岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(その10)

2009-07-16 05:15:41 | Weblog
  (7月12日のブログの中の「大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その7)」で…
『右側の沢縁の岩の窪みには「ミチノクコザクラ」の蕾も見える。私は同行の4人に「足場が狭いですから気をつけて下さい。すぐ、雪渓です」と言ったが、「ミチノクコザクラ」の蕾については言わなかった。それに気をとられていては「危険」だからである。』…と紹介したが、今日の写真は、その「蕾」だ。
 いや、その蕾が4日後の7月1日にはすっかり「開花」していたのである。これは相棒のTさんが撮影したものである。非常に貴重なものなのでTさんからメールで送ってもらい「紹介」することにしたのである。
 何が貴重なのか。ただ何の変哲もない、この時季だったら大沢の至る所で出会える「ミチノクコザクラ」である。
 だが、生えている場所とその花や茎長、花柄などに注目すると、「何の変哲」もないということで片付けられない「一途さ」と「健気さ」が見えないだろうか。
 大きな岩の裂け目の、わずかな土溜まり。この花が枯れた後に、裂け目に溜まっている土や砂の総量を測ってみたいものだ。
 岩の裂け目と言うには遙かに狭い「岩上の切り傷」といえる狭い場所に生えるものは、総じて背丈は短い。花の数も少なく僅かに2輪だ。
 花の直径は1.5cmほど、花柄は0.5cmで、茎の長さは花の直径とほぼ同じだ。背丈は僅かに2cmだ。葉も小さい。何という頭でっかちな花姿だろう。これだと決して「八頭身美人」とはとてもいえない。身体の割に「頭」が大きいの幼児である。花を咲かせることは人でいうと「成人」である。だが、この「ミチノクコザクラ」は幼児体型のままで「花」をつけているのだ。
 この場所の直ぐ上が「雪渓」だ。つい1週間前までは、ここも「雪渓」の縁に覆われていた。雪消え間もない場所のものは「葉」と「茎」「花」「花柄」が同時展開する。だが、「花の成長」が一番早いのだ。
 崖の底面や貧栄養の土石溜まりでひっそりと咲くものほど…小さくて可憐で、健気で、一途なのである。本ものの美しさはここにあるのではないだろうか。健気さと一途さを秘めた美しさは「孤高」につながる。「化粧ずるもの」との違いはここにあるだろう。これが、貴重さの所以である。

 次に私の拙い歌を一首紹介する。
 「大岩の傷に紛いし土溜まり小花かざすは陸奥の小桜(三浦 奨)」)

◇◇大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その10)
(承前)

 私たちは1本のザイルに連なりながら、必死になって「脇目も振らずに」登高を続けた。
 だが、「雪渓」中部の急斜面で、足を止めることになってしまった。それは大沢の右岸にオオバキスミレを交えた「ミチノクコザクラ」の大群落を発見したからだ。
 先頭の名古屋の人と2番手にいる青森の人が、「傍によってよく見たい」と言う。
 雪渓を直登することよりも「横に移動する」ことの方が遙かに「滑落」する度合いが多く、危険なのだ。しかも、Iさん夫妻の足許は覚束(おぼつか)ない。
 だが、私は、この人たちに「ミチノクコザクラを観賞してもらうこと」を優先させた。私は「ガイド」ではないし、「料金をもらってするガイド」でもない。そのようなガイドをこれまでしたことはない。この「同行登山」も「岩木山に登る人により岩木山を知って貰いたい」という思いで、ひたすら、その思いだけでしている。
 その思いの中には「美しいミチノクコザクラを眼前で見る」という行為も当然入っているのである。
 そして、「歩幅を狭く、谷側の足は少し谷側に向けて、山側の足は水平に置きながら、一歩一歩進んで下さい」と声をかけて、右岸の縁に向かって移動を始めた。
 何とか「縁」に到着した。その縁の安定した岩に腰を下ろして、しばしの休憩である。その間に各自は、おしゃべりをしながら「撮影」をしていた。

 花との出会いは多かった。雪渓が切れた辺りの右岸には1000株に1本ぐらいしか見られない「シロバナミチノクコザクラ」が咲いていた。
 この4人にとって、「シロバナミチノクコザクラ」は初めての「出会い」となった。女性2人組にとっては普通の「ミチノクコザクラ」でさえ、その出会いは初体験なのであった。この4人はチャンスに恵まれている。その意味では幸福者だ。
 ある人にとっては「初めての岩木山」、ある人にとっては「初めての百沢登山道登り」、そして、4人で歩調をとりながら必死になって、長い大沢の「雪渓」を登り終えた果てに、出会った「白花」のミチノクコザクラ…これは、いつまでも、この4人の心を捉えて離さないだろう。
 茎が長く、すらりとした風姿の「ミチノクコザクラ」は「花簪(かんざし)」に見えないこともない。だが、私はこの美しい「花簪」を頭に飾ってあげたいと思える女性には、若い時から、この「岩木山」で会ったことはないのだ。それはそのような女性がいなかったという訳ではなく、「出会い」がなかったということだ。
 だから…、
 「若き日を通いし山に出会いなく桜かんざし挿するかの女(ひと)(三浦 奨)」

 …などとつまらない歌を詠んでは、その「悔い」をいまだに懐かしんでいるのだ。

 間もなく種蒔苗代だという登りにさしかかった時、2人の男性登山者が降りて来た。先導する人は年配者であり、後続は40代ほどに見えた。
 そして、その年配者と私の視線が「会った」。私の歩みは一瞬、止まった。その人の歩みも止まっている。私は立ち止まって「見覚えのあるその人が誰なのか」を思い出そうとしていた。
 その人も私に対して「同じ思い」で見ているようだった。どこからか、風の音に混じって「カヤクグリ」の鳴き声が聞こえていた。
 「2人」と「5人」のパーティは無言の中で、じっと凝視が続いた。

注:「カヤクグリ(茅潜、萱潜)」…イワヒバリ科の野鳥。高山帯や森林限界よりも高いハイマツの林や岩場に生息している。(明日に続く)

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(その9)

2009-07-15 05:34:10 | Weblog
 (今日の写真は2005年5月1日に大鳴沢源頭に吹き溜まった雪庇であり、雪渓の末端である。高さは10m近くあるだろう。
 この年を境に「積雪(吹き溜まり)」は年々少なくなっている。このくらいの積雪の時は沢を詰めて、右折してから山頂方向に登るか、または逆に下って「雪の壁」が次第に低くなってくる辺りから、山頂に続く雪渓に取り付いて登って行くかである。
 教え子のNさんと6月14日に登った時は、「沢詰め」のルートを採ったが、19日のNHKのクルーと登った時は「沢を下って登る」ルートを採った。
 27日にIさん夫妻と降りた時も、この「沢を下って登る」取り付き点を目指して降りたのである。何故かというと、今日の写真にある「雪の壁」が、これよりも遙かに低くはなっているが、まだしっかりと「残存」していたからである。
 滑落して、喩え「数m」であっても「垂直」に墜落したら、たまったものではない。骨折程度で済まないだろう。そうなることがあってはいけないと避けたのだ。
 だが、そのような危険はないが、このルートは、仮に雪渓上部で転倒し、滑落していくと大鳴沢源頭から、北に向かって「大鳴沢」本流にそった雪渓を滑っていくことになる。摩擦係数の少ないナイロンやビニロン素材のものを身につけていると、そのスピードは速く、加速度で滑落距離は長くなる。ピッケルを持っていないと「停止」は難しい。
 詳しくは、後述するが、このルートでIさんの旦那さんが「滑落」したのである。ただ、「大事」には至らなかったのだ。)

◇◇大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その9)
(承前)

 私は「ピッケル」を持っていた。青森と名古屋の人は「ストック1本」である。そして、Iさん夫妻は、「手製の杖」をついていた。雪渓の登りで「ストック」はそれなりに役に立つ。バランスをとるためだ。「ストック」に支えられて登るためではない。
 私は「Iさん夫妻の杖」の末端、「石突き」の部分が摩耗して、丸くなっていることに、前回の登山で気づいていた。その日の朝、7時という「定時」に拙宅に来たならば、その杖の「石突き」部分に鉈を入れて、「鋭利」にしてやろうと考えていた。そうすることで、雪面に「ある程度、突き刺さり」バランスをとるのには都合がいいだろうと考えたからである。 だが、その日の朝、拙宅に来たのは、決められていた時間より10分ほど遅れていた。それ以上の遅れは許されない。杖の「石突き」部分を「尖らす」ことは割愛したのであった。

 ようやく、「アンザイレン」行動が出来る「形」になった。オーダーはトップが名古屋から来た人、2番目が青森の人、3番目がIさんの奥さん、4番目がIさん、ラストが私だ。トップを名古屋から来た人にした理由は「アイゼン登高」の経験があるということだ。次の青森の人は「アイゼン登高」は初めてだが、安定性のある「6本爪」アイゼンを装着していたし、少なくとも「Iさん夫妻」よりは、それまでの行動観察から「登山経験」が豊富であると理解したからである。

 私は次のことをみんなに言った。
 「ザイルは雪面につくかつかない高さに弛ませながら登ること」
 「前の人や後ろの人のザイルに力が加わらないような間隔を保つこと」
 「転倒、滑落したらその瞬間に大声で『ラク』と言うこと」
 「アイゼンの爪でザイルを踏まないこと」
 「リズムをとって、5人のスピードが同じになるようにすること」
 「そのためには、前の人の『踏み跡・足場』を丹念に辿ること」
 以上は「アンザイレンしてのアイゼン登下行」の基本原則である。岩木山の雪渓とはいえ、侮ってはいけない。基本原則を忠実に遵守すること以上の安全対策はないのだ。
 ここ数年多く見られる「登山における事故」は、この「基本原則」を「知らなかった」り、「守らなかった」りする人たちに偏在している。つまり、「自助努力」の出来ない登山(客)だけが「山登り」をしているということだろう。
 4人はともに、この「基本原則」を守りながら登って行ったのである。だが、斜面がより急になると、Iさん夫妻の「アイゼンが利かない」ようになってきた。彼らの「靴」が「ずるり」と滑る度に「他の3人」には緊張が走るのだ。
 先行する2人は「ストック」を突き刺し、より強くアイゼンの爪を踏み込んだ。ラストの私は上体を低くしながら、ザイルの「ループ」を通して「ピッケルの石突き」を雪面深く刺し込んだ。
 彼らの「靴」が「後退」する理由は、はっきりしていた。それは、「キックステップが出来ないこと」にあった。それは、「履いている靴」にも因ったが、「キックステップ」を経験したことがなかったのだから、無理もないことであった。いきおい、装着している「4本爪」の「アイゼン」に頼るだけの「登り方」になってしまうのである。
 私はこのことを「想定」していた。Iさん夫妻の「雪渓登りの難点」は想定済みだったからこそ「簡易ゼルプストベルト」を持たせ、私は「ザイル」を背負い、ピッケルを持ち、12本爪のアイゼンを装着しているのだった。
 「登る」都度の「靴」の後退は辛いものだ。しかも、非常にエネルギーを消耗するし、緊張もするから精神も疲れるものだ。
 だが、何とか2人は頑張って雪渓を登り切ったのである。雪渓が終わり、「アイゼン」を外して、種蒔苗代に近づい頃、Iさんは前の2人に「おかげさまで助かりました」と言っていた。そのとおりなのだ。そのように思い、感謝の出来る「心根」を持っていることを目にして、私は何だか凄く嬉しくなった。

