(今日の写真は鶴田町廻堰の裏側と桑木田沿いを通っている「農道」脇に咲いていたクサフジの花だ。昨日のブログで簡単に紹介してあるので「解説」は書かないで、写真だけにとどめることにする。それにしてもいい色具合だろう。
このくらい色鮮やかだと時速20km程度のスピードだと、簡単に「目にとどめる」ことが出来る。しかも、花名の判別も容易である。
しかし、藪に紛れたり、一瞬だけの色彩や映像だけの視認では「花名」の判別は出来ない。そんな時は走行を止めて「降りて」近づいて確認する。私にとっては、これも「自転車走行」の楽しみの一つになっている。)
自転車で…走る(その2)
(承前)…
だが、自転車走行の最大で、最高の楽しみは「歩くよりも」「走るよりも」楽に遠い距離の「外出」が可能なことだ。
これは幼児、または小学生の時に、初めて自転車に乗ったの時の「喜び」や「感動」につながっている。小学生の日常的な生活空間は狭い。広げたとしても「自分の家と通学する小学校までの距離」を半径として描かれる円内に収まるだろう。
ところが、「自転車」という文明の利器は、その行動半径を無限に長くし、行動範囲を広げてくれる。
私が自転車を愛する理由はここにある。自転車は、何歳になっても、小学生が持つ「自力でどこまでも行きたい」という思いを叶えてくれるものなのだ。私は今67歳だが、自転車を見て、それに跨る時は、いとも容易(たやす)く、小学生や少年時代の「思いと感覚」に漬(ひた)ることが出来るのだ。
私は貧しかったので「子供用」自転車を持っていなかった。「子供用」自転車が世の中になかった訳ではない。だが、その時代は「子供用」の自転車の数がすごく少なかった時代だった。
自転車の種類も単一で「実用車」と呼ぶべきものだけであったと記憶している。現在、よく見られるロードレーサーも、トライアスロン仕様車も、ツーリング・スポルティーフも、ランドナーミキストも、マウンテインバイク(MTB)も、バイシクルモトクロス(BMX)も、シテイサイクルも、ファッションサイクルなども、なかった時代であったように思えるのだ。
「自転車」は、現在の自動車並みの経済的実用的価値を有するものであり、そのように考え、大人も子供もみんな、大事に大切にしていた。「放置自転車」などはおよそ、あり得ない社会だったのである。
大体の子供たちは「大人用」の自転車で「乗り方」を練習し、それに「そのまま」、色々と工夫をして乗ったものだ。
サドルに座るとペダルまで足が届かない。当たり前だ。脚が短いからだ。
そんな時はペダル主軸を頂点とする逆三角形のフレーム内に片脚を入れて立ったままで「ペダル」を踏んで走行した。
自転車は重かった。今は、アルミ合金とかチタン素材、カーボン素材を使い、フレームのみならず、タイヤまで軽量になっている。中には、10kgを切るものもあるという。
当時の自転車はその2倍以上の重量であった。その重い「文明の利器」を操り、怪我をしながらも少年たちは、自分たちの活動エリヤを拡大して、「視野」を広げていったのである。
「今日は隣町の小学校まで行った。明日はそれを越えた何々村の小学校まで行ってみよう」と、自分だけの「地図」に走行したルートを書き込んでいったのである。
それはまさに、「冒険」の記録でもあったのだ。私は今でも、自転車で出かける時には「冒険」に旅立つ時のような「わくわくとした」胸の高鳴りを覚えるのである。
…私は、『四車線並みに拡幅され、新しい「アスファルト鋪道」と道路の片側(北東側)にのみ「高い交通標識柱」と「街路灯」が設置され、対向する自動車のライトの反射板を埋め込んだ「丈の低い1mほどの指導標柱」が道の両側に設置されている「高速道路」のような「農道」』を走行しながら、その不思議な「場違い感」にとまどい、その用途の不確かさに呻吟し、ここに「在ること」の存在意義を憤りながら考えていた。
そして、走行しながらの観察は、私にあることを教えてくれた。
…それは「道路の幅の広さ」と「直線状に続く長さと平坦さ」と「標識柱の設置されている位置」への注目であった。…
これだと、「あれに成りうる」。道路の両肩に設置されている「1mほどの指導標柱」は「車輪とその脚」の高さより低いので、それに「主翼」がぶつかることはない。
「幅の広い道路の片側にだけ交通標識がある」ということは、もう一方のない側に寄ると「主翼」の先端部分がぶつかることはない。
しかも、道路は平坦でデコボコがなく、長い。きっと「あれ」だ…。
今一度、昨日のブログの一節に戻ろう。
…『一体これは何なのだ。どのような理由で、これほど広くしなければいけないのか。だれがこのような道路を望んだのか。これははたして「農道」と言えるのか。三車線や四車線という農道がどこの世界にあるだろう。』…
この道路の管轄は、農水省と青森県だろう。短い指導標柱には「青森県」と刻まれていた。まさに、この道路には「国土交通省や防衛省」までが絡んできているであろうか。そう言えば、地元出身の代議士で「防衛副大臣」を務めた人も最近いたような気がする。
「あれ」とは「滑走路」である。この「農道」(農免道路)はいつでも中型機程度の飛行機が離着陸出来る「飛行場」となりうるのである。
