岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

「フォーラム:森の多様な生態系と遊歩道のあり方を伐採から考える」開催2月20日(2)

2010-02-17 05:16:44 | Weblog
 (今日の写真は、岩木山のミズナラ林内の道である。これに、「岩木山・ミズナラふれあいの径」と名づけるとどうだろう。
 この道には「簡易舗装」は施されてはいない。森と道に人工的な境界線はない。だから、いつでも、道の左右から草木が道を覆うことが出来る。この道を歩く人とこの道の地面を草木が根で持って共有しているからである。
 歩く人たちは、この道幅で満足している。これ以上広げるという気持ちは誰一人として持たない。森の道は「人一人が歩ければいい」と考えているからである。そして、この考えが、森の草木を傷めない方法であることを知っている。
 樹木が朽ちて倒れたら、道脇に寄せればいい。それが出来ない時は「倒木」を避けて通ればいい。
 「生物多様性」などという難しい言葉は使わないが、これが森を育むことであり、私たちを癒し、恵みを与えてくれる「生物多様性」であるということを知っているからである。)

□□ 今どうして「生物の多様性」、「多様な生態系」および「森林内部に敷設される歩道のあり方」を主題とするフォーラムを、何故、この主題で開催するのか □□
(承前)

 …この「フォーラムデスカッション」開催を計画させた要因には…
①「『生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)』が名古屋市で、今年10月に開催されること」がある。

 今年、2010年には名古屋市で「生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)が開催され、多様性保全のための新たな目標や、遺伝子レベルで医薬品などのもとになる有用生物を取り扱う国際ルール作りなどが議論される予定だ。
 1992年に採択された国連の「生物多様性条約」は「生物多様性が失われる速度を2010年までに顕著に減らす」との目標を立てた。
 日本も含め191の国・地域が参加しているが、「達成の見通しは立っていない」といわれている。

 名古屋市は愛知県にある。その愛知県の意識調査では、「生物多様性」という言葉について、86%が「あまり知らない」「ほとんど知らない」と答えたそうだ。
国を挙げて招聘する会議の開催国の人々の「議題」に対する認識の低さ、これをどのようにとらえればいいのか。これだと、ただ、単に「開催場所」を提供するだけである。
 大きな屋敷を持って、豪邸を建て、その一室を会議室用に提供したが、その豪邸に住む人も、従業員も「議題」についての理解はまったくないということと同じではないか。これだと、外国からバカにされてもしょうがない。
 やはり、「国際会議」の内容にについては、国民がすべて理解しておくべきだろう。だが、国がこのことに腐心しているという姿勢は見えない。
だから、この東北の小さな都市、弘前でも「生物多様性」についての学習と理解の場を設けようとしたのである。
 「フォーラム」や「シンポジウム」、それに「講演会」のテーマというものは人々の関心の高いものが重宝がられる。話題性やブームに左右されるし、主催する人や講演者の知名度も大切な要素だ。有名人が講師だと聴衆は集まる。
 だから、「人々の関心の薄い話題」の「フォーラム、シンポジウム、講演会」は開かれないのが常だ。
 「生物多様性」についての愛知県の意識調査では、86%の人が「あまり知らない」「ほとんど知らない」と答えている。これは、全国的、一般的な「比率」だろう。「関心」を持っているのは全国民の15%なのだ。これだと、「生物多様性」をテーマにした「フォーラム、シンポジウム、講演会」に人が集まるわけがない。
 「フォーラム、シンポジウム、講演会」の評価の基準には「参加人数」がある。多く集まれば集まるほど、それは「成功」とされる。「人が集まるわけがない」ことを知った上で、あえて、その手の「フォーラム、シンポジウム、講演会」を開くものはいない。最初から「不成功」という烙印が捺されること知っていて、「それをやる」というのは「愚かな者」の所行だろう。
 私たち、「岩木山を考える会」はその意味では「愚か者」であろう。しかし、私たちは「評価基準」に「参加人数」を置いていない。
 先ずは開催するということに「価値」を置いた。「人が集まらないテーマでは開催しない」が現実的な事実である。だから、この「生物多様性」をテーマにした「フォーラム」は青森県では、恐らく「最初」であろう。この手の話題は事務局には直ぐ入ってくるが、これまで聞いたことがない。
 「東北自然保護の集い」でも、2、3確認したが「生物多様性」を直接テーマにした「フォーラム、シンポジウム、講演会」はない。20日に開催する「フォーラム」はきっと東北地方でも最初のものであるはずだ。
 開催する評価基準は「参加人数」だけではない。「フォーラム、シンポジウム、講演会」の大体は「評価基準」が主客転倒している。「300人予定していた会場に400人も集まり、講演会は大成功だった」とマスコミは報ずる。だが、「聴いた参加者の内容理解はどうだったのか、講演の内容は、その質的にどうだったのか、分かりやすい話しだったのか、参加者は何を学び、これから何をしていこうとするのか」などについての視点で捉えることはない。
 私たちは、これらの点を「評価基準」とするつもりでいる。だから、「人数」は問題ではない。先ずは「隗より始めよ」なのである。だが、少ない人数よりも多いに越したことはない。
 昨日、「核燃料サイクル施設立地反対津軽地区連絡会議」主催の「市民講座」に参加した。今回の「再処理工場本格稼働の危険性」~低線量平常時被爆の危険が迫る~で10回目となった。
 ほぼ毎回参加しているが、参加者はいっこうに増えない。「評価基準」を参加者数にすると「毎回」不成功である。
 だが、毎回参加していることで、それまで、つながっていかなかった「テーマごとの内容」が、まるで化学式の「亀の子たわし」図のようにつながってきている。
 核廃棄物の殆どは目に見えない。線と熱、それに気体は目に見えない。その見えないものを「見えるように」話し、それらがつなぎあった時、そこには「目に見える」化学式が現れてくるのである。
 これが、「少人数」の参加者でも「開催」すること、開催していることの「価値」なのであって、「評価」はこの観点からもされてしかるべきなのだ。(明日に続く)