「アンザイレン」:数人が1本のザイルに連なって、同一行動をとること。(明日に続く)

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(その8)

2009-07-14 05:06:02 | Weblog
 (今日の写真は6月27日、大沢の雪渓を5人でアンザイレンして登っている様子である。ラストの私は写っていない。錫杖清水付近に達して、斜度も緩やかになってきて、「滑落」の心配がないと判断したので、ラストの私はザイルを外して、撮ったものだ。同じ場面を4枚写した。その中の「顔」のはっきりしないものを選び、顔がはっきりと分かる人には、プライバシーの問題もあろうかと考えて「網かけ」にした。もっとすばらしく写っているものがある。私の名刺にあるアドレス宛、またはこのブログのコメント欄に記入するかして、青森と名古屋の方、どうか住所・氏名を教えて下さい。「網かけ」のない写真を郵送します。)

◇◇大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その8)
(承前)

 …私たちは、雪渓の「末端」で、足場を確保し、ザックが流されないことを確認してから「アイゼン」の装着にとりかかったのである。
 同行者の1人、名古屋から来た人はあちこちと歩いているらしく、これまでも使ったことがあったらしく、スムーズな動きで装着している。
 もう1人、青森から来た人は、その日のために「前日」登山用具店で購入してきたというから、「アイゼン」を着けて歩いたり登ったりすることは初めてである。2人の「アイゼン」は6本爪だった。
 ということで、名古屋から来た人以外は「アイゼンの装着方法」が分からないのである。

 Iさん夫妻はもちろん「初めて」だ。これは、踵の手前に着けるタイプ4本爪だ。だが踵の前にもう1本出ているから5本爪と呼んでもいいだろう。これは私のつれ合いと娘が夏山で「雪渓」のある場所を登下行する時に使っているものだ。
 いわゆる、「初めて」ということは、須(すべから)く、イメージが湧かないものである。だから、大概の人は、前の晩辺りに1回くらいは「装着の試行」をするものだ。そして、付け方の分からないところ、疑問に思うことを、その時に「訊いて」装着するものだろう。
 だが、Iさん夫妻も「青森から来た人」も、「試行」をしていなかったようだ。私はIさん夫妻が装着することに、「定位置」につかないとか、ベルトが短いとか言うので、かかり切りになった。だから、「青森から来た人」が装着するところまでは、目がいかなかった。
 「青森から来た人」が「装着し」て、「試し歩き」をしたところ、踵後ろから甲の部分にかかる部分が外れてしまうのである。これだと「アイゼン」の役目を果たさない。何ということはない。装着ミスである。靴の後部にさし当てる「軟プラスチック」ベルトを甲の部分に当てて、甲の部分で固定し締め付けるベルトを靴の後部に回していたのである。これだと直ぐに外れてしまう。
 それぞれの位置を替えて、しっかりとベルトをしめて、靴に固定完了である。「青森から来た人」は、ほっとした表情で、「助かりました。一緒に行動していなければ『アイゼン』を着けることが出来ず、この場所から下山ということになりました。ありがとうございます」と言ってくれた。何とか、4人の「アイゼン」装着は完了した。

 私は15mの9mmザイルを持っていた。予定では「2人」を支えるのだから、この長さでちょうどいいだろうと考えていたのだ。だが、登山口から「見知らぬ2人」が同行者となっていた。
 とにかくザイルはこれしかない。「これしかない」時は「それ」で対応するのが「山のノウハウ」である。
 私はIさん夫妻には事前に「簡易ゼルプストバンド」を持たせていた。これは「カラビナ」2個と2本のシュリンゲで構成されている。私はこの「簡易ゼルプストバンド」をさらに簡易にした。つまり、1個のカラビナと1本のシュリンゲ構成にしたのである。そして、別の同行者2人に装着させた。4人はこれを「肩がらみ」で身につけた。腰に付けるよりは「外れ」にくいからである。
 私はこの「15m」のザイルで、私を最後尾にして「4人」と「アンザイレン」をしながら「登る」ことにしたのである。

先ず、ザイルの末端に「ボーライン」で「輪」を作る。私たちはこれを「ブーリン結び」と呼んでいる。これはその安全性の高さから確保用のザイルを身体に結びつける時に用いられていたものだ。この輪はトップとラストのカラビナに結ばれるのだ。
 この「ブーリン結び」は「ザイルの末端に、力が加わっても輪の大きさが変わらない固定式の輪を作るため」の結び方で、この輪を物体にかけて使用するのが基本的な方法だ。
 だが、この「輪」に垂直な荷重がかかる時は、問題はないのだが、「横」に別の荷重がかかるとほどける場合があるので、岩登りなどでは最近は使われなくなっている。
 次に2番手から4番手の人が、ザイルの「カラビナ」をつける箇所に「クローブ・ヒッチ(巻き結び)、登山用語ではインク・ノットという」で輪を作ってそれにカラビナを通す。この「クローブ・ヒッチ」は前後に動かない利点があるし、長さを必要としないので短いザイルに多人数が「つながって」行動する時は便利だ。
 「ザイル」も、それに「肩がらみゼルプストバンド」用のシュリンゲにもこの「クローブ・ヒッチ」を作って、これで全員が「ザイル」につながったことになった。
 「アイゼン装着」から「アンザイレン」態勢を整えるまでかなり長い時間がかかってしまった。
 私が最後部に付いたらIさんは怪訝そうな顔をした。初めて岩木山の赤倉道を登った時は、常に私がトップでその後ろにIさんが付いた。その経験からすると「私」がラストというのは「訝しい」ことであっただろう。
 そこで「私が先頭で登り、後ろの誰かが滑落した時に、その『一瞬』が見えますか。滑落や転倒と同時に、私はピッケルを雪面に指し込んで、滑落する人を止めなければいけないのです」と言ったのだ。直ぐに「納得」してくれたようだった。 
(明日に続く)

ウコンウツギのこと / 「アイゼン」のこと…(昨日、一昨日と併読してほしい)

2009-07-13 05:14:19 | Weblog
 (今日の写真は、スイカズラ科タニウツギ属の落葉低木である「ウコンウツギ(鬱金空木)」だ。7月1日に、相棒Tさんが錫杖清水を通り過ぎ、種蒔苗代に近づいた辺りで写したものだ。
 花名は「花の色が鬱金に似ていること」によっている。枝先や葉のつけ根に4個ほどの黄色(これが鬱金の花の色に似ている)の花をつける。
 亜高山帯~高山帯下部に生える落葉樹で、高さは1mから2m程度である。樹皮は灰褐色で縦に裂けていて、葉は対生し、楕円形~長楕円形で先は鋭くとがっている。
 もともと、「鬱金」はショウガ科の多年草で、アジアの熱帯地方が原産だ。日本では沖縄でも栽培しているそうである。
 葉は葉柄ととも大きく長さは約1m。夏から秋に、淡黄色唇形花を開くと言われている。根茎は非常に大きく黄色で、この根茎が止血薬や香料、カレー粉や沢庵(タクアン)漬の黄色染料となっている。
 「鬱金」とはその名からも、色彩感からも日本人にとってはなじみ深いものなのだ。「鬱金」の別名を「キゾメグサ(黄染め草)」と言うので、さしずめ、「ウコンウツギ」は「キゾメグサウツギ」と呼んでもいいかも知れない。
この写真、とてもよく撮れている。色の鮮やかなところがいい。花の数が多く、さまざまな角度で咲いているものが写し撮られているのもいいところだ。

 「ウコンウツギ」はこれからが最盛期だ。ただし、雪消えの早い場所ではすでに咲き出して枯れてしまったところもある。
 赤倉登山道の赤倉御殿から大鳴沢源頭部までの道々に咲き出しているのを確認したのが6月14日であったが、19日には枯れ始め、27日には花はすっかり無くなっていた。
 ただし、大沢の雪渓が消えるのに併せて、「錫杖清水の下部」付近の左岸沿いに、ある程度の群落をなして咲き出すので、会いたい人は今月の中、下旬ごろに百沢登山道を登ってみるといいだろう。

 ◇◇「アイゼン」のこと…「ワカン」のこと◇◇
               (昨日、一昨日の分と併せて読むといい)
(承前)

 …だが、私は「厳冬期から残雪期」に、以前にも書いたが、「ザック」の中には入っていて「背負って」はいるのだが、これまで殆ど「アイゼン」を使用したことはない。
 それは、「ピッケル」と「ワカン」で事足りていたからである。
 ただ、残雪期にほんの数回「試行」の類程度に使ったことはあった。しかし、今季のように、数百mに渡って「アイゼン」装着で「登下行」したことは一度もなかったのである。
 この大沢の雪渓も、残雪期にはすべて「キックステップ」だけで、「登下行」をしていたのである。
 これまでも、時々、「アイゼン」を着けて登っている登山者に出会うことがあったが、そのような時は「内心」で、「何という軟弱者だ」という目で眺めていたものだ。
 だが、その私は、6月27日と7月1日に「アイゼン」を装着して大沢の雪渓を登った。私は現在まさに「体力的」に、すっかり「軟弱者」になっているのである。

 これまで、「ワカン」は何回も新品を購入した。「ワカン」の「木部」、つまり「楕円になっている部分」には「亜麻仁油(あまにゆ)」を塗り、「楕円」を跨がせて張ってある細引きは「柔軟性のある」ナイロンロープに交換して、手入れと補強をしながら使っても、数年で駄目になってしまうからだ。この木部には主に「アオダモ」や「マンサク」が使われている。
 また、「楕円」の木部には「雪瘤(こぶ)」が着く。それを出来るだけ防ぐ目的で、その木部に「ビニールテープ」を巻き付けて使うようになった。
 そうすると、「雪瘤」はあまり着かないし、木部損傷の補強という思いがけないメリットもあった。それで、初期ほど新品を購入することはなくなったが、どうしても駄目になる「部分・部位」は「爪」だった。
 2~3年で「爪」が摩耗してしまうのだ。その結果、雪面を噛まなくなり、滑るのである。だから、それを削って尖らせるのだが、直ぐに摩耗して、最後は短くなってしまい「爪」という役割をしなくなってしまうという訳だ。
 私の「ワカン」は「アイゼン」の「爪」の役割を果たしていたのである。

 岩木山で本格的に「アイゼン」を使える場所は限られている。その1つは「赤沢」の源頭部であり、もう1カ所は大鳴沢源頭部の北側である。どちらも、斜面がきつく、冬場は「超」強風で雪があまり積もらない。だが、まったく積もらないというわけではない。
 それに加えて、烏帽子岳へ続く細い稜線である。特に扇ノ金目山からのピークに取り付く斜面は短いが「アイゼン」が無ければ登ることは難しい。
 だが、この3カ所ともに、「アイゼン」を使用する時季も限られている。
 「赤沢」の源頭部、頂上直下の南面は、4月の中旬から5月の上旬、しかも、気温上昇のない朝方である。
「大鳴沢源頭部」の北側は3月下旬から4月中だ。朝方から午前中いっぱいは雪面も解けないので「爪(ツアッケ)」がよく利く。
 「烏帽子岳へ続く細い稜線」は降雪の少ない時季の3月から4月中旬にかけて「アイゼン登高」が楽しめる。
 この3カ所で「アイゼン登高」の訓練をしておくと7000mを越える高所登山も「出来る」のである。
 問題は、この各時季に「行ける」かどうかであり、雪質が確実に「氷化状態」であるかどうかなのである。(この稿は今日で終わりである)

