[本ホームページへのアクセス数が50.000に達したのが6月14日だった。それから1ヶ月、30日間のアクセス数は728であった。アクセスされた方に心から「有り難う」と言いたい。
願わくばこれからは1ヶ月に830を越えるアクセスを期待したい。そのペースでいくと年間10.000アクセスも夢ではなくなる。]
(今日の写真は弥生登山道にある七合目標識である。よく見ると「弥生登山道」という文字の「登」の右上部分が禿げているように見えるだろう。これは、クマが爪で剥ぎ取った部分なのだ。この写真は相棒のTさんが写したものだ。
弥生登山道沿いでは数年前から「クマ」が目撃されているし、私も足跡や糞を数回発見している。この登山道を利用する登山者は非常に少ない。地元の登山者でもマニアックな人でなければ、殆ど登らない。
既に書いたが6日も私たちの他に登山者が個人登山者2人、タケノコ採りの男性が1人と、合計5人である。
これだとクマにとっては自分の生息域で「安心」していられるというものだろう。道々に排出されていた糞の多さはそれを物語っているのだ。
この爪で引っかかれ一部剥ぎ取られた標識も「クマ」の強力な「縄張り宣言」であるかも知れない。
「クマ」には自分の生息域にある「立木」や人工的な「標識」などに自分の体をこすりつけたり、囓ったり、爪を立てたりする習性があるのだ。これは他の「クマ」に自分の存在を知らせるためのものであり、これをすることで他の「クマ
」との接触を避けているのである。接触は「争い」につながる。彼らはそうしながら無益な「争い」を巧みに避けているのである。
爪を立てられたり、囓られたりしたこの手の標識類は、遠いところでは「白神山地の向白神岳山頂」や、近いところでは「平川市志賀坊高原東奥の歩道沿い」でも見られるのだ。
私たちはこの「クマ」が送ってくれている「シグナル」を十分理解しながら、「クマ」の王道を「歩かせてもらおう」ではないか。
ところが、昨年まで掲示されていた、詳しくは岩木町時代からのものだが「クマに注意して下さい」という看板が見えないのである。弘前市と合併したらこんなところへの対応の真摯さにも翳りが出てきている。「吸収合併」というものが内在しているマイナス面がもろに現れているといっていい。
私はこのように、きめの細かい活動が出来なくなることを指摘して「合併」には反対をし続けたのである。
弥生登山道を登る人は「クマ」に注意して欲しい。クマ棲んでいるところに入るのだから、「どうかあなたの棲み場所を使わせて下さい」というお願いの気持ちで、挨拶をするべきなのだ。
それは、こちらの存在をそれとなく「クマ」に知らせることである。それには30分おきぐらいに笛を吹くのが一番いい。笛はバスケットボールの試合で使用されるような、一般的なものでいいのだ。「クマよけ鈴」の垂れ流しはごめん被りたい。)
(承前)
「昨日の続きはここから始まる」…小鹿社中メンバーとの出会い (1)
…誰も登ってこない一の御坂を降りる。既に3時を過ぎていた。霧がなければイヌワシを見ることが出来たかも知れない。イヌワシは人影が山頂から消える頃に、現れることが多いのだ。
二の御坂に入る。4日に開かれた「岩木山環境保全協議会」で話題になった「岩崩落現場」を視認しながら右側を丁寧に辿る。
視界の利かない鳳鳴小屋の前あたりから人の声が聞こえてくる。複数名で女性もいるようだ。もしも、この声の主たちが、スカイラインとリフトを利用して登ってきて、またそれらを利用して下山するのであれば、時間的にあまり余裕はないなあと思った。リフトは4時20分で終了するからである。
鳳鳴小屋の前に着いて、そこを素通りして私たちは百沢登山道に向かう。そして、百沢登山道への降り口付近で、休んでいた5人の「若い男女」と出会った。
