(今、岩木山では山麓から山腹にかけては「花」の端境期で、咲いている花はそれほど多くはない。この時季に、私たちの目を楽しませてくれるのは、昨日紹介した「クマヤナギ」の実や今朝紹介している「この実」などだ。
とにかく美しい。また、これほど、深い夏緑に映える色彩もない。秋の「果実」の赤さとはどこか違う。艶のある実だ。しかも、小さいが数が多い。これが豪華さを演出する。花をよく知っているとなおさらその変貌ぶりには驚く。
岩木山では、「ニワトコ」の花は5月の中頃から咲き始める。新しく伸びた枝の先に花序を造り、その長さと幅はともに10cm前後だろうか。花柄には毛があり、対生状に分かれて、小さな花を多数つけるのだ。
花冠は5つに裂けて直径が3~5mmである。薄く白っぽい黄緑色(クリーム色といってもいい)で、ちょっとだけ紫色に縁取られている。
雌しべは紫色で柱頭は短く、先端は3つに分かれているが、雄しべの方は5本である。
ウワミズザクラなどは咲いているが、まだ、低い樹木の花がそれほど咲いていない時季に、林縁や藪の外側に咲いているこの「ニワトコ」の花は、「他にあまり咲いていない」という意味では「目立つ」のだが、今日の写真のような深緑に赤く映える「美しさ」での存在感はない。
今日の写真はスイカズラ科ニワトコ属の落葉低木「ニワトコ(接骨木)」の果実だ。
「接骨木」と漢字書きして「ニワトコ」と読む。とても読めたものではない。難読漢字の一つだろう。読めないからといってがっかりすることはない。読めなくて当然と考えよう。
「ニワトコ」は本州から南西諸島に分布する。明るい谷筋や林縁など、比較的水分条件や土壌条件が良好な場所に生育する。高さは2~3mになり、根元から勢いのある太い茎が出て株立ちとなる。若い茎の樹皮は明るい灰褐色で滑らかであるが、太くなると表面にコルク層を発達させ、縦の割れ目が顕著になる。
葉は対生し、長さ20cmほどで、2~4対の小葉を持つ複葉である。葉は軟らかいが、「落葉樹」という性質からはかなり厚いほうだ。小葉の縁には規則正しい鋸歯があり、裏面の脈上には微毛がある。
さて、今日の写真の「果実」だが、6月の終わり頃には熟し始める。熟し始めた頃は赤いものと緑色のものが混ざっているが、次第に赤く熟して「美しさ」を発揮する。
この実も7月の下旬から8月にかけて、大半はなくなるだろう。この時季は花だけでなく「果実」も端境期なのである。鳥たちにとっては格好の餌であるのだ。鳥が食べるのに程よい大きさだといわれている。果実の少ない時に鳥に食べられることで、「種」を広く散布させて、「ゆっくりと時を待って発芽させる」というのが「ニワトコの戦略」なのかも知れない。
ところで、「ニワトコ」の乾燥させた枝葉を煎じて服用すると「解熱、むくみ、利尿」に効果があるそうだ。また、この枝葉を入れて入浴すると「神経痛、リューマチ」などに効くし、打ち身、打撲には患部に塗布することで効き目があるといわれている。
さて、この難しい名前の由来だが…、
かつて、『接骨した場合の治療に、「ニワトコ」の枝を黒焼きにして、小麦粉と食酢を入れて、練ったものを患部に厚く塗って、副木をあてて押さえておくというもの』だったそうだ。このことから、「折れた骨を接ぐ薬草」という意味で、接骨木(せつこつぼく)という、漢名がついたと言われている。
また、一説では、和名「ニワトコ」は、古名である「ミヤツコギ(造木)」の転訛であるする。源順(みなもとのしたごう)『倭名類聚抄』の「接骨木」の項には「美夜都古木」とある。八丈島では「ミヤトコ」と呼ぶそうだ。「ニワトコ」を「庭常」と書いているものもあるが、これは当て字だ。
古代歌謡で、「迎う」の枕詞として使われる「山たづ」は、後の「造木(みやつこぎ)」、つまり、「ニワトコ」だという。
・君が行(ゆき)日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ・
