たんぽぽの心の旅のアルバム

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日本を代表する江戸の子育ては、子どもを世界一大切にしていたといわれている(2)

2023年04月15日 00時11分14秒 | グリーフケア
日本を代表する江戸の子育ては、子どもを世界一大切にしていたといわれている(1)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/ca4600d8136cda8d2d90e7c072ea1092

(乳幼児精神保健学会誌 Vol.4 2011より)

「子育ては時代とともに何故、どのように変わってきたのか(1)江戸時代のこと

3.米国の動物学者で人類学者E.S.モースがみた日本の子育て風景-

 欧米人の見聞録の代表としてモースの記録を見てみる。彼は1877年(明治10年)に日本近海の貝殻の標本採取のため来日し、直ぐに移動中の汽車の中から大森貝塚を見つけ、その後東京大学教授も勤めている。日本民族の生活・風俗に大変な関心を抱き、西欧文化の影響を受け始める直前の日本の姿を人類学者の鋭い眼力と科学者の正確さ、芸術家の創造力とを駆使して忠実に描いている。それは777枚のスケッチの挿絵をいれて「日本その日その日」という著書になっている。

 江戸の子育てについては次のように記している。「祭には、大人はいつも子どもと一緒に遊ぶ。提灯や紙人形で飾った車を、子どもたちが太鼓をたたきながら引っ張って歩くと、大人もその列につき従う。それを真似て、小さな子は小さな車を引いてまわる。日本は確かに子どもの天国である。

 そして、小さな子どもを独り家に置いて行くようなことは決してない。赤ん坊は温かそうな育児籠に入れられ、目の届く場所に置かれ、大人は子どもの様子をみながら仕事をしていた。世界中に日本ほど、子どもが親切に扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない」と。

 町の中は子どもたちを囲んで地域全体で子育てする暖かみある光景が目に浮かぶ。

(Edward S. Morse・石川欣一訳『日本その日その日』(全3巻)平凡社)

4.育児書と浮世絵にみる子育て-

 江戸時代には幕府の民衆強化の政策と印刷技術の進歩によって多数の育児書や浮世絵が世にだされ、識字率の高さのために民衆の間に広く普及していった。

 浮世絵には子どもと母親が実に多く登場してくる。その母親は子どもに対してとにかく優しく、母の愛情を一心にうけた子の表情は実に明るく、生き生きとしている。西欧人が書き残した日本の家庭と地域における子どもと大人の関係がそのままである。

(くもん子ども研究所編『浮世絵に見る江戸の子どもたち』小学館)
(小林忠監修『母子絵百景』河出書房新社)

5.日本の子育ての光と影-

 江戸時代にあった三つの階層(士・農・工商)のうち全人口の8割強を占めていた農民は幕府の政策によって武士の生活を支えるためにかなり厳しい年貢がとりたてられ、現実は一番下の階層に置かれ、多数の子どもを養育するのは困難であっただろう。そのため農家では、捨て子、堕胎、間引き(親や産婆が生後まもない子どもの命を絶つ)の習俗があった。しかし子殺しは必ずしも貧困理由だけではなく、その背景に丙午(ひのえうま)を代表とするさまざまな迷信や俗説や、親の身勝手などもあった。そこには「7歳までは神のうち」という観念から預かりものを神にお返しするという考えと、「親孝行」(子どもは再生可能だが、親は唯一の存在だから)によって正当化されていたといわれている。
 
 ちなみに「7歳までは神のうち」の解釈には、7歳までに多くは感染症で7割の子どもが亡くなっていたので、親の心の痛みを和らげる意味があった。子どもは神のごときけがれない善良な素質をもって生れてくる(性善説)、大人の思うままには育てられないという戒めなども言われている。

(中江和恵『江戸の子育て』文藝春秋社)
(中江和恵『日本人の子育て再発見』フレーベル社)