「大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」は字数の関係から明日以降に掲載する。

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(その7)

2009-07-12 04:15:15 | Weblog
 (今日の写真は1988年7月に、ヒマラヤの西端、パミールのコミュニズム峰7500mの中高部を高所順応のために、数回登下行を繰り返している時の1枚だ。
 標高は6500mを越えている。「アイゼン」を利かせ、「ピッケル」でバランスをとりながら、左手では「フィックスザイル」(注1)につけた「ユマール」(注2)を操作している。バランスを崩して滑落した時の「我が身」を確保するために、「フィックスザイル」と装着された「ユマール」は「シュリンゲ」(注3)で、「ゼルプストベルト」(注4)と結ばれている。
 アイゼンを利かせて、40度以下の急峻で氷化した雪面を下る。雪面に「靴」が浮き上がっているのが分かるだろうか。それほどに雪面は硬い。爪全体が雪面に刺さらず、雪面よりも高い位置にあるということだ。いつ、その爪が外れて転倒するか分からないのだ。 下降は本当に怖い。背負っているザックの重量は20kgを遙かに超えている。急斜面、足場の不安定な氷化した雪面で、重いザックはバランスを崩す。それを支えるのが「アイゼンであり、ピッケルであり、強い足腰」なのである。もちろん高所なので「心肺機能」も強くなくてはいけない。
 斜度が40度以下になると下部は垂直に見えるものだ。足下に見える「氷河」までの距離は直線で2500mから3000mだ。一瞬の「滑落停止」に失敗したら、「氷河」まで真っ逆さまで、肉体はバラバラになってしまうかも知れない。

(注1): 固定されたザイル、ロープのこと。
(注2): 登高器のこと。ザイルを噛んでいて引っ張っても動かない機能を持っている。登り降りする時はレバーを握りながら、滑落した時にはレバーを離す、または引くと停止する。
(注3): 2m程度の細いロープのこと。
(注4): 自己確保用安全ベルトのこと。岩登りや高所登山では必需品。

 ところで、この写真の「私の右足」に注目してほしい。「アイゼン」を着けてはいるが、「踵」からの「キックステップ」で降りているだろう。雪渓や雪面の登下行の基本は「つま先と踵」による「キックステップ」にあることがよく分かるだろう。
私が全幅の信頼を置いて「ヒマラヤ」で使用した、この「アイゼン」と「ピッケル」を相棒のTさんが数年前から使用している。

 …ところで、私は29歳の時から厳冬期から残雪期の岩木山に登っている。山頂に、仮に来年、つまり2010年の冬に登ることが出来ると40年間連続して「岩木山厳冬期登頂」ということになる。恐らく、出来るだろう。もちろんそれは「相棒」と組むことを念頭に置いてのことだ。
 相棒は確実に「残雪期と厳冬期」の技術的な原点である「キックステップ」のテクニックを習得し習熟している。そのために持続する「体力」もある。
 7月1日の登山で、これまで、数度試し程度に「アイゼン」を着けて登高と下行をしたことのある相棒は、「キックステップ」だけの「登下行」に比べると、遙かに「楽」なものであることを実体験し、さらに、安定性があり、「滑落」や「転倒」という恐怖から解放されるものであることを理解したであろう。
 ただ、前述したとおり、「アイゼン」を着けても「転倒」するのである。爪を引っかけたり、爪が靴を雪面に固定させるから、その都度、その都度バランスが崩れると転倒するのだ。特に、下降する場合は頭から転倒することもある。重い荷物を背負っている場合は特にそうだ。(明日に続く)

◇◇大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その7)
(承前)

 Kさんは蔵助沢の滝頭で、小屋から持って行った竹竿の先端に「カッターナイフ」を取り付けて高い樹上に張り巡らされてある「テープ」を切っていた。そして、それをもっと低い位置に張り付け直そうとしていた。
「ご苦労さんです。ありがとうございます」と声をかけて大沢に入り左折する。そして、「溶岩流」がそのまま剥き出しになっている沢を直進する。しばらくして、右折をして左岸に取り付く。
 「ノウゴウイチゴ」の花が迎えてくれる。それを見過ごしながら今度は左折する。大沢を斜めに渡って右岸に取り付くと滝の上に出るのだ。滝の手前の右岸は「ショウジョウバカマ」の群落だ。右側の沢縁の岩の窪みには「ミチノクコザクラ」の蕾も見える。
 私は同行の4人に「足場が狭いですから気をつけて下さい。すぐ、雪渓です」と言ったが、「ミチノクコザクラ」の蕾については言わなかった。それに気をとられていては「危険」だからである。
恥ずかしい話しだが、数年前、私は下山時に、岩の縁を這う細い足場から「落ちた」ことがあるのだ。ちょうど滝の下部になっており、沢の底部までは6~7mはあろうか。幸い「怪我」はしなかったが、「遠近両用」の「眼鏡」を飛ばしてしまい、片方の「レンズ」を無くしてしまった。一瞬にして「眼鏡代数万円」を失ったのである。
 未だに「何故落ちたのか」は分からない。しかし、「頭から落ちていったこと」と、不思議にも「足でしっかりと着地していたこと」は、はっきりと思い出すことが出来るのである。

 ようやく、雪渓の「下端」に着いた。先ずは各自、自分の足場をしっかりと造り、ザックが流れないようにすることを指示した。それをしてから、「アイゼン」の装着にかかったのである。(明日に続く)

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(その6)

2009-07-11 05:23:15 | Weblog
 (今日の写真は大沢の雪渓を登るのに使用した「アイゼン」である。写真の上部にあるのが、夏山雪渓歩き用の「軽アイゼン」と称されるものだ。これは、私の「つれ合い」が使っているものだ。爪は4本だ。靴の踵の手前部分に2本のバンドで固定して使うのだ。当然、「爪」を効かした「制動力」は弱い。つまり、これを着ける者には、暗黙の「つま先を蹴り出す」という「キックステップ」行動が要求されるのだが、大概は「爪」だけを頼りに斜面を登ろうとする。同行したIさんも最初はそうであった。
 「キックステップ」を一度も体験したことのないIさんにそのことを言っても「要らぬ心配」を与えるだけだと思い、私は黙っていた。それよりも、「アイゼンを装着」したから大丈夫という安心感を持って登ることを優先させたのである。
 その「4本爪アイゼン」の下部に写っているものが「12本爪アイゼン」である。1988年にヒマラヤ7500m峰に出かけ、帰国してから購入したものだ。7500m峰に持って行った「アイゼン」は重かった。ワカンでもそれといった「不自由」を感じない「岩木山」では、軽い「アイゼン」で十分だと考えて購入したのである。
 そして、その年の厳冬期から今年の厳冬期まで、ずっと「私のザック」に入っている。これは、イタリヤのカンプ製「アルミ打ち抜き」で安価で軽量、ワンタッチで着脱が出来るのである。アイゼンバンドで時間をかけて小忠実に「着脱」しなければいけない「アイゼン」は本当に煩わしいものだ。それに比べると「ワンタッチで着脱」出来るアイゼンは「別世界の用具」にさえ思えたものである。
 ただし、いくら「12本爪アイゼン」だからといっても、6000mを越える高峰登山では、これは使えない。命の保障がないからである。固い氷雪だと、このアルミの爪は曲がってしまう。そして折れるのだ。
 軽量のアルミ製ピッケルも同じだ。一昨年の2月、岩木山で私の「軽量ピッケル」はブレードだけを残して「ピック」部分が折れてしまった。高峰の氷雪の斜面でそうなったとしたら、「生きて帰ること」は出来ない。

 私が一等最初に使った「アイゼン」は「ステンレス」製の「プレス打ち抜き」で、10本爪のものだった。国産品で確か「ホープ」というメーカーのものだった。このメーカーは今でもあるのだろうか。鍛造でないので、価格は安かったが、価格の割には「重量」があった。安いといっても大量生産品ではなかったので、安月給の身には堪える値段であったと記憶している。黄色の塗料が吹き付けられたカラフルなものであった。当然、アイゼンベルト(バンド)で、二重三重に靴に固定して使用した。
 だが、ヒマラヤの7500m峰に行くことになった時、「絶対に折れない、曲がらない、外れない」アイゼンが必要になったのだ。そこで、「カドタ」製の「12本爪アイゼン」を手に入れた。これは軟弱な「プレス打ち抜き」ではない。職人が「鋼(はがね)」を、長い時間をかけ、叩いたり、火入れをしたりして、鍛えて造る「鍛造」という方法で造られたものだ。だから、撓りながら反発力があり、瞬時曲がっても元に戻り、折れそうになってもおれないし、鋭利な爪の摩耗もないという「業物(わざもの)」であった。絶対の安全を保障する業物だから、信頼を置いて行動出来たのである。だが、何しろ重いのだ。その上、ベルトで固定する仕様だから「着脱」に時間がかかった。これには参った。
 空気の薄い、しかも極寒の中、手を悴ませてする「着脱」は気が遠くなるような作業だったのである。)「この稿は明日に続く」

◇◇大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その6)
(承前)

 焼け止り小屋の前で休憩をしていたら、大沢方向から見覚えある顔の人がやって来た。「おお、Kさん、どうしたんですか」「ああ、三浦先生、しばらくでした」声を出し合ったのは2人同時であっただろう。
 Kさんは「岩木山パトロール隊」の一員だ。時間のある限り、岩木山に登り、「登山道の修復と整備」に当たっている人だ。その日は会えなかったが、Kさんと同じように「」に当たっている者はもう1人いる。Fさんだ。
 早速訊く。「雪渓の状態はどうですか」「登山者の中でアイゼンを持っている人の比率はどうですか」などだ。
 その答えだが、「雪渓は大沢下部の滝のところまである」「アイゼン持参は6割程度。残りは持っていない。持っていない人に、下山を勧めているが、なかなか応じてくれない」などであった。
 「ところで、何してたんですか」
 「大沢から蔵助沢に代わるところの滝の上にスキーヤーのための進入禁止のテープを張ってあるのだが、貼り付けてあった樹木が雪消えによって直立して、テープの意味がなくなってしまったので、それを取り外したいのだが、高くなってしまい取れない。竹竿で引っかけて切り取ろうと思い、小屋の中にある竹竿を取りに来たのだ」と言う。
 有り難いことである。このように登山者の安全のために、それとなく気を遣って整備をしてくれているのだ。だが、登山者にはその「安全を確保する」という行為は、なかなか理解されない。
 Kさんには昨年の7月にも、その後も何回か会っている。会うたびに「登山道」の足場に石積みをしたり、岩止めや土留めの杭うちなどをしているのであった。その7月だが、山頂で出会い、シロバナで花弁の先端に、薄い紅の縁取りのある「ミチノクコザクラ」の情報も教えてもらったりしたのだ。(明日に続く)

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(その5)