別名を「ハナギ」というが、これは、この枝で削り掛け(削り花)を作り、小正月に用いたことによるものだ。)
◇◇ 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その6) ◇◇
(承前)
…そもそも、「林道」とは「樹木を伐採するために造られる。そして、伐採した木々の運搬のために使われるものであり、伐採後には杉等の植林のために使われる。さらに植えた樹木の育樹と保守や点検作業のために使われるもの」だ。
その目的どおりに造られて使われていると、それは確かに「一石四鳥であろう。一本の林道が四つの目的に使われるのである。
だが、ここ20年以上前からの「林道」はすっかり「変貌と変質」している。その目的は単に「伐採して運び出す」ことだけである。それが終わると「放棄」され「放置」される。山を守り樹木を育てるということはない。だから、それは、樹木を伐り尽くして地肌を引き剥がして、そのままだ。
これくらい、「自然破壊」を地でいっているものはない。「自然を壊さないで木を伐る。そして運ぶ」ためには「人力(鋸による手作業)」で伐って、伐採した樹木は冬場に橇などを使って麓に運ぶなり、沢の流れを利用して運ぶことであろう。本気で岩木山の森林や自然を守っていこうとすれば、それは当然のことだ。林野庁はそのための先頭に立つべき「行政機関」なのに、「破壊を容認し、それを手助け」しているのだ。
…木を伐らないと道路を造らなくてもいい。植林をしなくてもいい。木を運ばなくてもいい。谷に堰堤を造らなくてもいい。動物や植物を殺さなくてもいい。空気(酸素)は奇麗で新鮮でいい。二酸化炭素が増えないのでオゾン層を破壊しなくていい。土石流や水害がなくていい。沢や川の魚がたくさん捕れていい。海の魚だってたくさん増えていい。熊だってカモシカだって食べ物がたくさんあって大変いい。金がかからなくてとてもいい。ミズナラもブナも自分の葉を落として、自分たちの土壌を造るのだ。彼らはずっと昔から、そのようにしてきた。新緑や夏緑の森を一度歩いてみるがいい…
木を伐らないということは、まったくいいことづくめなのである。(明日に続く)
とにかく美しい。また、これほど、深い夏緑に映える色彩もない。秋の「果実」の赤さとはどこか違う。艶のある実だ。しかも、小さいが数が多い。これが豪華さを演出する。花をよく知っているとなおさらその変貌ぶりには驚く。
岩木山では、「ニワトコ」の花は5月の中頃から咲き始める。新しく伸びた枝の先に花序を造り、その長さと幅はともに10cm前後だろうか。花柄には毛があり、対生状に分かれて、小さな花を多数つけるのだ。
花冠は5つに裂けて直径が3~5mmである。薄く白っぽい黄緑色(クリーム色といってもいい)で、ちょっとだけ紫色に縁取られている。
雌しべは紫色で柱頭は短く、先端は3つに分かれているが、雄しべの方は5本である。
ウワミズザクラなどは咲いているが、まだ、低い樹木の花がそれほど咲いていない時季に、林縁や藪の外側に咲いているこの「ニワトコ」の花は、「他にあまり咲いていない」という意味では「目立つ」のだが、今日の写真のような深緑に赤く映える「美しさ」での存在感はない。
今日の写真はスイカズラ科ニワトコ属の落葉低木「ニワトコ(接骨木)」の果実だ。
「接骨木」と漢字書きして「ニワトコ」と読む。とても読めたものではない。難読漢字の一つだろう。読めないからといってがっかりすることはない。読めなくて当然と考えよう。
「ニワトコ」は本州から南西諸島に分布する。明るい谷筋や林縁など、比較的水分条件や土壌条件が良好な場所に生育する。高さは2~3mになり、根元から勢いのある太い茎が出て株立ちとなる。若い茎の樹皮は明るい灰褐色で滑らかであるが、太くなると表面にコルク層を発達させ、縦の割れ目が顕著になる。
葉は対生し、長さ20cmほどで、2~4対の小葉を持つ複葉である。葉は軟らかいが、「落葉樹」という性質からはかなり厚いほうだ。小葉の縁には規則正しい鋸歯があり、裏面の脈上には微毛がある。
