公演のための下見と自らに言い訳もできるという寸法だ。

実のところ、ヴェルザー=メストのレコード、CD、DVDに於ける印象は、わたしにとって芳しいものではなかったのだが、その負の印象は今宵のブラームスとアンコールによって見事に覆された。

ブラームスは、奇の衒ったところのないウィーン・フィルの伝統の響きと美質を活かした演奏で、ちょっと聴くと当たり前のようでいながら、やがて、その周到な設計やバランス感覚に気付かされる。それでいて、フィナーレに於ける精神の高揚感にも欠けておらず、実演で聴くブラームスにこれほど魅了されたのも久しぶりであった。

さらに素晴らしかったのが、アンコールのヨハン・シュトラウスⅡの「南国の薔薇」とエドゥアルト・シュトラウス「テープは切られた」である。ウィンナ・ワルツ特有のリズムひとつ取っても噎せ返るようなウィーン情緒に溢れていたが、ヴェルザー=メストの自在なテンポ操作がまたお見事。人の生きる上での喜びと哀しみが交差し、舞踊によって美に昇華されていたのである。この「南国の薔薇」に限っては、実演、録音を問わず、シューリヒトのコンサートホール録音以上の感動を覚えることは稀なのだが、今宵は背中に電気の走るような感動を味わうことができた。「テープは切られた」に於ける愉悦、ユーモア、躍動感も最高で、このアンコール2曲だけでも元の取れた気がしたものである。

前半のピアノ協奏曲については、多くを語らないでおこう。オーケストラは実に美しいモーツァルトを奏でていたが、ランランのピアノがわたしの趣味ではなかった。語りたいことは山ほどあるが自制するのが吉であろう。

なお、本公演には、RBブロック席にて皇太子様がご鑑賞されていた。


フォーレ「レクイエム」~大フィル合唱団の歴史に残るコンサート

2018-10-27 09:39:22 | コンサート


大フィル定期、フォーレ「レクイエム」の2日間が終わった。素晴らしい体験だった。

大フィル合唱団の指導をはじめてから、エリシュカ先生とのドヴォルザーク「スターバト・マーテル」、道義先生とのバーンスタイン「ミサ曲」、大植先生との「カルミナ・ブラーナ」、シモーネ・ヤング先生とのブラームス「運命の歌」、そして、尾高先生との「第九」など、いくつもの感動的な公演に携わらせて頂いてきたけれど、パスカル・ロフェ先生とのフォーレ「レクイエム」もまた、大フィル合唱団にとって、忘れることの出来ないパフォーマンスとなった。

それは、ピアノからピアニシモ以下で勝負をするという、従来の大フィル合唱団の持ち味とは別の次元での演奏が達成されたからである。

ロフェ先生の選んだラター版は、後に普及した厚化粧の第3稿とは異なり、フォーレのオリジナルに準拠したもの。弦楽セクションはヴィオラ以下の中低音のみ、ヴァイオリンはサンクトゥスに於ける独奏(終曲イン・パラディースムにはオプションあり)だけに登場という特殊な編成。

マエストロのご指示により、合唱団の人数を80余名に絞り込んだのは、フォーレの慎ましやかな作風やオーケストラの室内楽的編成に相応しいものではあるが、事前には一抹の不安もあった。普段より40~50名も少ないメンバーで、あの巨大なフェスティバルホールの空間を満たすことが出来るのだろうか? と。

しかし、人数を絞りこんだことの効能は絶大であった。まず、通常のコーラス・レッスンがいつになく精緻に進められたこと。清純な発声、ピッチの統一、ハーモニーの移ろいへの音色の変革などへのアプローチがなされたこと(まだ課題はあるとはいえ)は、大きな楽しみであり、喜びであった。

というわけで、自信をもって臨んだマエストロ稽古であったが、初日の結果は散々だった。朝比奈先生の伝統を今に受け継ぎ、ドイツ音楽を得意とする我々は、ロフェ先生の生粋のフランス音楽的語法に戸惑ってしまったのである。

ブレスから声の立ち上がりまでの時間、子音の質と量、声のスピード、まるで気化したアルコールが一瞬にして燃え広がるようなクレッシェンド、音の軽やかさ、光に満ちた音色などに、全く対応できなかったのだ。

しかし、合唱団は見事であった。その後、2回のオーケストラ合わせと当日ゲネプロを経て、ロフェ先生の求められる声やハーモニーに肉迫することができた。また、発声がしっかりしていれば、ピアニシモであっても、フェスティバルホールに通用することが分かったのも収穫。

レッスン初日には苦虫を噛み潰したような表情だったマエストロも、本番終了後には歓びに満ちたお顔(このあたり、とっても分かりやすい・笑)。舞台袖で強く手を握られながら、「本当に柔らかな声で素晴らしかった。合唱団の皆さんに、心からの感謝を伝えてください」とのお言葉には胸が熱くなるばかりであった。

一度、底に落ちつつも、立ち直ったどころか、これまでにないレベルまで昇ることの出来たのも、ここ数年大フィル合唱団が行ってきた、地道な鍛錬があったからこそ。そうでなければ、最後の数日であのような変貌を遂げることはできなかった筈である。

以上の理由から、「歴史に残る」と書いたのは、決して大袈裟ではない。これまで、楽しいばかりとは言えないわたしのレッスンについてきてくれた大フィル合唱団のメンバーに感謝あるのみ。そして、祝福したい。これまで仕込んできた様々な種が美しく花開いたことに!