2009-07-10 05:30:47 | Weblog
 (今日の写真はスミレ科スミレ属の多年草「ミヤマツボスミレだ(深山坪菫)」だ。ツボスミレ(またはニョイスミレ)の高山型で、亜高山帯~高山帯の湿原や林縁の草地にも生える。
 岩木山ではまさに、名前の通り、標高1000m近くになると登場する。だから、他の平地やそれよりも低い場所で咲くものよりは開花は遅い。今季も7月1日、百沢登山道の雪渓の近くで咲いていた。花名の由来は「深山や高山に咲くツボスミレということ」による。
 「ツボスミレ(坪菫)」は山麓に咲く。弘前市内の神社林下にも生育している。
 白花のスミレは多い。シロバナタチツボスミレ、マルバスミレ、ウスバスミレ、シロバナミヤマスミレなどだが、これは、花が淡紫色を帯びたりするものもあるが、唇弁の奥に紫色の淡い縦縞模様があるので、見分け安い花だ。
 距は長さが2-3㎜と小さい。地上の茎は匍匐し途中から発根する。葉は円形となり、先が尖らない。托葉はツボスミレより小さい。
 なお、花弁が淡紫色を帯びる以外ツボスミレと変わらないものを「ムラサキコマノツメ」と呼ぶようだが、私はまだ出会ったことがない。花期は6-8月と幅がある。本州の中部以北に分布している。
 数年前に焼け止り小屋の前で出会ったものは、群生していた。遠目に見た時は「あれ、残雪か」と思ったものだ。それほどに「白い」が映える花だ。
 近づいて花々をよく見たら「唇弁」の奥に濃い青紫の縦縞がある。「白い気品と青紫の縦縞」、それはまさに、「群青を仄かに匂わせて群れ咲く白き気品」であった。…これには6月27日にも、7月1日にも出会っている。)

◇◇大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その5)
(承前)

 「カタクリ」の話しが中心になってしまい、「スミレ」のことがおろそかになっていた。少し、そのことに触れたい。
 「スミレ」の仲間は、種子を弾き飛ばす仕組みを持っているものが多いのだが、「アオイスミレ」はそのような仕組みを持たなくて、果実が地表面すれすれのところで熟し、親株の根元に種子をこぼすだけである。従って、分布を広げるためにはアリの助けがぜひとも必要なので、前述した「カタクリの種分散」のところに登場した「エライオソーム」も非常に大きいのである。
 言いたいことは、「アオイスミレ」がすでに、「閉鎖花」を咲かせて(?)いたということだ。花びらがあって「雄蘂」や「雌蘂」があって、きれいな色で…というのが、普通の花、つまり「開放花」だ。「アオイスミレ」の花「開放花」はすでに咲き終えている。標高700m辺りまで、雪消えと同時に咲き出すのだから当然である。
 だが、花を開かない「閉鎖花」と呼ばれる花を、「開放花」が咲き終えた後につけるのである。それが今を盛りと「咲いて」いるのだ。つぼみの形のままで、いつの間にか実になり種子を作っている花だから、なかなか分かりづらい。間もなく「花も咲かない」のに次々に実がはじけ、種を分散させるのだ。
 「アオイスミレ」の株を注意して見ると、うつむいた、細くとがった感じの、緑色をした「つぼみ状」のものがついている。それが「閉鎖花」だ。
 申し訳ないが、詳しく観察をするために折り採って、中を覗くことにする。「雌蘂」が「雄蘂」の花粉に首を突っ込んでいる。雄蘂は2本だけだ。
 「閉鎖花」をつける植物には、この「アオイスミレ」の仲間やフタリシズカ、ツリフネソウ、ミヤマカタバミなどがある。

 「狭くて細長いお花畑」を過ぎると、しばらく、足下の「色彩」は褪せてくる。見えるものは白くて小さな花をつけた「エゾノヨツバムグラ」くらいだ。その中に混じって「エゾシオガマ」が瑞々しい葉を見せてあちこちの立っている。これは秋咲きの花だ。8月の半ばになると、「クリーム」色の清楚な花をつけるのである。「マユミ」や「ダケカンバ」、「カエデ」などの樹葉に陽光を遮られた薄暗い空間で見る「エゾシオガマ」の風姿は異様なほどに美しいものだ。
 だが、目の高さには、「ツリバナ」や「マユミ」の花が目立つようになる。間もなく頭上が明るくなる。そろそろ、ずっと登り続けてきた「急勾配」の道から解放されるのだ。
 百沢登山道には、短いが平坦な道は、僅かに「2カ所」しかない。その1つが「焼け止り小屋」手前の道である。もう1つは「二の御坂」を登り詰めて「一の御坂」に続くところだ。
 ようやく、その1つ目の「平坦」な道にさしかかったのである。道は根曲がり竹に覆われている。それでも、これまでの登り道からの開放感はすばらしいものだ。私の耳には後続する4人の「感嘆」ともつかない「歓喜」の声が聞こえていた。標高1060mに位置する「焼け止り小屋」は直ぐそこである。
 そこまで登って来る間に、何人に追い越されたであろうか。6月下旬の土曜日だ。登山者が多い。さすが、岩木山では一番の「メインルート」、「百沢登山道」である。それに引き替え「弥生登山道」や「赤倉登山道」、「長平登山道」を登る登山者は少ない。最近では、その中の「弥生と長平登山道」はすっかり、「マニアック」な者たちの登山道になり、夏場だというのに、月に数人しか利用しないという状態にある。
 「スカイライン」自動車道路が出来るまでは、それぞれ、地元民が中心になり、登り、整備して登山道を守ってきた。それが、現在は、「刈り払い」もされず、ほぼ「整備」は無いに等しいのだ。
 小屋の方から、何やら話し声が聞こえる。追い越して行った登山者が休憩を取りながら談笑しているようだ。(明日に続く)

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(その4)

2009-07-09 05:07:15 | Weblog
 (今日の写真はカヤツリグサ科ワタスゲ属の多年草「サギスゲ(鷺菅)」だ。北海道と本州の中部以北に分布している。草丈は20~50cmほどになる。花期は6月頃である。
岩木山では北面の貧弱な湿原でよく見かける。低地の湿地にも自生地があるらしい。他の山では亜高山帯や低地の湿原に生えているといわれている。
 写真から分かるように「筆のような形をしている白い綿毛(果穂)」を1本の茎に2~5個つける。小穂は綿毛が集まって出来るが、これは痩果の刺針が長くのびたものである。
「ワタスゲ(綿菅)」は大きめの綿毛を球状に一つ付ける。
 また、地下茎が長く株立ちにならないことや茎の葉に葉身があることなども「ワタスゲ」との違いである。
 この写真は「サギスゲの花」ではない。これは「ワタスゲ」と同じようにこの白い綿毛の根本に種をつけている、いわば「果実(痩果)」である。花はこれまた、「ワタスゲ」と同じように地味な薄緑や茶色をして、ヒトリシズカの花に形状が似ている。
 花名の由来は、「白い綿毛をサギ(鷺)にたとえた」ことによる。

 私は拙著の中で、「静かな雑踏の中で自己主張、豊かな孤独」とこの「サギスゲ」の種子、綿毛が風に舞う風情を詠んだ。次の文は、その時のものだ。
 …今日も天気がいい。いつもだと、目的地に近づくと、その辺りの登山道は水を滲ませた表土に変わる。だが、その日はパサパサした感じで乾いていた。登ってきた時間と距離から、そろそろだなあと思っていたら、柔らかい西風が心地よい湿潤を運んで来た。
 籔をくぐり抜けて湿原の縁に立つ。鰺ヶ沢の人たちが「種蒔苗代」と呼んで大切にしている「湿原」に着いたのである
 いびつな楕円で広がる湿原。だが、そこだけが天に連なり、空間性を維持し、周囲のこんもりとした緑の城壁からの解放を独占している。静寂、すべての物音が奥に見える池塘の水面の小さなさざなみひとつひとつに打ち消されていく。そこを囲む淡い緑が区切りを作り、それが上空を切り取って青空や雲を水面に映している。開ける視界、宇宙につながる空間を受けて輝きを増しながら、落ち着いた蒼緑の中、湿原は池塘を包み込み、終始無言で回りの生命を受け入れていた。
 池塘の手前にはパースペクティブに白い綿毛や羽毛の舞いと飛翔が広がっていた。彼女たちは時を同じく集団を形成するが、その実は豊かな自己主張だ。
 「サギスゲ」はラッシュ時の静かな雑踏を豊かな孤独で生きている。何という思い思いの飛翔であろう。)

◇◇大沢の雪渓を登り、山頂から2人は岳へ、2人は私と赤倉登山道を降りる」(その4)
(承前)

 「カタクリ」は僅かに枯れて白く変色した「種子を入れてあった莢」だけを残して、すべてが消えていた。
 それが、なければ5月の上旬に、「姥石の下部までに敷き詰められるほど咲いていた」とこの時期に、誰かに話したところで信じてもらえるだろうか。「カタクリ」は来年の5月上旬までの長い「休眠生活」に入っていたのであった。

 「姥石」で短い休憩を取ってから、焼け止り小屋に向かった。この時季はある意味で「端境期(はざかいき)」だ。春の花が咲き終えて夏の花が咲き始める時期なのだ。しかも、まだ少し夏の花が咲き出すには少し早いという時なのだ。だから、「咲いている花」の数や種類も少ない。
 そして、この時季から咲き出すものには「ラン科」の花が多いのである。多いといってもそれは数でも種類でもない。例えば「カタクリ」のように敷き詰めるほどに咲くものはないということだ。
 登山道の足下には「花は少ない」ので、ちょうど目線の高さに目を遣るといい。そうすると、麓では咲き終えた木本の花に出会えるのだ。麓よりも長いものでは1ヶ月以上は遅れている。
 「タニウツギ」がある。緑色をした「ツリバナ」があり、白色の総状花の「トネリコ」、飾り花をつけた「ムシカリ」がまだ咲いている。

 青森から来たという人が何かを見つけたようだ。「これは何ですか」早速、そこまで降りて行く。それは、「ササバギンラン(笹葉銀蘭)」だった。私は見落としていた。この人は「山で花を見る目」を持っている人だろう。
 そこから少し登ったところで、今度は私が歩みを止めた。「どうしてこうも目立たない咲き方をするのだろう。これだと、説明しなければいけない。目につかないだろう」と考えたからだ。登山道の左岸の上と下に2本の「コケイラン(小蘭)」が咲いていた。淡い橙色の蘭をまるで、秋田の竿燈のようにして咲かせる。別名を「ササエビネ(笹海老根)」という。青森からの人は、「名前は知っていたが出会うのは初めて」といって感激していた。

 「姥石」から「焼け止り小屋」までのほぼ中間に「お花畑」がある。だが、これは「広く一面に多くの花々が咲き誇っている」という「一般的なお花畑」ではない。それは登山道沿いにだけ、150mほどの長さで続いているものだ。だれも、このような場所を「お花畑」とは呼ばない。当たり前だ。私だけが勝手に「百沢登山道のお花畑」と呼んで、「悦に入っている」場所なのである。
 例年ならば、足許には「チゴユリ」が群れだし、明るくなり、視界が急に開き、眼前に黒々と「滝の沢」の岩肌が見える場所である。そこは距離は短いが、一応「草原の道」になっている。風が吹き上がり、山麓も少しではあるが見えるところだ。
 かつて、その場所で見た光景は…
 『 夏至も間もなくという暑い日だった。ザックを降ろして山側を向く。背中いっぱいに風を浴びながら前に広がる花園にはっとした。火焔を吹き出し火の粉を吐くのはハクサンチドリだ。さながら、それから逃げまどう子供たちはチゴユリか。動きのないヤマオダマキは半鐘を吊した火の見櫓だ。とりわけ、色鮮やかなのはベニバナイチヤクソウだ。これは火消しの頭(かしら)が担ぎ振る紅色纏(まとい)だろう。すべての花が役を担っていた。色彩や躍動は壮大だが登山道脇の花園は狭いものだ。 』…であった。

