たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

まっすぐに伸びる木

2013年06月09日 15時19分19秒 | 祈り
妹とのお別れから1年5月が過ぎた1996年2月、東京カウンセリングスクール(現セスク)の3泊4日のフォーカシング合宿に参加しました。
スクールに提出したレポートをそのまま引用したいと思います。私自身も久しぶりに読み返します。


『フォーカシング合宿を終えて』

 「合宿から、ほぼ1カ月が過ぎようとしている。抱えている問題が解決したわけではないし、むしろ、合宿中の素直な自分でいられた心地良さを思い出すと、無理ばかりしている日常生活を、一段とつらいと感じるようになってきてもいる。が、わたしは、とても元気になった。ずっと、うつむき加減で歩いていたのが、今は無意識のうちに、背筋を伸ばしている。このお腹の中に感じた、上に伸びていこうとする木は、たしかにずっとわたしの中にあるのだ。以前とはちがって、どこかいつも心地良いものを身体の中に感じている。これまでのわたしは、頭の中だけでぐるぐると理屈を回して、すぐに肯定したり否定したり、・・・しなければならないと、自分に強制したり、気づかない間に、自分で自分をがんじがらめにしてきた。閉じ込めてしまうことにばかり必死になっていたのだ。しかし、開放されたいと望んだのも、確かに同じわたしだ。だから、合宿に参加した。合宿中の、評価も解釈もしない、自分をいたわり、感じるままをことばにして、お互いに批判することもなく、ただあるがままに過ごした時間は、本当に意味のあるものだったと思う。少し長くなるが、ここで体験を振り返ってみたい。

 最初は戸惑いもあった。が、その気持ちをことばにしたことがよかったのだろう。身体をほぐし、緊張が解けてくると、身体の中に自然となにかが生まれ、勝手にことばになってあふれ出していた。すごく無理してるなあ、本当は誰かの背中にもたれかかりたいんだあっていうわたしを、最初に感じた。頭の中だけで考えてきたことを、身体でわかってきた。優しく自分をいたわってあげて楽になると、一番無理している部分をさらに感じて、二度目の体験は辛かった。壁にもたれながら、右の肩がいたくてたまらないのに、どんどん左の方へも身体がひっぱられていくようで、なおかつ頭は右の方へ行こうとしていて、腰の負担は重くなるばかり。ぱたっと倒れてしまいたいのを、腰が必死でふんばった。痛くてたまらない。誰かが支えてくれたらどんなに楽だろう。でも、助けてあげるのはわたし自身だ。わたしはがんばった。そうしたら、お腹の中に、白い木が生まれていたのだ。まっすぐ上に伸びようとしている白い木ー。

 その後も、どこかで、緊張し続けてはいたけれど、すこしずつ楽になってきたようだ。身体をほぐしてもらって安らかになってくると、静かに涙がにじんていた。そして、胸につかえていたものがあふれてきてしまった。重いよう~、辛いよう~、お腹の中にしまい込んでいることばが上にあがっていった。どんどん、どんどん。いつも、妹の安らかな寝顔が左の方に浮かぶようになっていた。なぜだか、左・・・、いつも・・・。たまっているものを出し切ってしまうなんて到底できなかったけれど、 その時あふれた辛い具体的なものをことばにしてしまうと、わたしの中に、海が広がっていた。青い海・・・。気がつくと、わたしは朗らかに笑っていた。笑っていることに戸惑いつつも、気持ちがよかった。
 五度目の体験では、さらにいいものを見つけることができた。頭が緊張していると感じたのでほぐしてもらっていると、中にランプのほのかな灯りがともった。お腹の中には、小さな木が生まれ、次第に身体ごと木になっていく。やがて、大きな枝葉が茂ってきて、真ん中に一本まっすぐに伸びたほどよい太さの枝。その枝にまたいっぱいの細い枝。いつしかその木には甘ずっぱいリンゴの実がたわわになっている。そのリンゴを食べている後姿の女の子が見えてくる。足を伸ばして空に向かって甘ずっぱいリンゴをかじっている。そして、その後姿を静かにみているわたし。二人の間には、確かな一定の距離がある。女の子はわたしに少しも気づいていないが、わたしは女の子から発せられるエールを感じている。やがて、女の子は妹であることがわかってきた。後姿なのに、ほほえんでいることがわたしにはちゃんと見えている。いつしか妹の笑顔は、ゆらゆらとゆれる風船の中に浮かんでいた。風船の糸は切れていて、下にいるわたしにはつかめない。そうとわかっているからつかもうとしない。ただ、妹の声をじっと聞いているだけ。「おねえちゃん、がんばって、何にも気にすることないんだよ」って言っていた。やがて、風船からキラキラ光る星屑があふれてきて、わたしに向かって流れてくる。わたしは、それらを全身ですくっと受け取めようとしている。わたしの中に真っ直ぐな一本の線を感じた。受け取めようとする線を―。

 以上が合宿中の体験だ。終えたから、この胸につかえているものがなくなるわけではない。そのままにちゃんとある。このままずっと持ち続けていくことは辛い。辛いという思いを、そのまま受け取めていきたいと思う。その重い荷物を誰かと分けあえたらいいなと思うわたしも、日常生活ではそんな思いを閉じ込めなければやっていけないよな、と思うわたしも、どちらもわたしだ。そのどちらも受け取めてあげたい。肯定も否定もしないで、ただそのままに・・・。雪景色は、雪景色のままに静かに眺めていよう。そうしていれば自ずと、雪の下に隠れている春がみえてくるにちがいない。自分を知るということが、体験を通して、ようやく、わかりかけてきたようだ。」



 私がどうにかこうにか自分の足で立って、大学を通信教育をやり続けて卒業し、その後は通信教育によってソーシャルワーカーの資格も取得し、こうして今生き続けていられるのは母がまじめに一生懸命育ててくれたからなんだあとようやく気がつきました。


なぜ妹が先に逝ってしまって私がこうして今ここにいるのか、その答えがどこかにあるに違いないと思いずっとさがしつづけてきたけれど、どこにもなかった。どこにもないということと共に、自分の足でぶんばり続けながらこれからも生きていきます。



大学の卒論のこと、ソーシャルワーカーの試験合格を目指してひたすら無理を重ねながらふんばり続けてきたこと、書きたいことがあふれてきます。
時間に限りがあるのでぼちぼちです。



高い高い北の空に伸びる木々と真っ青な空にぽっかり浮かぶ雲は、ブルーウインズティールームで撮ったものです。ティールームでは、『赤毛のアン』にヒントを得たというムーンプティングを美味しくいただきました。

 


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