地元の人たちも気づいているだろう。ただ口に出さないだけなのである。気がつかない者は、「いい道路だ」といって「思い切り」アクセルを踏んでいるものだけだろう。(明日に続く。)
このくらい色鮮やかだと時速20km程度のスピードだと、簡単に「目にとどめる」ことが出来る。しかも、花名の判別も容易である。
しかし、藪に紛れたり、一瞬だけの色彩や映像だけの視認では「花名」の判別は出来ない。そんな時は走行を止めて「降りて」近づいて確認する。私にとっては、これも「自転車走行」の楽しみの一つになっている。)
自転車で…走る(その2)
(承前)…
だが、自転車走行の最大で、最高の楽しみは「歩くよりも」「走るよりも」楽に遠い距離の「外出」が可能なことだ。
これは幼児、または小学生の時に、初めて自転車に乗ったの時の「喜び」や「感動」につながっている。小学生の日常的な生活空間は狭い。広げたとしても「自分の家と通学する小学校までの距離」を半径として描かれる円内に収まるだろう。
ところが、「自転車」という文明の利器は、その行動半径を無限に長くし、行動範囲を広げてくれる。
私が自転車を愛する理由はここにある。自転車は、何歳になっても、小学生が持つ「自力でどこまでも行きたい」という思いを叶えてくれるものなのだ。私は今67歳だが、自転車を見て、それに跨る時は、いとも容易(たやす)く、小学生や少年時代の「思いと感覚」に漬(ひた)ることが出来るのだ。
私は貧しかったので「子供用」自転車を持っていなかった。「子供用」自転車が世の中になかった訳ではない。だが、その時代は「子供用」の自転車の数がすごく少なかった時代だった。
自転車の種類も単一で「実用車」と呼ぶべきものだけであったと記憶している。現在、よく見られるロードレーサーも、トライアスロン仕様車も、ツーリング・スポルティーフも、ランドナーミキストも、マウンテインバイク(MTB)も、バイシクルモトクロス(BMX)も、シテイサイクルも、ファッションサイクルなども、なかった時代であったように思えるのだ。
「自転車」は、現在の自動車並みの経済的実用的価値を有するものであり、そのように考え、大人も子供もみんな、大事に大切にしていた。「放置自転車」などはおよそ、あり得ない社会だったのである。
大体の子供たちは「大人用」の自転車で「乗り方」を練習し、それに「そのまま」、色々と工夫をして乗ったものだ。
サドルに座るとペダルまで足が届かない。当たり前だ。脚が短いからだ。
そんな時はペダル主軸を頂点とする逆三角形のフレーム内に片脚を入れて立ったままで「ペダル」を踏んで走行した。
自転車は重かった。今は、アルミ合金とかチタン素材、カーボン素材を使い、フレームのみならず、タイヤまで軽量になっている。中には、10kgを切るものもあるという。
当時の自転車はその2倍以上の重量であった。その重い「文明の利器」を操り、怪我をしながらも少年たちは、自分たちの活動エリヤを拡大して、「視野」を広げていったのである。
「今日は隣町の小学校まで行った。明日はそれを越えた何々村の小学校まで行ってみよう」と、自分だけの「地図」に走行したルートを書き込んでいったのである。
それはまさに、「冒険」の記録でもあったのだ。私は今でも、自転車で出かける時には「冒険」に旅立つ時のような「わくわくとした」胸の高鳴りを覚えるのである。
…私は、『四車線並みに拡幅され、新しい「アスファルト鋪道」と道路の片側(北東側)にのみ「高い交通標識柱」と「街路灯」が設置され、対向する自動車のライトの反射板を埋め込んだ「丈の低い1mほどの指導標柱」が道の両側に設置されている「高速道路」のような「農道」』を走行しながら、その不思議な「場違い感」にとまどい、その用途の不確かさに呻吟し、ここに「在ること」の存在意義を憤りながら考えていた。
そして、走行しながらの観察は、私にあることを教えてくれた。
…それは「道路の幅の広さ」と「直線状に続く長さと平坦さ」と「標識柱の設置されている位置」への注目であった。…
これだと、「あれに成りうる」。道路の両肩に設置されている「1mほどの指導標柱」は「車輪とその脚」の高さより低いので、それに「主翼」がぶつかることはない。
「幅の広い道路の片側にだけ交通標識がある」ということは、もう一方のない側に寄ると「主翼」の先端部分がぶつかることはない。
しかも、道路は平坦でデコボコがなく、長い。きっと「あれ」だ…。
今一度、昨日のブログの一節に戻ろう。
…『一体これは何なのだ。どのような理由で、これほど広くしなければいけないのか。だれがこのような道路を望んだのか。これははたして「農道」と言えるのか。三車線や四車線という農道がどこの世界にあるだろう。』…
この道路の管轄は、農水省と青森県だろう。短い指導標柱には「青森県」と刻まれていた。まさに、この道路には「国土交通省や防衛省」までが絡んできているであろうか。そう言えば、地元出身の代議士で「防衛副大臣」を務めた人も最近いたような気がする。
「あれ」とは「滑走路」である。この「農道」(農免道路)はいつでも中型機程度の飛行機が離着陸出来る「飛行場」となりうるのである。
地元の人たちも気づいているだろう。ただ口に出さないだけなのである。気がつかない者は、「いい道路だ」といって「思い切り」アクセルを踏んでいるものだけだろう。(明日に続く。)