今日は初めて自死遺族の会に参加した後の自分を振り返ってみようと思います。
母とのお別れから3ヶ月後でちょっと無理をしてしまったかもしれません。
2011年の秋に、いのちの電話の公開講座に参加した時に初めて同じ立場の方と話をする機会があり、一度行ってみようかなという気持ちになったことがきっかけです。
平日の参加はなかなか機会がなかったのですが、2012年5月たまたま職場の公休日と重なったため参加してみました。その時手帳に書いているものをそのまま引用します。気持ちが揺さぶられてどうにも書かずにはいられなかった私がいます。
そのままの引用はわかりづらい所もありますが、こうしてブログに書くことで自分自身も振り返ることができます。あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら一生懸命に生きてきたんですね、私。やっと自分をほめてあげることができようになりました。
「2012年5月某日 少しムシムシする
はじめて自死遺族の会に行ってみた。本当によかったのかどうかはわからない。子供を亡くされたという方が多かった。世の中にいるんですね、同じ立場の方が。思わず自分のことを喋ってしまって疲れている。夢をみていたような気がする妹の死がリアルに自分の中で蘇ってきてしまった。そういう自分を引き受けながら私はこれからも生きていかなければならない。普通の生活を営む。営むことができている。それってすごいことだし、十分じゃないか。私はのたうちまわりながらも外に出て経済活動を営み、家賃を払い続け、人に迷惑をかけることなく、通信教育を続けPSWにも受かり、人の2倍も3倍も働き続けている。私ってえらいじゃん、すごいすごい、十分じゃないか。
ずっと自死遺族の方の話をきき続けるのは私にはきついかな。
今の職場でいいのか。違うだろう。
6月はこりずに(土曜日の)某市(の自死遺族の会)に行くかもしれない。ドロドロに耐えられなくなった時には逃げられる、そんな立ち位置で風の向くままに、そんな気持ちになったら足を運べばいい。それでいいんだ。母がいなくなったばかりで時間のかかる話だ、ゆっくり行こう。そんなに簡単ではないんだからさ。」
場所を変えてさらに私は次のように書き続けています。まとまりがなく、長くなりますがそのまま引用します。
「それにしても神様は私に何をさせたくってこんな試練を与えているんだろう。私は命ある限り問いかけ続けながら生きていかなければならない。色々な思いがめぐって終わることはない。今の社会のシステム・スピード・機械的なマニュアル通りのことの多いドライさは私にはこたえる。そんな中を私は生きていかなければならない。どうしてなのかはわからないけれど、神様に試練を抱えられる人として選ばれてしまった。私は生きていかなければならない。ありがたいことに職場でガタガタと働いていれば何も考えなくてすむ。仕事があるってすごいことなんだな。
それにしても、はじめての場で、自分のペースで喋ってしまって本当によかったのかな・・・。
私には逃げられない現実がある。あんまりまともに考えてるときついから時々忘れてしまうことも許してしまおう。私は一生懸命生きている。それでいいんだ。自分の幸せをこれからは探して行こう。妹の分まで幸せにならなくっちゃね。きっといつも見守っていてくれる。こんなねえちゃん、笑いながら応援してね。
子供を自分が死なせてしまったと責めている方の話をきいてしまったら自分のことを話さないではいられなくって話してしまった。そしたら自分がすごくきつくなっている。リアルに色々と思い出してしまった。きつい。このきつさと私はこれからもつきあっていかなればならない。また終わらなくなってしまった。母もいなくなったばかりでやめとけばよかったのかな・・・。
本当に行ってよかったんだろうか。
壊れそうになりながら、それでも私は生きていかなければならない。
ひと一人の死、簡単なことじゃあないんだ。この事実が変わるわけではない。どうあがいても変わらない。それでも私は命ある限り生きていかなければならない。経済活動もしなければならない。きついっすよ。自分をほめてあげよう。胸かきむしるように自分を責め続けた日々があった。もうやめよう。幸せになろうよ。妹も泣いている。私がいつまでも泣いていたら妹だってきっと悲しい。
10数年にわたるのたうちまわるような時を過ごしてきた。
自分を責めて責めてせめ続けてきた。
次に妹に会う前に幸せにならなくっちゃ。
おこられちゃうよ。
笑われちゃうよ。
幸せになることを考えなくっちゃ。
時間がそれを許してくれる。それでいい。それでいいんだ。」
写真は、オーウエルコーナー歴史村で、映画『赤毛のアン』の撮影も行われました。
プリンス・エドワード島は風の島で、雲はこんなふうに遠く遠く流れていきます。
