(今日の写真は 鳳鳴小屋の前で「岩木山山頂」に向かって登山囃子を演奏「奉納」している小鹿社中のメンバーである。撮影者は相棒のTさんだ。)
(承前)
「昨日の続きはここから始まる」…小鹿社中メンバーとの出会い (2)
この5人組「小鹿社中」の面々は岩木山登山は初めてだという。
登山の中で一番大事な「用具」は靴である。しかし、彼らが履いているものは「登山靴」ではない。普通の靴である。もちろん、服装もそのまま「街歩き」をしてもいいものだった。
その彼らが、岩木山で一番斜度のきつい、しかもひたすら「登り」だけが続く「百沢登山道」を登って来たのである。その上、標高1000mを越えると登山道は岩が続く大沢に入り、足場や手がかりは極端に悪くなる。加えて、標高1300から1400mにかけては雪渓がある。雪面は硬く登山靴でも「キックステップ」がままならない。そのようなところを「普通の靴」で登って来たのである。
それだけではない。この大沢北面の上部で4月に大規模な「全層雪崩」が発生して、その崩落物がルート状の沢になだれ込み、登山道やそのルートを完全に塞いでいた。
この状態ではかなり歩き込んでいる「登山者」でも尻込みをして、その場で「登山」を止めて引き返すのである。毎年、雪渓を登り切れないで引き返す登山者に、私は出会っていた。しかも、今年は「雪崩のデブリ(堆積物)」が登山者を阻んでいたのである。
このように、きつい登山道ゆえに奉納「登山」や「成人儀礼」登山としての「お山参詣」は、この百沢登山道で昔から行われてきたのだ。
彼ら5人組が、この登山道を選び、必死になって登って来た意味はここにある。その登りが、彼らにとって「辛ければ辛いほど」それは御利益(ごりやく)として報われるべきだろう。
山頂には時間切れで行けないが、その意味からすれば十分彼らには「登山囃子奉納」をする自分たちで作り上げた内実的な資格があるのだ。彼らが 鳳鳴小屋まで登って来た事実は、登山囃子奉納登山の99%を達成していた。
大きな太鼓を持って登って来たのはリーダーの小鹿拓海君だ。このような形態のものを「持って」登った経験は私にはない。ただ、背負うということを考えると、背負うための「道具」はない。肩から斜めに提げて登ってくるしかない。その分だけ横に「出っ張る」わけだから、樹木や枝や、岩などにぶつかり、登ることを阻んだであろう。だから、小鹿君の尋常でない「苦労」は十分想像出来た。
私たちは小鹿君の傍らに置かれた大きな太鼓を見て、どうしてもこの場で「登山囃子」の奉納、つまり、演奏をさせなければいけない思ったのだ。
「何とかリフトの時間には間に合いますから、登山囃子の演奏をして下さい。」
「もう疲れてしまい、その元気はありません。立っているのもやっとなんですから…」
「さあ、みなさん、ここまでみんなで頑張ってきたんですから、このまま帰ることはありません。10分いや5分でいいんです。演奏しましょう。」
リーダーの小鹿君が立ち上がって、太鼓を肩にかける。1人は横笛を袋から取り出した。また1人は鉦をザックから取り出す。座っていた全員が立ち上がった。
もう、みんなの気持ちは決まったようだ。5人は岩木山の山頂に向かって一礼をした。そして、「登山囃子」の演奏、つまり奉納が始まったのである。
山頂は霧に包まれている。この場合は雲と言ったほうがいい。時折、山頂を覆っている雲は薄くなり「輪郭」だけの山頂をうっすらと見せる。まるで、「山頂」が奉納されている登山囃子に聞き耳を立てて、その音色に感激して、演奏する人たちをこっそりと見ているかのようだった。
大きな太鼓の音、その力強い響き、明るく軽快な笛の音、この広い空間に澄み渡る鉦の音色、1人が空になった大きなペットボトルを叩くリズミカルな響きなどが…、背後の御蔵石や大倉岩に反響する。そして、その音色は眼下に見える種蒔苗代(古い爆裂火口)の水面で大きく増幅されて山頂に向かい、岩木山全体に響き渡ったのだ。私には背中に熱いものが走り、それが全身を貫いていくことが、よく分かった。そして、それが目にあふれそうになった。だが、ぐっとこらえた。
これを措(お)いて、他に「登山囃子」奉納はあるだろうか。私は傍らにある岩のように「固く」緊張して聴いていた。そのように緊張で身動き出来ない状態にある私を察して、Tさんは演奏する彼らを少し離れた高いところから、撮し始めたのである。
短い演奏は終わった。私たちは心から拍手を送った。みんなの顔には笑みがあった。満足感と上気した達成感が見て取れた。本当によかった。嬉しかった。若者万歳である。
「本当にすばらしい登山囃子の演奏でした。ありがとうございます。」
「こちらこそありがとうございます。この状態で岩木山で演奏が出来るとは思いませんでした。それが出来て嬉しいです。」
「あの、写真を撮ったので送りたいと思います。メールをやっている人いませんか。」「小鹿が…」と数人が言う。
そこで、私は小鹿君に私の名刺を渡し、私のアドレスに「住所」を送ってくれるように頼んだのである。