簡単な「山」での挨拶を交わして移動しようとした時、私はこの「男女5人組」の異様な雰囲気に気がついた。明らかに一般的な普通の登山グループではなかった。しかも、少なくとも「リフト」を利用してやって来た者ではないと思ったのである。男性が3人、女性が2人である。
5人とも靴は泥まみれ、ズボンもかなり汚れていた。特に1人の男性は、膝も尻も泥まみれで、特別疲れ切っているように見えた。その男性の傍らには「太鼓」が置かれていた。
そこで訊いた…。
「朝、私たちが百沢の駐車場に車を置くに行った時に出会ったかたでしたか。」
「いいえ、違います。9時頃百沢から登って来ました。」
「いや、それは大変でしたね。4月に全層雪崩が発生して百沢登山道の大沢登りは危険がいっぱいで、しかも登りづらいのです。よく、頑張ってここまで来ましたね。ご苦労様でした。」
「疲れてしまいもう動けません。時間も時間だし、頂上に行くことはあきらめました。」
「太鼓を持参したということは、ひょっとして登山囃子の奉納登山ですか。」
「はい、一応そのつもりで来たのですが、時間切れです。スカイラインで降ります。」
…私とTさんには「疲れ切っているが時間があれば山頂に行きたい。そして、山頂で登山囃子の奉納をしたい。しかし、それはもはや出来ない」という彼らの無念さと悔しさががよく分かった。
時計を見ながらリフト最終時間の4時20分に合わせて、この場所で「登山囃子の演奏」の時間が取れないかを計算した。リフト乗り場まで15分、よし、10分程度の演奏は可能だ。
そして、私たちは彼らに言った。
「10分程度ならば余裕がありますよ。せっかく演奏するつもりで、苦しい登りに耐えて、太鼓を持って登って来たのでしょう。ここで演奏しなさいよ。岩木山の頂上に向かって太鼓をたたいて、笛を吹いて、鉦を鳴らして下さい。今は頂上も濃霧に隠れていますが、きっと顔を出してくれます。」Tさんも「そうしなさい。」と後押しをする。
私たちは彼ら「若者の心意気」に何とか大人として、報いたいと思い、盛んに「プッシュ」し続けたのである。(この稿は明日に続く。)
願わくばこれからは1ヶ月に830を越えるアクセスを期待したい。そのペースでいくと年間10.000アクセスも夢ではなくなる。]
(今日の写真は弥生登山道にある七合目標識である。よく見ると「弥生登山道」という文字の「登」の右上部分が禿げているように見えるだろう。これは、クマが爪で剥ぎ取った部分なのだ。この写真は相棒のTさんが写したものだ。
弥生登山道沿いでは数年前から「クマ」が目撃されているし、私も足跡や糞を数回発見している。この登山道を利用する登山者は非常に少ない。地元の登山者でもマニアックな人でなければ、殆ど登らない。
既に書いたが6日も私たちの他に登山者が個人登山者2人、タケノコ採りの男性が1人と、合計5人である。
これだとクマにとっては自分の生息域で「安心」していられるというものだろう。道々に排出されていた糞の多さはそれを物語っているのだ。
この爪で引っかかれ一部剥ぎ取られた標識も「クマ」の強力な「縄張り宣言」であるかも知れない。
「クマ」には自分の生息域にある「立木」や人工的な「標識」などに自分の体をこすりつけたり、囓ったり、爪を立てたりする習性があるのだ。これは他の「クマ」に自分の存在を知らせるためのものであり、これをすることで他の「クマ
」との接触を避けているのである。接触は「争い」につながる。彼らはそうしながら無益な「争い」を巧みに避けているのである。
爪を立てられたり、囓られたりしたこの手の標識類は、遠いところでは「白神山地の向白神岳山頂」や、近いところでは「平川市志賀坊高原東奥の歩道沿い」でも見られるのだ。
私たちはこの「クマ」が送ってくれている「シグナル」を十分理解しながら、「クマ」の王道を「歩かせてもらおう」ではないか。