 だが、今年、その場所を教えてくれるものは「ハクサンチドリ」だ。「ハクサンチドリ」が目につくようになると、その「場所」が近いということなのだ。
 今季は少雪であった。だから、この場所の花々の咲き出しも早い。すでに花期を終えたものも多く、「色彩」は乏しかった。平年ならば、この場所は「春の花と夏の花」が混在して咲くのである。「マイヅルソウ」「チゴユリ」「ミヤマスミレ」「ジンヨウイチヤクソウ」「ベニバナイチヤクソウ」「ヤマオダマキ」「ハクサンチドリ」などだ。(明日に続く)

秋田県乳頭山に行く「大場湿原」(2)/「大沢の雪渓、2人は赤倉口に降りる」(その3)

2009-07-08 05:09:49 | Weblog
 (今日の写真も秋田県鹿角市の「大場湿原」である。「白く」点在したり、一面「白」で覆うているものが「ワタスゲ」である。「ワタスゲ」の芽立ちは雪解けと一緒に始まる。そうすると間もなく薄くて黄緑色の目立たない花を咲かせる。
 その頃は周囲には殆ど「緑」はない。雪解けの早春、「春の息吹」や「生命の躍動」を感じさせるが、まだまだ寂寥感漂う枯れた「湿原」という風情なのだ。
 ところがどうだろう。今、目の前にあるこの景観には「生命の躍動や息吹」に満ちあふれている。
 湿原はいい。本当にすばらしい。「湿原」のある山は、それだけ「豊かな自然に恵まれている」といえるのだ。そして、それは、非常に傷つきやすいという宿命も背負っている。「豊かな自然」ほど「攪乱」に弱い。人間の「文明による破壊に弱い」のであり、修復は難しい。「豊かな自然」を売り物にした観光は、この湿原の植物たちにとっては最悪の「攪乱」となる。
 行政や業者たちが、「バランス」感覚を持って対処しないと、いつの間にか「豊かな自然」ではなく「貧しい自然」すらなくなってしまうのである。

次を読むには昨日の写真も併せて見た方がいいだろう。
 「黄」色は、ユリ科ワスレグサ属の多年草「ゼンテイカ(禅庭花)」だ。最近は、その後呼ばれるようになった「ニッコウキスゲ(日光黄菅)」という呼び名が幅を利かせている。
 「ゼンテイカ」は山地から亜高山帯の草原や海岸、湿地に多く自生している。青森県でもつがる市や種差海岸のものが有名である。だが、何故なのか「岩木山」には自生していない。
 葉は長さ60㎝ほど、幅1.6~2.0㎝と細長く、弓形に曲がって下垂する。6~7月に高さ60~80㎝の花茎を伸ばし、橙色(黄色と変化がある)で、先が反り返った直径7~8㎝のユリのような花を3~10個つける。6枚の花弁のように見えるが、花弁は内側の3枚だけで外側の3枚は「萼」が変化したものだ。これを、それぞれ「内花被」、「外花被」と呼ぶ。
 果実は長さ2.2~2.5㎝の広楕円形で、長さ5~6㎜の黒い光沢のある種子を作る。
花は午前中に開いて夕方に閉じる1日花であるが、次々と咲くので、花期が長いように見える。学名には「1日の美しさ」という意味が入っていて、「花が1日でしぼむこと」に由来している。
 花名の由来だが「中禅寺湖の庭に咲く花」との説もあるらしいが、詳細は不明だ。日光付近に多いことから、登山者が「ニッコウキスゲ」と呼び始めたことで、「花名」が変わってしまったというのである。「キスゲ」とは花が黄色で、葉を菅「スゲ(カヤツリグサ科)」に見立てたことによる。
 アイヌの人々はカッコウ鳥の鳴く頃にこの花が咲くことから「カクコク・ノンノ」(カッコウ鳥・花)と呼び、若葉やつぼみ、花を食用としていた。また、薬草としては「風邪、 不眠症、利尿」に効き目があるとされている。

「赤」色はツツジ科ツツジ属の落葉低木の「レンゲツツジ(蓮華躑躅)」だ。これは北海道西南部、本州、四国、九州の広い範囲に分布している。樹高は1~2mくらいで、日当たりのいい高原などに自生する。
 6月から7月にかけて、大形で橙赤、黄または赤色の合弁花を蓮華状につける。直径5cmほどの大きなロート状の花だ。花の色は朱赤色が主だが、南へ行くほど黄色味が増すといわれている.しばしば大群落を作り、草原や湿原の初夏を彩る花として、青森県では「八甲田山田代岱」などのものが有名だ。
 有毒な植物で家畜が食べないので、高原の放牧地では大群落となっていることがある。
 山のツツジはたいがい食べられるが、レンゲツツジは毒があって食べられない。これから採れる蜂蜜にも毒があるといわれている。
 ツツジ科の植物には「グラヤノトキシン」I~IIIなどの有毒物質が同定されている。「レンゲツツジ」の有毒成分は「ロードトキシン」と呼ばれ、「アセビ」から抽出される「アセボトキシン」もグラヤノトキシンI と同一物質だ。「グラヤノトキシン」は、これが最初に同定された「ハナヒリノキ」(岩木山にも自生)の学名に由来する。また、「グラヤノトキシン」I は「アンドロメドトキシン」とも呼ばれる。
 花名の由来は「蓮華畑のように、赤い花が高原いっぱいに広がること」による。また、別名には「鬼つつじ」があり、色に変化のあるところから、黄色の品種を「キレンゲ」と呼ぶこともある。これも、岩木山では咲かない。口惜しいけど、まあいいか。毒なのだから…。)

      ◇◇大沢の雪渓、4人連れで登る(その3)◇◇
(承前)
 私は、「カタクリ」の「葉の残存」を探しながら、トップで登って行った。カタクリは標高600mから少し低いところが「生育限界」であるらしい。花期でも姥石の下部辺りまでしか見られない。
 …とはいっても、生育している範囲は広い。百沢登山道に沿って言えば、岩木山神社の境内林から、桜林へと続き、スキー場の下端部では「ない」が、七曲がりの手前からまた出てきて、あとは切れ間なく姥石の下部まで「登山道の両側」一面を覆い尽くすように咲くのである。しかも、標高の低いところから咲き出して、標高の高いところはそれよりも遅くなるのである。
 それらのことを知っているので、私は「登って行くと必ず遅咲きのものに出会える」。そして、それはまだ確実に「葉をつけている」と踏んだのだった。
 だが、姥石の下部まで来ても「カタクリの葉をつけた残骸」はただの1本も見つけることは出来なかった。
 「カタクリ」は自分の流儀で生きている。人間の思い込みや期待とは無関係に生きている。そのことを「よく理解していた」はずなのに、私はIさんの質問に、より具体的に答えようとして、自分の期待を「カタクリ」に求めたのだ。これが間違いだった。結局、見えるのは枯れている「種子」を分散した「殻や莢」だけだったのだ。
「カタクリ」や「キクザキイチリンソウ」などの「スプリングエフェメラルズ」と呼ばれる植物は、種を残して一斉に姿を消す。その「時・所・位」を弁えた生き方は見事という他はない。
 5月の上旬から咲き出して、ほどなく受粉、結実して「種」を蒔いてアリに運ばせ分散して、葉は枯れてしまう。そして、その後1ヶ月かけて、その枯れた葉をも「一切残さず」消滅させるのである。まるで、「葉脈などの繊維質」を溶かす薬剤でも散布されたかのように、いや、「除草剤」を自己の生命体の中に潜めているかのように消えてしまうのだ。(明日に続く)

秋田県乳頭山に行く「大場湿原」(1)

2009-07-07 05:26:14 | Weblog
 (今日の写真は秋田県鹿角市にある「大場湿原」を7月5日に撮ったものだ。いくら「岩木山オタク」の私でも偶には「他の山」に出かけることもある。5日にはあるグループの山行に参加して秋田県の乳頭山に行って来た。この「大場湿原」はそこに行く途中にある。
この景観は、4つの色彩で構成されている。白、黄、赤、緑である。私は、これを見た瞬間、その中の「白、黄、赤」に仏教的な色彩を強く感じた。
 これは「極楽浄土」、「涅槃」の世界ではないのか。そう思った時に、私の四肢は動きをしばらく止めた。
 カメラから手を離し、呆然と目の前の景色に吸い込まれて立ち尽くしていたのである。だが、その時間は、恐らく「心の中で合掌して」いたほんの数秒であっただろう。
 目の前に広がり、その景観を構成しているという色彩、つまり花々や種子などの植物は、残念ながら、岩木山では見られないものだ。だから、私は特に、この光景に惹かれたのかも知れない。
 何故、岩木山では見られないのか。それは単純に言ってしまえば、「岩木山には湿原がない」からである。ここでいう「湿原」とは「高層湿原」のことだ。岩木山には「確定的な高層湿原」が存在しない。ただ、北面の標高1000m地点に、狭いながら貧弱な「高層湿原」らしいものは存在する。これだけなのだ。
 目の前に展開する「大場湿原」、「白」は「ワタスゲ」と「コバイケイソウ」である。「黄」は「ゼンテイカ」であり、「赤」は「レンゲツツジ」だ。
「ワタスゲ(綿菅)」はカヤツリグサ科ワタスゲ属の多年草だ。本州中部地方以北や北海道などの寒い地方に分布して、低山から高山帯下部の日当たりの良い、また半日陰に生えている。別名を「スズメノケヤリ(雀の毛槍)」ともいう。
 私たちが「風に揺れるワタスゲ」などといっているものは「花」ではない。これは7月頃の「果期(種をつける時期)」に見られる綿毛なのであり、綿毛に包まれた「球状」となっているものなのだ。1本1本の綿毛の根元に「ごま粒」よりも小さい種がついていて、それが風に飛ばされて増えていくのである。
 この丸い綿毛の集まりを見て、「ワタスゲの花」を見てきたと言ってはいけない。ワタスゲの花は白くはない。薄緑でまったく地味なものだ。花の咲く時季は5月の下旬だ。

「白」のもう一種はユリ科シュロソウ属の多年草「コバイケイソウ(小梅草)」だ。
 夏山で普通に見られる高山植物の一つだが、「岩木山」にはない。背丈が1m前後と大きい。花も豪勢だ。だが、「大群落」が出現するのは数年に1度だと言われている。
「ゼンテイカ(ニッコウキスゲ)」と一緒に生えていることが多く、「ゼンテイカ」の多く咲く年には「コバイケイソウ」の花も沢山見られると言われている。
 花名の由来は「花が梅に似ており、葉は蘭に似ている」ことによる。高山型で小さいことから「コバイケイソウ(小梅草)」という名がつけられたようだ。
 美しい花だが、これは「ベラトルムアルカロイド」という「毒」を持っている「毒草」だ。若芽は、オオバギボウシ(山菜名はウルイ)と似ているので、それを採取して食べるものが結構いるらしい。注意が必要である。その点「岩木山」には生えていないので安心というものだ。(明日に続く)