6.欧米の野蛮といわれる体罰は、しつけとして日常的にムチを使う-

 キリスト教旧約聖書には「ムチといましめは知恵を与える。自分の意のままにしてよいとされる子どもは、後に母をはずかしめることになる」「主(父)はその愛する者をいましめ、またすべての子をムチ打った。父にいましめられない子がいるだろうか。すべての人の受ける懲らしめが、もしお前に対して加えられないならば、お前は私生児であって、実の子ではないのだ」と書かれていて、西欧ではキリスト教の普及とともに幼児期からしつけのためムチによる体罰がほぼ各家庭に広がっていった。

 日本では安土桃山時代にフランスの思想家モンテニューの書「随想録」によると、「学校はさながら子どもたちを入れる牢獄か監獄のような所で、いたずらも何もしていないのにムチで子どもを叩き、授業中に聞こえてくるのは子どもたちの悲鳴と先生の怒鳴り声だけだった。教師はムチを手にして生徒たちに向う。当時のヨーロッパでは学校に行くことはムチに打たれにいくようなものだった」と記されている。

7.「三つ子の魂、百まで」のことわざは江戸時代から-

 江戸では、乳幼児を大切に育てることが肝要で、日本の教育学の祖「貝原益軒」は「和俗童子訓」の中で「子どもが善人になるか、悪人になるかの分かれ目は幼時にあり、幼児のほんの少しの動作も受け止めて、善に導くことが大切だ」と説き、親の溺愛は批判した。

 その後も江戸の教育論者たちは「三つ子の魂、百まで」「氏より育ち」などのことわざを引用しながら、盛んに幼時の子育ての大切さを説いている。

当時の年齢は数え年(誕生時1歳とするのは日本人は胎児から独立した人格で子どもを大切な存在と考えていたことになる)で呼ばれていたので、満年齢でいえば、三つ子、すなわち3歳は今の2歳に相当する。

 江戸時代の心学者の多くは溺愛は批判したが厳しすぎるのもよくない、教えることの大切さを強調していたので、当時の親たちは身心ともに子どもに捧げ、溺愛していたが、溺愛で子どもを潰してしまうことは防がれていたと思われる。

(中江克己『江戸の躾と子育て』祥伝社)
(貝原益軒『養生訓・和俗童子訓』岩波書店)


8.江戸時代の地域共同体の子育て-

 生後100日までに「宮参り(氏神にお参りして赤子を氏子にしてもらう儀式)」し、これを機会に村の一員になる。その後、次々と通過儀礼をおこない、7歳までは祝いながら大切に育てる。7歳の祝いを済ますと地域の集団「子供組」に加入。「子供組」は遊び仲間であったり、色々な年中行事の特定の役割をはたしたり、最年長児の指揮で厳しい上下関係や掟を指導教育される。

 15歳になると、保証人に付き添われて集会場へ、掟を聞かされて正式に「若者組」へ加入。地域の祭礼、消防警備災害救助、性教育婚礼関係などに深く関わり、大人へと成長していく。組織の内部事情は口外禁止で、大人の口だしもない。

 現在と比較するとずいぶんと早く自立に向っていく筋書きができていた。

 (上笙一郎『日本子育て物語;育児の社会史』筑摩書房)

9.江戸時代の子育てネットワーク-

 江戸には独特の子育てネットワークができていた。当時の平均寿命は、30歳に満たず、7歳未満で多くの子どもが亡くなっていた。したがって、成人するまでに何度も生命の危機にさらされていた(多くは感染症、とくに麻疹、天然痘で死亡)。そこで節目ごとの通過儀礼が大切にされ、子どもの成長を家族・親類・地域の人達で喜び合って、子育てネットワークを深めていった。そのかなめが仮親であった。

「仮親」関係は誕生前から始まり生涯続く。通過儀礼には家族・親類・地域の人で供飲共食し、血縁・地縁の絆を深め、子どもの健やかな成長を祈った。妊娠5カ月に産婆が岩田帯を締め「帯親」に、出産すると赤子を取り上げた「取り上げ親」、出産直後に赤子を抱く「抱き親」、生後3日から7日目までに名付けをした人が「名付け親」、4から5歳まで子守を雇うと「守親」などがあった。結局一人の子どもに沢山の「親」が関わる組織ができていた。

(小泉吉永『江戸の子育て読本』小学館)」

                                      ⇒続く






 

 



 





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