赤土と緑と青空、わけもなくなんだかとっても幸せ・・・。
母とのお別れから3ヶ月後でちょっと無理をしてしまったかもしれません。
2011年の秋に、いのちの電話の公開講座に参加した時に初めて同じ立場の方と話をする機会があり、一度行ってみようかなという気持ちになったことがきっかけです。
平日の参加はなかなか機会がなかったのですが、2012年5月たまたま職場の公休日と重なったため参加してみました。その時手帳に書いているものをそのまま引用します。気持ちが揺さぶられてどうにも書かずにはいられなかった私がいます。
そのままの引用はわかりづらい所もありますが、こうしてブログに書くことで自分自身も振り返ることができます。あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら一生懸命に生きてきたんですね、私。やっと自分をほめてあげることができようになりました。
「2012年5月某日 少しムシムシする
はじめて自死遺族の会に行ってみた。本当によかったのかどうかはわからない。子供を亡くされたという方が多かった。世の中にいるんですね、同じ立場の方が。思わず自分のことを喋ってしまって疲れている。夢をみていたような気がする妹の死がリアルに自分の中で蘇ってきてしまった。そういう自分を引き受けながら私はこれからも生きていかなければならない。普通の生活を営む。営むことができている。それってすごいことだし、十分じゃないか。私はのたうちまわりながらも外に出て経済活動を営み、家賃を払い続け、人に迷惑をかけることなく、通信教育を続けPSWにも受かり、人の2倍も3倍も働き続けている。私ってえらいじゃん、すごいすごい、十分じゃないか。
ずっと自死遺族の方の話をきき続けるのは私にはきついかな。
今の職場でいいのか。違うだろう。
6月はこりずに(土曜日の)某市(の自死遺族の会)に行くかもしれない。ドロドロに耐えられなくなった時には逃げられる、そんな立ち位置で風の向くままに、そんな気持ちになったら足を運べばいい。それでいいんだ。母がいなくなったばかりで時間のかかる話だ、ゆっくり行こう。そんなに簡単ではないんだからさ。」
場所を変えてさらに私は次のように書き続けています。まとまりがなく、長くなりますがそのまま引用します。
「それにしても神様は私に何をさせたくってこんな試練を与えているんだろう。私は命ある限り問いかけ続けながら生きていかなければならない。色々な思いがめぐって終わることはない。今の社会のシステム・スピード・機械的なマニュアル通りのことの多いドライさは私にはこたえる。そんな中を私は生きていかなければならない。どうしてなのかはわからないけれど、神様に試練を抱えられる人として選ばれてしまった。私は生きていかなければならない。ありがたいことに職場でガタガタと働いていれば何も考えなくてすむ。仕事があるってすごいことなんだな。
それにしても、はじめての場で、自分のペースで喋ってしまって本当によかったのかな・・・。
私には逃げられない現実がある。あんまりまともに考えてるときついから時々忘れてしまうことも許してしまおう。私は一生懸命生きている。それでいいんだ。自分の幸せをこれからは探して行こう。妹の分まで幸せにならなくっちゃね。きっといつも見守っていてくれる。こんなねえちゃん、笑いながら応援してね。
子供を自分が死なせてしまったと責めている方の話をきいてしまったら自分のことを話さないではいられなくって話してしまった。そしたら自分がすごくきつくなっている。リアルに色々と思い出してしまった。きつい。このきつさと私はこれからもつきあっていかなればならない。また終わらなくなってしまった。母もいなくなったばかりでやめとけばよかったのかな・・・。
本当に行ってよかったんだろうか。
壊れそうになりながら、それでも私は生きていかなければならない。
ひと一人の死、簡単なことじゃあないんだ。この事実が変わるわけではない。どうあがいても変わらない。それでも私は命ある限り生きていかなければならない。経済活動もしなければならない。きついっすよ。自分をほめてあげよう。胸かきむしるように自分を責め続けた日々があった。もうやめよう。幸せになろうよ。妹も泣いている。私がいつまでも泣いていたら妹だってきっと悲しい。
10数年にわたるのたうちまわるような時を過ごしてきた。
自分を責めて責めてせめ続けてきた。
次に妹に会う前に幸せにならなくっちゃ。
おこられちゃうよ。
笑われちゃうよ。
幸せになることを考えなくっちゃ。
時間がそれを許してくれる。それでいい。それでいいんだ。」
写真は、オーウエルコーナー歴史村で、映画『赤毛のアン』の撮影も行われました。
プリンス・エドワード島は風の島で、雲はこんなふうに遠く遠く流れていきます。
赤土と緑と青空、わけもなくなんだかとっても幸せ・・・。