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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「むらのなかの声を聞く」(2)

2021年11月12日 17時08分47秒 | 本あれこれ
小原麗子『自分の生を編む-詩と生活記録アンソロジー』より-「むらのなかの声を聞く」(1)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/7309982893cbafa7531a084207cdb5b3




「「オレの叔父ごよ、かなりの山あってよ、それを売ってくらしてた時はえがったのよ」と、後の席の田山次長は言い出すのである。十何アールかの山林に木々を飢え、成木になった順に、切り倒しては売る。切った後に植林する。老農夫は、ゆっくりと木々の成育を見てまわる。

 木々の成長の年月に合わせて、農夫の生活と時間の単位はめぐっていたのだろう。

 (略)

 開田が終ったと思ったら「休耕せよ」、そしてはたまたその復元工事には、二年間無利子で資金を貸付けるなどと「政治」は言い出すのである。

 「忙しばり、忙しくてよ、借金もどっさり背負ったすよ」と、田山次長は叔父ごについての説明をするのである。そういえば、あの『ほうかい沼のまつり』の木こりの親娘も消えうせてしまったのであった。(『くらし』第26号、1974年3月)


 山を切り開いて水田とする。

 これは、人が、飢えを充たすべく農業をやり始めてから一貫して持ち続けてきた思考ではなかったろうか。

 原野に開墾の鍬を入れるという思考は、なにもいま自分たちが住む土地のみに限ったわけではない。それはかつて満州開拓移民として「村ごと」の移住戸なって表われもしたのである。同じ村なりに住む農業者が離農することは、村そのものを淋しくする。だが離農者があればあるだけ、自分たちの経営面積も拡大出来るのだと語った青年は、なにごとにも誠実だった。「農業経営の規模拡大」という字句は、いまもなお魅力なのである。

 田村青年の水田耕作面積は13ヘクタールである。この2-3年の間に6・5ヘクタールから、2・7ヘクタールを購入し、さらに3ヘクタールの借地がある。この市内でも上位にランクするだろう。その表情の幼さとは逆に、田村青年の態度には、どこか耕作面積の拡大と比例して、横柄さが付着してゆくのは否めない。もちろん、これに要した資金の調達は自前というわけいにはゆかない。耕作面積は莫大な負債のつっかい棒によって成り立っている。

 山を聞いて水田とする。だが、そこに、すぐさま水稲の植え付けが可能となるわけではない。水利事業もまた苦難の歴史としてある。この地の奥寺堰の開通は、1665(寛文5)年から1679(延宝7)年まで、15年の歳月を要し、労働の主体は囚人であったと伝えている。

 山を切り開いて水田とする思考には苦難の歴史と、経営の規模拡大がまじり合う。まじり合うことによって、より強力に農民の思考の中枢にすわる。その思考を、この老農夫は止めたのである。止めてみることが出来ると、エピソードは語っている。

 山を切り開いて水田の規模を拡大したその結果が、くらしを楽にせず、ゆったりした生活のリズムを破壊していくとは、思いもよらないことであった。」


 (2012年1月6日、日本経済評論社 発行『自分の生を編む』、122-123頁より) 

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