愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

盧溝橋事件80年!現代的視点で見れば現在進行形の話満載!忘れてはならない日なのに赤旗を除けば新聞社説は東京新聞のみ!1900年から1945年まで大陸膨張主義・植民地主義・侵略主義を忘れるな!

2017-07-07 | 中国侵略と戦争責任

加害国である天皇制軍国主義国日本が忘れてはならない!風化させてはならない日だな!

天皇制政府はアジア欧米諸国と日本国民にどんな加害・非人道行為を行ったか!

侵略戦争は国内の自由人権民主主義を否定して初めて可能になったことを忘れるな!

日本の情報伝達手段のテレビ・新聞は7.7前後に特集を組め!

時事通信 習氏不在、式典控えめ=盧溝橋事件80年-中国 2017/07/07-17:09

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017070700997&g=int

【北京時事】日中戦争の発端となった盧溝橋事件から80年となった7日、北京市郊外の盧溝橋近くの中国人民抗日戦争記念館で記念式典が開かれた。習近平国家主席がドイツを訪問中で、日中関係も改善に向けた動きが見えつつあるため、最高指導部メンバーの出席は見送られたもよう。節目の年だが、報道も控えめだった。国営中央テレビは、式典に約1000人が参加したと伝えたが、有力者の出席については触れなかった。2014年の式典には習氏が出席。その後は年を追うごとに出席者の党内序列の順位が下がっていた。中央テレビは盧溝橋事件に関する解説なども行ったが、習氏のドイツ訪問や空母「遼寧」の香港到着に関連するニュースなどに、より多くの時間を割いた。一方、7日付の共産党機関紙・人民日報は論評記事で「われわれは、抗日戦争の精神を高め、中華民族の偉大な復興の夢に向けて前進する」と訴えた。(引用ここまで)

中日/東京新聞 盧溝橋事件80年/歴史に「愚」を学ぶとき 2017/7/7

北京郊外で旧日本軍に銃弾が撃ち込まれた盧溝橋事件から八十年になる。これが八年間に及ぶ日中戦争の発端になった。止められた戦争と歴史は教える。
十三世紀にイタリア人のマルコ・ポーロが「東方見聞録」で「世界一美しい橋」と西欧に紹介した。橋のたもとには十八世紀の乾隆帝の筆による「盧溝暁月」の石碑も立つ。
一九三七年七月七日夜。日本軍の支那(しな)駐屯軍は盧溝橋近くで夜間演習をしていた。橋の東岸には宛平県城があり、城を守る中国兵の姿があった。演習前に中隊長は「支那兵に向けて、挑発的な行為や言動があってはならない」と訓示している。
午後十時半ごろ。いったん夜間演習を中止するため、伝令を走らせると、背後から三発の銃声が襲った。ひゅー、ひゅーと、空気を切って飛ぶ、弾丸の飛行音が聞こえた。さらに十数発もの弾丸が…。兵隊たちの頭上をかすめて続けざまに実弾が飛んだのだ。
けたたましいラッパが鳴った。残る二個中隊と機関銃中隊、歩兵砲隊が動きだした。大隊が集結したのは翌午前三時ごろである。また三発の銃声があった。
北京市内にいた連隊長の牟田口廉也は緊急連絡に「敵に撃たれたら撃て」と指示した。総攻撃の命令に他ならなかった。
中国国民党の指導者蒋介石は日記に「倭寇(わこう)は盧溝橋で挑発に出た。(中略)われわれを屈服させようというのだろうか?」「宛平県城を固守せよ」(蒋介石秘録)と書いた。
盧溝橋事件で日本軍は死傷者を出したわけではない。また、誰が発砲したのか、いまだに諸説あって不明なのである

それなのに国内では既に「蒋介石など一撃で倒せる」という「強硬論」が沸き立っていた。参謀本部の作戦課長、陸軍省でも軍事課長らが主張した。陸相の杉山元ら幹部も拡大論だった。むろん不拡大論を強く主張する者もいた。参謀本部作戦部長の石原莞爾がそうである。戦争指導課や陸軍省軍務課の多くも「不拡大論」であった。軍部の中でも「拡大」「不拡大」の意見が真っ二つに割れていたのである。
首相の近衛文麿は不拡大方針だった。かつ現地で停戦協定が成立したにもかかわらず、華北への派兵が決定し、戦争拡大へと歯車は動きだした。

