2020年5月3日:2013年『ラファエロ展』_「自画像」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/1a8dd86507a0c18f27afa98f14adaf07
ラファエロ・サンツィオ《聖家族と仔羊》
1507年
油彩/板 28×21.5cm
マドリード、プラド美術館
「ラファエロが、ペルジーノの型にはまったスタイルから抜け出し、レオナルド・ダ・ヴィンチやフラ・バルトロメーオの影響を受けながら彼独自の調和的な様式を作り始めたフィレンツェ時代の作品である。
聖母の襟の縁に署名と年記がある小さな画面の中で重なるように並んだ家族が親密な雰囲気を醸し出している。北方的な聖堂のある穏やかな背景には『エジプトへの逃避』の情景が描かれている。
解説:篠塚 二三男(跡見学園女子大学 教授)」
世界の美術館HPより
https://artoftheworld.jp/museo-del-prado/920/
「ラファエロ・サンツィオは、1483年4月6日、イタリア中部の都市ウルビーノに生まれた。父ジョヴァンニ・サンティ(1435頃-94)は、ウルビーノの宮廷に出入りする画家であり、幼少期のラファエロは、父から絵の手ほどきを受けて育つ。ところが、8歳のときに実の母を亡くし、さらに11歳で父親にも死なれてしまった。継母とは折り合いが悪かったため、ひどく孤独な少年時代を過ごすことになる。のちに数多くの聖母子像を描いたのも、実の母への思慕が影響していると推測する人もいる。
本格的に絵の修業を開始するのは、10代なかばとなった1497年から98年。ウルビーノから南へ70キロほど下った古都ベルージャの人気画家ベルジーノ(1450頃~1523)の工房に弟子入りしたとされる。どのような師弟関係にあったのかは明らかではないが、ラファエロの初期の作品から、ベルジーノが得意とするのどかな田園風景や甘美な笑みを浮かべる人物表現を短期間で吸収したのがわかる。すでに20歳のときには、師を凌駕するほどの作品を描くまでに成長していた。ベルージャおよび近郊の教会や貴族から絵の注文が相つぎ、ラファエロは若くしてイタリア中部の人気画家となった。」
(『週刊 西洋絵画の巨匠 19 ラファエロ』小学館ウイークリーブック2009年6月16日小学館発行より)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/1a8dd86507a0c18f27afa98f14adaf07
ラファエロ・サンツィオ《聖家族と仔羊》
1507年
油彩/板 28×21.5cm
マドリード、プラド美術館
「ラファエロが、ペルジーノの型にはまったスタイルから抜け出し、レオナルド・ダ・ヴィンチやフラ・バルトロメーオの影響を受けながら彼独自の調和的な様式を作り始めたフィレンツェ時代の作品である。
聖母の襟の縁に署名と年記がある小さな画面の中で重なるように並んだ家族が親密な雰囲気を醸し出している。北方的な聖堂のある穏やかな背景には『エジプトへの逃避』の情景が描かれている。
解説:篠塚 二三男(跡見学園女子大学 教授)」
世界の美術館HPより
https://artoftheworld.jp/museo-del-prado/920/
「ラファエロ・サンツィオは、1483年4月6日、イタリア中部の都市ウルビーノに生まれた。父ジョヴァンニ・サンティ(1435頃-94)は、ウルビーノの宮廷に出入りする画家であり、幼少期のラファエロは、父から絵の手ほどきを受けて育つ。ところが、8歳のときに実の母を亡くし、さらに11歳で父親にも死なれてしまった。継母とは折り合いが悪かったため、ひどく孤独な少年時代を過ごすことになる。のちに数多くの聖母子像を描いたのも、実の母への思慕が影響していると推測する人もいる。
本格的に絵の修業を開始するのは、10代なかばとなった1497年から98年。ウルビーノから南へ70キロほど下った古都ベルージャの人気画家ベルジーノ(1450頃~1523)の工房に弟子入りしたとされる。どのような師弟関係にあったのかは明らかではないが、ラファエロの初期の作品から、ベルジーノが得意とするのどかな田園風景や甘美な笑みを浮かべる人物表現を短期間で吸収したのがわかる。すでに20歳のときには、師を凌駕するほどの作品を描くまでに成長していた。ベルージャおよび近郊の教会や貴族から絵の注文が相つぎ、ラファエロは若くしてイタリア中部の人気画家となった。」
(『週刊 西洋絵画の巨匠 19 ラファエロ』小学館ウイークリーブック2009年6月16日小学館発行より)