            ◇◇ 秋田県乳頭山に行く ◇◇

 乳頭山には数回行っているが、直近の登山は数年前のことだった。確か6月の中旬だったと思う。蟹場温泉から田代岱湿原、田代岱山荘、乳頭山、笊森山、熊見平、湯ノ森山、駒ヶ岳、国見温泉へと縦走したのだ。まだ、かなりの残雪があり、「ミズバショウ」や「ヒナザクラ」などが目立っていた。
 湿原に出るまでの登りも、その頃の風情とはすっかり様変わりしていた。木道、階段などには驚いてしまった。その頃には殆ど「なかった」のである。
 また、7月5日ということと今季の少雪ということで、田代岱から乳頭山までの間に見られた花々の数は多かった。岩木山では出会えない「ヒメシャクナゲ」や「オノエラン」、「ヨツバシオガマ」、「タカネスミレ」、「ヒナザクラ」や「イソツツジ」などにも会えた。後二者は遅咲きのものである。

 ところで、「火山噴火予知連絡会」は、平成15年1月21日に、「活火山」の定義を国際的な標準に合わせ、「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動がある火山」に見直し,108の活火山を選定した。それまでは86火山であったが、現在は108火山だ。乳頭山そのものは、その「108」の火山には入っていない。
 しかし、乳頭山は、岩手山、秋田駒ケ岳に連なる「那須火山系の火山群」の一つである。これは火山形態では、「アスピーテ(楯状火山)」である。流動性の大きい溶岩が火口から静かに流出した場合に出来る傾斜の緩やかな火山帯であり、爆発による砕屑物(さいせつぶつ)はごく少ないのが特徴だ。
 乳頭山は乳頭・高倉火山群(乳頭山、高倉山、平ヶ倉山、丸森・三角山、笊森山、笹森山、湯森山などから構成される火山群)に含まれていて火山名は「乳頭・笊森(ざるもり)」であり、標高が約1477.5m、北緯39.80、東経 140.83に位置する「成層火山」であり、「溶岩ドーム(頂上の崖部分)」を形成している。
 岩の質は「安山岩」が大半で、他に「デイサイト」や「玄武岩」などだ。今から、「約60万~10万年前」に活動した火山である。
 だが、現在は「休火山や死火山」という用語は用いられなくなっているので、ただ、単に「火山」とでも呼べばいいのだろうか。
 現在、東北地方の「活火山」は岩木山・秋田焼山・岩手山・秋田駒ケ岳・鳥海山・蔵王山・吾妻山・安達太良山・磐梯山である。

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」は休載する。明日以降に再掲したい。

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」(その2)

2009-07-06 05:18:53 | Weblog
 (今日の写真はミチノクコザクラである。白花も咲いている。私と一緒に登った4人のとって、「シロバナミチノクコザクラ」は初めての「出会い」となった。
 詳しくは次項「」を読むと分かるのだが、この4人はすべて初めて「百沢登山道」を登るのである。
 その中の1人は名古屋から来た人であり、岩木山は「初めて」なのだ。そして、その相棒である1人は別のルートですでに岩木山には登っているらしいのだが、女性2人組にとって「ミチノクコザクラ」との出会いは初体験なのである。
ご夫婦2人は2週間前に「赤倉登山道」を登ってはいるが悪天のため、「赤倉御殿」付近まで登り、普通の「ミチノクコザクラ」に出会って下山している。「赤倉登山道」沿いでは「シロバナミチノクコザクラ」と出会えない。少なくともこの数十年間、私はまだ出会ってはいない。
 この4人は「ラッキー」だったと思う。「初めての岩木山」、「初めての百沢登山道登り」、そして、長い大沢の「雪渓登り」の果てに、出会った「白花」のミチノクコザクラ…いつまでも記憶の底に残るだろう。案内した私もすごく嬉しい。
 白花の「ミチノクコザクラ」の出現率は「時々見かける」程度である。これは変異種であり、一見、八甲田山に咲く「ヒナザクラ」に似ている。
 この出現率は「普通種1.000本に対して1本」程度という確率であるとされている。大体その程度だとは思うが、場所によって偏在していて、ある場所ではまったく「シロバナミチノクコザクラ」が見られないこともある。
 「一般的なシロバナミチノクコザクラ」は茎頂に1輪か2輪の花をつけているのが普通だ。だが、中には一本の茎頂に20個以上の花を総状につけるものもある。これは非常に珍しい。その発生頻度は5~7年に1度程度であり、出現確率は普通種5.000本に対して1本という確率程度でないかと考えられる。
 今日の写真の「シロバナミチノクコザクラ」は一応、花を総状につけて、7輪ほどの花が見える。
 白花の背後に見えるものは「茎」がやたらに長い。この姿は「花簪(はなかんざし)」に見えないこともない。
 可愛い女性がいたら、思わず折り採って、そっと髪に挿したくなるような衝動に駆られる。若い時に「そのような女性」と一緒に登山をしていたなら、恐らく私はそうしたであろう。だが、そのような機会はただの一度も訪れることはなかった。
 だからといって「自分の髪」に挿したところで、意が適うわけでもない。「単独行の三浦」と人から呼ばれていたのだから、無理もない話しなのだ。)

           ◇◇大沢の雪渓、4人連れで登る◇◇
(承前)
 パーティの組み方としては実に唐突であり、行き当たりばったりで計画性のないものであることは否めない。登山でパーティを組む場合は事前に綿密な打ち合わせや了解事項の確認がリーダーを中心にメンバー1人1人が、納得いく形で行わなければいけない。
 この山行で私を入れて「5人のパーティ」が即製されたことは、決して尋常なことではない。このような形で「安易に」に「パーティ」を組むことは「異常」なことであり、慎まなければいけないことではあるのだ。
 もし、まったく岩木山に不案内な2組が、急遽、合同して1つの「パーティ」として、行動したとしたらどうなるのか。
 それは、まるで、「地図や磁石」を持たず、道なき密林や泥濘、険しく荒々しい岩稜帯に迷い込むことに等しい。
 だが、今回は、私が「地図や磁石」であり、「密林や泥濘、荒々しい岩稜帯に迷い込むこと」をさせずに「危険」を回避させるためのリーダーであった。また、楽しく、疲れない山登りをするための「ノウハウ」を示しながら登る者でもあり、加えて「花や樹木」、「岩木山の生い立ち」、「昆虫、野鳥や小動物」などについて「訊ねられる」と答えることが出来る者でもあったのだ。
少なくとも、初対面の2人の女性を含めた全員がそう思っていたであろう。だから、「パーティ」結成は唐突ではあったが、その質的な形成プロセスはきわめて自然であり、違和感はまったくなかったのである。ただ、私の責任は非常に大きく強いものになったことは事実であった。
…という訳で、この「奇妙な編成」の5人組登山が始まったのだ。

 百沢スキー場の縁には「オカトラノオ」が白い蕾をつけていた。季節はすでに夏だ。春の花々は影形もない。特に、「スプリング・エフェラルズ」と呼ばれるものは、その茎や葉をもどこかに「消して」しまっていた。一ヶ月半ばにしてミズナラ林の林床は一変していた。七曲がりを登り切るまでは「花」の影はない。
 七曲がりの途中でIさんが目敏く「白い花」のようなものを見つけた。早速、「これ何ですか」という質問だ。
 しかし、私はそれに答えない。「何なのか知らない」のではない。それは「カタクリ」の花の名残、詳しくは「果実が熟して裂開し、種子を落とした抜け殻」なのだ。
 5月上旬に花を咲かせて、受粉して5月の下旬には茎頂に「3面の軍配を貼り合わせた」ような淡い緑色の果実をつけるのだ。やがて、4、5日すると黄色に変色して「果実」は裂開し、そこから黄褐色の種子が顔をのぞかせる。そして、次第に「殻」は裂けて種子を地上にこぼすことになる。Iさんが目敏く見つけた「花」のようなものは、その「殻」の枯れたものなのである。
 こぼれた種子は長さが2mmほどの小さなものだ。肉眼ではなかなか見えない。一応目で追ってはみるのだが、見えない。
 種子はアリによって運ばれてしまったからだ。黄褐色の種子の端には、少し透明感のある物質「エライオソーム」と呼ばれるものが付いている。
 それには「アリの好む物質」が含まれているので、アリが種子を巣へ運び込んでしまったのだろう。このようにして「種子」は分散されるのである。
 カタクリは「アリ散布植物」の1種なのだ。

 私は、それが何であるのか、少なくとも「葉の残存」を示して、もっと具体的に説明出来る場所までは「答えない」と考えていたからである。(明日に続く)

「大沢の雪渓、4人連れで登り、2人は岳へ、もう2人は私と赤倉登山道を降りる」

2009-07-05 04:04:33 | Weblog
 (今日の写真はキンポウゲ科カラマツソウ属の多年草「ミヤマカラマツ(深山唐松)」だ。 北海道から九州まで、日本の深山に生える。背丈は生育場所によってかなり違いがあり、30~80cmである。根生葉は多くの小葉で、小葉の長さは1.5~8cmで菱形をしている。葉先の縁は丸みを帯びて、粗い鋸歯がある。
 岩木山に通って、ようやく花に興味を持ちだした頃のことだ。6月の半ば、赤倉登山道を登っていた。大開の手前のコメツガの林の中で、白い蕾をつけた草に出会った。その場所は上部の雪解け水で湿っていた。私には、その白い蕾が「花」に見えたのである。しかも、「葉」もある種の草本に見えたのである。
 「ああ、これはアブラナ科タネツケバナ属のマルバコンロンソウ(丸葉崑崙草)だ」と思い、嬉しくなった。岩木山で初めて出会ったと思ったのである。
 図鑑には「山の木陰で湿気の多いところに生える2年草または多年草」とある。さらに、「葉に細かい白い毛が生えて、5~7枚の小葉からなり、丸みのある鋸歯がある。花序は数個の花からなる。花期は4~6月で本州、四国、九州に分布する」ともあるのだ。
 だが、実は…私は「ミヤマカラマツ」の咲き出しを、上方から俯瞰図形的に見ていたのだ。葉が似ている。「蕾」を花と見間違えると、それはコンロンソウの花弁に見えないこともない。咲いてしまっていると「このような間違い」はあり得ないのだ。キンポウゲ科の花をアブラナ科の花と見間違えるとは…何という恥ずかしい話しだろう。だが、これは正真正銘、事実なのである。
 ミヤマカラマツの花は白色だ。しかし、蕾から開花直前までは淡い紫色を帯びている。そのようなことすら区別することも出来なかった昔のことだ。
 ミヤマカラマツの「花」の径は約1cmだ。キンポウゲ科の仲間だから、花びらはなく、白い細いものは雄しべである。
名前の由来は『深山に生える「カラマツソウ」の意味で、「花がカラマツ(落葉松)に似ていること』による。
 この「花」が今月の中下旬頃、風になびき出すと、高山や亜高山帯では、早くも「秋の気配」が漂うのだ。)