盧溝橋事件は幾重にも謎に包まれている。それなのに戦争を始める。「愚」である。不要な戦争であった。

七月十七日になると蒋介石も「最後の関頭」と呼ばれる有名な談話を発表した。徹底的な抗戦で民族を守る決意の言葉である。そして、中国国内で対立していた国民党軍と共産党軍とは「国共合作」で手を結び、ともに抗日戦争を戦うことになった。
日中戦争は華北での戦闘ばかりか、上海での戦闘もはじまり、日本からは派兵に次ぐ、派兵…。全面戦争に陥った。泥沼の戦争と化していったのである。
終結の見通しもなく戦争を始めるのも「愚」、莫大(ばくだい)な戦費を考えないのも「愚」である。首都・南京を陥れても奥地へ逃げられると考えないとしたら、これも「愚」である。背後からソ連に突かれないと信じた「愚」もある。

そもそも戦争の公式目的が「中国を懲らしめるため」である。そんな荒っぽい理屈が当時の国際社会に受け入れられるはずもない。戦争の名目さえ立たなかったのも「愚」である。

むろん途中で幾度か和平の道も探られた。しかし、そのたびに日本は相手に厳しい要求をするため、和平はとても成立しなかった。寛容さがあれば、戦争を止めることもできた。和平を台無しにした「愚」もあるのだ。

日中戦争ばかりでない。三一年の満州事変は、何と日本の「自衛権」の発動として引き起こされた。それ以後、中国東北部は日本軍の占領下に置かれ、やがて満州国がつくられた。日本の傀儡(かいらい)国家としてである。この問題については、有名なリットン調査団が報告書をつくり、三三年に国際連盟総会で採択が行われた。その報告書に不満を持った日本一国のみ「反対一票」を投じ、国際連盟を脱退した。日本の国際的な孤立はこのときから始まる。この「愚」こそ、日中戦争にも、のちの太平洋戦争にも確実に結び付いている。

戦争の歴史は私たちに示唆に富んだ教訓を与える。戦後七十二年になる今、平和主義の道を進んできた日本が「戦争のできる国」へと変質しつつある。こういう時こそ、歴史の「愚」を学ぶときであろうと思う。(引用ここまで

赤旗主張 盧溝橋事件80年/侵略と戦争の歴史繰り返すな 2017年7月7日(金)

日本の中国への全面侵略戦争のきっかけとなった、1937年7月7日の「盧溝橋事件」から80年の節目です。

当時満州と言われた中国東北部への侵略(「満州事変」=31年)に続き、北京近郊の盧溝橋(橋の名前)付近で日本軍と中国軍が交戦したのを機に日本の中国侵略は全土で本格化し、41年のアジア・太平洋戦争の開戦を経て、45年の敗戦まで悲惨な戦争が繰り広げられたのです。敗戦後公布された憲法は、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」と宣言しました。侵略と戦争を繰り返さないことが重要です。

侵略拡大のきっかけに

「盧溝橋事件」は、「満州事変」の後、中国東北部や華北などに侵略を拡大していた日本軍が、北京近郊の中国軍が布陣するすぐそばで夜間軍事演習を強行し、何者かが日本軍に発砲し、1人の日本兵が一時行方不明になったことを口実に、軍事行動を開始したものです。事件を起こしたのは1900年の「義和団」事件後、北京や天津周辺に派兵されていた「駐屯軍」で、現地では停戦の話し合いも行われましたが、陸軍中央は「一撃」のもとに中国をやっつけると、「満州事変」を起こした関東軍や朝鮮軍、本土各地からの大量の軍隊を増派、戦線を拡大したのです。

「駐屯軍」はもともと領事館の保護などに目的が限定された軍隊で、大規模な兵力増強や夜間演習などは挑発行為です。しかも事件後日本軍が増強され戦線が拡大する中で「駐屯軍」そのものが廃止され、文字通り領土と権益拡大の侵略の軍隊に組み込まれます

盧溝橋事件の後、日本軍の侵略は上海、南京など主要な大都市だけでなく、中国大陸奥深くにまで広がり、大量の中国人などを犠牲にした南京大虐殺37年12月)や無差別爆撃として知られる重慶爆撃38年)など国際的大事件を引き起こし、中国の国土と国民に大きな被害を及ぼしました。「三光作戦」と呼ばれた「焼き尽くし、殺し尽くし、奪い尽くす」という残虐な行為や、労働者などの「強制連行」日本軍「慰安婦」などの悲劇はいまも責任が問われています。