感謝といえば、オーケストラへのそれを忘れてはいけない。ヴァイオリンのトゥッテイを欠くという室内楽的なアンサンブルが実に親密(ときに緊密)で、ヴィオラ・トップの井野邉大輔さんの気迫を筆頭に、音楽やアンサンブルの本質に立ち向かう姿勢の厳しさに感銘を受けた。コーラスが最善を尽くせたのも、まさにそのお蔭であり、「ともにひとつの演奏を作っている」という歓びを分かち合えたのである。

追記
個人的にはバリトンの萩原潤さんと再会できたことも大きな歓びであった。かつて、長岡で「ドイツ・レクイエム」、東京でモーツァルト「ハ短調ミサ」を共演させて頂き感銘を受けたものだが、今回も深みと伸びのある歌唱に魅了された。またの出会いに期待したい。









井上道義 マーラー『千人の交響曲』東京芸術劇場presents 

2018-10-05 10:05:34 | コンサート

井上道義先生とマーラー「8番」をご一緒させて頂くのは、名古屋マーラー音楽祭の最終公演(2012年7月)以来のことである。

前回は独唱陣を除いたオール・アマチュアのオーケストラとコーラスによって巨大な音伽藍を築きあげたが、今回は合唱を首都圏音大合同コーラスが受け持つという前代未聞の企画である。

初の試みと言うこともあり、コーラスのレッスンにあっては様々な困難にも当たったが、結果として、多くの聴衆に感銘を与える演奏となったことを歓びたい。

かくいうわたしも、客席で演奏に接し感動したひとり。二部の終結部では背中に電気の走るほどに痺れたが、こんな経験は実に久しぶりのことである。

本番のマエストロは絶好調で、それに付けてくる読響もお見事というほかなかった。

ソリスト陣では、池田香織の存在感が圧倒的で、それに福原寿美枝がつづいた。

TOKYO FM 少年合唱団は、今の日本には稀少な男の子ばかりのコーラス。少ない人数ながら、無垢で一途な歌唱に心洗われた。

さらに望むことがあるとするなら、もっとたくさん合唱のレッスンをしたかったの一事に尽きる。

発声や表現に関して、時間の制約から福島章恭の美学を隅々まで浸透させることは適わないため、学生たちのゆきたい方向に思い切りゆかせる方針をとったが、ある意味でそれは成功したと言えるだろう。

実際、オーケストラ合わせ、ゲネプロにかけて、わたしの介入する隙間もないまま、学生たちはグングンとマエストロと一体になる術を習得し、ホールの空間に慣れ、オーケストラと融合することに成功してくれた。

東響コーラスメンバーをはじめとする盤石の支えを得たこともあり、実に伸び伸びと彼らの現状の力を遺憾なく発揮するパフォーマンスとなったのである。

さらに時間が与えられていたなら、力に頼らないフォルティシモ、細やかなアーティキュレーションとハーモニーに対応した声の色の変化、テキスト理解の深化、神秘の合唱に於ける究極のピアニシモの追求などが達成された筈である。しかし、彼らの若いパワーには、これらを一瞬忘れさせてくれるだけの魅惑はあったし、何より各パート内でのピッチの統一感は気持ちの良いものであった。

また、第二部では、オーディションで選抜された天使のコーラスが美しいアンサンブルを聴かせてくれた。ブラーヴィ!

ただ、天使のコーラスについては、本番直前にひとつ判断を誤った。咄嗟のことだったとはいえ、してはならない過ちであり、未だ心に棘が刺さったままでいる。

彼女たちに深く詫びたい(と言えば、分かってくれるだろうか?)。

とまれ、この首都圏音楽大学合同コーラスという夢企画、初回から成功であったことは疑いない。

東京芸術劇場の企画力と実践力なしにはなし得なかった快挙であり、次回以降への期待が膨らむばかりだ。

 

東京芸術劇場presents

井上道義&読売日本交響楽団 マーラー/交響曲第8番『千人の交響曲』

2018年10月03日 (水)19:00 開演(ロビー開場18:00)
東京芸術劇場コンサートホール
マーラー/交響曲第8番 変ホ長調『千人の交響曲』
   指揮:井上道義

ソプラノⅠ(いと罪深き女):菅英三子
ソプラノⅡ(贖罪の女):小川里美
ソプラノⅢ(栄光の聖母):森麻季
アルトⅠ(サマリアの女):池田香織
アルトⅡ(エジプトのマリア):福原寿美枝
テノール(マリア崇拝の博士):フセヴォロド・グリフノフ
バリトン(法悦の教父):青戸知
バス(瞑想する教父):スティーヴン・リチャードソン

首都圏音楽大学合同コーラス
TOKYO FM 少年合唱団
合唱指揮:福島章恭
読売日本交響楽団

 


真夜中にライプツィヒからの吉報

2018-09-29 02:45:43 | コンサート


真夜中にライプツィヒ・バッハ・アルヒーフよりの吉報届く。
余りに素晴らしいニュースだったゆえ、いち早く知らせるべく、敢えて日本時間の深夜2時であっても電話したのだとか。



主任牧師様も我々の演奏に感動した上、オーケストラ、ソリスト陣ともども演奏の質の高さを讃え、さらに聴衆からの献金も半端ない数字が集まった。これは、余程聴衆が心動かされたのでなければ考えられない数字とのこと。

上記をふまえ、この度、福島章恭、および大阪フィルハーモニー合唱団宛に聖トーマス教会からの正式な感謝状が出されることになったというのである。

バッハの墓前にて、またとない体験をさせて頂き、感謝すべきはこちらのところ、誠に有り難いことである。



写真は、終演後の打ち上げにて、ザクセンバロックオーケストラ、コンミスのカテリーナ・アレントさん、代表のハルトムート・ヴェッカーさんとともに。