さて、今日の写真の「果実」だが、6月の終わり頃には熟し始める。熟し始めた頃は赤いものと緑色のものが混ざっているが、次第に赤く熟して「美しさ」を発揮する。
この実も7月の下旬から8月にかけて、大半はなくなるだろう。この時季は花だけでなく「果実」も端境期なのである。鳥たちにとっては格好の餌であるのだ。鳥が食べるのに程よい大きさだといわれている。果実の少ない時に鳥に食べられることで、「種」を広く散布させて、「ゆっくりと時を待って発芽させる」というのが「ニワトコの戦略」なのかも知れない。
ところで、「ニワトコ」の乾燥させた枝葉を煎じて服用すると「解熱、むくみ、利尿」に効果があるそうだ。また、この枝葉を入れて入浴すると「神経痛、リューマチ」などに効くし、打ち身、打撲には患部に塗布することで効き目があるといわれている。
さて、この難しい名前の由来だが…、
かつて、『接骨した場合の治療に、「ニワトコ」の枝を黒焼きにして、小麦粉と食酢を入れて、練ったものを患部に厚く塗って、副木をあてて押さえておくというもの』だったそうだ。このことから、「折れた骨を接ぐ薬草」という意味で、接骨木(せつこつぼく)という、漢名がついたと言われている。
また、一説では、和名「ニワトコ」は、古名である「ミヤツコギ(造木)」の転訛であるする。源順(みなもとのしたごう)『倭名類聚抄』の「接骨木」の項には「美夜都古木」とある。八丈島では「ミヤトコ」と呼ぶそうだ。「ニワトコ」を「庭常」と書いているものもあるが、これは当て字だ。
古代歌謡で、「迎う」の枕詞として使われる「山たづ」は、後の「造木(みやつこぎ)」、つまり、「ニワトコ」だという。
・君が行(ゆき)日(け)長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ・
別名を「ハナギ」というが、これは、この枝で削り掛け(削り花)を作り、小正月に用いたことによるものだ。)
◇◇ 久しぶりの踏み跡探し…曲がりなりにも岳まで行った(その6) ◇◇
(承前)
…そもそも、「林道」とは「樹木を伐採するために造られる。そして、伐採した木々の運搬のために使われるものであり、伐採後には杉等の植林のために使われる。さらに植えた樹木の育樹と保守や点検作業のために使われるもの」だ。
その目的どおりに造られて使われていると、それは確かに「一石四鳥であろう。一本の林道が四つの目的に使われるのである。
だが、ここ20年以上前からの「林道」はすっかり「変貌と変質」している。その目的は単に「伐採して運び出す」ことだけである。それが終わると「放棄」され「放置」される。山を守り樹木を育てるということはない。だから、それは、樹木を伐り尽くして地肌を引き剥がして、そのままだ。
これくらい、「自然破壊」を地でいっているものはない。「自然を壊さないで木を伐る。そして運ぶ」ためには「人力(鋸による手作業)」で伐って、伐採した樹木は冬場に橇などを使って麓に運ぶなり、沢の流れを利用して運ぶことであろう。本気で岩木山の森林や自然を守っていこうとすれば、それは当然のことだ。林野庁はそのための先頭に立つべき「行政機関」なのに、「破壊を容認し、それを手助け」しているのだ。
…木を伐らないと道路を造らなくてもいい。植林をしなくてもいい。木を運ばなくてもいい。谷に堰堤を造らなくてもいい。動物や植物を殺さなくてもいい。空気(酸素)は奇麗で新鮮でいい。二酸化炭素が増えないのでオゾン層を破壊しなくていい。土石流や水害がなくていい。沢や川の魚がたくさん捕れていい。海の魚だってたくさん増えていい。熊だってカモシカだって食べ物がたくさんあって大変いい。金がかからなくてとてもいい。ミズナラもブナも自分の葉を落として、自分たちの土壌を造るのだ。彼らはずっと昔から、そのようにしてきた。新緑や夏緑の森を一度歩いてみるがいい…
木を伐らないということは、まったくいいことづくめなのである。(明日に続く)