盧溝橋事件から4年後、アジア・太平洋戦争に日本が突入したこと自体、アジア・太平洋地域での資源などの確保とともに、国際的批判に逆らって中国大陸での不当な戦争を続けるためでした。15年にわたった戦争によって亡くなった犠牲者は中国を含むアジアで2000万人以上日本人だけでも310万人以上と言われています。歴史の誤りを直視し、戦争の悲劇を繰り返さないことは、いまも生かすべき大切な教訓です。

「戦争する国」許さず

安倍晋三首相をはじめ過去の侵略戦争を肯定・美化する勢力は、日本の侵略戦争や植民地支配の誤りを認めず、アメリカなどとともに再び「戦争する国」になろうとしています。4年半前に安倍首相が政権に復帰した後の、「秘密保護法」の制定、安保法制=「戦争法」の強行、つい先日の国会での「共謀罪」法の制定など、「戦争する国」になろうとする危険な策動は枚挙にいとまがありません。盧溝橋事件から80年の今こそ、「政府の行為」によって、再び戦争の惨禍を起こさない決意を新たに、改憲阻止などに力を合わせ、力を尽くそうではありませんか。(引用ここまで

神戸新聞 盧溝橋事件80年 100歳元兵士「無謀な戦い」 2017/7/7 07:01

https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201707/0010347640.shtml

1937(昭和12)年7月7日、中国・北京郊外で起きた「盧溝橋(ろこうきょう)事件」により日中戦争が始まって80年。中国東北部の旧満州国に出兵した姫路市の中村仁一(にいち)さん(100)は、戦線が拡大して泥沼化し、太平洋戦争へとつながっていく過程を今も証言できる数少ない一人だ。断片的だが鮮明に残る記憶をゆっくりとたどりながら、「無謀な戦いだと当時から分かっていた」と繰り返す。(小川 晶)

ロシア革命が起こり、第1次世界大戦で米国がドイツに宣戦布告した1917(大正6)年生まれ。「原爆詩集」を著した詩人の峠三吉や、戦没したプロ野球の名投手、沢村栄治が同年に生を受けている。

家島本島(現・姫路市)で育ち、尋常小学校6年間の課程を終えると京都の呉服屋に住み込みで働いた。「臨時召集ノ爲メ野砲兵第十連隊ニ應召」。中村さんの軍歴書類は、20歳だった38(昭和13)年1月の記述から始まる。

「みんな兵隊にとられとるし、嫌がったら国賊や。お国のために死ぬ善しあしなんて考えもせんかった」

部隊は、旧ソ連領に近いハイラルで国境守備隊に編入される。翌39(同14)年5月、日ソの紛争「ノモンハン事件」が発生。圧倒的な兵力差により守備隊は大きな被害を受けるが、中村さんは後方での勤務を命じられて助かった。

かん口令が敷かれ、前線の詳しい様子は分からなかったが、200人ほどいたある部隊で戻ってきたのは10人足らず生き残った兵士が「弾を撃ったらあかん。全然効かんし、猛烈な仕返しがくるだけや」と漏らすのを聞いた。

中村さんは、40(同15)年8月に召集が解除されるまでハイラル周辺で警備に携わった。その間も、日本軍は中国大陸で戦線を拡大。同僚と「国が広くて、人口も多い中国相手に勝てるんやろうか」と話したことを覚えている。

家島に戻った1年後、再び召集され、今度は南方へ。太平洋戦争開戦直後に日本軍が占領した現在のマレーシアで、経理担当の下士官として衣料の管理や修繕などに当たり、46(同21)年5月に復員した。

軍歴書類に記された兵役の通算は、7年4カ月。戦争に染まった20代を、中村さんは「悔やんでもしゃあないし、戦後の生活の支えになった思うとる。『戦争がなかったらこんなことできた』いうんは、考えるだけやぼやから」と努めて肯定的に振り返る。