          ◇◇大沢の雪渓、4人連れで登る◇◇

…(これは7月1日のブログの続きとして読んでもらえると助かる。登った登山道や雪渓は同じだが、同行者も日にちも、昨日までの話しとは違うので「ごっちゃ」になることもあるだろう。
 これは、7月1日にTさんと一緒にした登山よりも3日前の登山のことだ。)…

 私は「この年(68歳)になって、初めて、この雪渓登りに「アイゼン」を装着した。 その理由は2つである。1つは同行者が4人いて、アンザイレンをして登らなければいけなかったこと、つまり、同行者の誰かが滑落したら、制動をかけて、それを停止させなければいけなかったからである。もう1つは、キックステップを数百mするほどには体力的に自信がなかったからである」と7月1日のブログに書いた。
 その理由の1つに「同行者が4人いて、アンザイレンをして登らなければいけなかった」とあるが、そのことについて説明をしなければいけない。
 登山口までは、私の「同行者」は2人だった。それは私の「NHK弘前文化センター講座」受講者Iさん夫妻だ。だが、登山口から「登り始めた時」には4人になっていた。
 その経緯を書こう。私たち3人は登山口で「登山の準備・支度」をしていた。そこに、2人連れの女性登山者がやって来た。挨拶を交わして「アイゼンを持っていますか」と私が訊いた。
 すると、1人が「持っています。昨日、急遽購入しました」と言い、もう1人も「持っています」と応じた。
 ほっとした。私はここ数日、双眼鏡で「大沢の雪渓」を観察していた。先端から末端まで「途切れているところ」はない。長い雪渓である。キックステップに頼る急登の数百mは、耐え難い危険(滑落による骨折や死亡)を伴う「苦行」である。
 それで応答が終わり、彼女たちは私たちに先行して「出かける」のだろうと思っていたが、1人が『私は青森に住んでいます。この登山道を登るのは初めてです。だから、「岩木山を考える会のホームページ」など見て、この時季には「アイゼン」が必要だということを知りました』と言うのである。
 私は思わず「それは、ありがとうございます」と口走っていた。言ってしまったからには自己紹介するしかない。私は「岩木山を考える会の事務局長の三浦」であることを名乗った。
 「ああ、三浦さんでしたか。時々、ブログも読ませてもらっています。花の勉強もしています」
 …しばらく間を置いてから「私たちも一緒に行動してよろしいでしょうか。不案内なので、一緒に連れて行ってもらえると嬉しいのですが」と言うのであった。
 「アイゼン」の準備もあるのだから、別に心配することもないだろう。「旅は道連れ」という言葉もある。断る理由は何もない。むしろ、私にとっては「岩木山」を案内する機会が得られたことは嬉しいことであった。
 「そうですか。いいですよ。どうぞどうぞ。ゆっくり登りますから時間はかかると思いますよ。それでもいいですか」
 「はい、それでいいです。よろしくお願いします」
 「こちらの2人は、私の受講者と旦那さんです」
 「受講者といいますと…」
 それを承けて「NHK弘前文化センター講座です。今日は先生と一緒に、先生の案内で登ります。Iと言います。よろしくお願いします」とIさんが言う。(明日に続く)

「今年の大沢の雪渓、4人連れで登る。その前に、7月1日に相棒と登ったこと」(5)

2009-07-04 05:00:28 | Weblog
(今日の写真はミズナラの葉だ。1年のうちで一番若々しく輝いて見える頃である。葉はお互いが出来るだけ重ならないようにして、太陽の光を均等に浴びるように、枝の向きを微妙に変えている。何という共存の配慮だろう。独り占めはしない。国民不在、党の存続と自分の当選だけしかない「どこかの国」の政府与党とはわけが違う。)

   「今年の大沢の雪渓、4人連れで登る。その前に、7月1日に相棒と登ったこと」(5)
 (承前)
 …茎頂に数片の花をつけた「ミチノクコザクラ」が、道ばたに「折れて」転がっているではないか。これは、人が靴で「踏みつけた」時に折れたものだ。気を配って登り降りをすると、踏みしだくことはあり得ないことだ。
 自分の体をしっかりと支え、バランスをとることが出来る人ならば、足下の「花」を「踏んで折る」はずがない。
 恐らく、この踏みつけて折った人は、相当に「足下が不如意」な人なのだろう。一般的にそのような人は、初めから「登山する資格がない」ということを自覚すべきなのだ。

 種蒔苗代からの急登を登り切って鳳鳴小屋の前に出かかった時、どこかで「猫のなきごえ」が聞こえた。登山客が「猫」を連れてきているのかなあと思った。可愛いペットを自動車内に置いてくることが出来ないで連れてきたものだろうと考えたのである。
 それとも、登山道を伝って、麓から登山をしてやって来たのだろうか。それは、万に一つもないだろう。
 だが、「岩木山の標高1400m以上の場所」に猫や犬を連れ込むことは間違いだ。幸い、この辺りに野生の猫科の動物はいない。ところが、犬科の動物はいる。里で飼われている動物は潜在的に多くの伝染性ウイルスを持っている。
 しかし、「予防注射」などで抗体が出来ている。これが、野生の同科の生き物と触れあうと、野生のものには抗体がないので、即座に発症することが考えられるのである。
 飼い主は十分、岩木山は「野生種の生息域」であることを認識すべきであり、ペットなどを持ち込まないようにすべきなのだ。
 「猫」は実際、直ぐ目の前にいた。白い毛の猫だ。啼きながらの近づいてきて、私のズボンの裾にまとわりつき、じゃれるのである。人慣れしている。飼い猫に間違いない。
 可愛い猫である。きっと、連れてきた「飼い主」が連れて帰ることを「忘れた」のだろう。いや、常識的に「飼い主」が可愛い犬や猫を置き忘れることがあろうか。ない。
 これは意図的に「置き去り」にされたのだ。この鳳鳴小屋の前に「捨てられた」捨て猫なのである。
 私はここで、冷たく言い放つ。…「捨て猫である以上、保健所に依頼して「処分」をしてもらおう。保健所への連絡はパトロール隊にしてもらおう。保健所は捕獲するために係員を鳳鳴小屋まで派遣すべきだ。」と…。
 どうだ。これでも、捨てた飼い主よりは「冷たく」ないだろう。だが、本音は「猫好きの誰かが連れ帰って育ててくれること」を願っているのだ。

 じゃれつく猫を振り切って二の御坂を登り始めたところ、数年前に「落石」で死人が出た場所で、「ご婦人三人組」が、岩に腰を下ろして、「こちら」を見ているのに気がついた。つまり、山側に背を向けて座っているのだ。その場所は落石の常習地帯だ。いつ、背後の頭上から「石や岩」が落ちてくるか分からない。
 このような場所では、先ず休んではいけない、前向きで登るという動きを止めてはいけないのである。前、つまり上の山側を見据えて、発生するであろう「落石」に対処しなければならないのだ。
 どうしても、「休み」なければいけない時は、上方を見て、立ったままですることが「山の掟」なのだ。
 背中に目はない。山側に背を向けて、座って休むことは、まさに「失明」状態で、死につながる危険地帯にいるということであるのだ。
 私は登りの歩みを速めて、その「ご婦人三人組」に近づいた。そして、前述したようなことを「簡単」に語って、その場所から頂上方向に移動することを勧めた。
 そうしたら、「ここから降りる」というのである。その時、私はその三人組の中に「既知の顔」を発見した。それは本会会員のOさんであった。
 そこから「降りる」という彼女たちを私は「ここまで来たら、頂上に行きましょう」と誘った。彼女たちは、何やら「ぐずっていた」が、頂上に向かうことになった。
 私が先頭で、その次が三人組、そしてラストがTさんというオーダーで山頂に向かった。そこから、それまでの私とTさんのスピードとは段違いのロースピードの登りが始まった。一応「誘った」のは、私である。彼女たちの登高スピードに合わせるしかない。彼女たちが休むたびに登高は休止した。山頂に着いたのは12時ちょうどだった。
 山頂に着いた彼女たちのはしゃぎようは、見ている私をも楽しく嬉しい気分にさせるものだった。誘ってよかった。  
 私とTさんは落雷で壊れた石室跡の前で昼食にした。食べ始めた時に、避難小屋から、若者が出てきて、私に会釈を送ってきた。私はそれに応えた。そうしたら、近づいてきて「タケノコ汁を作ったんですが、食べませんか」と言うのだ。
「タケノコ、途中の竹藪で採ってきたんですか」
「いや、麓の店で買ってきました」
「あの、食器がないんですけど」
「食器なら用意してあります」
「そうですか、それではご馳走になりましょうか」という会話をしてから、私はその青年について小屋に入っていった。
 ガスコンロの上にはアルミの大鍋がかけられていた。彼はその中から大きなポリ食器にタケノコ汁を注ぎながら、「三浦さんですよね。ホームページを見ています。ブログの読者です」と言ったのである。驚いた。感謝をした。有り難いと思った。
 私とTさんは、その「タケノコ汁」を思いがけない幸運の味として嬉しく戴いたのである。彼の話しによると、20人ほどのツアー登山者が間もなく山頂に着くというのだ。その人たちに、「タケノコ汁」は振る舞われるのだそうだ。その前に私とTさんはご馳走になったのである。
だが、私は彼の親切さにかまけて、彼に「名前」を訊く機会を失ってしまった。これでは、お礼の言いようもない。このブログを読んでいるというので、甘えついでに、コメント欄か、または「本会代表のメールアドレス」欄をクリックして、それにあなたの「名前などを書いて」知らせて下されば幸いである。

 私とTさんが食事を終えて下山する時になっても、あの三人組の「嬉しそうなおしゃべり」は続いていた。下山開始は12時30分頃であった。鳳鳴小屋の前ではあの猫が寝そべっていた。今度はじゃれついてこなかった。

登山口に着いたのは15時を少し回った頃だった。雪渓で「アイゼン」の着脱に時間を要したが、ほぼ休みをとらない下山だった。2時間少しで下山をしたことになる。最近では一番速いかも知れない。(明日に続く…明日は27日のことを書く。)

「今年の大沢の雪渓、4人連れで登る。その前に、7月1日に相棒と登ったこと」(4)

2009-07-03 05:22:50 | Weblog
 (今日の写真はツツジ科スノキ属の落葉小低木である「イワツツジ(岩躑躅)」だ。本州中部以北の高山、それに北海道に分布する。岩木山では標高1300mから1500mのコケの這うような岩場に生えている。これは、大沢上部の岩場で出会ったものだ。一見すると「多年草」のようだが、立派な樹木である。
 地下茎から茎が立ち上がって3枚程度の葉を展開し、茎の高さは10cm程度だろう。地下茎がよく伸びて広がる。葉は広楕円形で長さ5cm、幅3cm程度で、縁が赤っぽくて、細かい鋸歯がある。葉裏の脈上には軟毛がある。
 葉に隠れた鐘形の花だが、花冠は筒状鐘形で淡紅色、先が浅く5つに裂けている。6月中旬から7月にかけて咲く。果実は球形で、赤く熟す。「実は秋に赤熟して美しく、あまりおいしくもないが食べることができる」と紹介している「図鑑」もあるが、確かに「赤熟して」しまうと美味しくはない。
 しかし、この実の「旬」は「赤熟」する手前の「青い実」の時だ。甘酸っぱくて、汗をかいた体には、生気を呼び起こさせるような清涼感が漲るのだ。私は別な登山道を真夏に登る時、知らず知らずに、この「実」を追いかけていることもあるくらいだ。
 岩木山でこれに似た花には「ウスノキ」、「オオバスノキ」などがあり、同じような場所に生えているが、これらとは葉の形と樹高の違いから、見分けることは簡単だ。
拙著「岩木山・花の山旅」に登場するイワツツジも、実はこの「百沢登山道上部」で写したものだ。珍しいものではないが、私は2つの登山道だけでこの花を確認してる。数は決して多くはないのである。
 花名の由来は「高山の岩場に生えるツツジの仲間ということ」によるらしい。)