(この稿は明日に続く・なおこの文章は小鹿拓海君たちの了解を得た上で掲載しています。写真も同様です。)
(承前)
「昨日の続きはここから始まる」…小鹿社中メンバーとの出会い (2)
この5人組「小鹿社中」の面々は岩木山登山は初めてだという。
登山の中で一番大事な「用具」は靴である。しかし、彼らが履いているものは「登山靴」ではない。普通の靴である。もちろん、服装もそのまま「街歩き」をしてもいいものだった。
その彼らが、岩木山で一番斜度のきつい、しかもひたすら「登り」だけが続く「百沢登山道」を登って来たのである。その上、標高1000mを越えると登山道は岩が続く大沢に入り、足場や手がかりは極端に悪くなる。加えて、標高1300から1400mにかけては雪渓がある。雪面は硬く登山靴でも「キックステップ」がままならない。そのようなところを「普通の靴」で登って来たのである。
それだけではない。この大沢北面の上部で4月に大規模な「全層雪崩」が発生して、その崩落物がルート状の沢になだれ込み、登山道やそのルートを完全に塞いでいた。
この状態ではかなり歩き込んでいる「登山者」でも尻込みをして、その場で「登山」を止めて引き返すのである。毎年、雪渓を登り切れないで引き返す登山者に、私は出会っていた。しかも、今年は「雪崩のデブリ(堆積物)」が登山者を阻んでいたのである。
このように、きつい登山道ゆえに奉納「登山」や「成人儀礼」登山としての「お山参詣」は、この百沢登山道で昔から行われてきたのだ。
彼ら5人組が、この登山道を選び、必死になって登って来た意味はここにある。その登りが、彼らにとって「辛ければ辛いほど」それは御利益(ごりやく)として報われるべきだろう。
山頂には時間切れで行けないが、その意味からすれば十分彼らには「登山囃子奉納」をする自分たちで作り上げた内実的な資格があるのだ。彼らが 鳳鳴小屋まで登って来た事実は、登山囃子奉納登山の99%を達成していた。
大きな太鼓を持って登って来たのはリーダーの小鹿拓海君だ。このような形態のものを「持って」登った経験は私にはない。ただ、背負うということを考えると、背負うための「道具」はない。肩から斜めに提げて登ってくるしかない。その分だけ横に「出っ張る」わけだから、樹木や枝や、岩などにぶつかり、登ることを阻んだであろう。だから、小鹿君の尋常でない「苦労」は十分想像出来た。
私たちは小鹿君の傍らに置かれた大きな太鼓を見て、どうしてもこの場で「登山囃子」の奉納、つまり、演奏をさせなければいけない思ったのだ。
「何とかリフトの時間には間に合いますから、登山囃子の演奏をして下さい。」
「もう疲れてしまい、その元気はありません。立っているのもやっとなんですから…」
「さあ、みなさん、ここまでみんなで頑張ってきたんですから、このまま帰ることはありません。10分いや5分でいいんです。演奏しましょう。」
リーダーの小鹿君が立ち上がって、太鼓を肩にかける。1人は横笛を袋から取り出した。また1人は鉦をザックから取り出す。座っていた全員が立ち上がった。
もう、みんなの気持ちは決まったようだ。5人は岩木山の山頂に向かって一礼をした。そして、「登山囃子」の演奏、つまり奉納が始まったのである。
山頂は霧に包まれている。この場合は雲と言ったほうがいい。時折、山頂を覆っている雲は薄くなり「輪郭」だけの山頂をうっすらと見せる。まるで、「山頂」が奉納されている登山囃子に聞き耳を立てて、その音色に感激して、演奏する人たちをこっそりと見ているかのようだった。
大きな太鼓の音、その力強い響き、明るく軽快な笛の音、この広い空間に澄み渡る鉦の音色、1人が空になった大きなペットボトルを叩くリズミカルな響きなどが…、背後の御蔵石や大倉岩に反響する。そして、その音色は眼下に見える種蒔苗代(古い爆裂火口)の水面で大きく増幅されて山頂に向かい、岩木山全体に響き渡ったのだ。私には背中に熱いものが走り、それが全身を貫いていくことが、よく分かった。そして、それが目にあふれそうになった。だが、ぐっとこらえた。
これを措(お)いて、他に「登山囃子」奉納はあるだろうか。私は傍らにある岩のように「固く」緊張して聴いていた。そのように緊張で身動き出来ない状態にある私を察して、Tさんは演奏する彼らを少し離れた高いところから、撮し始めたのである。
短い演奏は終わった。私たちは心から拍手を送った。みんなの顔には笑みがあった。満足感と上気した達成感が見て取れた。本当によかった。嬉しかった。若者万歳である。
「本当にすばらしい登山囃子の演奏でした。ありがとうございます。」
「こちらこそありがとうございます。この状態で岩木山で演奏が出来るとは思いませんでした。それが出来て嬉しいです。」
「あの、写真を撮ったので送りたいと思います。メールをやっている人いませんか。」「小鹿が…」と数人が言う。
そこで、私は小鹿君に私の名刺を渡し、私のアドレスに「住所」を送ってくれるように頼んだのである。
(この稿は明日に続く・なおこの文章は小鹿拓海君たちの了解を得た上で掲載しています。写真も同様です。)