一方で、戦争に意義を感じていたわけではない、とも強調する。戦地での数々の体験で「無謀な組織が無謀な戦いを進めている」と気付いたためという。

中国軍から奪った旧式の武器を前線で使うほど貧弱な装備。ノモンハン事件でソ連軍の装甲の厚い戦車を目の当たりにすると、体一つで近づいて手りゅう弾で攻撃する訓練が始まった。「自分の体は自分で守れ」と命の大切さを訓示した上官が、ありがたくもあり、浮いた存在にも見えた。

「一兵卒でも『こんなんで勝てっこない』って分かるような戦争を延々と続けて、庶民が当たり前のように死んで。軍のお偉いさんたちは、どんな価値観で指揮しとったんやろうなあ」

【盧溝橋事件】1937年7月7日、中国・北京郊外の盧溝橋で発生した日中間の軍事衝突。銃声をきっかけに、演習中の日本軍と橋を守備する中国軍との間で戦闘になり、全面戦争に突入する。日本は南京を占領するなど戦線を拡大したが、中国を支援する米英などとの対立が深まり、41年12月8日の太平洋戦争開戦へとつながった。(引用ここまで

盧溝橋事件から7日で80年、日中戦争の発火点、大陸舞台に8年間の戦火、傷跡は今も両国に重く

recordchina 配信日時:2017年7月7日(金) 12時50分

 

http://www.recordchina.co.jp/b183616-s0-c30.html

 

盧溝橋事件から7日で80年、傷跡は今も両国に重く

画像ID  570040

 

日中戦争の発火点となった1937年7月7日の「盧溝橋事件」から80年となる。偶発的な衝突は全面戦争に発展。45年8月の終戦まで8年間にわたった戦火の傷跡は、今も日中両国に重くのしかかっている。写真は盧溝橋。

2017年7月7日、日中戦争の発火点となった「盧溝橋事件」から7日で80年。北京郊外で起きた偶発的な衝突だったが、その後中国大陸を舞台にした全面戦争に発展。中国側は日本による侵略戦争と位置付ける。1945年8月の終戦まで8年間にわたった戦火の傷跡は、今も日中両国に重くのしかかっている。

盧溝橋は北京西郊の永定河に架かる石橋。13世紀に中国を訪れたマルコ・ポーロの「東方見聞録」にも登場する。義和団事件後の1901年、北京議定書で清朝が外国軍隊の認め、欧米列強はほぼ撤退したが、日本軍は邦人保護などを理由に盧溝橋周辺に駐屯していた

1937年7月7日、夜間演習中の日本軍が実弾射撃音を聞いたことをきっかけに近くにいた中国兵との戦闘になった。中国では「七七事変」と呼ばれる。宣戦布告なき戦争は、やがて中国全土に拡大。盧溝橋事件から1年余の間に日本軍は、中国の主要都市と交通路のほとんどを占領したが、それはいわば「点と線」の支配にすぎず、中国共産党と国民党は「国共合作」で抵抗した。

中国政府によると、泥沼化した日中戦争の犠牲者は3500万人。1972年9月の日中共同声明には「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感し、深く反省する」との文言が盛り込まれたが、戦争の歴史をめぐる論争は現在も続いている。

例えば、中国側が一般市民を含め30万人が虐殺されたと主張する37年12月の南京事件。日本政府は「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない。被害者の具体的な人数については諸説あり、どれが正しい数かを認定することは困難」との立場だが、中国政府は昨年12月、安倍晋三首相が米ハワイの真珠湾を訪問した際、「南京には来ないのか。中国にも弔うべき場所が多くある」などと非難した。

こうした中、中国国営新華社通信によると、盧溝橋近くにある「中国人民抗日戦争記念館」は80周年に合わせ、米国が日本占領後に集めた事件当時の日本政府の電報や文書を整理、編集した「日本中国侵略密電•七七事変」を刊行した。3編に分かれ、計51冊に上る大作で「日本軍国主義の『自供書』であり、また侵略の罪行の確固とした証拠」としている。

一方、日中戦争の当事者だった国民党が逃れた台湾は、盧溝橋事件80周年に背を向けている。台湾メディアによると、台湾国防部は事件から5年ごと10年ごとの節目の年に記念展を開いてきたが、今年は開催を見送った。その背景には独立志向が強い民進党・蔡英文政権が進める「脱中国化」の動きがあるとみられ、波紋を広げている。(編集/日向)(引用ここまで

 



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