「今年の大沢の雪渓、4人連れで登る。その前に、7月1日に相棒と登ったこと」(4)
(承前)
  ・雪渓の状態やミチノクコザクラの開花状況、その他のこと・

 雪渓は「坊主ころばし」の下部で間もなく切れるだろう。そして、上下二筋の雪渓になる。その上、7月1日現在では、幅も狭くなって、左岸に続く登山道も、かなりその姿を見せている。忠実にこの「登山道」を辿り、雪渓沿いの根曲がり竹や樹木の枝を手がかりとすれば「アイゼン」なしでも登ることは可能だろう。
 だが、今月の中旬までは、「アイゼン」は必要だと考えたい。もちろん、「キックステップ」の出来る人は、それでいいだろうが、転倒と滑落は絶対にしないようにしてもらいたい。岩が雪面に顔を出し、雪が解けて大きな穴になっているのだ。ぶつかったり、落ちたりしたらどうなるかをよく考えてみよう。
 登山は「自助努力の世界」、直ぐに救助ヘリコプターを呼ぶような「愚行」は避けるべきだ。「救助や捜索用」のヘリコプターや人材はみな「税金」で動いている。貧しい自治体に「登山というお遊び」に付き合っているような無駄金はない。

 岩木山パトロール隊の事務局長Sさんから、先日次のような話しを聞いた。驚きあきれて開いた口が塞がらないばかりか、顎が外れた気分になった。
 …こうだ。この大沢の雪渓で霧に巻かれてルートを失った登山者が、携帯電話でパトロール隊詰め所の「岩木トレールセンター」に、「どうすればいいか。方向が分からない。電話で案内してくれ」と依頼してきたそうだ。
 もうこうなれば、この人は、もはや「登山者」ではない。信号がなければ歩けない通行人でしかない。通行人は都市部の道路を歩けばいい。山に来る必要はない。いい迷惑だ。「自助努力」というものを一欠片(ひとかけら)も持っていない「甘えの権化」だ。

 雪渓の先端は後退している。種蒔苗代の直ぐ下から、どんどん後退して、錫杖清水付近に達している。だが「錫杖清水」はまだ雪の下だ。水は飲めない。まだ当てには出来ない。どうしても飲みたい人は「雪きり用のスコップ」でも背負ってきて「雪かき」をして「掘り出せ」ばいい。それが出来ない人は多めに飲料水を持参することだ。

 ミチノクコザクラは大沢の源頭部の右岸沿いに、すでに一部は満開である。雪解けに併せて咲き出すから、源頭部の左岸でも一部咲き出しているが、中部や下部ではまだである。右岸では、「坊主ころばし」辺りから咲き始めているが、錫杖清水付近はまだである。
 恐らく、「湧水」が飲める頃になると、両岸がミチノクコザクラで埋まるだろう。源頭部右岸も咲き出しは早いが、標高1100mほどの「滝の手前」でも咲き出した。右岸沿いに岩をへつるように登って滝の頭に出る途中の、岩の割れ目の「貧土」に一株一輪という咲き方だ。健気なものだ。
 ミチノクコザクラの生え方や咲き方は、その「与えられた土地」によって百様百態だ。一本として同じものはない。そして、背丈の低いショウジョウバカマがその下部や上部で、それを「取り巻く」ように咲いているのだ。加えて、黄色に点滅して彩りを添えてくれるのは、オオバキスミレである。
 右岸の花々は多く、目立っている。だが、それに惹かれて近づき過ぎてはいけない。左岸には底雪崩による崩落地が多いが、右岸の地質は脆いため雪崩ではないが、雪の重みと流下する張力によって引き起こされた大きな岩が無数に「寝そべって」いて、「落下」する機会を窺っている。花々の美しさに惹かれて近づいた時に、その「微妙な震動」で落下することはあり得るのだ。

 まだ顔を出していない錫杖清水を通り過ぎて種蒔苗代に近づくと、ミチノクコザクラを含めて、花の種類が増えてくる。
 目立たないがツツジ科のアカモノやイワツツジが見える。他にバラ科のミヤマキンバイ、スイカズラ科のウコンウツギ、バラ科シモツケ属のマルバシモツケだ。それにラン科のハクサンチドリだ。これはよく目立つ。
 種蒔き苗代の西側に立っている岩稜には「イワウメ」の白い花も見える。だが、何よりも目立つのは、登山道の両側に咲くミチノクコザクラである。
 ところが、その非常に目立つ足下のミチノクコザクラを踏みしだして歩いている人がいるのだ。(明日に続く)

「今年の大沢の雪渓、4人連れで登る。その前に、昨日相棒と登ったこと」(3)

2009-07-02 05:15:04 | Weblog
 (今日の写真は1998年11月15日に写した大沢の上部だ。この日は登り初めから深い霧に覆われていた。高度が上がるに従い、それは雪に変わったが、吹雪になることはなかった。視界は100m程度だろうか。大沢を登山道を辿りながら登って来たが、いつの間にか道は雪に覆われて見えなくなっていた。しかし、この程度の視界であれば山頂へ行くことはたやすい。間もなく種蒔苗代だ。胸にぶら下げているカメラで「後ろ」を向いて撮ったものだ。写真中央下部の雪には私の靴跡がはっきりと見える。もちろん、ワカンもアイゼンも着けてはいない。)

  「今年の大沢の雪渓、4人連れで登る。その前に昨日相棒と登ったこと」(3)

 続きを書く前に昨日のことを書こう。27日には「4人連れ」だったので「雪渓」を詳しく調査することが出来なかった。そこで、今年の「異常」な雪渓を調べ、ついでに、「アイゼン」登高の妙味を味わってこようと、昨日相棒と一緒に百沢登山道を登った。
 自宅を7時に出た。焼け止り小屋には9時30分頃着いた。だが、どうも「ひたすら脇目もふらずに登る」というわけにはいかない。
 後続する相棒は、足下や道ばた、それに目の高さや頭上の「花々」に目がいってしまうらしく、盛んに「これは何ですか」などという「問いかけ」をする。私が見過ごして、または「気にとめない」で通り過ぎた「花」などは、少し戻って確認をするということが続いた。
 その最初が「ウメガサソウ(梅笠草)」だった。次いで「クモキリソウ(雲切草)」だ。そのような調子で焼け止り小屋の手前までの「エゾノヨツバムグラ(蝦夷の四つ葉葎)」まで、10数種の花に出会い、その都度名前を確認しては立ち止まっているものだから、百沢スキー場の登山口を出てから2時間ほどかかって焼け止まり小屋に着いた。
 その時点で、私は山頂到着を11時過ぎ、遅くても11時30分と見込んだ。
    
 大沢雪渓の末端は27日に比べて殆ど「後退(山側に向かっては前進ということ)」していなかった。小屋から大沢に入り、右折して、左折をして右岸の縁を滝を高巻くように登りきったところが雪渓の末端だ。
 「アイゼン」を着ける。私の「アイゼン」はイタリヤのカンプ製「アルミ打ち抜き」で安価で軽量、ワンタッチで着脱が出来るというものだ。
 相棒のものは、カドタ製の「鍛造アイゼン」だ。「鍛造」だから「国定忠治の刀」ではないが「鍛えし業物」である。ちょっとのことでは曲がることもないし、折れることもない。絶対の安全を保障する業物なのだが、何しろ重い。その上、ベルトで固定する仕様であるから「着脱」に時間がかかる。
 これは、私がヒマラヤの7500m峰に行った時に使用したものだ。相棒と春夏秋冬、岩木山登山を始めてから、残雪期と厳冬期にはずっと、この「アイゼン」を使っているのだ。私のものとは「雲泥」の違いがある。私のものには「命の保障」はないのだ。
 だが、これまで、この「アイゼン」の出番は殆どなかった。「残雪期と厳冬期」には必ず、「ザック」の中に入っているのだが、登高は「ワカン」の「爪」を効かすことで十分だった。残雪期にほんの数回「試行」の類程度に使ったことはあったが、数百mに渡って「アイゼン」装着で「登下行」したことはなかったのである。
 その上、特に今季の3月から4月にかけての積雪期に実施した「烏帽子岳」ルートや「扇ノ金目山」ルートでは、私は相棒にピッケルワークと「キックステップ」の習得と習熟を強いた。相棒はほぼトップに立って「キックステップ」を続けた。そこで、痛いほど長距離と長時間続く「キックステップ」の疲れと辛さを体験した。
 相棒の体験は、その度に私に「楽な登山」を与えてくれたのである。相棒がいなければ出来ない登山だった。だが、「楽をすること」だけが私の狙いではない。
 「キックステップ」は「残雪期と厳冬期」の技術的な原点である。これが出来なかったり、「する体力に欠ける者」は「残雪期と厳冬期」に登山をするべきではない。相棒は確実に「キックステップ」のテクニックを習得し習熟した。
 そこで、次の段階である。相棒はこれまで、数度試し程度に「アイゼン」を着けて登高と下行をしたことがある。その体験は「キックステップ」に比べると、遙かに「楽」なものだったに違いない。しかも、安定性があり、「滑落」や「転倒」という恐怖から解放されるものでもあっただろう。
 しかし、10本や12本の爪が硬い雪面をしっかりと噛んでいるからといって「転倒」などがないかというと、そうではない。爪を引っかけたり、爪が靴を雪面に固定させるから、その都度、その都度バランスをうまくとらないと、下降する場合は頭から転倒することもある。重い荷物を背負っている場合は特にそうなる。
 「アイゼン」使用時の転倒や滑落を防ぐ基本には「キックステップ」技術があるのだ。そして、「アイゼン」での登下行には「キックステップ」という技術が連動的に絡み合っているのだ。「キックステップ」技術をマスターしないまま「アイゼン」を着けることは、言ってみれば、それは「自爆行為」に等しい。
 その上、相棒は「ピッケルワーク」にも馴れていた。ピッケルでバランスをとりながら、12本爪のつま先部分を差し込むようにしながら、残りの10本爪を雪面全体に差し込むようにして登る。下りは踵から、アイゼンの後部の2本の爪を蹴り込むようにしながら、全体を雪面に付置していく。
 相棒は「長距離のアイゼン登下行」を渇望していた。幸いにも今季は大沢の雪渓は長い。チャンス到来である。これまでの地道な基本訓練を経ているので、本番は大丈夫だ。
 …ということで、この「アイゼン」を主体にした百沢登山道利用の「登山」が行われたのである。
 もちろん、「ザイル」の出番はなかった。「アンザイレン」することも、ザイルを張ることも、相棒にはまったく不要だったからである。27日の登山とは「この部分」が違うのである。(この稿、明日に続く)