岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

岩木山のコマクサについての問い合わせ(5) / 稲葉さんからの返信に思う「生物の多様性」

2010-02-14 05:10:29 | Weblog
 (今日の写真は、ナデシコ科マンテマ属(またはフシグロ属)の多年草である「マツヨイセンノウ(待宵仙翁)」だ。岩木山スカイラインターミナル手前の切り通しの崖で撮ったものだ。
 岩木山で「外国産の植物」が多く見られるのは、この「スカイライン」沿いである。自動車で人が入るとこのようになることは当然予想されたことだろう。だが、「そのことを防ぐ手立ても駆除も」全く講じられてはいない。はっきり言って「業者」と「行政」の怠慢、それに、訪れる人の「無関心」と「不注意」がその原因だ。昨日の「アラゲハンゴンソウ」や「マツヨイセンノウ」、それに、「ブタナ」や「コウリンタンポポ」など、外国産の植物が繁茂している。
 その内に、岩木山に昔から生えていた「ミチノクコザクラ」などの「在来種」がこれらに駆逐されて、なくなってしまうかも知れない。
これは「雌雄異株」の植物で、道端や荒地などに生え、茎の高さが30~70cmになるヨーロッパ原産の帰化植物だ。明治時代に園芸植物として持ち込まれたといわれている。
 全体に毛が密生して、茎上部の花序に、直径2~3cmの白色の花をまばらにつける。花弁は5枚で、先端は2裂する。雄花には雄しべが10本、雌花は萼筒がふくらんで、雌しべが1本、花柱が5本ある。
 葉は対生し、披針形で、両面に毛がある。花は夕方から咲いて、翌朝はしぼむといわれているが私が撮ったのは午後である。別名を「ヒロハノマンテマ(広葉マンテマ)」という。マンテマの和名はマンテマで別名もない。
 和名の「マンテマ」は、海外から日本に入ってきたときの「マンテマン」という呼び方が変わったもので、もともとは、Agrostemmaが転訛したものが語源と考えられている。

◇◇ 岩木山のコマクサについての問い合わせ…(5) ◇◇
【稲葉さんからの返信】

[お返事ありがとうございます。白山でのコマクサの現状の資料につきましては、現在まとめている最中です。
 環境省の業務で行っているので保護官の了解が必要です。資料ができあがり、了解が得られましたらお示しできると思います。

 岩木山の他、北海道の樽前山、天塩岳などでのコマクサの除去活動が行われています。
これらの地域は除去そのもの、それでコマクサがどう減ったと言う部分がクローズアップされていました。
 当然、それでよいとは思うのですが、私としてはそこに生えているコマクサをどう捉え、何が問題なのかという除去に至るまでのプロセスが重要だと考えています。
 そういう意味で「岩木山の例」は非常に参考になると思いご連絡させて頂いた次第です。

 白山でも安易にすぐに「除去」という選択肢に飛びつくのではなく、調査を継続しながら、関係機関と議論を重ね、合意形成ができた後に、おそらく「除去という対策」に動き出すと考えています。
 そのためにも、来年度以降も調査を継続し、対策を検討していくことになると思います。
 私個人としては、このコマクサが白山に現在、生育しているとことを通して、最近の「生物多様性が叫ばれる中での、本質の自然とそれと向き合う人間のあり方をじっくり考えたいし、多くの人がそのこと一緒に考えてくれるような事例としていきたい」と思っています。]

◇◇ 稲葉さんからの返信に思う「生物の多様性」 ◇◇

…「生物の多様性」、「多様な生態系」、「これまでのあった『自然を護る』」という観点からの議論は非常に、起こりにくい…

 私も稲葉さんの思いと同感なのだ。特に、最後の「生物多様性が叫ばれる中での、本質の自然とそれと向き合う人間のあり方をじっくり考えたいし、多くの人がそのこと一緒に考えてくれるような事例としていきたい」という部分はまさにそのとおりであると思う。
 私たちが「調査を続け、『自然保護課、森林管理署、県林政課、旧岩木町』と相談をしながら、合意をして抜き取り作業をした」ことは、新聞等でも報じられたが、社会的な反応は少なかった。
 調査段階でも「岩木山にコマクサ」ということで、報じられたが、これも社会からの反応は「岩木山にコマクサが生えているのか」という程度で、まるで、一過性のものの如くに片づけられたきらいがあった。
 「抜き取り作業」に対しても、同じだ。それを評価するという論調は、どこからも聞こえず、ただ、「あんなに可愛い花を抜き取ることはしなくてもいいではないか」という声が会員の中から2、3あった程度だ。
 ただ、会長には「あれはやり過ぎだ」といった人がいたとかいなかったとか、曖昧な言い分だったが、会長はそのようなことを言っていた。
 「生物の多様性」、「多様な生態系」という観点から、または「これまでのあった『自然を護る』」という観点からの議論は非常に「起こりにくい」ものだ。
 単純で短絡に過ぎるかも知らないが、これは多くの人にとって「生物の多様性」、「多様な生態系」や「これまでのあった自然」というものについての理解がないからであろう。
 昔の人は、自分の周りにある野原や森林という自然の中にある「多様な生態系」に合わせて「衣食住」に関わる文化をつくりあげてきた。その「衣食住」に関わる文化は、当然、感性の所産である芸術を生み出し、精神世界を形成する宗教などを生み出すことになっていった。
 現代人が「生物の多様性」、「多様な生態系」になかなかたどり着けない主な理由は、「現代文化」が主に「文明」からの所産であることだ。
 もう1つは「生物の多様性」、「多様な生態系」というもののと「無縁」な中で生きているということである。それは、「無縁」だと思い込んでいると言い換えてもいいだろう。(明日に続く)