ところが、昨年まで掲示されていた、詳しくは岩木町時代からのものだが「クマに注意して下さい」という看板が見えないのである。弘前市と合併したらこんなところへの対応の真摯さにも翳りが出てきている。「吸収合併」というものが内在しているマイナス面がもろに現れているといっていい。
私はこのように、きめの細かい活動が出来なくなることを指摘して「合併」には反対をし続けたのである。
弥生登山道を登る人は「クマ」に注意して欲しい。クマ棲んでいるところに入るのだから、「どうかあなたの棲み場所を使わせて下さい」というお願いの気持ちで、挨拶をするべきなのだ。
それは、こちらの存在をそれとなく「クマ」に知らせることである。それには30分おきぐらいに笛を吹くのが一番いい。笛はバスケットボールの試合で使用されるような、一般的なものでいいのだ。「クマよけ鈴」の垂れ流しはごめん被りたい。)
(承前)
「昨日の続きはここから始まる」…小鹿社中メンバーとの出会い (1)
…誰も登ってこない一の御坂を降りる。既に3時を過ぎていた。霧がなければイヌワシを見ることが出来たかも知れない。イヌワシは人影が山頂から消える頃に、現れることが多いのだ。
二の御坂に入る。4日に開かれた「岩木山環境保全協議会」で話題になった「岩崩落現場」を視認しながら右側を丁寧に辿る。
視界の利かない鳳鳴小屋の前あたりから人の声が聞こえてくる。複数名で女性もいるようだ。もしも、この声の主たちが、スカイラインとリフトを利用して登ってきて、またそれらを利用して下山するのであれば、時間的にあまり余裕はないなあと思った。リフトは4時20分で終了するからである。
鳳鳴小屋の前に着いて、そこを素通りして私たちは百沢登山道に向かう。そして、百沢登山道への降り口付近で、休んでいた5人の「若い男女」と出会った。
簡単な「山」での挨拶を交わして移動しようとした時、私はこの「男女5人組」の異様な雰囲気に気がついた。明らかに一般的な普通の登山グループではなかった。しかも、少なくとも「リフト」を利用してやって来た者ではないと思ったのである。男性が3人、女性が2人である。
5人とも靴は泥まみれ、ズボンもかなり汚れていた。特に1人の男性は、膝も尻も泥まみれで、特別疲れ切っているように見えた。その男性の傍らには「太鼓」が置かれていた。
そこで訊いた…。
「朝、私たちが百沢の駐車場に車を置くに行った時に出会ったかたでしたか。」
「いいえ、違います。9時頃百沢から登って来ました。」
「いや、それは大変でしたね。4月に全層雪崩が発生して百沢登山道の大沢登りは危険がいっぱいで、しかも登りづらいのです。よく、頑張ってここまで来ましたね。ご苦労様でした。」
「疲れてしまいもう動けません。時間も時間だし、頂上に行くことはあきらめました。」
「太鼓を持参したということは、ひょっとして登山囃子の奉納登山ですか。」
「はい、一応そのつもりで来たのですが、時間切れです。スカイラインで降ります。」
…私とTさんには「疲れ切っているが時間があれば山頂に行きたい。そして、山頂で登山囃子の奉納をしたい。しかし、それはもはや出来ない」という彼らの無念さと悔しさががよく分かった。
時計を見ながらリフト最終時間の4時20分に合わせて、この場所で「登山囃子の演奏」の時間が取れないかを計算した。リフト乗り場まで15分、よし、10分程度の演奏は可能だ。
そして、私たちは彼らに言った。
「10分程度ならば余裕がありますよ。せっかく演奏するつもりで、苦しい登りに耐えて、太鼓を持って登って来たのでしょう。ここで演奏しなさいよ。岩木山の頂上に向かって太鼓をたたいて、笛を吹いて、鉦を鳴らして下さい。今は頂上も濃霧に隠れていますが、きっと顔を出してくれます。」Tさんも「そうしなさい。」と後押しをする。
私たちは彼ら「若者の心意気」に何とか大人として、報いたいと思い、盛んに「プッシュ」し続けたのである。(この稿は明日に続く。)